糸魚川市(いといがわし)

○筒石(つついし)/糸魚川市大字筒石 
 
   
▲外にも洗い場があります  ▲筒石の商店街です
●超過密の漁師町が観光地に
 すぐそこまで山が迫るわずかな土地に密集する漁村です。すなわち北国街道の街村。木造平入の2階建て,3階建てがギッシリ詰まっています。また玄関脇に流しがあって,外から使うようになっています。ただ近年、海側への埋め立ても進み、漁港も整備されてきました。埋め立て地には大きな公園もでき、独特の集落の光景を訪れる観光客もやってくるそうです。
戦国時代まぼろしの筒石城
  こんな断崖絶壁の地に中世の筒石城がありました。背後の城が峰に建つ、いわゆる北陸道、海上交通の“連絡城”の役割を果たし、のろし台も兼ねていました。いまは徳合城の枝城と推定されています。磯部小学校の奥に登山口があります。しかしながらほとんどの地図には明記されていないと思います。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは国道8号線沿いに停めました
○小泊(こどまり)/糸魚川市能生小泊 
 
●かつてタラの豊漁で町を支える
 江戸時代は高田藩領、幕府領、糸魚川藩領などが交代で治めています。平地が少なく漁業の町として発展しました。特にタラが大量に穫れ、他の漁村との争いが絶えませんでした。ところで泊は港の意味を持ち,能生(のう)の外港の役割を果たしています。隣の名立地区にも小泊があって,区別する意味から能生小泊としたのことです。
漁師町特有の迷路
 集落は1区から6区に分かれ,国道8号線と県道の間の傾斜地に密集しています。漁師町特有の細い路地の迷路から形成しており,歩いているとエアコンの外機はすべて頭上高くに設置していることに気がつきます。道が狭いため、通行の邪魔にならないようにするためです。

 板壁はほとんど下見板貼りで,細い棒で押さえる押縁下見です。海の香りのするなつかしさを覚える漁師町です。 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
○能生(のう)/糸魚川市能生 
 
   
 ▲白山神社本殿/国の重要文化財  ▲歴史民俗資料館/中門造りの農家 
室町時代から軍事上の要所
 江戸時代は高田藩領,幕府領,糸魚川藩領とめまぐるしく変わりましたが,この地の重要性は変わりません。北陸道の宿場町で,能生川の出口にあたり,川沿いの農産物の集積地でもありました。さらに室町時代から軍事上の要地でもあります。
沿岸漁業の発展で栄える
 集落の発展したもう一つの理由は,沿岸漁業の発展でした。正徳2年(1712)に,地引き網業も始まり,回船問屋も生まれました。さらに5・10の付く日に六斎市が開かれるなど、近郊近在から多くの人々を集めたのです

 いま旧街道を歩いていますと,土蔵や格子のある商家などが見られ,往時の繁栄ぶりを感じ取れます。 
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 交通 クルマは市営宮の上駐車場に停めました
○新町(あらまち)/糸魚川市新町 
 
   
▲大蓮寺本堂にある望楼型の鐘楼  ▲板壁の雪国らしい意匠の古建築 
2階家が続く昭和の町
 古くは荒町とも書きました。江戸時代は新町村。水害,大火,疫病と相次ぎ,一時は悲運の町とも言われたとか。住民たちは、次第に難を逃れるために、早川の川原の現在地に移り住んだと言われています。そこで新たな町、新町が誕生し、それが地名のいわれだそうです。明治の製糸業も長く続きませんでしたが,製材業や建築請負業が盛んになりました。全国から商人が集まってきました。そしてそんな労働者を相手に旅館、料理屋、ついに芝居小屋、さらに遊郭も誕生しました。
美しいデザインの町家に飽きません
 いま町を歩いてみますと、商家はもちろん、旅館、料理屋、妓楼などの面影を見ることができます。2階家のガラス窓や切妻型の壁のデザインが美しく、歩いていても飽きることがありません。大蓮寺本堂の望楼型の鐘楼には驚きました。 
 
 感動度★
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 交通 クルマは道端に停めました
○本町(ほんちょう)/糸魚川市本町 
 
雁木と古民家の町
 横町から大町にかけて東西を直線的に旧加賀街道が通っています。そのなかで本町商店街の雁木が,昔ながらの姿で保存。そこで町並み景観の修復を約20年前から行われました。和風アーケードに切石の石畳みが敷かれ,木の暖かみを表した雁木を生かした商店街。さらに絵馬型の看板や口上書,石像八福神などのアイデアも加えたのです。本町は市の中心地で,金融機関や各種商店,北側には料亭なども集まっています。古民家も数多く残されています。平成18年に金沢大学都市・地域計画研究室の提言を元に“昔と今”の融合した町づくりの結果といえます。
2016年12月の大火で町が焼失
 2016年12月22日10時20分ごろ、中華料理店から火災が発生。折からの強風で雁木のある商店街や木造住宅密集地があっという間に焼け落ちました。翌日の夕方、約30時間も続きました。割烹「鶴来屋」や写真に写っている三角屋根の加賀の井酒造も焼け、近く銀行も休業となりました。現在、往時の景観を生かそうとされているようですが、「耐火性」との折り合いが難しいようです。 
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 交通 クルマは糸魚川信用組合本町支店に停めました
○山寺(やまでら)/糸魚川市山寺 
 
   
▲屋根をトタンで葺かれた古民家 ▲金蔵院/文化財もある古刹 
地名は12ヵ寺が由来、しかし千手院と金蔵寺は犬猿の仲!
 金蔵院,千手院ら12ヵ寺「山寺12坊」から山寺と名付けられたようです。江戸時代,大火で消滅後,明治から復興,特に千手院と金蔵院は仲が悪かったようで,なにかにつけて争ったと記録されています。たとえば、元禄15年(1702)千手院の檀家衆が一斉に離れ、金蔵院に鞍替えするという騒動が起こりました。ところが、その後宝永3年(1706)、千手院の弟子が金蔵寺の留守居役になり、その後住職に昇進。さらにその住職はなんと千手院にもどり住職になったそうです。これで抗争が解決されたようです。…ところが明和2年(1765)金蔵院が焼失。その後高野山を巻き込んでいよいよ佳境に入ります……。
地名のわりに寺院がポツンと1軒
 おててこ会館にクルマを停めて、ガラ~ンとした道を歩きます。歩いていますと,トタン葺きの古民家が少し見られます。
 金蔵院の朱色の屋根も遠くから見えてきます。山寺という地名のわりに、寺院が少ないのは明治政府の政策の影響かと思われます。なにもない道を歩いてそのまま帰りました。
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交通 クルマはおててこ会館駐車場に停めました
○別所(べっしょ)/糸魚川市別所 
 
   
▲塩の道資料館/706点が国文化財(山口)  ▲旧茅葺き屋根の大型古民家 
●「塩の道」沿いの集落
 中世は善光寺参りで賑わいました。江戸時代の運搬記録によると,糸魚川から信州へ塩や海産物を送る量が圧倒的に多かったとか。信州古道のことですが、いまでは「塩の道」と呼ばれています。こぢんまりとした茅葺き屋根の塩の道資料館は、古民家を移築した建物で、屋根裏まで見学できます。生活資料など約2100点を保存、展示されています、うち700余点が国の文化財指定です。なおこの近辺は近年、クマの出没地域です。事前に状況を確認してください。
三村合わせて「金剛童子村」といったとか
 江戸時代は、近くの山寺、山口の3村を合わせて「金剛童子村」といったようです。寺院や神社などが多く、御利益のある村々とでもいいたかったのでしょうか。いまカヤ葺き屋根もトタンに替わり,わずかに古民家が残る程度です。ただしこのあたりの塩の道の保存状態は良好で、いまでも歩きやすいとか。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
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