岩手県

○紺屋町(こんやちょう)/盛岡市紺屋町 
 
   
▲岩手銀行赤レンガ館/重文   ▲中津川沿いの岩手銀行赤レンガ館
国の重要文化財が立つ
 とにかく都心にあるだけに交通量の多さを考えて、日曜日の朝7時ごろ撮影しました。写真のようにしっかりと撮れました。
 赤れんが造り(写真上)で、東京駅と同じ設計者・辰野金吾です。明治末期に建てられたそうで、ルネッサンス風の外観は、盛岡市のシンボルにもなっています。いまは岩手銀行の中ノ橋支店として実際に使われています。平成6年に国の重要文化財に指定されています。辰野金吾が設計した建物としては、東北地方に残る唯一の作品です。
 この近辺には、明治・大正時代に建築された建物がいくつか残っています。ぜひ歩いてみてください。
江戸から明治の建築
 岩手銀行からすぐのところに「ござ九」があります。江戸後期から明治時代に建てられた豪商の家屋がそのまま残っています。格子戸のある低い屋根、平入りの2階建て瓦葺きで出桁造りです。ならだかな屋根の野勾配はやさしさを感じます。裏手に流れる中津川から見た「ござ九」も趣があります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました 
○八幡町(はちまんちょう)/盛岡市八幡町 
 
 ●江戸時代~明治、大正、昭和と一大遊里を形成
 江戸時代は盛岡藩領。八幡町は八幡宮の門前町として発展しました。地元では「八幡さん」と親しまれています。八幡宮の社殿造営(延宝8年・1680年)にともない社前の水田を埋め立て参道が造られ八幡町が誕生。藩政時代から栄え、明治以降は花柳界としても繁栄しました。“幡街”(ばんがい)と呼ばれ、芸妓を幡街芸者と呼びました。当然、「聖と俗は隣合わせ」の法則のごとく、遊里としての性格も有しました。
「八幡町遊郭」として賑わいました
 「八幡町遊郭」として、隣接する松尾町も含め一大遊里を形成。「岩手県内の遊郭地」で八幡町は娼妓が59人とありますが、そんなわけはなく、別の資料では県内各地からやってくる女性たちは100人を下ることはなかったようです。地元客や参拝客でたいへんな賑わいぶりだったでしょう。『全国女性街ガイド』(昭和30年刊)によれば、東北の京都といわれるくらい風情があったとか。
カフェなど往時の面影がわずかに残ります
 いま歩いて見ますと、旧料亭や、貸し座敷、カフェなど木造モルタル造の建築が至るところに見られます。その大部分は改築、改装され一般住宅や集合住宅に変わっています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東北本線盛岡駅から徒歩30分
○大慈寺町(だいじじちょう)/盛岡市大慈寺町 
 
   
 ▲大慈寺/原敬の菩提寺でもある ▲祇陀寺/環境保護地区に指定 
「寺の下寺院群」を形成する緑ゆたかな町並みです
 黄檗宗・大慈寺を中心にした寺町です。東北地方でも黄檗宗という寺院は珍しいかと思います。このあたりは江戸時代から「寺の下寺院群」と言われていたようで、大慈寺のほか、幾つかの寺院が集まっています。また盛岡市の環境保護地区に指定されていることから、都心とは思えない緑の濃い、静かな町並みを形成。歩いているだけでホッとできます。昭和33年(1958)に大慈寺町と改名されました。
大慈寺は元首相・原敬の菩提寺
 大慈寺は寛文13年(1673)開創。元禄14年(1701)に現在地に堂塔を建立、明治17年の大火により焼失。しかし明治37年ごろ、元南部藩家老職で次男だった原敬(元・首相)の援助で本堂・庫裏・山門が新築されました。大正10年11月4日、原敬は東京駅構内で暴漢(19歳の国鉄職員)に襲われて暗殺されます。その遺体は盛岡に送られて11月14日に大慈寺に埋葬されました。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東北本線盛岡駅からバスで大慈寺口で下車すぐ 
○鉈屋町(なたやちょう)/盛岡市鉈屋町 
 
   
▲木津屋本店/寛永15年創業の老舗  ▲大慈清水/平成の名水100選 
 ●ごく普通の町家が並びます
 このあたりは藩政時代の南玄関口として活況を呈していたそうです。そのため商家が多く残っていたのですが、明治17年の大火で大半が焼けてしまったのです。だからといって立派な土蔵が残っているわけではありません。歩いていますと,2階建て平入で,出桁造りの町家が並んでいるのが目に付きます。最近では「オールド盛岡」として注目されています。
江戸時代末期、二つの鉈屋町が存在
  町名の由来は、京都の富豪・鉈屋長清が、当地にやってきて鉈屋山菩提院という寺を建立したことによるそうです。ところが菩提院が、のちに内加賀野に移されたことから、内加賀野も「鉈屋町」と読んだという。結局2つの鉈屋町が存在したことになります。しかし文化9年(1812)に藩は、改めて当地を鉈屋町として、城下二十三町の一つとしました。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○北山(きたやま)/盛岡市北山 
 
