香川県(かがわけん)

○扇町(おうぎまち)/高松市扇町 
 
江戸時代は藩の材木蔵のある木蔵町といいました
 江戸時代は木蔵町(きぐらまち)といいました。高松城下の一町で、高松城の西側で愛宕神社周辺に位置します。高松藩の材木蔵があったからが地名の由来とか。天明7年(1787)の絵図では、愛宕神社への南北の通りを境にして、東木蔵町、西木蔵町に分かれています。明治初年には鉄砲町、高島町を編入。昭和41年に扇町になりました。
儒学者・中山城山の門人たち
 天保6年(1835)、東浜出身で木蔵町で開業していた医者・但馬来山(たじまらいざん)が死去。来山は江戸後期の儒学者・中山城山(なかやまじょうざん)に漢学を学び、さらに大坂に出て医学を修め、漢医となり藩の奥医師まで進みました。
愛宕神社付近に小さな古い町並み
 愛宕神社付近の東西に伸びる通りを歩きました。このあたりは戦災にも遭わず、古民家が至る所に残っています。2階木造家で虫籠窓があり格子窓も見られます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはコインパーキングに停めました
 
○城東(じょうとう)/高松市城東町 
 
   
▲戦後の建物ですが、独特の破風が残されています ▲東浜恵比寿神社/多くの娼妓たちが手を合わせました 
藩の御用船の水夫・船頭などが住んでいました
 江戸時代は東浜町といい、高松城下の一町でした。当時、高松藩の参勤交代は藩船を利用していました。そのため城郭は瀬戸内に面しており、常勤の加子(水夫・船頭)たちが住み1つの町を形成。その後町人たちも移り住みます。
“東浜”の原型は八重垣遊郭
 文化元年(1804)、藩はさらに当町の先を埋め立て新地を造成しました。これが新湊町です。問屋街が形成され、諸国から大勢の人が集まりました。そこで八重垣遊郭ができます。明治10年ごろはさらに茶屋8軒が建てられ大歓楽街へと発展します。八重垣の名は「夕されば八重のしほ路をこぎいでて~」の詠から名付けられたそうです。その後新湊町は東浜町に編入されます。新湊町にあった恵比須神社も東浜神社と改名。いまは東浜恵比寿神社となっています。大正から昭和にかけて、貸し座敷は34軒、娼妓は180人。
わずかに往時の面影が見られます
 昭和47年に城東町に住居変更されます。問屋街は倉庫街に変わります。歓楽街は、現役のソープ街へと変貌。しかし一般住宅もあって、混在しています。歩いていて建物に注目するとおもしろい。
・現役のソープ街です。撮影に注意してください。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはコインパーキングに停めました
 
○庵治(あじ)/高松市庵治町 
 
   
▲映画『世界の中心で、愛をさけぶ』のロケセット「雨平写真館」を復元 ▲裏道や路地歩くと、料亭や貸し座敷を思わせる建物が見られます
『世界の中心で、愛をさけぶ』のロケ地
 なんといっても庵治を一躍有名にしたのは映画『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年/大沢たかお、柴咲コウ、長沢まさみ、森山未來…)のロケ地になったからです。そして全国的な“セカチュー”ブームを巻き起こします。また日本アカデミー賞など数々の映画賞を総なめにしました。その後、庵治は「純愛の聖地」として売り出します。
水軍の根拠地で源平合戦からの歴史を誇ります
 古くからの漁村で、また水軍の根拠地でもあります。源平合戦から室町、戦国期へと続く歴史を持ち、豊臣秀吉から漁業権証与えられたとか。江戸時代は廻船業も盛んになりました。明治になると朝鮮、旅順に出漁、第二次世界大戦中にはビルマ(現・ミャンマー)やニューギニアまで出漁したそうです。
庵治石の採石・加工も大きく発展
 漁業だけではなく石材加工が盛んでもあります。特に明治に入ってから庵治石の採石、加工は技術革新とともに大きく発展します。明治27年には皇居造営のために多量の庵治石が治められました。また伏見桃山御陵工事にも多く使われました。
漁村は裏道や路地がおもしろい!
 庵治港を中心に歩きました。蔵や町家も見られますが、古民家は点々としており連続性はありません。でもおもしろいのは、裏道や路地です。オヤッと思う建物が見られます。多分、料亭や貸し座敷などではないかと思いました。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは観光交流館の駐車場に停めました
 
