○名山(めいざん)/鹿児島市名山町 |
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●戦後の長屋街が残る ビジネス街の一角で,終戦後に建てられた長屋(2階建て木造)がそのまま残っています。約1000坪の数十世帯に対して,戦後鹿児島市から土地を各家庭に払い下げられたのです。いまでは,昭和の面影に懐かしい感じがします。 ●江戸期は船の係留する名山堀でした 地名の由来は江戸時代の名山堀からきています。名山堀は安永年間(1772-81)に小川町・阿蘇橋から北西に向かう堀と連結させ、大きな船を係留させていました。長さは1.2km、幅16.5mとそこそこ大きな堀でした。現在は埋め立てられ、市役所前広路となり、交通の要衝となっています。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 市電谷山線朝日通駅から徒歩5分 |
○甲突(こうつき)/鹿児島市甲突町 | |
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▲カフェ時代の建物に懐かしい感じ | ▲いまや市内でも有数の風俗街を形成 |
●懐かしき旧赤線地帯 かつての色街です。いまでは風俗街になっています。客引きも多く,ソープ嬢らしき人も昼間から歩いています。町なかを歩いていますと,建築物のデザインに、かつての面影が少し残っています。遊郭街の入口にあたるところに思案橋が架かり、いまでも残ります。なお現役のソープ街ですので、撮影に注意してください。 ●『常盤遊郭』の面影はもうありません 江戸時代は「沖之村遊郭」が小規模に営業していました。また明治になって春日町、濱町、向江町などに小規模な赤線が散在していましたが、塩屋町(現・甲突町)に集結して「常盤遊郭」を形成しました。というのも明治32年に鹿児島停車場が設置されて交通至便となったからです。当初は13軒でスタートしましたが、昭和初期は23軒、娼妓は350人余までに増えています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 市電谷山線新屋敷駅から徒歩10分 |
○入来(いりき)/薩摩川内市入来町浦之名 | |
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▲旧増田家住宅/国の重要文化財・母屋・浴室便所・石蔵・洗い場が保存 | |
●玉石垣が整然と並ぶ 20年ぶり2度目の訪問。島津藩の外城の一つです。玉石垣が整然と並び,武家屋敷が並びます。植栽越しに建物の屋根のみが見えるのです。鹿児島県「三大武家屋敷群」の一つとか。旧増田家住宅は明治の廃仏毀釈により、延命院跡(推定)から現在地に移転。平成になって大正12年当時の増田家に修復復元されました。 ●下級武士の中には大工や左官、木挽き職人になる者も 中世以来の入来院氏の本拠地でもあったのです。周囲に郷士の住居200戸で形成。領主は鹿児島城下に住まいを設け、家老たち数人が役人となって治世にたりました。郷内に住む武士も農民と同じく農業に従事。ところがおもしろいのは、下級武士たちのなかには、大工や左官、木挽き職人、さらに下男になる者も多かったそうです。武士も「手に職を持つ」時代だったのでしょうか。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは観光客用駐車場(旧役場前)に停めました |
○隈之城(くまのじょう)/薩摩川内市隈之城町 |
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●二福城跡周辺に散見 江戸時代は鹿児島藩直轄領で外城の一つ。宮里、東手、西手の3集落で構成されていました。当初、二福城付近に地頭仮屋が置かれ、その後その周辺に麓が形成されました。いま歩いて見ますと、旧武家屋敷が現代住宅のあいまに見ることができます。 ●戊辰戦争で47人が京都へ出陣 明治維新期の戊辰戦争の際、当郷の郷士も串木野の郷士と合わせて1小隊を編成して京都にへ出兵しました。隈之城からの出陣者は分隊長・菱刈弥左衛門以下47人でした。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはプラッセだいわ川内店の駐車場に停めました |
○手打(てうち)/薩摩川内市下甑町手打 | |