「日本の道100選」
 広い通りに面していくつかの寺院が建ち並んでいます。寺町通りです。歩道と車道のあいだに生け垣があってとてもきれいな街並みです。「歩いて楽しむ町」の名にふさわしいところです。「日本の道100選」の一つなのもうなずけます。この日は早朝だったので、参拝客が少しいた程度で、静かな町でした。
南部氏が慶長年間に名付けたのか?
 古くは盛岡城下・北方の標高150~200mほどの山々と、その山麓一帯にあたるところの名前を指します。南部氏が盛岡に築城した慶長年間(1596-1615)に命名したのではないかと推定されますが、定かではありません。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは寺院の駐車場に停めました
○渋民(しぶたみ)/盛岡市渋民 
 
奥州街道の宿場町で石川啄木のふるさと
 戦国時代、戦国武将・渋民氏の本拠地で、江戸時代は盛岡藩領。奥州街道の宿場町として発展しました。とはいうものの、近代になって地方の一寒村が“全国銘柄”になるのは、ひとえに歌人・詩人・石川啄木のふる里だからです。ふるさとを詠った詩も多く残されています。
石川啄木記念館と育った宝徳寺は隣接しています
 明治19年日戸村(ひのとむら/現在の盛岡市日戸)常光寺に生まれました。住職である父の宝徳寺(渋谷村)への移転によって、翌年から同寺で育ち、のちに渋谷小学校で代用教員として勤めるのです。いま石川啄木記念館や常光寺は隣接しており、多くの人がやってきます。古民家は奥州街道沿いに点在しますが、こちらのほうには観光客はやってきません。なお啄木は、明治45年(1912)3月7日、東京都小石川区久堅町にて肺結核で死去。26歳という若さでした。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは石川啄木記念館前の駐車場に停めました 
○軽米(かるまい)/軽米町軽米 
 
   
▲旧軽米町役場・現図書館/昭和25年築   ▲旧役場の耐火金庫・現書庫  
木造2階建ての看板建築が並びます
 戦国時代は武将・軽米氏の本拠地でした。江戸時代当初は盛岡藩で後に八戸藩領となります。軽米通に属し、行政、経済の中心地でもあります。内陸の福岡町と沿岸の久慈とを結ぶ街道の宿場町としての機能を持っていました。また気候の関係で稲作には向かず、畑作が中心でした。特に漆の生産、さらに馬の生産が盛んになりました。しかし飢饉、飢餓のために一揆が多発したのも事実です。
木造の旧軽米役場は元気です
 いま町のほとんどが木造モルタルの看板建築が多く、出桁造の建物も改築されています。ただ、旧役場がそのまま保存され、図書館として活用されている姿にホッとしました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは軽米町物産交流館の駐車場に停めました 
○二戸(にのへ)/二戸市福岡 
 
 ●南部氏が九戸城を福岡城に改名!
 正直いって平凡な地方都市でした。しかし歴史的には約6万人の豊臣軍に対してわずか5千の兵力で戦ったのがこの九戸城跡あたりです。天正19年(1591)12月、戦国大名で南部藩26代当主・南部信直が三戸城からココ九戸城に居城を移し、九戸城を福岡城と名を改めました。なぜ福岡なのか、天正19年以前は宮野と呼ばれていました。そこで「幸の住む岡」と言う意味で福岡に改名したそうです。
小規模な「こみせ」が見られます
 ここは奥州街道の宿場町。かつて物資の集散地で、商家、旅館などが往時のまま残されています。歩くと約10軒程度の歴史的な建物が見られます。小さな街並みですが、商家の店先はひさしの突き出た小規模な「こみせ」が見られます。なおこみせは青森県黒石市が立派です。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○浄法寺(じょうほうじ)/二戸市浄法寺町浄法寺 
 
漆細工を扱う商人たちが活躍
 戦国武将・浄法寺氏の本拠地です。もともと浄法寺氏の本名は畠山氏で、畠山重忠の末子が鎌倉・浄法寺にて出家したのち、奥州に下り当地に住み着いたのが始まりだとか。戦国時代は、屈指の大豪族となりました。江戸時代は盛岡藩領で福岡通に属します。ところで、この辺り一帯は漆の一大生産地で、盛岡藩も漆奉行を置き、生産に力を入れました。南部漆の源流とされています。その漆細工が浄法寺街道を経て全国に流通したのです。
●瀬戸内寂聴氏の天台寺で一躍有名になりました
 それにしても浄法寺町を一躍“全国銘柄”に押し上げたのが、一時期荒廃し、スキャンダルにまみれた天台寺を再興した瀬戸内寂聴氏です。青空法話では山中の付近一帯にスピーカーを設置し、数千人の善男善女が聞き入ったそうです。いま歩いて見ますと、山々はとても静かです。また街道沿いに漆細工を扱う店を見ることができます。さらに旅館、旧料亭らしき建物も並び、往時の面影を感じさせます。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは二戸市役所浄法寺総合支所の駐車場に停めました
 ○本町(ほんちょう)/一戸町一戸本町
 
奥州街道沿いの宿場町
 本町は一戸町の中心地の一つです。江戸時代は奥州街道の宿場町でした。南部藩の代官所が置かれ、宿場の業務や運営を統括する検断所も置かれていました。ここでの検断は、年貢の割り当てや産業の奨励、風紀の取り締まりをしていました。毎月一の付く日に市が立ち、山菜、塩肴、粟、大豆などの雑穀や日用必需品などの売買が盛んに行われていました。
雪国らしい古民家が連なります
 いま歩いて見ますと、トタン葺きの大型民家や商家、窓は二重になっており、雪国にふさわしい古民家が連なっています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは松井内科医院第3駐車場に停めました
 