○仏生山(ぶっしょうざん)/高松市仏生山町 
 
高松藩五街道の一つ
 高松藩主・松平頼重が,菩提寺でもある法然寺参拝のために造らせた仏生山街道沿いの町で,法然寺の門前町として発展しました。仏生山は法然寺の山号です。仏生山街道は高松藩五街道の一つで,高松城大手門横の常盤橋から仏生山まで至る街道で,いま最も往時の面影を残しているところといえます。
歴史的建造物が残ります
 築100年以上の歴史的建造物も残されており,なまこ壁の土蔵があったり,板壁のある町家があったりしています。人々は街道を突き当ると前山坂道があり,ここを通って参拝します。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは法然寺の駐車場に停めました
○香西(こうざい)/高松市香西本町 
 
香西港と共に発展した町
 鎌倉時代,讃岐の豪族・香西氏が城を築いてから,香西港と共に発展した港町です。江戸時代は藩船の出入港の拠点として栄えました。漁業でも藩から手厚い保護を受け,金や御用米の搬出も行われていました。海運の要でもあったのです。明治に入って,農産物,食塩,陶器など阪神方面からの生活物資の移入港として活況を呈したのです。しかし戦後はトラック輸送に変わり,衰退していきました。
港の西側に残る古民家群
 いまは港の西側に土蔵や板塀,板壁,出格子のある町家が,わずかに残っています。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは港の空き地に停めました
○男木島(おぎじま)/高松市男木町 
 
急斜面に石垣と民家と青い空
 フェリーを下りると、急斜面に家々が連なっているのがよくわかります。階段状に建ち、道は狭く迷路のように入り組んでいます。石垣と青い空と海が似合っているのに気がつきます。
高齢者に厳しい斜面の集落
 女木島にはなにも無かったのですが、男木には若干の売店がありました。それだけ人口が多いのでしょう。急な石段や坂道を「ハアハア」言いながら歩きました。高齢者にはかなり厳しいなあと思いました。なんとなく島を離れる理由がわかりそうな気がします。
芸術の島に変わりつつあります
 2022年瀬戸内国際芸術祭の舞台の一つになってから、大きく変わりました。オシャレなカフェや飲食店が誕生。各種アート作品が出迎えてくれます。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 女木島からフェリーで男木港へ、下船後すぐ
 
○女木島(めぎしま)/高松市女木町 
 
集落を守るオオテ
 女木島下船後、目に付くのが「オオテ」と呼ばれる石垣です。西からの季節風が山に当たり、それが民家を直撃するように吹き下ろします。烈風から守るために石垣を造ったのです。東浦の集落には27のオオテが残っており、厚みは約1m、長さは15~20m、高さは2~4mぐらいです。
住吉神社を中心に扇形に広がる
 集落自体は、麓の住吉神社を中心に扇形に広がっており、その外周沿いに、オオテが造られているのです。始めて訪れた人にはちょっと息苦しい感じがします。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 高松港からフェリーで女木島へ、下船後すぐ
 
○長尾(ながお)/さぬき市長尾西 
 
87番札所長尾寺の門前町
 四国霊場88カ所の87番札所の長尾寺のあるところです。一説には延暦年間(782-806)に空海が創建したとも伝えられています。そんな寺院を中心に発展した門前町です。
高松藩五街道の一つ長尾街道沿いの集落
 一方,高松藩五街道の一つ長尾街道沿いの集落でもあります。江戸の初期,長尾村が長尾西,長尾東,長尾名に分離独立しましたが,長尾西は長尾寺への多くの参拝者がいたのにもかかわらず,馬継所はできなかったようです。いまは旧街道沿いに,わずかに虫籠窓のある蔵造りが残る程度です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは長尾寺駐車場に停めました
 
○志度(しど)/さぬき市志度 
 
遍路・86番札所志度寺の門前町
 高松藩五街道の一つ志度街道沿いで,四国霊場88カ所86番札所・志度寺を中心に広がった門前町です。江戸時代から街道沿いに遍路宿が多数あり,同時に海運の要衝でもあって,かなり賑わいました。
源平合戦の古戦場です
 屋島の合戦に敗れた平家軍は背後から牟礼の源氏軍を攻めようと志度に上陸し、志度寺に立てこもりました。しかし義経軍は平家が志度に向かったことを知り、80余騎の兵を率いて志度の平家軍を攻め、打ち破りました。このことは『吾妻鏡』や『平家物語』にも登場します。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは志度寺駐車場に停めました
 