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▲武家屋敷通りに面影を見ます | ▲刈り込まれた植栽と美しい石垣 |
●江戸初期にスペイン人宣教師が上陸 江戸時代,異国船の監視,海上の取り締まりの拠点としての役割を持っていました。また慶長7年(1602),スペイン人宣教師ドミニコ会教父一行5人が洗礼を受けた地元の船長レオキザエモンと共に長浜に上陸しました。 ●『釣りバカ日誌』のロケ地 承久の乱(1221年)後、小川氏が地頭として領有。島津氏に代わってから、薩摩藩の外城。武家屋敷通りは,手打集落の入江に沿って約700mの路地がそれです。海岸の石を積み上げた玉石垣やきれいに刈り込まれた植栽に往時の様子を感じます。この通りの江口さん宅は,映画『釣りバカ日誌』(ゲスト・風吹ジュン・小林稔侍)のロケ地にもなりました。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 手打港から徒歩15分(市営バスもあり) |
○里(さと)/薩摩川内市里町里 |
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●郷士の生活も困窮を極める? 薩摩藩政の時代で亀城を中心に地頭仮屋,郷士屋敷,番所,寺社などがきちんと区割りされています。この当時の武士は微禄のため,農業も兼業する半農半士でもありました。敷地は約200坪あまりで辺地の外城郷士として生活を考えると,決して裕福ではなかったでしょう。 ●保存状態の良い玉石垣 上甑の里町は比較的大きな町で,飲食店も多くあるなか,これだけの石垣を保存しているのはたいしたものです。メインの通りは約200mほどですが,碁盤の目のように区割りされています。特に武家屋敷通りを歩きますと、玉石垣で屋敷を囲う光景は実に整頓されて美しい。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 里港から徒歩10分 |
○西の浜(にしのはま)/薩摩川内市里町薗中 |
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●住宅地にも玉石垣 里町の一部は砂州上に造られた町です。ココは西の浜公園に向かう途中にある住宅地。ほとんどがブロック塀に変わるなかで,玉石垣で囲まれており,なにやらホッとする空間です。 ●地理学上、世界的に有名な砂州 西の浜は沿岸流でできた陸繁砂州のトンボロと呼ばれる特殊な地形があり、その規模(長さ1.5km、幅200~400m)と集落が発達している点から、地理学上、世界的に有名であります。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 里港から徒歩10分 |
○脇元(わきもと)/姶良市脇元 | |
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▲白金酒造石倉/国登録文化財 | ▲八坂神社/石で造られた社殿 |
●海岸沿いに古民家が点在 鎌倉期は脇本と書いたとか。江戸時代は重富郷に属する一集落。鹿児島城下から重富をつなぐ国分筋(街道)がありましたが、白金坂の難所を避けるため海運が発達。その発着港として栄えました。海岸沿いの堤防を歩いていますと、漁港や古民家も見下ろせます。 ●焼酎を消毒液として西郷隆盛が買い占める? 鹿児島県内には113もの酒蔵がありますが、白金(しらかね)酒造の焼酎蔵は現存する蔵としては最も古く、国の文化財に登録されています。明治10年、西南の役の際、薩摩隆盛率いる薩摩軍が陣を張ったと伝えられています。そのとき、けがを負った際の消毒液として、蔵にあった焼酎を買い占めたそうです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは白銀酒造の駐車場に停めました |
○加治木(かじき)/姶良市加治木町朝日町 | |
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▲森山家住宅/2棟・国登録文化財 | ▲土蔵/外壁は石壁で積み上げている |
