泉佐野市(いずみさのし)
○栄町(さかえまち)/泉佐野市栄町 | |
●駅北口に“昭和の香り” 南海線泉佐野駅西出口周辺は、戦後の2階建て棟割長屋がそのまま残り、まさしく“昭和の香り”のする飲食店街を形成しています。一部、立ち退き等で櫛の歯が抜けたような所もあります。いずれは再開発の対象になるかもしれません。 ●明治30年10月に駅が開業 南海電車が開通したのは堺-佐野(現・泉佐野)が明治30年(1897)と比較的早かったようです。これによって繁華街が形成され、金融機関も多く、経済の中心地となったのです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 南海線泉佐野駅から徒歩3分 |
○泉佐野(いずみさの)/泉佐野市元町 | |
▲板張りが美しい町家群 | ▲2階建ての棟割り長屋が続く |
▲旧商家を思わせる町家と蔵 | ▲しょう油ラーメン(600円/偏骨ラーメン) |
●一歩なかに入ると迷路 このあたりを「さの町場」と呼んでいます。泉佐野市の北西部に広がる旧市街地です。また戦災にあわなかったため,古い住宅がそのまま残っています。同時に一歩裏道に入りますと,路地が入り組み迷路になっており,由緒ある寺院や商家を見ることができます。 江戸時代は海運が盛んで,食野(めしの)家,唐金(からかね)家などの豪商が現れ,泉州地域では一番の商業都市になりました。大正,昭和の時代には,タオル産業が日本一の規模を誇りました。 ●木綿の仲買人・農民VS堺問屋 木綿は江戸時代から和泉国の特産物で、仲買人を通して堺の問屋に出荷されていました。しかし、堺問屋は泉州一帯の木綿を独占的に購入することめざし、何度も在方の仲買人や農民たちとしばしば対立。とうとう江戸末期に、泉州四郡による木綿国訴が行われました。しかし堺問屋の独占意図は失敗しました。 ●町家は2階建の長屋形式 タオル産業も格安の中国産に押されており,町も衰退しつつあるようです。町家は木造2階建ての長屋形式が多く,庶民的な雰囲気の町並みです。住んでいる人も「昔から何も変わらないよ」といわれました。 地名の語源は、狭い原野を表す「狭野(さの)」が佐野になったと推定。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 南海線泉佐野駅から徒歩10分 |
○土丸(つちまる)/泉佐野市土丸 | |
▲旧向井家住宅/市の指定文化財・地元のボランティア団体が建物の保存を兼ねて地元の野菜などを直接販売していました | |
●南北朝時代内乱期において戦局を左右する拠点 室町時代は槌丸、鎚丸とも書きました。また土丸城という眺めの美しい山城がありました。土丸城ははじめ日根野氏によって築城されました。貞和3年(1347)、河内で兵を挙げた楠木正行に対して、北朝方の髙師直(こうの もろなお)は土丸城の防備を日根野盛治に命じています。文和2年(1353)に南朝方は槌丸城を攻め落とし、楠木正高が入場します。しかし永和4年(1378)にこんどは北朝方の山名氏清らの手に落ちます。このように南北朝時代内乱期において、戦局を左右する重要拠点でした。 ●女癖の悪かった高師直(?) ところで、高師直は足利尊氏の側近として使えた武将ですが、いろいろな噂が絶えませんでした。悪人のイメージがありますが、卓越した改革派でもあったとか。それよりも、女癖の悪さはピカイチで、最期は無残な殺され方をしたようです。 ●土蔵や長屋門が見られる 江戸時代は岸和田藩領。古民家は街道と樫井川との間に集中。土蔵や長屋門、板張の家や塀などが残されています。集落のはずれに旧向井家住宅あり。白壁に囲まれた向井家住宅は、地元農家の野菜などの直売を行っていました。売り上げの一部を保存、維持に活用しているそうです。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 南海線泉佐野駅からバスで土丸下車、徒歩10分 |
○大木(おおぎ)/泉佐野市大木 | |
●室町時代、4年間滞在した九条政基の評価が高い 大木集落は荘園・日根荘(ひねのしょう)のころ、隣の土丸集落と合わせて、九条政基(くじょうまさもと)が1501年から4年間滞在したと言われています。滞在した理由が、明応5年(1496)に執事の唐橋在数を職務怠慢の理由で手討ち。この一件で勅勘(ちよっかん)をこおむりました。つまり勘当されて日根荘にやってきたのです。同時に守護・細川氏の侵略が始まったこともありました。で、この4年間で書き綴った『政基公旅引付』が村落の構造、武家勢力の実態、人々の精神文化を生き生きと描き出し、名著と評価されています。 ●大阪初の重要文化的景観 現在の景観を構成するため池、水路、農地、寺社などは中世の日根荘に由来するもので、地元民が長い間暮らしの変化のなかでも景観を守ってこられました。 和歌山へ抜ける粉河街道、さらに貝塚市から犬鳴山への参道としての水間道が通っています。この2本の街道が交わる辺りに古民家が多く見られます。旧茅葺き屋根のある農家、入母屋造の本瓦葺きなどギッシリ。平成25年に大阪府初の重要文化的景観に選定されました。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 南海線泉佐野駅からバスで中大木下車、徒歩10分 |
○樫井(かしい)/泉佐野市南中樫井 | |
▲奥家住宅/国の重要文化財 | ▲長屋門のある旧家が目に付く |
●南北朝時代、北朝の拠点でした 『明月記』などに登場する歴史のある集落です。『明月記』では、後鳥羽上皇の熊野行幸の様子が記されています。古くは籾井(もみい)と記され、籾井城がありました。南北朝時代、北朝の拠点になったとか。もちろん今は往時の面影はありません。 ●大坂夏の陣、樫井合戦の地 元和元年(1615)、大坂夏の陣でも激戦の1つでもありました、樫井合戦の地でもあります。大坂方で、講談の主人公としても名高い塙団右衛門直之、かつてのキリシタン大名・小西行長に仕えたことのある淡輪六郎兵衛重政が討ち死にしています。熊野街道沿いに2人の墓が残っています。 ●「白漆喰」と「羽目板壁」 駅から延々と歩きました。真夏はつらいものがあります。しかし古民家群に踏み入れますと、そんな暑さも忘れてしまいました。漆喰と腰が羽目板になっており、いわゆる長屋門が連なっている感じです。一部改装されたりしていますが、落ち着いた家並みが続きます。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 南海線吉見ノ里駅から徒歩25分 |