○津田(つだ)/さぬき市津田町津田 
 
   
▲漆喰を塗り込め町家には虫籠窓が残りますが、改装されています 
灌漑に苦しむなか、砂糖の生産に活路を見いだす
 江戸時代は高松藩です。雨量が少なく、農民たちは灌漑に苦しみました。そのため甘蔗(かんしょ)の栽培が盛んになり、砂糖の生産が増大しました。寛政6年(1794)には運上銀が賦課されるまでに発展。同時に製糖業者や仲買が活発化し、砂糖問屋が。そして文政2年(1819)に砂糖会所が設けられました。
漁業は沿海から遠洋へと進出します
 一方、漁業も盛んになり、県外から遠洋へと出漁するようなりました。特にナマコの内臓である海鼠腸(このわた)は珍重され、長崎に送り、中国に輸出されていました。また、船の持たない漁夫は、他の船の乗組員として雇用されるケースが相次いでいます。文政年間(1818-30)、平吉が大坂の柏屋勘兵衛の菱垣廻船に雇われましたが難破し、アメリカ船に救助されました。また勝之助は岡山の多賀屋金十郎の廻船で難破し、フィリピンから中国を経て2年後に帰国しています。はやくから遠洋漁業に目が向いているからでしょうか。
明治に入るとさらに、さらに遠洋漁業へ
 明治に入り、朝鮮沿海、さらにマグロは南方のパラオ群島、エビ漁はボルネオ、メキシコ方面までに進出していました。北洋サケ・マス漁業は日ソ交渉で条件が厳しくなりつつあります。
東讃浜街道沿いに歴史的古民家群
 東讃浜街道に沿った町並みを歩きますと、繁栄した往時の面影を見ることができます。蔵造りの商家群や町家など歴史的建造物がギッシリ詰まっています。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは百十四銀行津田支店の駐車場に停めました
 
○三本松(さんぼんまつ)/東かがわ市三本松 
 
三本松港の発展が経済を支えました
 古くから讃岐国西部の宇多津、多度津に対して東部を代表する港が三本松港でした。ここから近郊近在の諸村から、米、砂糖、塩、織物、その他産物を移出。逆に干鰯、鉄、平紙、扱苧(こそぎ)などを買い入れていました。江戸時代は高松藩。藩は三本松に番所を置き、さらに横内・小磯に下番人を起きました。ところで扱宇(こそぎ)とは、麻の茎を蒸して剥いだ表皮が荒宇(あらそ)といいます。その荒宇を乾燥させて灰汁(あく)で煮て、さらに川でしごいたもの。
港近くに芝居小屋があって、たいへんな賑わいぶり
 海運だけではなく、高松城下から阿波に至る東讃浜街道(とうさんはまかいどう)が通り、その両側に豪商、職人、魚店など軒を連ねていました。また少し外れた港近くに“秀でた繁花の地”があったとされます。繁花とは、歌舞伎や人形浄瑠璃のことで、芝居小屋も多くの人々で賑わったことでしょう。
官軍の大山参謀の要請で食糧を運んだ伝吉さん
 浦庄屋・津本家の海難関係記録にはいろいろな出来事が記されています。明治維新、回漕業・伝吉は、砂糖、塩などを出羽国・能代に運んだ帰り、越後国・長岡攻めの官軍参謀・大山格之助(綱良)の要請で、食糧を出雲崎まで運びました。帰国後、思いのほか帯刀を許され、金200両と終身5人扶持を支給されました。新政府軍に協力したご褒美! といえます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは三本松港の空き地に停めました
 
○白鳥(しろとり)/東かがわ市松原 
 
赤穂から塩田技術を導入したら、今度は砂糖にも挑戦
 高松藩領でした。村おこしのために播州赤穂から塩田技術を導入するため,数十人が移住してきたとあります。これが今の松原浜で,白鳥の松原として知られています。藩は塩庄屋を置き,塩の製造に力を入れました。安政末年になると塩の釜数は20を超えたとか。さらに寛政年間(1789-1801)には砂糖の製造にも突入! おかげで新川の河川港・白鳥港は大いに栄えたそうです。
●白鳥神社の門前町と河川港としても発展
 また京都から猪熊千倉(写真)を神職として招き,白鳥神社を再興し,門前町としても発展したのです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは白鳥神社の駐車場に停めました
 
○引田(ひけた)/東かがわ市引田 
 
   
▲井筒屋(旧佐野家)は江戸時代から醤油,酒の醸造で繁栄を極めました。引田巡りの起点です ▲かめびし醤油(岡田家)は高松城下から大坂へと販路を広げる。建築物18件が登録文化財。宝暦3年(1753)創業 
   