 ○北舘(きただて)/一戸町本町北舘
 
   
▲萬代舘/明治42年人形芝居小屋として創業。昭和31年改築、平成20年改修たレトロ感満載の建築です   ▲今はきちんと手入れをされた住宅です。2階部分を見ますと、往時の面影を見ることができます 
萬代舘で山口百恵主演の『伊豆の踊子』上演
 一戸駅方面から行くと、馬淵川を渡りますと旧宿場町が色濃く残る本町に出てきます。突き当たりに旧映画館・萬代舘というレトロな建物があります。この日は山口百恵主演の『伊豆の踊子』(1974年公開)を上映していました。ポスターが懐かしい…。
●『北舘遊郭』の往時の面影を探しました
 で、この萬代館を見て左手に曲がると旧宿場町、右手に曲がると“北舘遊郭”になります。遊郭といっても小規模なもので、一説には貸し座敷が4軒、娼妓は10人足らずというが、季節変動を含めて実際はもう少し多かったようです。いま歩いて見ますと、廃業したスナック、旅館らしき建物が残されています。人通りも少なく、やや寂しげな町並みでした。 ちなみに昭和初期の妓楼は、三榊楼、三芳楼、三階楼、みどり楼の4軒。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは松井内科医院第3駐車場に停めました
○小鳥谷(こずや)/一戸町小鳥谷朴舘 
 
   
▲旧朴舘(ほおのきだて)家住宅/国の重要文化財・南部藩での典型的な豪農の住宅・江戸時代末期の建築です 
凶作、飢餓が繰り返し、一揆が多発
 戦国武将・小鳥谷氏の本拠地。一戸城外側の防御線の一つでもありました。江戸時代は盛岡藩領で福岡通に属します。村高は350石前後と決して豊かではなく、凶作と飢餓が繰り返し、さらに藩の重税に苦しむ農民たちの一揆が多発しました。藩は新田開発に力を入れようとしますが、重税が追い打ちをかけ、農業生産は停滞気味でした。
南部藩・豪農の家屋が国の重要文化財に指定
 さて古民家は、土蔵が今も残ります。またトタン葺きの(旧茅葺き)家屋も点在しています。歩いていても人と出会うこともなく、典型的な農村風景が広がります。国の重要文化財指定でもある朴舘家は、地域の人とその生業や信仰、年中行事をともにし中心的な役割を担ってきました。いま倒壊を防ぐための突っ張り棒が痛々しい。
 
 感動度★
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交通 クルマは旧朴舘住宅前の空き地
 ○江刈内(えかりない)/岩手町江刈内
 
奥州街道の宿場町でした
 江戸時代は盛岡藩領で沼宮内通(ぬまくないとおり)に属していました。通制(とおりせい)は盛岡藩や八戸藩の独特の行政区分にあたります。ちなみに沼宮内通には38か村が属しています。さて盛岡城ができると福岡城(二戸市)とのあいだに宿駅ができました。いわゆる奥州街道の宿場町です。また八戸藩との物流を監視する番所も作られました。盛岡城下からは1日の行程にあることから、多くの人たちで賑わいました。
土蔵や旧料亭を思わせる古民家も見られます
 物産には米や大麦、小麦、大豆、小豆、粟、稗、蕎麦、麻糸など多種ありますが、鶏、鶏卵のほかに馬もあります。馬の産地だったようです。いま旧街道を歩いてみますと、古民家がわずかに見られます。料亭を思わせる建物や土蔵も残っています。
 
感動度★
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交通 クルマは岩手銀行沼宮内支店に停めました 
 ○日詰(ひづめ)/紫波町日詰
 
郡山(高水寺)城下の一町 
 江戸時代は盛岡藩領で日詰通りに属します。古くは樋爪、比爪、日爪などの表記も見られました。地名の由来はアイヌ語説もあるようです。郡山城下の一町で、郡山三町の一つ。寛文7年(1667)、郡山城破却後も、奥州街道の宿場町として発展し、郡山三町が各々10日交代で運営していました。日詰も10日分を分担します。なお郡山城は別名・高水寺(こうすいじ)城とも呼ばれていました。
商人による大規模な開発が行われます
 しかし発展も行き詰まると、街道筋の集落外に日詰新田と称し、大規模な開発を行いますが、その大部分は町人による開発でした。そこへ外部から先進的な技術を持って、酒、醤油、味噌の販売が行われ、さらに呉服、小間物、雑貨などの販売が商人によって行われ、発展していきます。
重要文化財の平井家住宅は町のシンボル
 そのなかに「伊勢屋」(平井家)も当地にやってきた商人で、現在の平井家住宅は国の重要文化財に指定。ガラス窓を多用した近代木造建築として、当地のシンボルでもあります。
 
感動度★
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交通 クルマは紫波運動公園の駐車場に停めました 
 ○円万寺(えんまんじ)/花巻市円万寺
 
観音山からの典型的な散居村が見られます
 戦国時代の武将・円満寺氏の本拠地で、郡主・稗貫氏の家臣でもありました。江戸時代は盛岡藩領。現在の円万寺は小高い丘・観音山の頂上にあって、周囲を見渡すことができます。そのため散居村が広がり、教科書通りの光景が見られます。屋敷林が点在し、その周囲に田畑が広がっています。円万寺の正式の地籍はギリギリで膝立(ひざたて)地区に属します。 
感動度★
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交通 クルマは円万寺の駐車場に停めました
 