●加治木島津家は諸村からかき集めて1万石余に 江戸時代は薩摩藩直轄領で外城の一つ。加治木島津家として島津家一門4家の一つで、総石高は1万石を超えています。といっても実際は諸村をかき集めて、やっと1万石にしたようです。農村を統治するために各村ごとに庄屋所が置かれました。そして郷士(家中士)を中心に庄屋を任命したとのことです。 ●海外貿易も盛んに行われました 加治木は鹿児島城下、北薩、大隅、日向を結ぶ交通の要衝にあたります。反戸村では毎月5・6日に六斎市が開かれました。また加治木港は国際貿易港でもありました。そのせいか中国の「洪武通宝」を真似して、裏面に「加」、「治」、「木」の一文字を彫り込んで、多量の加治木銭を鋳造されました。 ●森山家は奄美・沖縄の黒糖製造用の鍋で大もうけ!? 森山家は江戸時代から明治時代にかけて鋳物(いもの)業で繁栄した加治木の豪商です。幕末には「礒の集成館」で大砲の鋳造にも関わりました。一方、薩摩藩の財政を支えた奄美や沖縄の黒糖製造用の鍋を製作・販売に携わりました。明治8年には西郷隆盛が日当山温泉に行く途中に森山家に立ち寄ったされています。 ●寂れた武家屋敷群 集落内を歩いていますと、石垣だけの残る空き地や旧武家屋敷門が幾つか見られます。しかし大部分は朽ち果てています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは性應寺駐車場に停めました |
○蒲生(かもう)/姶良市蒲生町上久徳 | |
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●武家屋敷と石垣 鹿児島市から路線バスに乗って延々とやってきました。石垣だけ残った廃屋もあったり、更地があったりとちょっと寂しい武家屋敷群でした。ただ石垣もいろいろあって、玉石垣もありました。医薬門だけが残された屋敷もあります。一本道の両側にそれらは残されています。そして突き当たりに前郷川が静かに流れているのです。 ●薩摩藩の外城のひとつです 蒲生のもう一つの見どころは、日本一のクスの木でしょう。根回りが33.57mという巨木です。八幡神社にありますが、見上げると圧倒されます。ところで蒲生も薩摩藩の直轄地で外城の一つでした。旧役場に地頭仮屋がありました。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 鹿児島市内からバスで蒲生役場前下車すぐ |
○姶良(あいら)/姶良市東餅田 | |
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●わずかな石造りの家屋 元もと島津藩の所領地でした。ところで石造りの家が点在するというので行きましたが,いまはほとんど見ることはなくなりました。JR帖佐駅からも近く、どんどん現代住宅にに変わっていきます。いまは鹿児島市内へ通勤,通学に便利なところとして発展しています。 ●塩田業も長くは続きませんでした 明治に入って塩田が開かれ製塩業が盛んになりました。後に町営事業として発展します。しかし昭和26年のルース台風で堤防が破壊され、以後復旧することなく、塩田業は終息を迎えました。 ●定期市のきっかけはダイコンとワラの物々交換でした 一方、国分筋(街道)が通る別府川の渡船場近くで、毎月10日の定期市を開催。その定期市のきっかけとなったのが、桜島と往来するなかでダイコンと松原とのワラの物々交換であったといわれています。なお島津藩では街道のことを“筋”と呼びました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○出水(いずみ)/出水市麓 | |
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●ツルの町に武家屋敷群 出水市といえば,ツルの飛来地として知られています。毎年1万羽以上のツルがやってきて,3月になると北へ帰ります。 そんなツルの町に,武家屋敷群が残っているのです。薩摩藩のなかでは最大の外城で、いまではかなり大きな武家屋敷群として残されています。なぜ大きくなったかは、肥後藩(熊本)境に位置しており,防御上重要な役割を果たしていたからです。 ●静かな重要伝統的建造物群保存地区 それはともかく,ほぼ無人の町並みをのんびり歩けるのがいいです。苔むした石垣に密集した植栽があり,中をうかがうことはできません。重要伝統的建造物群保存地区でもあります。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR鹿児島本線出水駅から徒歩20分 |
○大口里(おおくちさと)/伊佐市大口里 | |
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▲祁答院家住宅/国重要文化財 | ▲苔むした石積みにも往時の面影が |