▲松村家住宅/4代目に現在の場所に移転。明治時代は開業医  ▲泉家住宅/江戸中期から続く。明治時代は海産物や酒,煙草の販売 
   
▲旧引田郵便局/昭和7年に日下家の元屋敷跡に新築移転したもの  ▲旧中国銀行引田出張所/明治32年大内銀行引田支店、以後離合集散 
実質的に大庄屋・日下家が支配する
 引田といえば大庄屋の日下(くさか)家を外せません。江戸末期までこの地を実質的に治めていました。庄屋の下に町頭を置き,さらに90軒以上の商家を監督していたといいます。また浦年寄を置き,出入りの漁船や廻船の取り締まりまでしていたそうです。高松藩の白糖製造の奨励により,甘蔗から白糖までの一貫した生産を牛耳っていたのも日下家です。
●江戸末期の建築が続く
 いまは日下家のほか,江戸時代末期の多くの商家が残されており,いずれも国の登録文化財に指定されています。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは井筒屋敷駐車場に停めました
○土庄(とのしょう)/土庄町甲
 
迷路の町で迷う…不覚でした
 いたるところに「迷路の町」の看板が目に付きます。何やら挑発されているような気がして,歩き出しました。ところがものの5分もしないうちに,自信のあった方向感覚が鈍ってきたのです。迷路に強いと自負していましたが、結局,いつのまにか元来た道へ…。不覚でした。
西光寺周辺は往時の姿が見られます
 土庄は小豆島の玄関口で,交通の中心地です。またホテルや旅館が林立していますが,西光寺周辺は昔のままの地割りで,板塀や板壁の続く町並みになっています。かつての漁師町,門前町のにおいをさせるのでしょうか。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 土庄フェリーターミナルから徒歩15分
 
○苗羽(のうま)/小豆島町苗羽 
 
●マルキン醤油発祥の地
 小豆島は何十年ぶりかの訪問です。オリーブの島という印象はありますが、醤油の島という印象も持っていますし、マルキン醤油発祥の地でもあります。大規模な造りの醤油蔵は国の登録文化財になっています。周囲を黒板塀で囲み、木造3階建てです。
●プ~ンと醤油のにおい
 歩いていますとプーンと醤油の匂いがしてきました。近くにマルキン醤油記念館があり、入館料210円ですが、醤油(小瓶)1本が付きます。
なお遠くに見えるのが山岳霊場・碁石山(ごいしやま/写真)です。
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 草壁港から小豆島バス丸金前下車すぐ
 
 ○坂手(さかて)/小豆島町坂手
 
   
 ▲路地と迷路の町でもあります  ▲岡田家住宅(国の登録文化財) 
石垣と坂道の町
 傾斜地に家を建てるために,石垣の多い町になりました。坂手港は水深が深く,昔から天然の良港として西国や北国の廻船の寄港地として発展。さらに水田がないだけに,漁業が盛んで漁師町としても発展。
応仁・文明の乱のとき
 応仁・文明(1467-1477)の乱の際、播州・赤松親則の後裔・広瀬重兵衛が乱を避けて来訪し、住まいを設けました。その後、伊予の海賊・河野氏一派の来島氏もやってきましたが、やがて苗羽(のうま)か橘方面に移り住んだというが定かではありません。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 土庄港からバス40分坂手港下車すぐ
 ○本村(ほんむら)/直島町本村
 
   
 ▲どこの街角・路地を歩いても、黒塀、白壁が続きます
   
▲国の登録文化財・三宅家住宅  ▲観光客も気軽に乗れる町営バス 
離島の白壁と黒板塀の町
 1992年にベネッセが「自然・建築・アートの共生」と言うテーマで直島(なおしま)に進出。それ以来,町は大きく変わりました。昔からあった精錬工場,廃棄物処理場,有価金属リサイクル施設なども巻き込んだ大がかりなものです。本村地区は「家プロジェクト」というテーマで,空き屋の修復,神社の再生など,古来の建築と現代アートを結び,ひとつの「展示群」として表現されています。改めて大資本の力を見せつけられました。
白壁の蔵と黒板塀の町に若者があふれる
 瀬戸内の他の離島と違って,店も多く若者たちも多いのが驚きです。白壁の蔵と黒板塀の町です。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 宮浦港から町営バスで農協前下車すぐ
 

                        ▲ページの先頭にもどる

○本町(ほんまち)/坂出市本町 
 
江戸時代から商店地帯として発展
 江戸時代の初めは生駒氏の所領でしたが、寛永19年(1642)から高松藩領となります。しかし、大部分が瀬戸内側の海岸沿いに発展した“海岸集落”でした。明治期以降も、塩田が中心に発展。江戸時代から明治初期にかけて商店が軒を並べ、商業地帯としてにぎわいました。さらに明治30年にココから離れた所に讃岐鉄道が開通、坂出駅が設置されると様相が一変します。とはいっても田んぼのなかにポツンと駅と隣に讃岐紡績だけが建っているだけ。本格的な駅周辺の開発は大正期に入ってからです。
珍しい醤油画の資料館が登録文化財です
 中国銀行、百十四銀行などが進出し、坂出市の中心となります。地名は坂出発展の「元」の意味から生まれたそうです。古い町並みはアーケード街に見られます。元町、本町と歴史的建造物が見られます。讃岐醤油画資料館(写真)は国の登録文化財です。また坂出には近代建築が多く見られます。それにしても醤油画っていうのは珍しい。 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはJR坂出駅北口地下駐車場に停めました
 
