和泉市(いずみし)

○信太山(しのだやま)/和泉市幸 
 
   
▲店頭は賑やかですが木造2階建て  ▲棟割り長屋風で細かく区切る 
陸軍の慰安所としてスタート
 和泉丘陵の一部で、標高50~80mほどの台地状地域をいいます。明治20年、信太山は陸軍の演習場となり、現代では陸上自衛隊信太山駐屯地になっています。さて、本題に入ります。旧遊郭は江戸時代からあり、一説には熊野参詣の際に利用したといいます。多分、精進落としとかの理由があったのかもしれません。明治に入ると陸軍の慰安所になりました。 もちろん昭和34年の売春防止法により、遊郭は廃止となりましたが、いまはソープの町として細々と“活況”を呈しています。
信太山新地入口の「二十才未満の者 来所を禁ずる」
 この日は早朝に出かけました。周囲は住宅地で、通勤客とは逆の流れになります。路地に入ると「二十才未満の者 来所を禁じる」の看板を見かけます。建物は木造2階建てですが、棟割り長屋風の細かく仕切った部屋割りが並んでいます。ところで従来は信太山新地と呼ばれていましたが、路地の入口に「小栗の郷」とあるように、いつのまにか名称変更したようです。でも中身は同じです。ただ近くに市営の「小栗の湯」という
スーパー銭湯があります。
*現役のソープ街です。撮影には十分注意してください。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR阪和線信太山駅から徒歩7分
 
○和泉府中(いずみふちゅう)/和泉市府中町 
 
   
 ▲歴史のある街道沿いの集落 ▲きつねうどん(泉大津そば/310円) 
旧熊野街道沿いの町並み
 和泉の地名の由来となった和泉清水のある泉井上神社を抜けると旧熊野街道に出ます。平安時代には多くの上皇や貴族が熊野詣でに通ったという街道です。また「小栗判官・照手姫(てるてひめ)」の伝説に由来して小栗街道とも呼ばれています。なお、御館山と称されるあたりに、和泉国の国府が置かれていたとか。
やや地味ですが歴史のある町です
 街道沿いには,壮大な屋敷が点在しており,歴史的な雰囲気を漂わせています。文化財というほどの名のある建物ではありませんが,歩いているだけでホッとするような町並みでもあります。この日は通学時間にぶつかったせいか,とてもにぎやかでした。

 沿道には熊野九十九王子のうち三王子(篠田王子,平松王子,井ノ口王子)の跡があったり,小栗判官笠懸松,照手姫腰掛石,葛葉稲荷神社などの見所も多いようです。やや地味ですが、歴史があります。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR阪和線和泉府中駅から徒歩15分
○伏屋(ふせや)/和泉市伏屋町 
 
伏屋氏が借金をかたに坪井氏に伏屋新田を売却!!!
  父鬼(ちちおに)街道沿いの集落です。和泉と紀州を結ぶ街道の一部を父鬼街道と呼んでいます。宝永7年(1710)、万町村の大庄屋・伏屋氏によって開発され、「伏屋新田」と呼ばれました。以前は上野原山といわれていたとか。ところが、伏屋氏が借金をかたに、坪井村の澤氏に伏屋新田を売却。その後、澤氏は大正15年(1926)に自作農創設組合に7500円で売却。やっと実際に耕作する農民の土地になりました。
●長屋門や土蔵が旧道沿いに点在
 ややゆるやかなカーブに沿った漆喰と板張の組み合わせた塀が続きます。旧家と思われる立派な長屋門も見られます。旧街道沿いは静かでした。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 泉北高速鉄道光明池駅から徒歩18分
○池田下町(いけだしもちょう)/和泉市池田下町 
 
   
▲長屋門のある旧家が目に付く  ▲高橋家住宅(国の重要文化財) 
旧家がそのまま残る
 池田谷を流れていた槇尾川の下流域だったのが町名の由来とか、諸説あります。大坂の陣が終えたと、幕府領、土浦藩領、旗本領、さらに一橋家領など関東勢所領でした。いま高橋家を含め旧家と思われる町家が至る所に見られます。
本尊画の保管を巡って明王院と海光寺が大論争
 池田下村の明王院は摂津国・大念仏寺派に属しており、位の高い寺院でした。そのため大念仏本尊(阿弥陀仏如来)の画を保管し、その本尊画を近隣の村々の寺を巡回し貸し与え、農民たちの信仰を仰いでいました。そのとき徴収した初穂料(はつほりょう)で明王院の収入としていたのです。ところが延宝2年(1674)、明王院と村々の寺院の1つであった海光寺と本尊画の保管をめぐって大論争となりました。そのときはいくつかの庄屋たちが調停に入り明王院の保管と決まりました。
農民たちの“本尊廻村の信仰”
 聖徳3年(1713)に、今度は藩主・土屋家より大念仏本尊の巡回について調査が入りました。明王院は事細かな報告書を提出して事なきを得たそうです。それらはともかく、本尊画を寺々を巡回しながら信仰を集めていた“本尊廻村の信仰”にあたっていたことが明らかになりました。
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 泉北高速鉄道光明池駅から徒歩25分
 