 ○大迫(おおはさま)/花巻市大迫町大迫
 
   
▲早池峰と賢治の展示館/旧稗貫郡役所(明治35年当時)を復元。館内には宮沢賢治が常宿していた石川旅館の一室を再現しています 
採光十分の広いガラス窓の2階家が点在します
 戦国武将・大迫氏の本拠地。大迫氏の支配地域は「大迫七ヶ村」とされ、かなりの広範囲であったと推定されます。江戸時代は盛岡藩領。初期のころから町場として形成され、上町・中町・下町の3村に分けられ“大迫三町”と呼ばれました。また代官所が置かれ、代官2人が常駐していたそうです。
宿場町にもかかわらず商人や一般人は民泊
 街道は盛岡城下から遠野-大槌へ向かう遠野街道の途中にある宿場町です。しかしながら旅籠は存在せず、本宿が3~4軒、巡番宿が約20軒を指定。本宿には家老や上級武士、巡番宿には同心や社家が宿泊しました。では、商人や一般人はというと、民家や商家に宿泊したという。
美しい郡役所の復元建築
 いま、旧道沿いを歩いて見ますと、雪国特有のトタン葺きの2階家が続き、大きなガラス窓で採光を十分にとれるようにしています。また旧稗貫郡役所は明治35年当時の建築をそのまま復元されています。
 
感動度★
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交通 クルマは大迫交流活性化センターに停めました 
 ○田瀬(たせ)/花巻市東和町田瀬
 
   
▲伊藤家住宅/国の重要文化財で 「内馬屋直家形式」の貴重な農家 
南部藩と仙台藩とに隣接
 地元の古老のなかには地名を「たんせ」と呼ぶようです。江戸時代は盛岡藩領。西側と南側は仙台藩と接しており、古民家も仙台藩に多い直家形式と南部藩領に多い曲り屋形式の家屋が混じっている地域でもあります。隣接する仙台藩を警戒するために、警備のための田瀬館を置かれていました。寛永年間(1624-44)に国境論争が起こったとか。
大規模開発から逃れたため、山村の原風景が見られます
 歩いていますと田んぼよりも畑作が多く、牧草地率が高いようです。ここまでくると辺境の名にふさわしく、大規模開発から逃れたためか、山村の原風景を偲ぶことができます。民家もポツンポツンと点在し、ノンビリとした集落です。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは伊藤家住宅の駐車場に停めました
 ○谷内(たにない)/花巻市東和町谷内
 
   
 ▲旧小原家住宅/国の重要文化財 ▲水車小屋/農村風景の一部として復元  
マンサード屋根のある集落が点在
 なにやらすごい田舎にやってきた感じがしましたが、JR釜石線晴山駅や釜石道・東和インターからもそこそこの距離があります。山あいの地でありながら水田率は高く、畑作は少ないとか。実際に歩いてみますと、休耕田が多いですが、牧草地の多さに驚きます。マンサード屋根の倉庫が点在し、かつては牧草の保管庫でもあったのでしょうか。
水車小屋を復元や遊歩道の整備
 江戸時代は盛岡藩領。古くは種内、丹内とも書いたようです。村高は水田率が高いといっても、200石前後と典型的な山あいの村といえます。このあたりは、旧小原家住宅が唯一の“文化施設”だけに、水車小屋の復元や遊歩道の整備、 伝承工房館の活用など、谷内地区の活性化を図っているとのことです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは旧小原家住宅の駐車場に停めました
 
○遠野(とおの)/遠野市六日町 
 
   
▲仙臺屋店舗/国の登録文化財   ▲遠野城下町資料館
あまりの変わりように目がテン
 10年ぶり3回目の訪問です。1度目は宮古市で仕事を終えて、遠野でのんびりしようと、やってきたのです。自転車を借りてあちこちと走り回りました。この地はカッパ伝説が有名ですが、2回目は歴史的建造物を見て回わりました。そして今回、あまりの変わりように目がテンになりました。
武家屋敷や蔵造りの建物が見られます
 特に駅周辺の『蔵の道ひろば』というところです。きちんと整備されており、資料館や蔵造りの建物が建っていたりと、ちょっと“わざとらしさ”が目に付きますが、きれいになったせいか歩きやすくなりました。また市内には武家屋敷があったり、蔵造りの商家や、板塀の町家などが残っています。大工町には歩道が木をふんだんに使った木道があって、景観の維持に努めています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはJR遠野駅横の駐車場に停めました
 
○土淵(つちぶち)/遠野市土淵町土淵 
 
   
▲伝承園/遠野に伝わる生活、文化、伝説などを語り継ぐ施設   ▲常堅寺/山門の2体の仁王像は市の文化財に指定。カッパ寺の異名 
カッパ伝説のあるカッパ淵
 遠野を巡るとき必ず寄るところと言われています。のどかな田園風景が広がり、カッパ伝説のあるカッパ淵もあります。江戸時代は盛岡藩領。遠野南部氏の知行地でした。
遠野の原風景に近い!?
 また遠野通・大槌通の要として海岸部からの物資と遠野のからの米が運送され、運送業が盛んになりました。比較的裕福な地域でもありました。もちろん冷害などで飢饉に貧したこともあったようです。いま集落内を歩いて見ますと、大型建築の農家や土蔵が点在しており、遠野の原風景に近い感じがしました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは伝承園の駐車場に停めました 
 ○砂子沢(いさござわ)/遠野市綾織町みさ崎
 