●かやぶき屋根や薬医門 江戸時代は薩摩藩直轄領で外城の一つ。大口は15ケ村で構成され、里はその一つです。城山にある大口城跡の麓に広がる武家屋敷群ですが、今はわずかなかやぶき屋根、さらに薬医門が数カ所残る程度。古民家は大口小学校周辺に見られます。 ●領外に通じる街道が通る集落 薩摩藩は、領外に出るためには3街道があります。大口筋はその1つで、他は出水筋と高岡筋です。大口筋は感染街道であったので、国境まで一里塚が設置されていました。寛永10年(1633)6月、幕府の巡検使がやって来たときは、36町1里ごとに竿を打って、一里塚を築きました。後に貞享2年(1685)9月、家臣の禰寝清雄(ねじめきよかつ)は、3代藩主の島津綱貴(つなたか)から、3街道に打った竿の補修を命じられています。このことからも藩にとって、3街道は重要だったのでしょう。大口筋はその1つです。ちなみに藩では、街道のことを“筋”と呼びます。 ●祁答院家住宅は郷士の豪農ぶりが見られます 江戸中期の薩摩郷士の住宅で、豪農生活を偲ばせます。薩摩藩時代の郷士住宅として代表的な建築様式です。祁答院(けどういん)家の家系図によれば、承応2年(1653)ごろの建築と推定されています。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは伊佐市役所に停めました |
○中ノ(なかの)/霧島市横川町中ノ | |
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▲森山家住宅石倉/国の登録文化財 | ▲池田家住宅と石倉/国登録文化財 |
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▲JR大隅横川駅/国の登録文化財・天井の高い待合室で築100年も経過 | |
●国の登録文化財4棟 わずかな狭いエリアに国の登録文化財が4棟も建っているのです。古くは「中之」と書いたようです。また戦国時代の横川城跡が残されています。江戸時代の横川は外城の一つで、地頭仮屋が中ノにありました。また横川城主の北原氏の菩提寺・仙寿寺の跡は、中ノ川北地区にあります。加治木と大口を結ぶ東目街道が南北に通り、交通の要衝で、かなり賑わいました。 ●大隅横川駅の柱に「機銃掃射の跡」があります 100年を経た木造駅舎が県内に2つあります。いずれもJR肥薩線の嘉例川(かれいがわ)駅と大隅横川駅です。大隅横川駅は明治36年に開業し、ほぼ往時の姿を留めています。待合室の天井は高く、ノスタルジックでもあります。ホームの柱には「機銃掃射の跡」があり、第二次大戦中に、弾が屋根や柱を貫通したそうです。なお、平成18年に国の文化財として登録されました。 ●石造りの古民家が目に付きます 今は静かな街並みを呈し、石造りの古民家が目に付きます。骨組みは木骨で、瓦葺き。また石積みの基礎に漆喰塗りの土蔵もあります。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは大隅横川駅横の駐車場に停めました |
○福山(ふくやま)/霧島市福山町福山 | |
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▲旧田中家別邸/県指定の文化財・贅のかぎりを尽くした和洋折衷の建築 | |
●麓と浦町の二つの街並み 鹿児島藩直轄領で外城の一つ。廻城(めぐりじょう)を中心に麓を形成。石積みと植栽のある旧武家屋敷がわずかに残ります。旧福山村は、この麓と海沿いの浦町があり、内陸の物産等の移出港でもありました。特に黒酢の生産は今でも続いています。麓とは別に、海沿いを走る日向街道沿いにも旧商家が見られます。 ●旧田中家別邸は贅の限りを尽くしたたてもの 大正11年に海運業で財をなし私立福山中学校を故郷に創設した故・田中省三氏が建造しました。邸内は建築資材、技師、職人まですべて阪神方面から集めるなど、高価な特殊材料がふんだんに使われています。別邸とともに日本庭園も造られ、いずれも県の文化財に指定されています。なお見学料は無料です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは旧田中家別邸の駐車場に停めました |
○恒吉(つねよし)/曽於市大隅町恒吉 | |
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▲蛭川家(旧遠矢家)住宅/国登録文化財 | ▲ブロック塀も苔むしていました |
