柏崎市(かしわざきし)

 ○石地(いしじ)/柏崎市西山町石地
 
北陸街道沿いに長屋門
 石地川の流域に広がる小さな集落ですが,江戸時代に北陸街道の宿場町としての形ができつつありました。元禄年間に商家70軒,馬持ち50軒とありますが,漁師が50軒で船数が73で,漁業もかなり盛んだったようです。
日本石油初代社長・内藤久寛生誕の地
 しかし何より石地を有名にしたのは,日本の石油王と呼ばれた日本石油(株)初代社長・内藤久寛の邸宅・久寛荘(きゅうかんそう)の存在です。祖先は上杉家に仕える郷士で,上杉の会津移封でも石地に住み着いていました。代々の大庄屋で,地域に一定の勢力を持っていました。歩いていても、内藤家の邸宅は圧巻で、道路に面した長屋門は市の文化財に指定されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは久寛荘駐車場に停めました
 
○椎谷(しいや)/柏崎市椎谷 
 
   
▲国道沿いはもちろん、一歩裏手に入った所も見事までに板壁でした 
見事な板壁の古民家群
 江戸時代は椎谷藩という1万石の小大名でした。以後,幕末まで13代にわたって統治したのです。一時期,悪政により領民の反乱もありましたが,いわば小藩ながら安定していたといえます。ただ戊辰戦争で政府軍に付いたため,幕府軍の放火により,陣屋,役所,武家屋敷,民家などが焼失。そのため歴史的建造物は少なくなりました。
現地の人が「椎谷のほうがおもしろいよ」
 潮風の強い日本海のどこでも見られる,切り妻で下見板張りの家屋が,まとまって残っています。窓などはアルミサッシに改造されています。実は現地の人に「椎谷のほうがおもしろい町だよ」と教えてもらった結果です。
 下見板張というのは、横板を下から少しずつ重ねて貼る方法で、それをタテに細い棒で押さえます。厳密にいえば、椎谷の場合は押縁下見といいます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○宮川(みやがわ)/柏崎市宮川 
 
   
▲新旧取り混ぜての民家 ▲内側の道路沿いは板塀はなし 
江戸時代は漁業が盛ん
 江戸時代は多くの藩が入れ替わり統治しました。人口は1200人を超えており、かなり大きな村であったようです。北陸道の宿場町でもありました。産業は農業のほか漁業が盛んで、普通の漁船のほかに引網船、磯見船、廻船、伝馬船など数多くの船を所有。とくにイワシ、タラ、サケが多く獲れたようです。
●風,砂除けの板塀は日本海側の象徴
 昭和32年の大火,新潟大地震での家屋の倒壊などで,古民家はほとんど無くなりましたが,それでも街道沿いや裏道にわずかに見られます。また砂丘沿いの集落なので,防砂,防風除けの板塀が目に付き、日本海の町並みを象徴しています。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度
 交通 クルマは空き地に停めました
○荻ノ島(おぎのしま)/柏崎市高柳町荻ノ島 
 
   
▲宿泊棟は大・小2棟あります  ▲雪解けを待って訪ねたころ 
   
 ▲補修中の茅葺き農家も見られる  ▲改修後の農家や民宿も建ち並ぶ 
茅葺きの環状集落
 2度目の訪問ですが、山間部の狭い道路を抜けると、突然茅葺き屋根の集落が広がるのですから驚きます。茅葺きの農家が水田を囲んで,環状に点在するところから「荻ノ島」と呼ばれ,全国的にも珍しい集落となったのです。
マチュア写真家、日曜画家に人気が高い
 以前,雪解けの日に訪ねたときよりも,一段と美しい景観を見せてくれました。ただ過疎化はさらに進んでいるのも事実。歩いていても,住人と出会うこともありませんでした。いまは茅葺き農家の民宿などもあり、アマチュア写真家,日曜画家の利用も多いとか。地名は、沖、上ノ島の小字があり、それらの総称に由来するとか。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは集落センター駐車場に停めました
○門出(かどいで)/柏崎市高柳町門出 
 
   
▲宿泊のできるかやぶきの宿は2軒あって、休憩や素泊まりも可能だとか 
のどかな山村が広がる
 茅葺きの農家が集まっていると聞いたのですが,ほとんどトタン屋根に替わっていました。小さな集落ですが,江戸時代は和紙(伊沢紙)や縮織り(紺の弁慶縞)で知られていました。伊沢紙の製造は、宝暦年間(1751~64)から始まり、40軒前後が従事していました。一方縮織りも『北越雪譜』にも紹介されたほどです。また明治に入って養蚕が盛んになりました。
茅葺き屋根の民泊が人気です
 いま茅葺きの宿が2軒で,いずれも民宿になっています。その周囲の山里をのんびりと歩けます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光客用無料駐車場に停めました