 ○網の浦(あみのうら)/宇多津町網の浦
 
丸亀街道沿いに開けた町
 讃岐の中心地として発展しました。歩いていますと,地元の人たちは通称名の「西町」と呼んでいることに気がつきます。これは町の中心地,本町・大門から見て西の方角にあることからです。しかし高松,丸亀の城づくりに住民を強制移住したという歴史もあります。いずれにせよ旧丸亀街道沿いに開けた町並みで,瓦葺き出格子のある古民家などが今でも残っています。
『万葉集』の長歌に登場する網の浦はココ?
 ところで網の浦は通称名で、こういう住所はありません。『万葉集』の長歌に「網の浦の海処女らが焼く塩の思ひそ焼くるわがしたごころ」とあります。この網の浦がこのあたりではないかと推定されていますが定かではありません。
多くの寺院が集中する寺町を形成
 もう一つ特質すべきは寺院が数多く存在すること。これはいざというときに,兵士の収容と防御を兼ねているからです。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは本妙寺駐車場に停めました
 ○十番丁(じゅうばんちょう)/丸亀市十番丁
 
丸亀城の城下町
 江戸時代から続く歴史のある町名です。京極氏時代の文政11年(1828)には,60数軒の武家屋敷があったそうです。当時は丸亀城の内濠と外堀の間にありましたが,戦後の外堀の埋め立てにより外堀の外の町・城南町と地続きになりました。
●武家屋敷の面影を残す
 町割りは碁盤の目のようになっており,歩いていますと,ココだけが別世界のような感じがします。土塀や落ち着いた板塀が整然と続いており,かつては武家屋敷の町であったことが理解できます。古地図には「侍屋敷」と記されていました。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
○福島(ふくしま)/丸亀市福島町 
 
   
▲いまは旅館ですが、往時の面影   ▲タイル貼りのカフェ造りです 
福島橋の修繕費を捻出するために芝居興行を打つ
 城下の町としては延宝元年(1673)ごろで、16人の船乗りが藩の許可を得て住み着いたのが始まりだとか。もとは浜町でしたが、元禄4年(1691)にその浜町とのあいだに架設された橋が福島橋と藩主が命名。以後福島になりました。ところが橋の修繕費や維持費を村人に負担させます。そこで橋の修繕費を捻出するために、芝居興行をたびたび催しています。
●遊郭跡がそのまま残っています
 江戸後期は海の玄関口で金比羅詣での参拝客で賑わいました。さらに鉄道駅もあって,商業地区として発展。明治20年ごろ遊郭ができました。それ以前は船頭や旅人を相手にした私娼でした。昭和初期には貸し座敷が16軒、娼妓は120人。今はアパートや旅館、一般住宅などになっています。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはフェリーターミナル駐車場に停めました
○笠島(かさしま)/丸亀市本島笠島 
 
   
▲咸臨丸水夫・豊島兵吉生家跡   ▲塩飽勤番所跡(昭和52年に復元) 
   
▲咸臨丸水夫・高島清蔵生家跡  ▲笠島集落と瀬戸大橋 
江戸末期から大正期
 下船後のんびりと歩きました。のどかな田園風景から雑木林の小路など,とても気持ちいいところでした。が,突然出格子や虫籠窓のある伝統的町家が並ぶ迷路に入ってしまいました。塩飽水軍の拠点の一つでした。重要伝統的建造物群保存地区です。
塩飽水軍に出城がありました
 笠島は4つの集落からなっていますが、古民家群のあるところは、城根という小字にあたります。中世・塩飽水軍の出城として築かれたところでもあります。
咸臨丸乗船に4人の水夫が採用されて渡航
 ところで、幕末になって塩飽島民の優れた操船技術は幕府の目にとまり、幕府海軍に徴用されます。そして笠島から4人が水夫として採用されました。万延元年(1860)、咸臨丸に乗船して米国に渡りました。その実家が今でも残されています。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 丸亀港からフェリーで本島港下船後徒歩20分
○家中(かちゅう)/多度津町家中 
 