●薩摩藩・外城の一つ 江戸時代は、薩摩藩直轄領で外城の一つ。かつて賑わった藩の地頭仮屋付近の集落はことごとく寂れ、見る影もありません。遠矢家は島津義弘に仕え、吉田から転居し幕末まで続きます。昭和40年ごろ、親戚の蛭川家(写真下)に譲られ、現在にいたります。 ●往時の武家住宅を代表する旧遠矢家住宅 遠矢家は下総守良堅の子・良長を初代として、慶長4年(1599)都城・庄内の乱終結後、薩摩吉田から現在の恒吉に移住。大正時代には恒吉村村長・遠矢長を輩出しています。住宅は当時の伝統的な武家住宅の間取りとし、庭に面して縁をまわらせています。また門や腕木門で、扉に八双金物を飾るなど、武家住宅の屋敷の表構えにふさわしい風格を見せています。平成27年8月、国の文化財として登録されました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○志布志(しぶし)/志布志市志布志町帖 | |
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●大阪への発着フェリーが楽ちんで便利でした 志布志は2度目の訪問です。志布志港は大阪までの夜行フェリーの出発港でもあるからです。なお薩摩藩直轄領の外城の一つ。 志布志津(前川河口部)を望むシラス台地の先端に中世山城志布志城が築かれました。志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つの山城で構成されています。 ●石垣で囲った武家屋敷跡 町を歩きますと、通りの片側に石垣があり,そして植栽があって,中を見ることができません。そんな武家屋敷群跡がいくつかあるのです。さらに武家屋敷の薬医門はたくさんあります。また石垣は見ものです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○田神(たがみ)/垂水市田神 | |
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▲林之城跡の碑・お長屋に隣接 | ▲お長屋/県指定の有形文化財 |
●垂水麓の旧武家屋敷 江戸時代は、藩の外城の一つで、現・垂水小学校が林之城跡だったところ。で、その周辺に整然と武家屋敷群がありました。垂水島津家(1万8000石)は島津家の一門下で、明治維新まで続きました。いま、歩いていいますと、点々と旧武家屋敷が見られます。 ●林之城を中心に麓を形成しました 垂水島津氏の4代目久信は慶長16年(1611)垂水城から当地に移住し、林之城を築城。家臣らも移住させて麓を形成しました。麓は林之城を中心に道路や武家屋敷が配置されて外敵に備えるとともに、武芸の修練場でもありました。犬馬場や早馬馬場の地名はその名残です。 ●お長屋は下級武士の詰所だったそうです 林之城の築城前は山林原野でありました。だから林之城と呼ばれたとか。後に館(やかた)またはお仮屋(かりや)と呼ばれました。現在はお長屋と石垣が残っており、往時の面影を残しています。とくにお長屋は400年以上の歴史を物語っている貴重な木造建築です。「多門櫓」(たもんやぐら)と呼ばれる建築様式で、下級武士の詰所だったといわれています。県の文化財に指定されています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはタイヨー垂水店の駐車場に停めました |
○新富(にいとみ)/肝付町新富 | |
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▲二階堂家住宅/国の重要文化財、分棟型家屋。現在修復工事中です | |
●弓張城跡周辺に広がる 江戸時代は高山郷新留村。明治22年に新富に改名。高山(こうやま)は鹿児島藩の外城の一つで、旧武家屋敷群は弓張城の麓に広がっています。 ●新田開発に島津藩が強制的な人配(じんぱい)を実施 寛文年間(1661-73)に田布尾で髙山川に井堰が造られ、肝属川岸まで10kmの大用水路が開削されました。以後、新留村、野崎村北部の広大な地域が新田が誕生しました。その広さは2000石分と言うからスゴイのひと言です。ただ開拓のために多くの労力を必要としましたが、その大部分を人口過多な薩摩半島の西目(にしめ)に求め、島津藩の強制的な人配(じんぱい)、すなわち移住を行いました。 ●二階堂家住宅は元政治家・二階堂進氏の生家 二階堂家住宅は自由民主党の政治家・二階堂進氏(1909-2000)の生家です。文化7年ごろの建築といわれており、郷士の住宅として、武家屋敷の格式を示し、旧薩摩藩領にある県南部の特色を備えた、歴史的価値が高いとされています。ちなみに「趣味は田中角栄」と言ったのはあまりにも有名です。田中角栄氏(1918-1993)とは新潟県選出の元総理大臣のことです。 ●一歩裏手にまわると町並みは静寂! 早朝に訪ねましたが、通勤者のクルマでラッシュでした。でも奥に入るとシーンとした集落。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○波見(はみ)/肝付町波見 | |