○和田(わだ)/和泉市和田町 
 
   
▲旧道の裏手にはノコギリ型の工場群 ▲辻林酒造場の大きな蔵が目に付く 
江戸時代は関東近辺の譜代や旗本が支配
 歴史のある集落ですが、江戸時代は幕府領、旗本領、下総の関宿領と関東近辺の旗本や譜代に支配させています。村高も300石弱とそれほど多くはありません。人口の250人前後。ただ槇尾街道と父鬼街道が交差するところだけに、交通の要衝といえます。
旧道沿いに古民家群
 旧道に沿って歩きますと、古民家が軒を並べていますが、一歩裏手に入りますと、ノコギリ型の旧繊維工場が目に付きます。さらに歩きますと、辻林酒造場の大きな建物があります。さらに槇尾川にかかる川中橋まで古民家が続きます。歩いていて楽しい町並みです。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 泉北高速鉄道光明池駅から南海バスで和田南下車、徒歩10分
○三林(みばやし)/和泉市三林町 
 
総鎮守・春日神社に古墳群があります
 江戸時代は、旗本、関宿藩、清水家などの支配もありましたが、全体としてほぼ幕府領でした。槇尾川の中流右岸に位置しますが、父鬼街道から外れているため、交通量も少なく今はノンビリと歩けます。集落の鎮守でもある春日神社の境内林の一角に20基近い円墳があり、古墳群を形成しています。江戸時代の村の石高は500石弱で、人口も300人前後とか。農閑の山仕事もあったようです。
●幾つも見られる長屋門
 歩いていますと旧家と思われる立派な長屋門や土蔵など幾つも軒を並べています。中には黒漆喰の豪壮な入母屋造りも見られます。この辺りはハイキングコースになっており、春や秋になると多くのハイカーで賑わうそうです。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通  泉北高速鉄道光明池駅からコミュニティバスで三林町下車、徒歩5分
 
○黒石(くろいし)/和泉市黒石町 
 
初めて見ました“新築の長屋門”
 一歩、集落に入ったとたん長屋門が見られました。それも至る所に建っているのです。なかには新築のピカピカ長屋門もありました。新築の長屋門ははじめて見ました。また黒漆喰の土蔵はかなりの“贅沢品”。旧家が多く、旧庄屋や旧豪農の面影も見られます。
西福寺を中心に古民家が散在
 町の歴史は古く、古代においてすでに集落が形成されていました。南北朝時代、南朝方の岸和田氏に同調。また早くから土地の開発が進みましたが、傾斜地が多く、稲や麦はわずかですが煙草、農閑期は山仕事が多かったようです。西福寺を中心に古民家が散在しています。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 泉北高速鉄道光明池駅から南海バスで黒石道下車、徒歩10分
 
○平井(ひらい)/和泉市平井町 
 
神社や寺院を目標に歩きます
 バスを降りて、まず高野山真言宗羅漢寺を目標に歩きました。初めての集落の場合は、まず中心となる神社、寺院を目標にすると、意外にも道沿いや目標近くに古い町並みや古民家が存在することに気づきます。
●大津街道(泉大津-河内長野)沿いの集落
 槇尾川中流左岸に位置します。今回もやや急な坂道を上り、ゆっくりと路地の奥なども眺めながら歩きました。長屋門や土蔵、梁と白壁の組み合わせた真壁(しんかべ)造の古民家。なかなか風情のある町並みです。全体としてこぢんまりしています。江戸時代は、村内の中央を、大津街道(泉大津-河内長野)がほぼ中央に通り、交通の要衝だったことがわかります。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 泉北高速鉄道光明池駅から南海バスで平井下車、徒歩5分
 
○納花(のうけ)/和泉市納花町 
 
鎌倉時代、僧侶・重源の活動 
 歴史の古い集落です。鎌倉時代は僧侶・重源(ちょうげん)によって築かれたといわれる谷山池(たにやまいけ)がありますが、その中ほどの中島に重源を祀った御影堂がありました。現在は本堤防上に、重源を祀った祠(ほこら)があります。
多種多様の古民家群
 江戸時代は旧納花村で、ほぼ幕府領。村内には南北に大津街道が貫き、かなりの賑わいを見せていました。いま歩きますと、蔵や長屋門、板張の町家、虫籠窓や格子のあり商家など多種多用の古民家。地名は、かつて施福寺の花畑があり、四季の花々を寺に納めていたからとか……。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通
 泉北高速鉄道光明池駅から南海バスで南池田小学校前下車徒歩5分 
 ○国分(こくぶ)/和泉市国分町
 
「光明皇后誕生所」の小さな石碑
 光明皇后誕生にまつわる史跡があります。迷路のような細道を歩いていますと、「光明皇后誕生所」なる小さな石碑が民家の石垣に食い込むように立っていました。中世は池田郷に属し、光明皇后の伝説も多い。光明皇后はシカを母として誕生した地だそうです。また薬師堂は智海上人が修行した寺で、上人の小便をなめたシカが懐妊し、それが光明皇后であったという。
圧倒されるみごとな古民家群
 江戸時代は、幕府領、旗本の知行、下総関宿藩領など変遷。地名の由来は、古代から中世にかけて和泉国分寺が営まれていたことにちなむとか。 歩いていて気がつくのは、道が狭く迷路のようになっています。旧家が多く、蔵造りの家屋が点在します。また「殿原」バス停近くにも古民家が集まり、かなり大きな集落を形成しています。いま320余世帯が住まいを構えているそうです。
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★

交通
 泉北高速鉄道光明池駅から南海バスで国分峠下車徒歩15分 

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