●多度津京極藩1万石
 多度津駅から歩いてい7分程度,町役場の裏あたりにたたずむのが武家屋敷。土蔵の一部や長屋門などが残されています。でも所々に目につく程度です。詳しいことを知りたければ,町並みの中にある資料館に行けばいいと思います。
四国鉄道発祥の地
 むしろ,国鉄,JRとなった鉄道としては,四国初の駅で,広大な敷地には車両工場や蒸気機関車が保存されている。家中に隣接しており,一般開放もされるそうだ。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR予讃線多度津駅から徒歩8分
 
○本通り(ほんどおり)/多度津町本通り 
 
参拝客が歩いたこんぴら街道
 多度津は空襲から免れたせいか,古い町並みがあちこちに残されています。そのなかでも本通りは,通称こんぴら街道(さぬき街道)といわれ,江戸時代から多くの参拝客が通った道であります。
旧商家や旅館が残る街道筋の集落
 いまはかてつの華やかさはありませんが,それでも商家,旅館など混在しており,比較的のんびりと歩ける町です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR予讃線多度津駅から徒歩15分
 
○西浜(にしはま)/多度津町西浜 
 
港に近い回船問屋
 多度津には新しい発見がいくつもありました。この西浜もそのひとつです。多度津港に近くにあり,本町通りの商家とは違って,かなり大きな建物ばかりです。回船問屋などが中心になっていたと考えられます。白壁やなまこ壁など,清潔な感じの町並みです。
開発が遅れた分だけ古民家が残る
 それにしても多度津は,古い町並みがたくさん残されています。ただ隣の丸亀や善通寺に比べて開発が遅れているから,幸にも古民家が残ったといえます。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR予讃線多度津駅から徒歩15分
 
 ○東浜(ひがしはま)/多度津町東浜
 
   
▲かつてはベンガラ色(?)だった貸し座敷も棟割り長屋風  ▲水田食堂/木造切妻型の昭和感たっぷりの定食屋
旧花街の面影が少し残ります
 西浜に隣接する町です。かつての遊郭跡の遺構が少しは見られる町、ということで再度訪ねました。西浜も少しは花街のイメージはありましたが、東浜の方がやや濃いように思えました。『全國遊郭案内』(昭和5年刊)によれば、貸し座敷19軒、娼妓120~130人。金比羅参りへ船でやってくる参拝の拠点となっているため、かなり賑わったようです。特に正月、10月の金比羅大祭などは湊は船でいっぱいになったそうです。
金比羅さんや善通寺への参拝客でにぎわう
 江戸時代は一貫して、金比羅宮への港、街道、宿場の整備に大金を投じられます。また明治になっても鉄道が相次いで開設。そのすべてが金比羅宮へ目指していたのです。もちろん善通寺参拝客も含まれていました。いま歩いても、往時の面影は感じられません。しかしながら東浜は金比羅さん抜きには語れないといえます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 漁港沿いの道端に停めました
○高見島(たかみじま)/多度津町高見 
 
超過疎の集落が景観保存地区
 寂しい島でした。香川県の景観保存地区に指定されているそうですが,人口は70余人。特に浦集落は,無人に近い感じがしました。標高50mの断崖に石を積み上げて,民家を建てたのですが,ほとんどが空き屋でした。頂上の寺院のみが人気を感じたくらいです。
高齢者の生活に厳しい斜面
 瀬戸内海の島々の断崖に建つ民家は,高齢者にはかなり厳しい生活になります。車も車いすも通れないとなれば仕方ないですね。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★
 交通 高見島港から徒歩10分
 ○善通寺(ぜんつうじ)/善通寺市善通寺町
 
   
▲改築しても風情が感じられます 左から金堂、中門、五重塔 
善通寺は国宝、重文の宝庫!
 まさしく善通寺を中心に広がる町です。真言宗善通寺派の総本山。といっても総本山になったのは、昭和6年と比較的新しい。大僧正・蓮生観善が善通寺派の館長に就任、昭和11年に弘法大師1100年御遠忌供養が15日間にわたって執行されました。さらに翌年善通寺御影堂の落慶大法会が営まれています。国宝、重要文化財指定なども数多く、さらに四国八十八カ所霊場の75番札所で、全国各地から参拝客がやってきます。
江戸中期以降は百姓の反乱が絶えなかった
 江戸時代、はじめは生駒氏領で寛永18年(1641)から丸亀藩領となります。村史を見ていますと農民とのいざこざが絶えないのがわかります。寛延3年(1750)の西讃百姓一揆の際は、庄屋が攻撃対象になっています。文政10年(1827)、善通寺の小作人が小作米納入の件で地主たちにかけ合うという事件。天保7年(1836)には小作料をめぐって大騒動。大麻村の百姓も加わって徒党を組みました。翌年、かなりの数の農民が処分を受けましたが、村役人も取締りが不十分として処分。
乃木将軍が遊郭を設置したというが……
 善通寺町は市内の中心的市街地で、明治29年開設の第十一師団の中核的地域として発展しました。映画館や劇場、旅館、飲食店があってかなり賑わいました。寺や軍隊ができると当然遊郭も設置されます。善通寺門前に軒を並べたとか。最初の師団長・乃木将軍が赴任してきたときに遊郭を設置したそうです。つまり軍人用に設置したといいますが、それ以前から小規模な参拝客用の遊郭があったといいます。ことの真偽は別にして、昭和初期には貸し座敷が11軒、娼妓は70人とか。いまはもちろんそんな面影はありませんが、門前町として風情はしっかりと残っています。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは善通寺駐車場に停めました
 
○南町(みなみまち)/善通寺市南町 
 
自衛隊と寺の町です
 善通寺市は自衛隊の町です。陸上自衛隊善通寺駐屯部隊が町の真ん中を占めています。そんな町を歩いていますと,赤煉瓦の建物がそこかしこに見られます。写真の建物は,旧陸軍第11師団兵器庫跡で,明治の末期に建てられました。2月の寒い日に訪ねましたが,秋に黄葉した銀杏並木が見られます。
善通寺の五重塔が望めます
 写真では見づらいですが,道の正面に善通寺の五重塔が見られます。かなり近いようです。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR土讃線善通寺駅から徒歩20分
○仁尾(にお)/三豊市仁尾町仁尾 
 
蔵造りの商家や土塀
 古くは仁保ともいわれたそうです。江戸時代から醤油,酢,酒の醸造元や綿,茶,生糸,肥料,魚介類等の大店が軒を並べていました。そのため讃岐西部地区の一大商工業地区として発展しました。地元には「千石船見たけりゃ仁保へ行け」のことわざがあるくらいです。地理的に陸の孤島だったせいか,瀬戸内海を利用した舟運が発達しました。
往時の繁栄ぶりが感じ取れます
 町を歩いて見ますと,かつての大店らしき屋敷が続き,繁栄ぶりを感じることができます。いまは仁尾酢や温州ミカンが名産となっています。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
須田(すだ)/三豊市詫間町託間 
 
   
▲港町は路地がおもしろいのです ▲港近くに貸し座敷風の建物が…
   
▲粟島汽船の定期船「みとよ」です ▲浜の市灯篭/市が立ったそうです
古くから塩田が盛んでした
 詫間湾に面した集落は、新浜、香田などがありますが、ココは須田集落にあたります。古くは州田とも書きました。海浜の州に発達した集落だけに、託間では最も古くから塩が生産されていました。塩は上方への移出が盛んだったことが文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』などからわかります。また北前船の寄港地でもありました。
粟島への定期船の基点
 かつては託間町の西部地区の商業、交通の中心地でした。特に須田は託間街道の起点でもあったのです。いまは沖合4kmにある粟島港とのあいだに粟島汽船の定期船「みとよ」が1日8便の運行を行っています。
須田は託間街道の起点で「塩街道」とも
 ところで託間街道は阿波池田とも連絡していた重要な街道でした。途中、金比羅街道(伊予街道)と交差し、さらに観音寺街道と連結し、阿波街道へと通じていました。託間の塩が財田や阿波に運送されていたことから財田では「塩街道」とも呼ばれていました。また託間では阿波街道とも呼ばれていたとか。
かつて市が立つなどにぎやかな港町でした
 須田港の小さな駐車場にクルマを停めて集落内を歩きました。かつては繁栄したであろう方形型の大型商家や旅館、料理屋、貸し座敷などが彷彿されます。路地を入ると、土蔵などが残っており商業の町であることがわかります。廻船問屋も軒を並べていたのかも知れません。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは須田港の駐車場に停めました
 
○琴平(ことひら)/琴平町琴平 
 
   
▲金丸座/江戸末期の劇場建築の典型で日本最古で、国の重要文化財 
 ●土蔵造りの商家が並ぶ
 「こんぴらさん」で親しまれている門前町です。金刀比羅宮は海の守り神として知られ,石段が1368段もあり,杖をついての参拝姿はおなじみです。町並みには,一部土蔵造りの商家が連なっています。
毎春「四国こんぴら歌舞伎大芝居」に多数のファン
 金丸座は天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋です。金丸座の名称は明治33年に付けられました。昭和45年に国の重要文化財に指定されましたが、このときに名称が旧金比羅大芝居となりました。昭和60年から毎年、四国こんぴら歌舞伎大芝居が開催され、全国から歌舞伎ファンが訪れ、春を告げる風物詩となっています。なんといっても枡席や、花道、舞台装置を人力で行うのは江戸時代のままです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR土讃線琴平駅から徒歩15分
○栄(さかえ)/琴平町(川東) 
 
   
▲細々と明かりが灯る路地裏に琴平の魅力が詰まっています 
琴平・旧栄遊郭にも古い町並みが残っていました
 「聖と俗は背中合わせ」といはよくいったもので、まさしく琴平は文字通りの町でもあったのです。遊女は江戸時代(元禄年間)から出没し、参拝客の奪い合いがあったようです。とにかく金刀比羅宮へは、全国各地から参拝客がやってきます。芝居小屋、料理屋、旅籠、茶屋、遊女屋などが渾然一体となって門前町を盛り上げました。さらに富くじ、見世物小屋、土産物店なども加わります。ただ、宿と遊女のトラブルは絶えなかったといいます。
細々と明かりが灯る路地裏が最大の魅力
 いま夜になると細々明かりが灯る路地裏の飲み屋街。路地裏を歩くと居酒屋やスナックの明かりが目に付きます。いまは往時の面影は見られません。かつて貸し座敷から特飲街へと変遷していくなかで、戦後「赤線地帯」と呼ぶようになりました。琴平新地と呼ばれたりもしました。こんなとこを考えて歩いていますと、琴平の魅力は「路地裏」にあると思います。『全国遊郭案内』(昭和5年刊)によれば貸し座敷は28軒、娼妓は111人とあります。 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは参拝駐車場に停めました
 
○山脇(やまわき)/まんのう町山脇 
 
   
▲重田住宅/明治10年築・主屋や長屋門など6件が国の登録文化財 
山脇左馬助久友の拠点で山脇城跡があります
 戦国時代は国侍の山脇左馬助久友の拠点で山脇城跡があります。地名の山脇は、山のそば、山の脇、山の近くの意味を持ちます。江戸時代は当初、生駒氏領、寛永18年(1641)から丸亀藩領となります。寛永10年(1633)の『讃岐国絵図』には七ヶ村山脇と書かれています。
年貢軽減を藩主に直訴して斬首!
 山脇村は西七箇村預かり庄屋の支配を受け、組頭が置かれていました。嘉永3~4年(1850-51)の凶作時に、大西浅右衛門が藩主に年貢軽減を直訴しました。実現はしましたが、直訴したということで浅右衛門は斬首。いまは祠が残ります。
“借耕牛”取引の中継点でした
 重田家の建つところは、古来より阿波-讃岐間の交通の要衝でした。金比羅宮参拝のための箸蔵(はしくら)街道が通り、昭和20年代までは、春と秋の農繁期に阿波の牛を讃岐の農家に貸し出す“借耕牛(かりこうし)”の取引の中継点として栄えました。重田家は明治より上層農家で、建物は幾度となく増改築が行われています。重田家に限らず、このあたりの建築は豪華で大型の農家建築といえます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
 ○観音寺(かんおんじ)/観音寺市観音寺町
 
   
▲浮田家住宅/大地主の住宅ですが、文化財指定から外れています ▲駅からノンビリ歩くといたるところに古い町並みが見られます 
1つの境内に68番、69番札所があります
 地名はもちろん真言宗観音寺の寺号が転訛したものです。四国八十八カ所霊場の69番札所にあたります。ついでに68番札所・神恵院も同じ境内にあります。一境内に二ヶ寺が隣合っているのはココだけ。
江戸時代、路上で魚介の勝手売りの禁止!
 江戸時代、はじめは生駒氏領、寛永18年(1641)から丸亀藩領となります。魚介の漁が盛んな土地で、元禄12年(1699)に大年寄・塩飽屋善左衛門にはじめて魚問屋の新設の許可がでました。漁のできる川は川口、七間橋川、柞田川の3カ所に決められました。扱うもの生イワシ、生肴、干鰯、塩物、干物です。ところが、5年後の宝永元年(1704)に藩から、路上で魚を入れた籠を置いての勝手販売の禁止令がでたのです。魚問屋筋から藩に苦情がでたと推察。いずれにせよ観音寺町には豪商が多く誕生しました。
路地の奥に人形店が見られます
 財田川沿いに古い町並みが集中しています。路地を入って行きますと「人形店」の看板が見られます。江戸時代から雛の節句、端午の節句などの節句人形が作られており、熟練した職人が技術を受け継いでいます。また生徳旅館(廃業)などの古建築が残されています。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは観音寺まちなか交流駐車場に停めました

               ▲ページの先頭にもどる