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●石積みに植栽の塀が続く 肝付川河口付近に広がる小さな集落です。ところが右岸には波見浦があり、中世の時代から意外な発展を遂げたのです。大陸との交易が盛んになり、波見浦はその交易港でもありました。それは江戸時代に入っても続き、志布志とともに、大坂、大陸、南海方面との交易が盛んになりました。つまり藩公認の密貿易港でした。しかも豪商も出現し、特に重(しげ)家はその代表例。大型船4隻を持ち、幕末の全国長者番付は28位というからスゴイ。いまは至る所に石積みに植栽を施した邸宅が見られ、かつての繁栄ぶりがうかがえます。 ●重家の先祖は倭寇だった!? 重家はもともと京都に住んでおり、1500年代に8人の従者とともに波見に移住してきたといわれています。しかも波見は倭寇(わこう)の根拠地。倭寇とは海賊のことで、“交易”と称して中国や朝鮮で強奪のかぎりを尽くし、かなり恐れられていました。再三再四、日本側に倭寇の取締の要請がきたほどでした。重家はその倭寇だったといわれています。重家の守り神は稲荷神社で、京都の伏見稲荷を勧請したとか。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○知覧(ちらん)/南九州市知覧町郡 | |
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▲知覧型二ツ家/居住と台所が合体 | ▲平山亮一家住宅/庭園はシンプル |
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▲石積みの上には茶の植栽があります | ▲武家屋敷には庭園が残されています |
●薩摩の小京都 4度目の訪問です。いつきても整然とした町、という印象を受けます。チリ一つ落ちていないので逆に「気味が悪いくらい美しい」のです。 ここは薩摩藩を代表する武家屋敷群です。城下に収容しきれくなった武士たちを,その周辺に半農半士(郷士)として分散させたのです。だから家は農家としての役割ももたせています。 もちろん建物自体はかなり修復されていますが、門や石垣,垣根、庭園などに往時の面影を見ることができます。特に石垣の上に茶を植えているのは,知覧だけではないでしょうか。実に珍しい光景でした。 ●居住用と台所が合体して二ツ家になりました 鹿児島では、一般に居住用のオモテと台所のあるカナエの建物が、別棟となっている分棟式民家が多いです。しかしそれでは生活上不便が多く、次第に近づけるようになりました。この二ツ家は、分棟式の建物を小棟でつなぎ合体させた建築です。この結果、居住と台所が一緒になり生活が格段に便利になりました。これは知覧大工によって創作された独特の建築です。 ●江戸時代そのままの風景 重要伝統的建造物群保存地区、日本の道100選、国の名勝庭園(7庭園)だったりと、全国的にも超有名どころです。街並みを含む風景は江戸時代そのままです。なお入園料はコンビニで払いました。ついでに知覧茶を購入、気軽に飲めます。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 鹿児島交通バス武家屋敷入口下車すぐ |
○坊津(ぼうのつ)/南さつま市坊津町坊 | |
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▲海岸通りに美しい植栽と石垣、煉瓦塀 | ▲江戸時代は密貿易商人で町は発展 |
●唐の僧侶・鑑真和上の上陸地点です 古くは遣唐船の発着地でもありました。そしてなにより,唐の僧侶・鑑真和尚が上陸したところでもあります。そのため江戸時代は南方の国々と交易が盛んになり,坊津には豪商たちの立派な家屋が建ち並んでいました。江戸時代は薩摩藩の密貿易港でもありました。地名の由来は、一乗院の僧坊説などいろいろあります。 ●石段のある海辺の集落 集落を歩きますと,古いレンガ塀,石塀,石畳がそこかしこに見られます。急な石段を上って行くと,坊津の湾が一望にでき,潮風がとても気持ちいいです。かつて多くの異人たちが上陸した所か,と思うと感慨深いものがあります。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○大当(おおとう)/南さつま市笠沙町片浦大当 | |