 ●茅葺き屋根の曲り家は1軒のみでした
 農家の古民家が多く残る地域として知られていましたが、実際に行ってみると改築、改装されており往時の面影を見ることができませんでした。特に遠野の曲り屋が密集していると聞いてのですが、残念でした。かつて16軒の曲り家があり、一時は重要伝統的建造物群保存地区の選定を目指したとか。しかし選定にいたらなかったことから、一気に崩壊への道をたどったようです。いまは茅葺き屋根は一軒のみとか。もちろん曲り家は数軒残っていますが、いずれもトタンで葺かれていました。ここも遠野の原風景を思わせるところです。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました 
○宮守(みやもり)/遠野市宮守町下宮守 
 
南部藩に異教徒・キリシタン7人
 戦国時代、後に南部藩士となる宮守氏の本拠地。江戸時代は盛岡藩領。交通の要所で釜石街道、遠野街道が通り、さらに田瀬、江刺を経て水沢に至る田瀬街道も通っていました。村は上宮守と下宮守の二村に分かれていましたが、幕府には宮守村の一村として届けていたようです。南部藩に異教徒・キリシタン7人が趣旨改したとの記載があることから、何か関係があるのかも知れません。いま歩いて見ますと、旧道沿いに庇の深い出桁造りや白壁の蔵が見られます。

伝説、伝承など民話に事欠かない集落
 ところで宮守にはおもしろい伝説がたくさんあます。①鳥獣を主食とする山人の生活と農穀を主食とする里人の生活の衝突。②蛙を食べない家。③キュウリを作らない家。④農業をせぬ家、⑤尼が石になった話。⑥道者に道を教えた話など伝説、伝承に事欠かきません。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道の駅みやもりに停めました
 
 ○金ヶ崎(かねがさき)/金ヶ崎町西根
 
   
▲1400坪もある添田家住宅(左)  ▲伊藤家侍住宅/レストランを併用 
 ●北の武家屋敷群
 2度目の訪問です。かつて伊達藩の最北の所領でした。武家屋敷が点在し,小路は江戸時代のままだそうです。六軒小路、片平小路、達小路、南拾町、表門前小路、諏訪小路、矢来丁の七つの小路があります。大松沢家(写真上)は回遊型の庭園がありますが,見ることができませんでした。ほとんどが個人住宅ですので,しかたありません。重要伝統的建造物群保存地区です。
金ケ崎城の古名は川崎城!?
 川崎城は戦国期の永禄12年(1569)、和賀氏配下の小野寺前司宗道の築城と伝えられています。そのため和賀川崎城ともいいます。天正元年(1573)に南部勢の攻撃を受けましたが、葛西晴信の支援を受けて撃退。しかし南部勢の攻撃は休まず、小野寺氏は葛西領内に退却しました。
「カワサキ」→「カネガサキ」
 で、その川崎城の所在が不明なのです。文献では北上川西段丘上を川崎城とするようですが、定かではありません。ところでその川崎城は金ケ崎城の古名であるとする説があります。「カワサキ」が「カネガサキ」に転訛したというのです。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマはまちなみ交流館の駐車場に停めました
○前沢(まえさわ)/奥州市前沢七日町 
 
目立つ大幸邸
 「前沢牛」で知られた町です。でも駅近くに前沢牛の看板を下げたお店が意外に少なかった、というのが正直なところです。
 駅前通りから一本裏道に入ったところにあるのが、大幸邸(だいこうてい)です。岩手県の文化財に指定されています。庭園がすばらしいので、ぜひのぞいてください。町を歩いていると、蔵造りの商家や町家がところどころに見られますが、徐々に減っています。
キリシタン宗徒の粛清
 寛永3年(1626)、フランシスコ・イエズスがやってきました。その教えでキリシタンに入信した九兵衛(ペトロ)は奥州巡教ののち長崎で捕らえられ、寛永7年(1630)殉教しました。その後、寛永17年(1640)にキリシタン宗徒の大粛清が行われ、28人が断罪されました。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは駅近くの駐車場に停めました
○生母(せいぼ)/奥州市前沢生母 
 
   
 ▲旧後藤正治郎住宅/築300年の仙台藩前期の田の字型農家建築 ・屋根の崩落で、現在修復中。県指定文化財、内部見学は中止 
大正14年に路線バスが開通
 北上川左岸の段丘上に位置します。このユニークな地名は、明治時代赤生津村の「生」と母体村の「母」が合併して生まれました。明治22年の人口は2300余人だとか。江戸時代は仙台藩領で生母地区は大部分が山林原野で、木材の産出が多い。大正14年に前沢との路線バスの運行がはじまりました。
山間の小道沿いに古民家が点在
 いま集落内を歩いて見ますと、完全な農村地帯ですが田畑は狭く、山間の道沿いに古民家が点在しています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは旧後藤正治郎住宅の駐車場に停めました
 ○江刺(えさし)/奥州市江刺中町
 
   
▲土蔵のうまく利用して町造り   ▲土産物店や雑貨店も蔵造り  
蔵をイメージした町
 いつも思うことですが、予想以上に古い建物が残っているとうれしくなります。この江刺もそんな町でした。中心部に蔵町モールがあって、蔵をイメージした景観を維持しています。また中町通りにの土産物店や各種お店も蔵造りに似せているのです。一種の町おこしの役割を果たしているのです。黒壁ガラス館、黒船オルゴールいわや堂なども見どころです。
江刺城城主の溝口外記(げき)は学もなく素養もないアホ
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置き後、豊臣家臣の木村伊勢守吉清の領地となりました。木村伊勢守は、江刺城(岩谷堂城)に家臣の溝口外記(みぞぐちげき)を城主として統治させました。ところが外記は、新規に雇われた家臣。まったく学もなく素養も無いアホ。一国一城の統治能力ゼロ。おとなしくしていれば良かったものの、領民に重税を課し、悪政を行いました。暴政と呼ぶ歴史家もいます。遂に領民が蜂起し、数千人の群衆が江刺城に押し寄せ、外記を責め立ててあっという間に殺害しました。このとき外記に味方する家臣はいなかったといいます。一揆で領主が直接殺害されるのは珍しい。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
○人首(ひとかべ)/奥州市江刺米里 
 
「人首」の名にギョギョギョッ!
 県道8号線をクルマで走っていますと、「人首」という地名を発見したときはギョッとしました。地図を見ますと、バス停「人首新町」や「人首小学校」、「人首川」など、ギョギョっとするような地名が連続し、うれしくなってきました。しかし町を歩きますと、やや平凡な地方都市の風情が広がっています。でも「人首城跡」の案内板を発見したときは、それなりに歴史のある町であることを確証。
人首城は北の藩境の警備所
 江戸時代は仙台藩領。慶長11年(1606)、沼辺重仲氏が北の藩境の警備のため人首要害(人首城)に派遣されてきました。以後幕末まで支配。村高2000石弱、人口も3000人弱とかなり大きな村に発展しました。町場も形成され、宿場町の様相を示していました。盛街道が開削され、盛岡藩領遠野への街道もあって、交通の要衝でもあったのです。
町並みは雪国特有の町家が続きます
 いま歩いて見ますと、雪国に多いトタン葺きの2階家、板壁を中心にした町家が連なります。ところで地名の由来は、坂上田村麻呂が大成山(大森山)で大岳丸の手にある人首丸を討ったことにちなむとか。はじめは「人こうべ村」と称したという。
 
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交通 クルマは空き地に停めました
○大畑小路(おおばたけこうじ)/奥州市水沢大畑小路 
 
   
▲高野長英旧宅/養父蘭・高野玄斎に学を学ぶ。明治9年改築   ▲武家屋敷高橋家/和洋折衷の母屋がめづらしい。明治7年築 
   
▲旧内田家/現在は武家屋敷資料館も併設されている(吉小路)   ▲後藤新平旧宅/母屋は18世紀中頃の建築。県の文化財(吉小路)  
往時の面影を残す“小路”
 江戸時代は仙台藩領。留守(るす)氏(1万6000石)が江戸期を通じて治めました。まず城下町の整備を行い、袋町、大町などの6か町からなる町人町、さらに大手小路、新小路、日髙小路など24か町からなる家中小路、足軽町などの武家居住地とで構成しました。大畑小路をそのうちの一つで、吉祥寺前小路、東大畑小路とも呼ばれていたとか。
多くの歴史的建造物が「歴史回廊」で見られます
 実際に歩いて見て、大畑小路は長さ100m余の長さですが、2軒の歴史的建造物が見られ、往時の面影を感じさせてくれます。もうひとつ歴史的建造物を見せてくれるのが吉小路(きちこうじ)です。江戸時代は給主小路(きゅうしゅこうじ)と呼ばれており、上級家臣の武家屋敷が置かれていたところです。 
 
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交通 クルマは武家屋敷専用駐車場に停めました 
 ○大町(おおまち)/奥州市水沢大町
 
大町川にかかるめがね橋のたもとに旧商家の土蔵群
 大町川にかかる長光寺橋、通称めがね橋は昭和4年(1929)に完成した戦前の橋です。しかし江戸時代の絵図では奥州街道沿いの大町から長光寺へ抜ける小道が描かれていますので、すでに何かしら橋が架けられていたものと推定されます。この土蔵群のある大町川の西側は、江戸時代は町人町の置かれたところで、水沢の中心地でもあります。また御買米御蔵がありました。  
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交通 クルマは武家屋敷専用駐車場に停めました
 
○見分森(みわけもり)/奥州市水沢見分森 
 
見分森公園からみた胆沢平野の散居村
 見分森公園は海抜113mの小高い丘にあります。さらに高さ20m前後の鉄筋の展望台があり、そこからが散居村(散居集落)を一望できるのです。散居村とは農家と農家の間隔が長く、あいだに田畑が広がっている状態をいいます。1軒の家のまわりを屋敷林が囲み、風よけになっています。全国各地に散居村は数多くありますが、胆沢平野もその一つです。
夜景が「ふるさと名所50景」に選ばれています
 見分森とは、室町時代中期、三宅氏が治めていた森というのが地名の由来だそうです。なお展望台から眺める夜景が、ふるさと名所50景に選ばれています。
 
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交通 クルマは見分森公園駐車場に停めました
○世田米(せたまい)/住田町世田米 
 
   
▲旧菅野家住宅(国登録文化財)/現在は地区の公民館としても活用 
商品流通の中継地として発展しました
 江戸時代は仙台藩領。しかし南部藩と伊逹藩の境界争いが絶えず、“境界塚”なるものが山並みに延々と造られたそうです。世田米村は盛街道と高田街道が交差し、宿駅として発展を遂げました。とくに黒沢尻などの内陸部と大船渡などの沿岸部とを結ぶ商品流通の中継駅としての性格を強めていきました。
蔵造りの町家が軒を並べています
 世田米村の幾つかの川筋では一時砂金が大量に採れたこともありました。また毎月3の付く日に市が立ち、大変な賑わいぶりを示していました。そのため、各種問屋や商家など豪商が誕生。いま歩いて見ますと、蔵造りの町家が軒を並べています。改築、改造されていますが、往時の面影を感じ取ることができます。
 
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交通 クルマは世田米駅駐車場に停めました 
○上有住(かみありす)/住田町上有住 
 
室町期は南部方と葛西方の争いの最前線
 室町期は上有住郷と呼ばれ、数多くの山城が存在しました。やはり南部方と葛西方との争いの最前線であったことからでしょう。江戸時代は仙台藩領。伊達政宗は家康の命を受けて、一気に平定したとか。その後南部藩との藩界番所(二度成木・ふたなぎ)を設置しました。
小規模ながら古い町並みが存在します
 街道が通ると上有住宿は宿場町の性格が強まりますが、地勢の影響を受け、街道筋に多くの河川が分断していました。その数は上有住から大船渡まで17カ所の川渡りが存在しました。たいへんな思いをしながら物資を運んだとか。いま旧道沿いに土蔵や雪国らしい庇の深い出桁造りが見られます。世田米よりは小規模ですが、古い町並みが存在します。 
 
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交通 クルマは道端に停めました
 ○大町(おおまち)/一関市大町
 
蔵造りをリフォームしたオシャレな商店
 一関市の中心市街地で、とてもにぎやかなところです。江戸時代は、二関村の一部でもあり、一関城下の町人町の一部でもありました。江戸時代初期の慶長年間(1596-1615)、留守氏ころに町場が成立していたそうです。ここは商人町で西端、東端はそれぞれ武家地に接していました。また奥州街道沿いに開けた町で、商いも盛んでした。
明治の鉄道開通で一気に発展します
 明治23年になると鉄道が開通し、町の南端の農地に駅ができました。駅から町へ道路を開削し、いまの駅前大通りとなり、駅前商店街として発展していきます。歩いて見ますと、こぎれいなショップが続きます。意外にも蔵をリフォームしたオシャレな感じを受けます。 
 
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交通 JR東北本線一ノ関駅から徒歩6分
 ○田村(たむら)/一関市田村町
 
   
▲一関教会/国の登録文化財 ▲酒の民俗文化資料館/市文化  
   
▲旧沼田家武家住宅/一関藩家老で江戸時代後期の茅葺きの住宅 
横暴な豊臣家臣の木村吉清父子
 奥州藤原氏の滅亡後、葛西氏が治めますが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったために領地を没収、400年続いた名家も滅亡しました。しかし豊臣大名の木村吉清父子が新しい領主となりますが、木村氏の横暴に、旧葛西家家臣らと激しい攻防が繰り広げられます。それを治めたのが、仙台藩の伊達政宗でした。
田村家・江戸屋敷は赤穂事件ゆかりの地
 その後紆余曲折があって、名取郡岩沼から所替えを命じられた田村建顕が一関に入いり、一関藩が成立します。田村家は幕府の直参ではありますが、仙台藩でも伊逹一門に加わっています。ちなみに、田村家・江戸屋敷で、赤穂事件の発端となった浅野内匠頭が切腹したことで知られています。ところで地名の由来は田村氏が住んでいたからという説がありますが、定かではありません。

「歴史の小道」に武家屋敷、教会、酒蔵が連なる
 「歴史の小道」と称して、酒蔵や武家屋敷が連なっています。平日の夕方ごろ訪れました。江戸時代の武家屋敷は、大部分が茅葺きですが、旧沼田家も同じです。また資料館は酒蔵を改造したものですが、あまりの大きさに驚きます。聞けば東北一ではないかとか。 
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交通 JR東北本線一ノ関駅から徒歩10分
 
○銅谷町(どうやちょう)/一関市銅谷町 
 
旧秋田街道沿いの静かな集落
 秋田街道といえば盛岡藩にとっても秋田・佐竹藩とをつなぐ重要な街道でありました。しかしそれだけではなく、ココ一関にも地元の人が呼ぶ旧秋田街道があります。起点が銅谷町で、秋田県湯沢市院内までつなぐ道路です。ただ一般的には院内線と呼んでいるようです。そのためか途中で街道の呼び名が幾つか変わります。
「銅谷歴史の小道」に残るわずかな古民家
 地名の由来を考えますと、歴史は古く、烔屋(とうや/古代製鉄所の作業場)があったとか鍛冶職人が住んでいたからという説があります。古民家は、市役所近くの狭い街道沿いに、わずかに見られます。『銅谷歴史の小道・旧秋田街道(院内線)』の看板が通りの壁に張り付けてありました。
 
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交通 JR東北本線一ノ関駅から徒歩30分
 ○薄衣(うすぎぬ)/一関市川崎町薄衣
 
気仙沼街道沿いに残る古民家
 江戸時代は仙台藩領。こんな山奥の集落でも、村高は2000石前後とかなりの穫れ高を示しています。新田開発などの開発が進みますが、何より北上川を主力とする船運の発展が大きな原動力になっています。河川港のある集落でもあるのです。しかしながら砂鉄川、千厩川などが北上川に流れ込み、洪水が絶えませんでした。藩は築堤、堰の開削など積極的に行います。
交通の整備で一段と発展、「東山の横浜」と呼ぶ人も
 一方、気仙沼など海側へ通じる街道は、まだまだ未開拓で、気仙沼街道が本格的に開削されたのは明治に入ってから。さらに2頭立ての馬車、また石油発動機船が導入され、交通は一段と発展。このころ「東山の横浜」などと言う人もいたとか。しかし鉄道が通ると船運も衰退していきました。いま国道284号線は、市街地を避け近代的な北上大橋を利用して北上川を渡ります。だからこそ旧道沿いに古民家が残されているのでしょう。

地名の由来はうすぎぬ(紗)の生産地だったから?
 ところで地名の由来は、その昔、平泉の藤原氏が京の都にも負けないほどに栄華を誇っていました。そしてこの地が繁栄の波に乗って、きらびやかな紗(うすぎぬ)の生産地として栄えていたので、名付けられたとか。またアイヌ語説などもあるようですが、よくわかっていません。 
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交通 クルマは川崎図書館の駐車場に停めました
 
 ○松川(まつかわ)/一関市東山町松川
 
海岸地区と内陸を結ぶ街道の要地
 江戸時代は仙台藩領。村高も1500石前後。三陸海岸の陸前高田と一関城下や北上川の幾つかの河川港と結ぶ今泉街道(気仙街道とも呼ばれていた)の宿駅でした。つまり海岸と内陸を結ぶ要地で、通行人の検問、物資の検査を行う関所が置かれていたのです。多くの物資の集散地でもあることから、商家、砂鉄川を利用する廻船問屋など活動し、たいへんな賑わいを見せていたのです。
●街道沿いに重厚な土蔵群が散在しています
 実際に町を歩いて見ると、重厚な土蔵がいたるところに見られ、なかには豪商の象徴でもある黒漆喰の店蔵も残されています。
地名の由来に二つの伝説
 古来、川口村と呼ばれていましたが、いつのころか数十本の松が、御岳・愛宕両神社の地内に降り、一夜のうちに生い立ったので松川の名に改めたといいます。もう一つ、また鱒淵の観音さま(宮城県)に参拝に行った坂上田村麻呂の帰りを待っていた村人の居たところが、川のほとりなので「待つ川」と呼ぶようになったという伝説。 
 
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交通 クルマは空き地に停めました
○猿沢(さるさわ)/一関市大東町猿沢 
 
気候変動による農作物の凶作に藩の救済策
 江戸時代は仙台藩領。三陸の海産物と内陸の農産物が行き交う交易の町で、小さな宿場町を形成していました。ただ気候変動による農産物の凶作は絶えず起こり、餓死者も多数出ていました。藩も年貢米の免除、米穀の貸与など数々の救済策をとったことはいうまでもありません。
旧道沿いに蔵造りの町家が連なっています
 いま歩いて見ますと、旧道沿いに蔵住宅が点々とつながっています。またきれいに改装、改築されています。漆喰以外の土蔵がとても珍しい。地名は平泉藤原時代に、奈良の猿沢の池を模した大池を造ったことによるとか。 
 
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交通 クルマは猿沢市民センターの駐車場に停めました
 ○大原(おおはら)/一関市大東町大原
 
蔵造りの商家が続きます
 平泉中尊寺と陸前高田今泉を結ぶ今泉街道の中間点にあたります。この街道沿いには、蔵造りの商家が残っていますが、この大原にはけっこうまとまっていました。しかも現役で,いまでも使われています。
大原氏は秀吉の「奥州仕置き」で敗北
 権勢を誇った大原氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きでは、飛騨守が葛西勢1700騎の大将として仕置きの軍勢と迎撃して敗北。翌天正19年(1591)には桃生郡深谷の合戦(葛西一揆)で、大原重光が自害し、大原家は滅亡しました。大原千葉氏の居城は大原城といい、旧大東町役場の裏山一帯が城跡となっています。
奇祭「大原水かけ祭り」は氷点下で走り抜ける
 大原に300年以上も前から行われている奇祭・大原水かけ祭りが、毎年2月11日に行われています。明暦3年(1657)の明暦の大火で、この日を厄日と定めて、大原でもはじまった火防祈願の祭りです。氷点下のなかを水をあびながら男たちが走り抜けます。
 
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交通 クルマは大原郵便局に停めました
 ○摺沢(すりさわ)/一関市大東町摺沢
 
蔵が消えると平凡な街並みに
 今泉街道と千厩(せんまや)街道が交わるところで発展した町です。蔵造りの商家が残っていますが、年々減っていきます。残念ですが仕方ないのでしょうか。蔵がなくなると、実に平凡な街並みになってしまうのがよくわかります。
 ただ古い建物ですが,道路側に面した部分は改装されています。ちょっと見ただけではわかりませんが,平入り,妻入りなどいろいろです。
国鉄摺沢駅開設で、貨客の集散地として発展
 大正14年(1925)、国鉄大船渡線が開通し、摺沢駅が誕生した。交通の便が格段に向上し、貨客の集散地としての機能を果たし、大原・沖田の玄関口としての役目も果たすようになったのです。また、摺沢駅からの路線バスの運行も拡大され、特に気仙郡高田町へのバスの延長運転は喜ばれたそうです。
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 交通 クルマは道ばたに停めました 

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