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▲坂道の両側には石垣が続くのです | ▲石垣の里は軽自動車や車いすも通行 |
●小ぎれいな石垣の里 片浦地区は、野間半島の北半分を占め、大当は字名です。各地の「石垣の里」を歩きました。なかにはほとんど無人の集落もありましたが,ここ大当は,集落自体がかなり整備されています。急な石段も幅半分をつぶして舗装し,自転車を押して歩けるようにしています。また路地を軽自動車が入れる幅に広げたりと,電動車いす利用など高齢者が住みやすくし、無人になることを防いでいるのです。 ●見学コースは700mの坂道 石畳は約1250mもあり,地元の人が選んだ見学コースは700mほど。石畳(写真左)には,野間岳から採れる鉄平石を使用。加工しやすいのが特徴です。なお,店が1軒もないので注意してください。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
○加世田(かせだ)/南さつま市加世田武田 | |
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●植栽で美観を守る 竹田神社から徒歩10分のところに水路に沿って武家屋敷通りがあります。長さは100mほどです。かつて,別府城を取り巻くようにして204軒の武家屋敷があったと記録されています。現在,残っているのはわずかです。 ●まさかの重要伝統的建造物群保存地区に選定 低い石垣の上に,九州や沖縄などに多いイヌマキを植栽しており,美観を守っています。武家門をくぐると,玄関へ通じる直角に曲がった通路があります。さらに池泉庭園や枯山水庭園,各種灯籠,塔などがありますが,手入れの悪いのが難点。ところで加世田の語源は、古事記や日本書紀による「笠狭」が転訛し、さらにその後の開田の「田」が付いたとか。後年になって重要伝統的建造物群保存地区に選定。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは竹田神社の無料駐車場に停めました |
○指宿(いぶすき)/指宿市宮ヶ浜 | |
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▲ 2階の雨戸は閉めっぱなしですが、大きな家屋です | ▲妻切妻型の住宅。漆喰で塗り固めた蔵のよう |
●大型の古民家が多数 指宿は今まで古い町並みとは縁のないところだと思っていました。しかし指宿にもありました。JR指宿枕崎線宮ヶ浜駅近くの国道226号線沿いを歩きますと,結構残っています。というのもかつて指宿の中心地がこのあたりだとか。もちろん藩政時代、外城の一つですが、松尾城跡近辺に武家屋敷の面影が見られます。 ●1階の開口部が広い 平入り,妻入りで南国特有の丸瓦を使用しています。もちろん普通の平瓦も見られます。ただ1階開口部が広く,ガラス戸を使っているのが明るい印象。いま温泉地に向かう車が多いですが,完全に通過する町になっていました。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはコンビニに停めました |
○枕崎(まくらざき)/枕崎市立神本町 | |
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●酒蔵は歴史資料館 おなじみのいも焼酎『白波』の薩摩酒造本社のあるところ。明治蔵は実際の酒造りが見られると同時に,歴史資料館としての役割を果たしています。レストランもあって試飲もOK。なお枕崎港は日本有数の遠洋カツオ漁の基地があります。 ●カツオ漁の起源は坊津から逃げてきた密貿易船に穫らせた? 明治以降、カツオ1本釣り基地として発達します。その起源に、江戸中期以降の密貿易取締りで、坊津港から逃げてきた船主を枕崎側が保護しました。代わりに地場のカツオを穫らせた、という説。結局、隣の坊津港は寂れ、代わりに枕崎が発展します。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |