石川県(いしかわけん)

○長町(ながまち)/金沢市長町 
 
   
ここ数年、武家屋敷周辺の町並み整備が一段と進みました 
   
▲長土塀の続くL字型の通りで、ドラマやCMのロケ地に使用されるとか   ▲金沢職人大学校・長町研修塾/武家屋敷の特徴を生かして改修された 
●土塀の続く武家屋敷
 おなじみの長町の武家屋敷街です。ここは仕事を含めて何度も訪ねました。まったく変わらないところです。むしろ周辺に飲食店ビルが林立している様子に驚きます。ここは金沢市唯一(?)の観光地といってもいいので、たくさんの人が歩いています。加賀藩の中級以上の武士が住んでいたところ。土塀が続き、立派な門のある武家屋敷がそのまま残っています。
長町の地名の由来はさまざま
 江戸時代はもちろん加賀藩領で、金沢城下の一つです。加賀藩重臣「八家」の一つ、長氏(3万3000石)の屋敷があったからとか、山崎長門の宅地があったとか、町の道があまりにも長かったからとか、地名の由来はさまざまです。
土塀の薦掛けは冬の風物詩
 ところで夏は観光客が殺到しますが、冬の風景もすばらしい。冬になると雪から土塀を守るために,薦(こも)を掛けられます。金沢の冬の風物詩でもあります。 薦というのはワラのことです。毎年12月初旬に、職人さんたち40人が、ワラで作った幅3.5m×高さ95cmの薦を土塀の腕木に吊し、合計500枚を1100mの土塀に取り付けます。 
感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★
 交通 1日フリー乗車券で香林坊・日銀前下車徒歩10分
 
○里見(さとみ)/金沢市里見町 
 
   
▲人通りも少なく、板塀や腰下見板張、板塀からの雪釣吊りがのぞきます
竪町通りの裏手の閑静な住宅地
 金沢の流行の中心地ともいわれ、若者たちで賑わう竪町(たてまち)の一歩裏手に入った古い町並みです。板塀や美しい植栽で囲まれた家々が連なります。土蔵や切妻型の町家も見られます。
藩士・里見氏の名前から名付けられたとか
 金沢城下の一町です。金沢藩士・里見氏(6000石)の分家(300石)が住んでいたことから名付けられとか。元禄6年(1693)の侍帳に、竪町後丁、里見七左衛門町とあります。しかし、これは俗称で正式には、竪町茜屋(あかねや)小路という。茜屋という染め師が茜染めの織物を橋の下でさらしていたからとか。しこれも定かではありません。ただ染め師よりも武家の名前の方が地名としてふさわしいからかもしれません。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 1日フリー乗車券で片町下車徒歩10分
 
○水溜(みずため)/金沢市水溜町 
 
   
▲車1台がやっと通れる道幅の両側に古民家が残ります 
元禄年間、犀川の河原を埋め立てて町づくり
 江戸時代、金沢城下の1町。犀川(さいかわ)大橋と桜橋間の右岸近くに位置します。江戸時代初期はこのあたりは河原でしたが、次第に埋め立てられ町場化していきました。それでも元禄年間(1688-1704)には長さ60m余の堀があり、水溜と呼ばれ、防火に役立っていたようです。その後人口が増えるにつれ、堀も埋め立てられ宅地となり、地名はそのまま水溜町と呼ばれました。
金沢藩の家臣“平士”の住まいでした
 藩政期、金沢城を囲むように配置された藩主直臣の“平士”が埋め立て地に居住することになります。歩きますと、土塀や土蔵、板壁のある古民家を見ることができます。武家地でもありますが、旧料亭や旅館なども残っています。  
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 1日フリー乗車券で片町下車徒歩15分
○小立野(こだつの)/金沢市石引 
 
   
▲明治32年築・金沢くらしの博物館  ▲石川県立美術館広坂別館 
   
▲瑞雲寺/美しい幾何学模様の壁  ▲石川県立歴史博物館(重文) 
前田家ゆかりの神社・仏閣が集中
 金沢はかつて「尾山」・「御山」(おやま)などと呼ばれていました。金沢城の置かれていた台地の先端が山の尾のように突き出ていたからだとか。その台地の部分が小立野と呼ばれており,前田家ゆかりの神社・仏閣が集中し,起伏の富んだ地形とともに寺町を形成しています。
坂道と共に立つ寺院群
 小立野は坂の多い町で,馬坂,嫁坂,大乗寺坂など数多くあり,一般住宅と寺院とが相まって美しい街並みを形成しています。また台地の兼六園の隣接部分に,数々の近代建築が残されているのも注目です。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 バス停小立野から徒歩5分
○東茶屋街(ひがしちゃやまち)/金沢市東山 
 
   
▲まるで映画スタジオのようです   ▲一歩裏手に入れば静かな町並み 
歩行者天国並みに込む
 まるで歩行者天国のようです。石畳の道の両側に、格子のはまった建物が並んでいます。とくに古い建物は180余年も経っているそうで、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区になっています。
かつては東廓の町でした
 この日は日曜日だったので、公開している茶屋は、どこも満員でした。写真もなかなか撮りずらいものです。いまは茶屋街と言っていますが、昔は廓(くるわ)の町でした。 ただ、一歩裏道に入れば、やや歩行者の数は減ります。しかもそこかしこに和風のお店がかなりの数で集中。
貸し座敷や待合茶屋などが84軒あったとか。 
感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★
 交通 1日フリー乗車券600円で橋場町下車徒歩5分 
○東山(ひがしやま)/金沢市東山1丁目 
 
   
▲路地のような狭い通りの両側に板塀の続く町家が多いのが特徴
   
▲徳田秋聲記念館/作品とゆかりの品々を収集、保存、展示  ▲狭い道の両側に板壁の家々が連なり、静寂な町並みを彷彿 
藩政時代は御歩町(おかちまち)といい武士の町
 江戸時代、東山1丁目は、御歩町(おかちまち)といいました。歩士(かち)と呼ばれた武士たちの組地でした。卯辰山と浅野川に囲まれたひっそりとした町並みです。隣接する東茶屋街の喧噪とは逆にとても静かです。歩いていますと藩政時代の武士系住宅の特徴を受け継ぐ建物や、土塀、門などの遺構が見られます。また豊かな植栽があり、かつての面影を残しています。そして昭和41年に東山1丁目となりました。
金沢には御歩(おかち)の組地が4カ所
 金沢には元々、御歩(おかち)の組地が4カ所もあり、当地は他の御歩と区別するため、観音山(卯辰山)の麓に位置することから観音下御歩町・観音町御歩町とも呼ばれていました。元禄6年(1693)の『侍帳』には、この両方に地名が用いられています。ちなみに元禄12年(1699)の観音山崩れでは多くの死者を出しました。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 1日フリー乗車券で橋場町下車徒歩10分
 
○主計町(かずえまち)/金沢市主計町 
 
   
 ▲木造2階建ての茶屋が連なります  ▲浅野川沿いの小さな茶屋町です 
●金沢三大茶屋町のひとつ
 浅野川沿いに広がる金沢三大茶屋町のひとつ。正式には「主計町料理料亭街」。藩士・富田主計(とだかずえ)のあったところが、地名の由来です。明治2年から遊郭となります。
旧遊郭でいまはスナック、小料理などの飲食店街
 昼間に訪ねたのですが、まったくおもしろくありません。ピシャッとドアが閉まり、だれも寄せ付けない感じでした。やはり夜になってから行くべき町だとつくづく思いました。川沿いと、一本裏に入った道筋に20軒近くはあろうかと思います。お茶屋といっても、大半がスナックや旅館、小料理屋といったもの。かつて貸し座敷や待合茶屋が38軒、芸妓が約90人。なお文化庁から重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 
 感動度★★★
 
もう一度行きたい度★★★
 交通 ひがし茶屋街からかすぐのところで、歩きました
 
 ○下新町(しもしんちょう)/金沢市下新町
 
   
▲泉鏡花記念館/鏡花の生涯や独特の美意識に触れられます ▲大通(北國街道)から一歩裏手でも老舗が点在しています 
明治に入って上新町と下新町に分かれます
 藩政時代の元禄年間(1688-1704)の古文書には新町とあります。浅野川大橋から武蔵が辻に至る北國街道の北側一帯を占めていました。この新町も明治4年に上新町と下新町に分かれます。もともと藩祖・前田利家に従って尾張の荒子村(前田利家の生誕地/現・名古屋市中川区)の足軽・小者が居住し尾張町を形成していました。ところが組地が不足し、新たに町名を設けることとなったので新町としたのです。
浪漫と幻想の作家・泉鏡花の生誕地
 大通の喧噪とは逆に静かな町並みです。2階建ての格子窓のある商家が続きます。豪壮な建物が多く、老舗も見られます。しかし何よりも文豪・泉鏡花の生誕地でもあります。鏡花が9歳のとき母・鈴を亡くします。その後上京し尾崎紅葉宅で玄関番として住み込むことになります。19歳で文壇デビュー。亡き母の面影を抱きながら、ロマンと幻想の世界を小説や戯曲で描き、その数300編と言われています。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 1日フリー乗車券で橋場町下車徒歩5分
○彦三(ひこそ)/金沢市彦三町 
 
   
▲改築、改造した古民家が点在しています。土蔵や白壁が残ります 
   
▲野坂邸/禄高200石の加賀藩士の家。江戸時代末期築。指定保存建築物敷地を取り巻く土塀が美しい  ▲彦三緑地/加賀藩6代藩主・前田吉徳から藩士・遠田自省が拝領した日本庭園ツツジは72品種1400本 
藩士・不破彦三の屋敷がありました
 浅野川に架かる中の橋から小橋までの左岸に沿って広がる地域です。地名は藩士・不破彦三の屋敷があったことに由来。江戸時代は金沢城下の1町。1番丁から8番丁まであって、不破家は1番丁にあったようです。また多くの藩士が居住しており、武家屋敷町といえます。
市の都市計画道路1号が彦三大通
 一般に金沢市の中心部は、クネクネした城下町特有の路地を生かした運転手泣かせの町並みです。これが昭和2年4月21日の彦三大火で5万坪、733戸が焼失。スゴイのは翌日の22日に都市計画道路を決定。あっという間に滑走路の様な道路・彦三通り(彦三町1丁目と2丁目の境界)・550mが翌3年に完成したことです。当時市内で最も広い道路でした。
加賀藩士の家・野坂邸が残る
 彦三は連続して古い町並みがあるわけではありません。現代住宅の合間に土蔵や板張りの町家などが点在しています。藩政時代は武家屋敷町でしたが、いまはそんな面影はなく、野坂邸しか残っていません。彦三では唯一の歴史的建造物です。  
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 1日フリー乗車券で橋場町下車徒歩15分
 
 ○尾張町(おわりちょう)/金沢市尾張町
 
   
▲重厚な建物があちこちに点在し、まさに金沢経済の中心地でもありました 
   
▲旧村松商店/アールデコ調の建築・国登録文化財・昭和3年築 ▲旧三田商店/輸入商でスクラッチタイル・登録文化財・昭和5年築
●尾張からやって来た足軽・小者、さらに商人たち
 江戸時代、金沢城下の一町。尾張の荒子村(現名古屋市中川区あたり)から前田利家に従って移住した足軽・小者がここに居住したからと言う説。もう一つは利家の金沢入城後、尾張荒子から呼び寄せた御用商人の居住地だからという説もあります。いずれにせよ、尾張に起因するものといえます。ただ以前の居住地で大火が発生したので、この地に移転してきたともいいます。
江戸時代、金沢経済の中心地でした
 尾張町を歩いて見ますと、重厚な蔵造りの商家が連なります。なかには木造3階建てや塔屋付きも見られます。藩政期には米仲買商を中心にした各種店舗が71軒も並び、金沢の経済の中心地でもありました。一方、戦災に遭うことも亡く、近代建築が数多く残るのも金沢の特徴です。
月三度の江戸飛脚が繁盛
 元禄6年(1693)には江戸-金沢間を月に3往復する飛脚「江戸三度」の集荷場が建設されました。一時期他所に移転しましたが、正徳(1711-16)のころ当町に復帰、幕末まで続きました。もともと金沢の商人たちが、江戸、京、大坂の三都との間で荷物や書簡のやりとりを行っていました。このことを知った藩は、商人に公用の定期便“江戸三度”の創設を命じたのが始まりです。早飛脚の夏期は江戸まで5日間、冬期は7日間で、他に中飛脚、定飛脚があり、17軒の飛脚問屋がありました。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 1日フリー乗車券で橋場町下車徒歩5分
○卯辰山(うたつやま)/金沢市東山 
 
   
▲来教寺/本堂内陣は珍しい神社様式  ▲円光寺/2代目藩主・利長と縁が深い
 ●文化財が集中する寺院群
 加賀藩3代当主・利常が城下の道路を防衛も含めて大幅に改造,整理しました。市内各地に散らばる寺院を幾つかの地域にまとめたわけですが,卯辰山山麓はそのうちの一つです。
「心の道」散策コース
 寺院数も50余を数え,まがりくねった小道を歩くと,茶屋町あたりの喧噪とは逆の静寂さがうれしくなります。行政は「心の道」と名付け,全長2.6kmの散策コースは藩政時代そのままの小道です。

 ほとんどの寺院が金沢市の文化財に指定されています。全性寺山門は三間一戸楼門形式の類例を見ない貴重な遺構。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 バス停橋場町から徒歩15分
○兼六町(けんろくまち)/金沢市兼六町 
 
   
▲兼六園を象徴する徽軫灯籠(ことじとうろう)と冬の風物詩・唐崎松の雪吊り  
茶店通りに7軒の土産物店(茶店)が軒を並べます
 兼六園といえば日本を代表する庭園でもあります。そんな名園の入口の一つ桂坂付近に古い家並みがあります。一見すると土産物ですが、かつてはれっきとした茶屋でもありました。そのため茶店通りと呼ばれています。現在7軒が営業。また園内には4軒が営業しています。
輿入れした珠姫の随行者が住んだ大規模な長屋群
 珠姫がわずか3歳で加賀藩に輿入れした慶長6年(1601)から元和8年(1622)の没後まで、江戸からの随行者がここに住んだことから“江戸町通り”とも呼ばれたりします。もっとも当時の住まいは大規模な長屋群だったと思われます。ちなみに珠姫は徳川2代将軍・秀忠の二女です。兼六園が正式に一般開放された年の翌年(明治5年)に茶店の営業が許可されました。
名園は六つの勝ることを兼ね備えること
 庭園外の兼六坂、上坂、紺屋坂に囲まれた三角地帯も兼六町です。一般住宅や事業所もありますが、やはり土産物店、レストラン主力の観光産業が中心。ところで兼六園は5代藩主・前田綱紀が延宝4年(1676)に蓮池御亭(れんちおちん)とその周辺を作庭したのが始まりです。以後13代藩主・斉泰(なりやす)の時代まで約180年にわたって延々と作庭を続けました。名園は「宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望」の六勝を兼備することから兼六園と命名。
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 1日フリー乗車券で兼六園下・金沢城下車徒歩3分 
○天神町(てんじんまち)/金沢市天神町 
 
   
▲金沢城下から越中南砺地方を結ぶ旧街道“オコ谷往来”沿いの門前町 
   
▲椿原天満宮/金沢五社の一つ。加賀藩前田家の祈願所 
椿原天満宮とともに発展した集落
 椿原(つばきはら)天満宮とともに発展した門前町。江戸時代は“田井天神”とか“田井天満宮”と呼ばれていました。もともと金浦郷の総鎮守で寛永12年(1635)に現在地に移転してきました。明治7年に椿原神社と改称したとあります。
曲がりくねった街道筋の両側に町家が連なります
 とはいうものの、歩いてみても門前町らしい華やかさは全く見当たりません。なにやら街道沿いの一集落のような感じです。江戸時代は金浦町といい、桶屋、鍛冶屋などの職人の住む町だったようです。金浦町は現在の天神町1丁目にあたります。以下2丁目、3丁目と続き、馬坂あたりを4丁目としました。伝統的な町家建築が、曲がりくねった旧街道沿いに連なる光景は、往時を彷彿とさせます。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 1日フリー乗車券で金沢大学付属病院前下車徒歩10分
 
○小橋(こばし)/金沢市小橋町 
 
   
▲古民家は比較的少ない  ▲おなじみの「俵屋あめ」ののれん 
「あめ」の暖簾の光る町
 「あめ」の暖簾で知られた俵屋本店のある町です。庶民向けの「じろあめ」、「おこしあめ」を作り続けており、訪れる人が絶えません。いま小橋を訪れる人の大部分は俵屋の客といえます。
浅野川にかかる「小橋」は鉄筋に代わりました
 近くの浅野川にかかる小橋は藩政時代は,犀川大橋,浅野川大橋と並んで金沢の三ツ橋と呼ばれ,防衛上重要な拠点でした。洪水で何度か流失しましたが,昭和27年に欄干のある美しい小橋が洪水で流出。翌年に鉄筋に変わりました。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 周遊バス小橋バス停から徒歩5分
 
 ○西茶屋街(にしちゃやまち)/金沢市野町
 
   
▲片側だけが古い町並みもあります  ▲西検番事務所(国の登録文化財) 
こぢんまりした茶屋街です
 加賀藩11代藩主・斉広が文政3年(1820)区域を決めて営業させましたが,天保2年(1831)に茶屋制度が廃止。しかし慶応3年には復活するのです。
 茶屋街は上町と下町に分かれ,西茶屋街は下町にあたります。明治に入ると,上町は紳士の社交場として役割を果たしましたが,下町の西茶屋街は庶民の花街として発展していきます。街路のはずれに「金沢市西茶屋資料館」があります。「西廓」時代には待合や貸し座敷は113軒もありました。
京や江戸とは違う格子
 入口には大門があり,そばに番所が置かれていましたが,今はありません。建造物の特徴として金沢の格子は,細く間隔が狭いのが特徴。京都の島原や江戸の吉原とは異なります。 
 感動度★★
 
もう一度行きたい度★
 交通 1日フリー乗車券で広小路下車徒歩8分
○増泉(ますいずみ)/金沢市増泉 
 
   
▲一般住宅化しています  ▲泉用水に架かる通称“思案橋”
思案橋を渡るとそこは旧石坂(いっさか)遊郭でした
 かつて西茶屋街から西へ歩きますと泉用水にぶつかります。用水に架かる小さな橋を渡るとそこは別世界でした。地元の人は小さな橋を“思案橋”と呼びます。すなわちそこは“石坂(いっさか)遊郭”でした。江戸時代は金沢城下の一つで石坂川岸町。もとは石坂村に属します。この泉用水は金沢城下と郡部との境目にあたります。その後、文政4年(1819)2月に町奉行の支配地となりました。
金沢の中心部から移転してきます
 明治32年、石川県は金沢の中心地・栄町と松ケ枝町にあった遊郭“北の遊郭・北新地”の免許が切れたので、石坂川岸町の泉用水の北部約1万坪の地に移転させました。石坂遊郭の始まりです。第二次世界大戦中は、料亭・芸妓置屋など46軒、158人が休業。
遊郭の一部を駐留米軍専用に指定!
 石坂遊郭の通りは、泉用水に直交するようにして1の小路、2の小路が並んでいました。戦後、米軍が進駐すると、1の小路を米軍専門に指定され、日本人立ち入り禁止となります。米軍の金払いがいいのか、23軒→66軒、95人→264人に増えています。それも昭和33年の売春防止法の施行で転廃業。多くは飲食店、旅館業に転業していきました。昭和42年に増泉1丁目となります。
景観維持のために板壁や格子戸を再現
 いまは往時の面影はありません。スナックなどの飲食店、一般企業、住宅やアパートなどに変わっています。景観を維持するためか、木造二階建てで、板壁や格子などを再現しています。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 1日フリー乗車券で広小路下車徒歩10分
 
○寺町(てらまち)/金沢市寺町 
 
   
▲妙立寺/多くの階段、迷路状の廊下など複雑な構造から忍者寺とも呼ばれる
   
▲松月寺/泉鏡花『桜心中』にも登場  ▲極楽寺/朱塗りの欄干は格式高い 
   
▲承証寺/本山は京都・本能寺  ▲浄安寺/金沢四大仏の一つが存在 
   
▲本妙寺/ 加賀騒動・半田家の墓  ▲長久寺/境内には芭蕉の碑がある
●加賀三代目藩主・前田利常の戦略的意図が感じられます
 加賀藩三代藩主・前田利常の命により,犀川周辺に散らばっていた寺院を集めました。主に南からの侵略に備えるためといわれています。またとっくり町と呼ばれることがありますが,袋小路で入口が狭く,中ほどが広くなっているところで,戦略的に意図が感じられます。
約70もの寺町寺院群は日本でも最大級
 前田家ゆかりの大寺院から宝暦の大火以降の本堂のない寺院まで約70近い社寺が林立しています。金沢城の出城の役割を果たした妙立寺は,その構造から別名「忍者寺」と呼ばれています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 1日フリー乗車券で広小路下車徒歩10分
○蛤坂(はまぐりざか)/金沢市寺町 
 
当初は妙慶寺の門前町で“妙慶寺坂”といいました
 小さな町並みです。江戸時代は蛤坂町といい金沢城下の1町でした。もともと妙慶寺の門前町で、元和元年(1615)、東と西の両側に10軒の家ができました。当時の町奉行・三輪七左衛門の書状には“妙慶寺坂”といっていたようです。
大火の後、道路を開く、すなわち口を開くことで蛤坂と命名
 坂道は狭く急傾斜。享保18年(1733)、犀川大橋詰めの雨宝院から出火、多くの家を焼失し怪我人も多数でました。藩は、火災後この地の大改造を敢行。川岸を築き上げ、町家を後退させ、道路を開きました。このため当町は口を開くという意味で、蛤坂となったと、うそのような本当の話。後に坂の両側に本長寺や薬王寺、宝勝寺などが建てられ野田寺町寺院群の一角となりました。
木造3階建て地下1階の山錦楼が見ものです
 平成11年2月、金沢市は旧蛤坂町・泉寺町を「こまちなみ保存区域」として指定。ところが平成24年4月、旧蛤坂町の一部を除いた区域の大半を寺町台伝統的建造物群保存地区に選定。そこで残ったわずかな一部地域の蛤坂を“こまちなみ保存地域”に変更したわけです。歩いていて、気がつくのは木造三階建て(地下1階)の山錦楼が残されていることです。料亭だそうですが、妓楼にも見えてきます。また犀川から見上げると、木造4階建て。市の保存建築物に指定されています。
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 1日フリー乗車券で広小路下車徒歩5分
 
○金石(かないわ)/金沢市金石西 
 
   
▲ 町には商家と思われる古民家が多数残ります。美しい格子窓が特徴です 
   
▲改築されていますが原型を留める ▲観田家住宅・主屋/国の登録文化財 
広大な地域に古民家群
  金沢の北部,すなわち海岸沿いに砂丘が広がっていますが,その一部を切り裂くように開いた港が金石港です。江戸時代から金沢外港の役割を果たしており,町自体も大変な賑わいを見せていました。海商・銭屋五兵衛が根拠地として海外や、上方、出羽、蝦夷地との交易に活躍していたころです。魚介類,木材の輸入港となり,金石には木材業者の多さが目に付きます。
●陸上交通の整備で船運が衰退し漁港に転じる
 しかしながら廃藩とともに,金石は急速に衰えています。また鉄道の開通、道路の整備など陸上交通が盛んになり一気に衰退、漁港に転じます。いま町なかを歩きますと,広大な古民家群が残されており,ほとんどが板壁,板塀,土蔵などの商家,町家などです。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマはゲームセンターの駐車場に停めました
○大野(おおの)/金沢市大野町 
 
   
 ▲町を歩きますと、プ~ンと醤油の匂いがしてきました。懐かしい感じがします ▲三輪家住宅・こまちなみ保存建造物/町家建築を伝えています 
古代から湊もあった歴史ある集落 
 奈良時代は大野郷と呼ばれ、歴史ある町でした。そして平安時代は大野湊と呼ばれ、かなり賑わった港であったようですが、場所は金石港の近くにあったと思われますが、時期によって変動しており、今後の正確な発掘調査が待たれます。
醤油生産で発展した町
 江戸時代から醤油製造で発展した町です。金沢城下が発展するにつれ,醤油の需要が増し,大野醤油の生産は一時60軒余、3万600石にまで増えました。さらに回船で能登,越中にまで販路を広げるにいたったのです。今でも通りを歩きますと、プ~ンと醤油の匂いが漂い、往時の面影が感じられます。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 直江屋源兵衛蔵の駐車場に停めました
○高松(たかまつ)/かほく市高松 
 
   
▲街道裏も古民家が残ります  ▲黒い能登瓦と格子が似合います 
京の影響を受けた町家
 金沢から七尾までの七尾街道沿いの宿場町。加賀藩公認街道ですが,輸送量の増大により,幾つもの街道が公認され,総称して能登街道といいます。街道の中央に水路が流れ,その両側に桜が植えられています。京文化の影響の濃い,格子のある町家が続きます。
黒い能登瓦の屋根がキラッと光ります
 高松は砂丘の移動との戦いの歴史でもありました。不作が続くことも多く,漁業のハマグリや瓦の生産に力を入れたりしました。特に能登瓦と呼ばれ,“光り窯”を用いた光沢のある黒色瓦は名産です。クルマを走らせていると、キラッと光る黒色瓦が能登の風情を感じさせます。なぜ黒いのかは、屋根に積もった雪が早く溶けて滑り落ちやすいから、という理由だそうですが、よくわかりません。 
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは中町会館駐車場に停めました
○鹿島路(かしまじ)/羽咋市鹿島路町 
 
   
 ▲壮大な本棟造りが美しい ▲旧道沿いに背の低い町屋が続きます 
七尾街道沿いの小さな集落
 JR七尾線の沿って小高い丘陵側をクネクネとした七尾街道脇道沿いの集落です。江戸時代は加賀藩領。南側の潟(現・邑知潟・おうちがた)では漁が盛んでフナ,ボラなどをとり金沢に売り出していました。農作物は大豆,小豆,麦,菜種などが獲れたとか。
白壁と縦横の柱と能登瓦が美しい
 クルマがやっと1台通れる幅の街道沿いに,この地方によく見られる古民家が続きます。黒瓦葺き切り妻で,妻壁部分が縦横の軸と漆喰の白壁が美しいデザインを見せてくれます。下見板張りで,周囲の景観とマッチしてるのです。黒色瓦はこの地方の名産・能登瓦のことです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○大町(おおまち)/羽咋市大町 
 
   
路地はトタン貼りの民家が続く  ▲改築された切妻型の大型家屋 
戦国時代から河川港の要でした
 金沢と七尾を結ぶ七尾街道東往来(内浦街道)沿いの集落です。しかし戦国時代は,邑知潟を中心にした支流を利用して,七尾と羽咋湊を結ぶ河川交通がすでにあったとされています。また江戸時代は北前船が羽咋に寄港,物資の流通が盛んになり,大町まで陸上,水上を利用して物資の搬出入が行われました。また藩政時代,大町に3棟の加賀藩の米蔵が設置され,周辺の年貢米を収蔵しました。
わずかに残る切り妻屋根
 いま町を歩きますと,わずかに切り妻屋根のある古民家が残されています。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○飯山(いのやま)/羽咋市飯山町 
 
   
 ▲街道沿いに続く古民家。クルマを走らせるとあっという間に通り過ぎます 
内浦街道と越中往来の2本の追分宿
 江戸時代,内浦街道(七尾街道東往来)と越中往来の二つの街道の分岐点にあたる追分宿で,たいへん賑わいました。寛永6年(1629)には,すでに146軒の家屋があったとか。
 元もと半農半漁の集落で,加賀藩3代藩主・利常の改作法による農政で大きく変化します。砂丘の植林,飯山川下流の整備,そして邑知潟干拓など矢継ぎ早に実施しました。そのためか,飯山村からの租税徴収高は,最高率を示しました。
断続的に続く板壁の町家
 明治31年に七尾鉄道が敷設されたため、賑わいが移りこの地は一気に寂れました。いまは板壁,格子のある町家が街道筋に断続的に続きます。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○作事(さくじ)/七尾市作事町 
 
   
▲近代建物や古民家など商店街の両側に若干残っています 
北前船の寄港地で多くの商家が誕生 
 室町時代に町の基礎ができたそうです。江戸時代は加賀藩領で,北前船の寄港地でした。そのため多くの商家が生まれ、特に廻船問屋、薬種商は特筆すべき商売でしょうか。江戸末期には、大坂との取引が多かったようです。明治に入ると、海産物店や呉服店も軒を連ねていました。
市街地に広がる古民家
 現在は作事町自体は、それほど大きな町ではありません。七尾市の一町名にしか過ぎません。作事町に限ると古民家はそれほど多くありません。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはホテルルートイン七尾駅東に停めました
 ○田鶴浜(たつるはま)/七尾市田鶴浜町
 
   
▲東嶺寺山門/長家の菩提寺・七尾市文化財に指定。美しい苔のじゅうたん 
●加賀藩の勢力下に入ると町が活気づきました
 はじめ海辺内通り・往還筋馬継所として発展。天正8年(1580)に長氏が居を構えてから人家も増え,町が一気に活気づきました。江戸時代初期,まだ長氏の影響力が強く,加賀藩の威光も届きませんでしたが,長氏の内紛に乗じて加賀藩の勢力下に収まりました。同時に物流も大きくなり,珠洲までを内浦街道沿いの宿場町として発展しました。
少し残る往時の雰囲気
 旧街道沿いには,わずかに古民家が残っており,アルミサッシなどに改造されたとはいえ,突き出た庇,板壁等に往時の雰囲気が感ぜられます。 
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは田鶴浜町行政福祉センターに停めました
 
 ○中島(なかじま)/七尾市中島町
 
   
▲川を利用した船運が発展の力  ▲街道の町屋も立派だったそうです 
海上交通で発展した経済力豊かな地域でした
 藩政以来中島港は海上交通の中心でした。木材,米穀,木炭などの搬出入で賑わったせいか,経済力豊かな地域でもあったのです。京都・東福寺から高僧を招いて開基した臨済宗定林寺。村内を4つに区分し、それぞれに白山社、愛宕社、天神社、熊野社を祀りました。これも経済力がないとできないことです。歩いていて社寺も多く,街道筋の町家も豪華な印象です。
明治、大正年間の発展はめざましいものがありました
 明治に入ると中島の地域特性がよくでます。経済力があり外部の地域との交流が盛んなことは、住民に進取の気性を植え付け、文明開化の成果を次々に取り入れていくようになります。明治25年に銀行設立、さらに電報取り扱いも開始。明治41年には電話が通じるという快挙。そして何より大正元年に自家発電で電灯がついたことです。また大正2年に、全国でも3番目という上水道が施設されました。このときは見学者が相次いだそうです。ラジオの普及、鉄道の開設など、周辺の町村との格差は、風俗や民俗に表れていたといいますからスゴイ。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは北國銀行中島支店の駐車場に停めました


                     ▲ページの先頭にもどる

○野々市(ののいち)/野々市町本町 
 
   
▲喜多家住宅/国の重要文化財  ▲照台寺/赤瓦葺きの豪華な鐘楼 
鉄道の開通で、町は一気に発展します
 中世の時代は“野市”とも書きました。もともと北国街道の最初の宿駅として馬73頭を常備していました。また馬市も盛んに行われていましたが一時期衰退,江戸時代末期に復活したとか。
 明治38年,金沢市から野々市を経て松任町まで,松金馬車鉄道が開通しました。その後相次いで鉄道が通り一気に発展するのです。
重要文化財の喜多家住宅
 本町は,逆L字型に折れた北国街道の宿場町です。古い町並みが残るなかで,重文指定の喜多家住宅が光ります。加賀の典型的な形式を示した町家です。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは喜多記念館駐車場に停めました
○東新町(ひがししんまち)/白山市東新町 
 
   
▲新町通りにはポツンポツンと櫛の歯が欠けたような町並みでした 
松任城は江戸時代の一国一城令で廃城となります
 鎌倉時代初期に松任範光が松任城を築城したと伝わります。また天正5年(1577)の手取川の戦いで上杉謙信が攻略して落城したとか、織田軍によって落城したとも伝わります。いずれにせよ松任城は、江戸時代に入って一国一城令により廃城となりました。東新町へは、松任駅近くにあって、松任城址公園近くを通って行くことになります。
江戸時代は市が立つなど大変な賑わいでした
 明暦2年(1656)、城址外堀の外郭の土地拝領地として受け、99軒の町屋敷を建てて新町が成立しました。以来、新町の設立を記念して毎年8月14日に“草市”が立ち、盆の市と言われました。しかし明治に入って、絹市となり古着を主に扱う市となりました。天明5年(1785)の絵図には東新町・西新町の2町に分けて記載されています。寛政4年(1792)の新町通りに建つ家数は113軒というからかなり大きな町並みを形成していたと思われます。
西新町の遊郭は面影も見られません
 いまは櫛の歯が欠けたような家並みで、ポツンポツンと古民家が点在しています。東新町から西新町へと続く細道は、新町通りと呼ばれます。西新町へと入りますと、石畳が敷かれていますが、古民家はなく、さらにかつての遊郭(北郭)の面影も見られません。ちなみに最盛期には妓楼は35軒あったとか。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR北陸本線松任駅から徒歩10分
 
○鶴来(つるぎ)/白山市鶴来新町 
 
   
▲2階の窓は格子が目に付きます  ▲ノコギリ状に並んだ家並み 
鶴来街道の宿場町
 古くは鶴木、剣とも書きました。江戸時代は加賀藩。農民一揆の続発した所でもあります。文政2年(1819)、村の百姓600余人が金沢に押しかけましたが、その南郊で捕縛されました。文政5年(1822)、領内各地でいっせいに暴動がおこりました。白山、直海谷方面も蜂起、首謀者は逮捕され極刑に処せらました。
 さて名産の一つに酒造がありますが,加賀菊酒と呼ばれ,加賀藩の御用酒となっていました。天明期には酒屋が6軒,酒造米高が3487石余だったと記録。
明治に入っても酒屋は12軒で2100石の生産していました。酒とくれば次は煙草。“鶴来煙草”の生産額は2万500斤だとか。
ノコギリ状に連なる家並み
 いま歩きますと、旧道沿いには庇の深い町屋が軒を連ねています。1階をよく見ると家並みがノコギリ状ならんでいます。また窓やドアなどの開口部のほとんどはアルミサッシに改良されています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはマルエー駐車場に停めました
 
○美川(みかわ)/白山市美川今町 
 
   
▲ところ所に近代建築も建ちます   ▲寺院も多く、小さな寺町を形成
織田信長と上杉謙信が対峙する
 中世の時代から交通の要衝で,北上する織田信長軍と南下を企てる上杉謙信勢との対峙もこの美川でした。江戸時代後期は北前船の寄港地で船持ちの船問屋や回船問屋,あらゆる商家が集中し,極めて裕福な商人が現れました。明治に入ると一時期石川県庁も置かれていました。
古民家は大正通を中心に点在
 ところで大正通りは,大正天皇即位を記念して名付けられました。全盛期は200軒もの商店が集中していましたが,いまは約30軒と激減しています。古民家は,大正通りを中心に点在。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはJR美川駅横の市営駐車場に停めました
○白峰(しらみね)/白山市白峰 
 
   
▲伝統的建造物が点在します  ▲白峰うどん(700円・てんぽうりん 
 ●山奥に広がる古民家群
 日本でも超豪雪地帯です。そのため常に孤立しがちな集落のせいか,独特の文化が守られてきました。江戸時代は越前,加賀藩の領有権争いが続きますが,どちらにも属さず白山18カ村は幕府領でもありました。しかし交通の便からは勝山との結びつきが大きく,越前の本保陣屋の支配下になったこともありました。争いの根底には白山信仰があり,いろいろな勢力が支配下にしようとしたのでしょう。
 さてこんな山奥に突然広がる古民家群に目が点になります。
伝統的建造物群保存地区
 江戸時代から昭和初期にかけて厚い土壁を持つ伝統家屋が見られます。これは2階,屋根裏に養蚕スペースを設けたからです。また豪雪の重みに絶えられるような屋根構造も特徴。 
  感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
○今江(いまえ)/小松市今江町 
 
   
▲前川と平行した旧道には、板壁の民家や土蔵が点在しています 
前川を利用した船運が盛ん
 戦国時代には今江城が築かれ,江戸時代は加賀藩領。北陸街道沿いの集落でした。寛政4年の人口は1244人,247軒で,農業,漁業が盛んでした。明治に入ると人口はさらに増え、明治22年には2500人を超えました。米作のほか畑作が盛んで、あらゆる作物が小松に搬出。特に国策もあって養蚕が盛んになりましたが,近年は織物業へと発展。物流は前川を利用した船運の利用が多かったそうです。
板壁の倉庫が軒を並べる 
 川沿いには幾つかの倉庫が残されています。前川と平行した通りには板壁の倉庫が残ります。板壁の倉庫はいずれ消えゆく運命にありますが、歩きながら懐かしくもありました。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは前川沿いに停めました
○松任町(まっとうまち)/小松市松任町 
 
   
▲美しい出格子窓の意匠  ▲延々と続く古民家群 
小松駅は北陸新幹線の停車駅!
 隣のJR松任駅は白山市(旧松任市)にあります。こちらの松任町は小松市。どうもややこしい。いま小松市は北陸新幹線の停車駅と決まって、開業に向けて盛り上がっています。で、なぜ松任町かというと、やはり松任城主・丹羽長重が小松に移ったさい、城下の町民も移住し松任町としました。
どこまでも続く古民家群
 江戸時代は加賀藩領。3代藩主・前田利常が小松城に在城の時は43の武家屋敷があったそうです。とはいうものの、いま歩いていて武家屋敷らしい建物は見当たりません。むしろ町人町といった感じです。というのも利常の死去により家臣団とその家族は金沢に引揚げ、保護政策で繁栄していた商業はそのままの賑わいを続けました。北陸街道沿いという利点があったというべきでしょう。それにしても、圧倒的な古民家群の塊に驚かされます。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 JR北陸本線小松駅から徒歩15分
 
○中町(なかまち)/小松市中町 
 
   
▲今も残る豪華な蔵造りの旧商家  ▲通りの両側に古民家が散在 
城下町・小松の中央に位置することから
 もともと城下町・小松の中央に位置していることが町名の由来と言われています。はじめは京町と細工町の間にある南北の通り2本が町の区域でした。天明5年(1785)には152軒あったと記録されています。のちに東側の通りが材木町として分離,西側のみになったのは江戸時代後期といわれています。
圧倒的な量の古民家群
 歩いていて気がついたのですが、これほどの古民家が残っているとは驚きました。細工町や南隣りの八日市町(八の付く日に定期市が開催)にも多数の商家,寺院が残されています。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは社会保険事務所に停めました
○安宅(あたか)/小松市安宅町 
 
   
▲いまなお古民家が多く見られます  ▲板壁の古民家が点在しています 
北前船の寄港地で繁栄
 梯(かけはし)川右岸に広がる港町です。加賀藩の時代は北前船も寄港し,米蔵や船問屋の倉庫が林立して,栄華を極めたそうです。明治5年に安宅村に改称,人口1814人,392軒で交通の要衝でもあったのです。
安宅の関跡に弁慶と富樫の胸像が建つ
 安宅と言えば源義経一行が安宅の関を通過しようとしたときの受難の様子が、能や歌舞伎で『義経記』の「富樫」などを素材して演じられて一躍有名になりました。安宅の関跡には、弁慶、富樫の胸像が建っています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは安宅住吉神社に停めました
 
 ○橋立(はしだて)/加賀市橋立
 
   
  ▲北前船の里資料館の広場 ▲旧酒谷長兵衛家住宅/文化財指定 
船主の屋敷がとても立派
 日本海に面している古い町並みのほとんどが、北前船の寄港地ですが、この橋立も同じです。明治時代の船主の屋敷が珍しく残っており、実に静かな町です。2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。いちばん上の写真は、周囲を板塀で囲み、切妻入りの屋敷でなかなか立派です。いはわゆる蔵六園とよばれ、国の登録文化財です。
「北前船の里資料館」
 訪れた日は日曜日でした。橋立のバス停を降りると、橋立地区の文化祭なのか祭りにぶつかりました。実ににぎやかなのですが、保存地区に入ると、全く静かなのがうれしいのです。とりあえず、ボツボツと歩くと、地図入りの看板があり、そこは「北前船の里資料館」でした。その前面が広場になっています。行政の力の入れようがよくわかります。石畳を敷き詰め、歩きやすいようにしています。
大聖寺の町並みとセット
 大聖寺駅近くにも古い町並みがあります。橋立行きの路線バスの時間に余裕があれば、まず大聖寺を見て回り、なければ、先に橋立に行くといいでしょう。 
  感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★★
 交通 JR大聖寺駅近くの南町バス停から乗車、橋立下車すぐ
 ○大聖寺(だいしょうじ)/加賀市大聖寺山田町
 
越前への交通の要地でした
 北国街道沿いに発達した町並みです。江戸時代は越前への交通の要地で,加賀藩の支藩・大聖寺藩10万石の城下町。支藩でも10万石もあるのだから、加賀藩は大きい。今は加賀市の中心地で,歴史ある町ですが,それほど古民家があるわけではありません。ポツン、ポツンと建っていて、連続していません。
比較的、古い町家が残る
 この日は天気も悪く、なにか気分も晴れません。京町、本町などをブラブラしました。ただ2階家で深い庇が特徴で格子が美しい。このように比較的、古い町家が残っています。なお地名の由来は白山五院の一寺に由来します。
 
感動度★★
 
もう一度行きたい度★
 
交通 JR北陸本線大聖寺駅下車徒歩10分 
○動橋(いぶりはし)/加賀市動橋町 
 
   
▲改築、改装されています   ▲旧家と思われる古民家も目に付く
朝倉軍と江沼郡一揆との戦い
 戦国時代から「いぶり橋」の名が歴史書に記録されています。また振橋,震橋,不忍橋とも書いたそうです。「いぶる」とは「ゆすり、揺り動かす」の意味で、この地方の方言です。
 天文24年(1555),越前の朝倉軍が侵攻してきたとき,江沼郡一揆は各城に籠城して戦うが1日で落城。後に総反撃に転じるが,動橋などで撃退されたのです。
●北國街道の宿場町
 江戸時代は大聖寺藩領で北國街道の宿場町でもありました。元禄14年(1701)の人口は282人とあります。いまは所々に古民家が残っている程度。歩いていると江戸時代創業の造り酒屋が目に付きました。酒蔵資料館もあります。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは北國銀行動橋支店に停めました
○瀬越(せごえ)/加賀市大聖寺瀬越町 
 
   
▲縦に細い棒で押さえた押縁下見板  ▲大聖寺川沿いに建つ大家家住宅 
加賀藩に援助を受ける大聖寺藩
 江戸時代は大聖寺藩領。同藩は財政的に貧しく,常に加賀藩から養子を迎えて,細々と藩をつないでいました。
大聖寺川河口の豪商・大家家
 一方,江戸末期から明治にかけて北前船の寄港地で,たいへん繁栄しました。特に大家(おおや・写真/非公開),広海両家の船主たちは,地元に小学校を寄贈したり,道路整備,水道造りなどに尽力しました。大家家は船主でもあると同時に荷主でもありました。寄港地で良い商品を買い付け,必要とするところに売るという「買い積み式」(商社)をとったのです。
地名の由来は、古く越前吉崎(現・福井県)から分かれて、大聖寺川の瀬を越えて、この地に村を形成したからという。
  感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
○加賀東谷(かがひがしたに)/加賀市山中温泉荒谷町 
 
   
 ▲美しい赤瓦が特徴の古民家群 ▲珍しい土蔵が残っています 
赤瓦,煙出し付きの屋根
 東谷地区は荒谷町,今立町,大土町,杉水町の4つの集落から成り立っています。大日山を源とする動橋川と杉ノ水川の上流域に点在しています。藩政期から林業や製炭業が盛んで,「奥山方」と呼ばれ,一つの文化圏を形成していました。しかし昭和30年代に入って急速に衰退し過疎化が進み,人口も10分の1に激減したのです。全戸の半数が空き屋だとか。
重要伝統的建造物群保存地区に選定
 建物は明治前期から昭和30年代に建てられた主家,土蔵が残り,赤瓦,煙出し付きの形式で統一されているのです。
なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
  感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは各集落の道端に停めました
○馬場崎通り(ばばさきどおり)/輪島市河井町
 
   
▲馬場崎通りの裏通りも歩きたい  ▲かなり重厚な古民家も見られます 
   
▲水塩はジめ(600円・海生)  ▲コーヒー(400円・さくらや) 
新しくなった「古い町並み」
 ひと昔前の輪島駅前通りを知っている人にとって,この変わり様に目をみはります。何度か訪れていますが、当時は道路は狭く,夜は薄暗く,ぼんやりとしたスナックの明かりが目につくぐらいでした。
「いしかわ景観大賞」を受賞
 ところが地場産業の輪島漆器と朝市だけでは町の経済が冷え込むというわけで,駅前通りを大改造。そこで街路整備とともに,輪島らしさを演出する「輪風」(わふう)を街づくりをテーマにしました。木造建築を主体にした切り妻屋根を持った家屋で,漁村に多く見られる建築です。第13回「いしかわ景観大賞」を受賞しました。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 輪島バス停から徒歩5分
○観音町(かんのんまち)/輪島市河井町 
 
   
▲旧料理屋や妓楼なども残ります  ▲スナックや居酒屋などの飲食店街
往時の面影・旧赤線地帯
 日本の漁師町には必ず花街がありました。輪島漁港・海士町から見て輪島川を越えた東方に「免許地」があります。いわゆる赤線地帯で,観音町であります。妓楼は21軒あったそうです。昭和34年の売春防止法が公布される以前の話しです。
娼妓たちも“漆にかぶれた”そうです
 いまは1000年以上の歴史を持つ重蔵神社があります。そこを抜けた所にある子ども広場を中心にスナック,料亭,居酒屋,焼き肉などの飲食店街が並んでいます。しかし往時の面影は建物を見る限り,しっかりと残っています。笑い話に輪島塗の最盛期には,娼妓たちも「漆にかぶれた」とか。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 輪島バス停から徒歩10分
○朝市通り(あさいちどおり)/輪島市河井町本町通り
 
   
▲切妻型や平入型の建築が多数  ▲買物だけではなく古建築の見学も
喧噪の中で輝く建物
 何度も訪れていますが、1年中、込んでいるのが朝市通りです。特に団体客が多いようです。1000年以上の歴史を持っているだけに,全国にその名を知られています。一説にはすでに平安時代から行われていたそうで、神社の祭礼などで、生産物を持ち寄って物々交換していたのが始まりだとか。室町時代に入ると毎月4と9の付く日に市が開催。明治時代になると毎日、市が立つようになりました。
2階建ての板壁の町家が残ります
 ひと昔に比べて歴史的建造物は少なくなりましたが、板壁の2階建て町家、蔵造りの商家が少し残っています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 バス停輪島下車徒歩10分、100円バスあり
 
○海士町(あままち)/輪島市海士町 
 
朝市帰りのリヤカーが戻ってきます
 午後1時ごろ、輪島川を渡って漁港に行きました。朝市で海産物を売っていた女たちが、リヤカーを引いて帰るところです。ここ海士町は漁師町です。男は漁に出て、女は卸しで魚を仕入れて,朝市や行商に出て売るのが日常となっています。
●漁師町特有の建物
 漁師町特有の間口の狭い切妻型妻入り2階家です。そして壁はほとんどが、昔ながらの板塀になっています。木は潮風に強いからでしょうか。港から一歩中に入ると、ぎっしりと家々が詰まっているのです。漁師町特有の香りがします。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 バス停輪島から徒歩30分、100円バスもある
 
○上町通り(かみまちどおり)/輪島市鳳至町上町通り 
 
   
▲輪島の格子は密に詰まっていて上品な感じがします。京の影響でしょうか 
格子戸のある上品な町並み
 喧噪の町・朝市通りから一転、静かな町並みへ入ってきます。夕市が開かれる住吉神社付近から始まる上町通りは、老舗が集まる静かな町です。格子戸の商家は黒板塀で、重厚感があります。格子は細く、密に詰まっていて、上品な感じがします。また大正末期から昭和の初めにかけて建てられた洋館もあちこちに残っています
改造されつつある町並み
 近年、馬場崎通りも格子戸のある町並に大改造されました。ココの上町通りは昔からの町並みをさらに改造しようとしています。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 バス停輪島から徒歩25分 100円バスもある
○曽々木(そそぎ)/輪島市町野町曽々木 
 
   
▲時国家(国の重要文化財)/分家にあたるため下時国家と読んでいます ▲時国家(国の重要文化財)/本家なので上時国家。この日は修復中でした
一寒村に残る板壁の民家
 有力な名主が時国家(ときくにけ)です。広大な屋敷群のほかに耕作地,塩田,海運業など多角経営者でした。
“せっぷんトンネル”で一躍有名になりました
 昭和30年の曽々木が舞台となった映画『忘却の花びら』が奥能登観光の幕開けとなりました。観光客が殺到したことで、他の地域に先がけて民宿がオープン。『忘却の花びら』はNHK連続ドラマの映画化で、原作が菊田一夫、監督が杉江敏夫、主演が池部良、草笛光子など。キスシーンのある“せっぷんトンネル”が有名になりました。
 さていま歩きますと,海岸付近にわずかに板張りの民家が残る程度です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは曽々木観光センターに停めました
 
○三井(みい)/輪島市三井町小泉 
 
茅葺き屋根が少々
 江戸時代から続く農村集落です。茅葺き屋根が点在するという話を聞いて、「どこに?」というのが率直な感想です。たぶん、屋根の葺き替えした農家が多いのでしょう。茅葺きの整備はたいへんなコストがかかるだけに、難しい問題をはらんでいます。
「三井の里」に農家を移築再生
 元もと交通の要衝でもありますが,古代から“三井駅”があったとされています。鎌倉時代には「三井」と言う名が,典籍等に明記されているとか。なお「三井の里」には150年前の農家を移築再生され,土産物店や休憩所も併設されています。
 
感動度★
  もう一度行きたい度★
 交通 クルマは三井の里駐車場に停めました
 
○上大沢(かみおおざわ)/輪島市上大沢町 
 
 ●NHK朝ドラ『まれ』の舞台
 日本海の強風から家を守るために、家屋の周囲に竹垣を囲んだりします。この大沢地区,上大沢地区は集落全体を、竹垣で囲んでいるのです。竹垣のことを間垣と呼んでいます。まず木で横に組み、さらに縦に並べます。そしてぎっしりと細かく、そのあいだに竹を編み込んでいます。これにより、潮風を含む強風から家屋を守っているのです。この地もNHKの朝ドラ『まれ』(主演・土屋太鳳)で一躍有名になりました。
大沢集落と上大沢集落
 西保海岸沿いの県道をしばらく走ると大沢集落です。そして特徴のある間垣が見えます。酒屋さん、旅館の看板のみが見えてくるのです。建物はちょっと瓦だけを見せているだけです。もし、看板がなければ、間垣だけの集落にしか見えないでしょう。
 大沢を過ぎて、しばらく走ると桶滝川沿いに少し上ったところに、上大沢集落があります。ここはさらに徹底しており、集落を完全に囲っています。3m、5mといった、人間よりはるかに背の高い竹垣が目に付くのです。橋を渡ったところの小さな看板に「間垣の里・上大沢」とあります。間垣の小さな入口をくぐると、ごく普通の家屋です。だから、写真を撮るなら外側だけからです。 
  感動度★★★
  もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは上大沢地区の大きな駐車場に停めました
 ○黒島(くろしま)/輪島市門前町黒島町
 
 意外な町並みに出会う
 こんな小さな町に、こんなすばらしい古い町並みがあると、うれしくなります。ホント、予想外の展開でした。ただ日本海に面した港町なので、ひょっとして北前船の寄港地なら、結構発展している可能性があるかも知れないと、半ば期待をしていましたが…。
 坂を上っていけば、細い道が曲線を描くように続いています。たぶん、回船問屋なのでしょう、豪華な商家が見えます。下半分を板塀で囲み、上を漆喰で固めた白壁になっています。民家も数多く残されており、なかなか見応えのある町並みです。
狭い道の両側に民家
 歩いている途中で、こぢんまりとした「北前船資料館」がありました。また石段を下っていくと国道249号線にぶつかります。そしてその向こうが日本海です。石段の上から海が見渡せます。民家も石垣をしっかりと築いた上に建てているので,塀も高く、冬の日本海からの強風に備えての造りなのでしょう。
 駐車場は、石川県指定文化財・角海家の土蔵、民家(写真上)の駐車場があります。あとは国道沿いです。重要伝統的建造物群保存地区です。 
感動度★★★★
  もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは角海家の駐車場に停めました
 
 ○皆月(みなづき)/輪島市門前町皆月
 
   
▲プロパンガスの交換にくりぬく  ▲竹垣の裏通りは普通の板張りの古民家 
穂のない真竹で風よけ
 能登半島の海岸に多く見られるのが竹垣で風よけにしている光景です。皆月は穂のない真竹を用いているのが特徴です。だいたい5,6年で交換するそうです。国道から一歩内側に入ると裏通りになりますが、板張りの住宅が続きます。
「腕のある水夫」を輩出
 江戸時代は加賀藩領。産業も当然漁業が盛んでした。特にサバ漁は収益が高かったようです。で、このあたりでは漁師になりたい者が多いのですが、幕末には皆月だけで80人の希望者がいたそうです。当然あぶれる者が多く、輪島や遠く大阪まで出かけて大きな船の船長になるだけの腕前を持っていたという。   
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○門前(もんぜん)/輪島市門前町門前
 
   
▲改築、改装した古民家が多い  ▲総持寺祖院/豪華な山門は見事 
復興再生がいまなお続く
 江戸時代,北前船の寄港で,大変な繁栄を見せましたが,その中心となったのは総持寺御用の森岡屋をはじめとする多くの豪商(回船問屋)たちでした。総持寺の影響力は大きく,その力は明治に入ってまで続きました。
本山が横浜に移転すると一気に衰退
 ところが明治31年の大火で,大半が焼失。その後横浜の鶴見に移転したために,多くの住人が職を失い、一気に衰退しました。しかし山門や太子堂、仏殿など次々に再建し、総持寺祖院として復興したのです。曹洞宗は2本山制ですが,一方の本山・永平寺(福井県)は大変な賑わいです。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは市営駐車場(無料)に停めました
 

                      ▲ページの先頭にもどる

○高屋(たかや)/珠洲市高屋町 
 
   
▲家屋を囲む家々も少なく貴重な存在  ▲漁師町は板壁の家屋が多い 
小説『破船』と破船奉行……??
 岩礁に囲まれた天然の良港で,藩政時代から漁船だけではなく,日本海航行の船が風待ちで利用していました。そんな船を相手にする商人も多くなり,かなり繁盛しました。加賀藩が破船奉行を設けたのもそのころ。御城米船の海難事故の処理に当たっていたようです。しかし作家・吉村昭氏の小説『破船』では、そんなきれい事ではないようです。ただ小説の舞台は佐渡ではないかと推測されていますが……。
 最近,漁場の開発,能登半島一周道路の改良で,高屋が注目されており,大規模な改修工事が行われています。
少なくなる竹囲いの家屋
 海岸の外側を歩きますと,風よけの竹垣が見られます。しかし無いところも多く,家屋が丈夫になったことと,竹垣の維持が大変なことからだそうです。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは高屋漁港に停めました
○蛸島(たこじま)/珠洲市蛸島町 
 
   
▲これほどの数の切妻型住宅が林立する集落は珍しい 
   
▲高砂湯/漁師町の銭湯(閉店)  ▲小さな川の両側にも板壁の住宅 
「大ダコが人間を食べていた!!」説
 やはり地名の由来が気になります。タコが多く住み着いていたとか,人間を食べる大ダコが退治され,島になったという説もあります。さて鉄道ファンなら知っていることですが,昭和39年9月に国鉄能登線が全線開通し,蛸島駅が終着駅となりました。当時は活気のある町でした。
ぎっしり並ぶ大型の切り妻屋根
 江戸時代は加賀藩領。いま町を歩きますと,かなり大きな切り妻妻入りの町家がぎっしり並んでいます。江戸時代末期には400軒近いかなり大きな集落でした。醸造業が4軒もあり270石の生産,ほかに干物,蛸島素麺,珠洲瓦,製塩などの問屋があったとか。豪商の面影が見て取れます。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは東仲町町内会館に停めました
○正院(しょういん)/珠洲市正院町正院 
 
   
かなり大きな木造建築物です  ▲三角屋根が軒を並びます 
古代・正倉院があったそうです
 とにかく歴史のある町なのです。まず古代,ココに正倉院があったと推定されています。また平安時代後期は,朝廷の所領でもあったそうです。大友家持の万葉集にも登場します。
 「珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば 長浜の湾に月てりにけり」
 出拳(すいこ)のために当地を訪れたときに詠んだとされます。
切妻型住宅が軒を並びます
 
江戸時代,干しアワビ,干しイワシ,マグロ,油粕,灰,ほうきなどが,加賀,越中,七尾などへ積み出されました。さらに弘化2年(1845)には北海道松前から兵庫県但馬まで販路が広がっていました。地元豪商たちにかなりの力があったのでしょう。

 町並みは板張りの切妻型で,この地方独特の三角屋根がリズミカルるに続きます。ただその数はやや少なめです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはJAすずし正院支店に停めました
 
○松波(まつなみ)/能登町松波 
 
   
▲開口部はアルミサッシに改造   ▲やはり板張りはきれいですね
町長の狼藉から松波城跡を守る
 昭和53年(1978),当時の内浦町長が城跡を破壊して宅地造成を計画,良識を持った反対派の前に計画を断念,町の最大の危機が避けられました。松波城は国守畠山氏6代100余年の居城でありました。その後,天正5年(1577),上杉謙信の軍勢に攻められ陥落。
料亭や妓楼、豪商宅などいろいろな古民家が楽しい
 さて町並みは,迷路のようになっており,古民家も至るところに散在しています。切り妻屋根の家はもちろんですが,京風の細い格子の入った町家は料亭でしょうか,なかには妓楼らしき建物見られました。いろいろなタイプの古民家が
楽しい。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは能登町役場内浦庁舎に停めました
○小木(おぎ)/能登町小木 
 
   
▲細い格子が特徴が旧料亭が妓楼  ▲旧家を思わせる建築も見られます
北海道や千島に出稼ぎ農民として出漁
 江戸時代から主力の産業は漁業です。農業従事者も冬場の農閑期は,漁業で稼ぎをすることも多いそうです。そのため冬場は,近郊近在から多くの人が集まって賑やかになりますが,そこからもれた者は金沢や大坂方面に出稼ぎに行きます。すでに江戸時代後半から出稼ぎが行われていたようです。明治に入ると沖合漁業もはじまり,大正になると北海道,千島方面に出稼ぎ漁民として出漁しました。
切妻造りの三角屋根
 昔からの町家は長い板塀の続く立派な造りが多い。切り妻の三角屋根が印象的です。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○柳田(やなぎだ)/能登町柳田 
 
水害対策と用水の確保は村の命
 能登町の内陸部にある集落です。江戸時代は加賀藩領で、村高が1200石を越えるという大きな村でもありました。そのため“千石在所”と呼ばれたそうです。やはり村あげての水害防止策、用水確保のための堰造りなど積極的実施されました。とはいうものの、常に普請は欠かせなかったとか。
改造,改築が進む町家
 旧柳田村の中心地で最も大きな集落です。漆や炭,薪などの生産し移出しています。いまではほとんどの町家にアルミサッシが入って,機密性を高めています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは野田区コミュニティセンターに停めました
 
○鵜川(うかわ)/能登町鵜川 
 
   
▲旧道沿いに連なる平入りの町家群  ▲漁師町特有の路地も公道です 
藩政時代から繁栄した町
 富山湾沿いの集落です。藩政時代から漁業が盛んで,沖合は好漁場でした。古文書にも商家,漁師が多く,繁盛していたと記され,かなり裕福な集落であったらしい。しかし江戸期の数回の大火で,多大な損害を被ったそうです。また宝暦年間には水害,風害,日照りなどで百姓一揆が起こりました。
見ごたえのある町並み
 町を歩くと漁村特有の切り妻屋根が多く見られます。しかも1軒あたりの家屋も大きく,往時の繁栄ぶりが感じられます。また格子窓のある旧商家もあり,見ごたえのある町並みです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○宇出津(うしつ)/能登町宇出津 
 
   
▲ギッシリ詰まった漁師町特有の町家群  ▲澤乃湯/2018年1月に惜しくも廃業 
●江戸時代は百姓一揆が多発しました
 藩政時代,奥能登の中心地でした。藩の地方行政機関,年貢米などを収蔵する蔵などを設置。幕末には海防のための台場も造られました。漁業が盛んで,かなり繁盛したとか。宝暦年間(1751-64)には奥能登最大の百姓一揆が起こり、打ち毀しが多発しました。また火災も多く発生し江戸時代は火災発生の連続でした。明治に入ってからも奥能登の中心地で、行政経済の各機関が設けられました。大正7年に富山県で発生した米騒動が影響を受け、600人が蜂起したそうです。
板壁,板塀のある町家が続きます
 ところで地名の由来に小港を意味する「ウシュリ」が転訛した説がありますが、根拠が薄いそうです。通りには格子窓や板塀,板壁のある町家,漁港には土蔵が並んでいます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは能登町役場に停めました
 
○中居南(なかいみなみ)/穴水町中居南 
 
   
▲改築、改装でも往時の面影があり  ▲ガラス窓のデザインもオシャレ 
鋳物で栄え、ナマコを藩に献納
 古老は「いなみ」と簡略化して呼んだそうです。隣町の中居と同じく江戸時代初期は鋳物業が盛んでした。村田氏ら5家が鋳物師として伝えられています。町も大きく繁栄したそうで,わずかな人口にも関わらず,社寺は幾つもあります。しかし鋳物業も衰退していくにつれ,その技術は左官に伝えら,それは出稼ぎとして町の経済は支えられました。留守宅ではわずかな田畑を維持。また冬期はナマコ漁が盛んでした。ナマコは藩に献納されたそうです。
古い町並みが延々と続きます
 クルマ1台がやっと通れる道の両側に,石垣,土塀の蔵,板塀,板壁のある町家など,古い町並みが延々と続きます。往時の繁栄ぶりが偲ばれます。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは大龍寺駐車場に停めました
 
 ○黒崎(くろさき)/穴吹町黒崎
 
こぢんまりした花の似合う町並み
 黒崎集落を歩いていると,花壇や各種植栽の多さ,美しさに気がつきます。板壁の町家に花が似合うということを認識させられます。もともとこのあたりは甲(旧兜村)に属します。地元の人にたずねますと,専順寺背後にある台地からは能登島,さらに遠方には立山連峰を望むことができ,「景色の良さはこのあたりじゃ一番」といわれます。
大きな切妻型の屋根が印象的です
 ちょっぴり小さな集落ですが,照りの効いた黒瓦に大きな切り妻屋根,そして板壁……。アルミサッシが入ったりしていますが,ちょっとホッとする町並みです。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 ○宇加川(うかがわ)/穴水町宇加川
 
   
▲小さな集落ですが、潮風が心地いい  ▲切妻型古民家も健在です 
江戸時代は魚の干物が中心です
 地名の由来が,川に鵜が住み着いたところからきたとか。ほかに鵜島、鵜川、珠洲市には鵜飼など能登地方に“鵜”の付く地名がたくさんあります。
 宇加川あたりまでくると,海はすでに富山湾になります。藩政時代,漁業が盛んなことはいうまでもありませんが,ほとんどが日持ちのする干物が中心です。またわずかながら塩田もありました。
板壁と白壁の土蔵が続く
 バス停付近には,板壁や板塀のある町家,漆喰の白壁の土蔵など海岸沿いの狭い道の両側に残されています。歩いていると潮風の心地よさが感ぜられます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは宇加川集会場の駐車場に停めました
 
○高畠(たかばたけ/中能登町鹿島高畠
 
いろんな家屋がおもしろい
 加賀から能登へ向かう内浦街道沿いの宿場町として開けました。約1㎞ほどの距離の間に、ポツンポツンと古民家が建っています。連続して建っていないために、どこでクルマを停めようか、と思いながら通り過ぎてしまうのでした。再度Uターンして眺めながら、ようやくクルマを停めたのが、写真のあたりです。2階建ての低い町家があったと思ったら、やや大きな農家があったりと、いろいろで結構楽しいものです。
七尾街道の宿場町
 江戸時代は加賀藩領。七尾街道の宿場町として栄えました。明治に入ると、役場や小学校、駐在所が開設されるなど中心地としての役割りを果たします。 
感動度★
  もう一度行きたい度★
   交通 クルマは道端に停めました
 
○良川(よしかわ)/中能登町良川 
 
   
▲土蔵が一般住宅に見事に改造  ▲旧道沿いに切妻型住宅が点在 
能登への近道でした
 旧七尾街道西往来沿いの集落です。藩政時代,七尾の繁栄を維持するために,能登への陸路は必ず七尾経由でいくこと定められました。そのため邑知潟の東往来が主力の街道となりましたが,実際は西往来が近道ということがわかり,取り締まりをかいくぐって人々は良川を通りました。つまりこの地はあくまで細々とした間道ということです。しかし物流の増大と共に往来も盛んになってきたのも事実。
大きな三角屋根が旧道沿いに続く
 切り妻の大きな三角屋根が続くと,リズミカルで実に美しい街並みが見られます。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○西馬場(にしばば)/中能登町西馬場 
 
   
▲クルマもほとんど通らない静かな町 ▲旧道沿いに今も残る古民家 
白壁と幾何学的な柱,格子模様
 「にしばんば」ともいい「番場」と書くこともありました。町史によれば馬駆け場があったことから名付けられたそうです。旧七尾街道西往来沿いの集落です。この西往来は,ときおり地元の軽トラックなどのクルマが通りますが,実に静かな町並みです。そしてほとんどが昔,多分明治時代の建物が残されているのです。
明治12年は大火とコレラが発生!
 その明治時代,12年は厄年といってもいいほど災難にあっています。まず大火にあい隣接する上村、良川村を含めて150棟が焼失。さらにコレラが発生し、その惨状は目を覆うものがありました。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○能登部下(のとべしも)/中能登町能登部下 
 
   
 ▲薬局店も風情があります ▲格子は伝統の模様です 
美しい真壁造りが続く
 七尾街道西往来沿いは,意外にも多くの切妻型で真壁造り古民家が残されています。切り妻屋根に白壁,柱をむき出しにした,デザインは1000年の歴史があるといわれています。また平入りで格子のある町家も美しく,見ていても飽きることがありません。
能登上布会館で機織り体験
 江戸時代,織物産業中心に発展した町です。特に能登上布は近江から職工,織女を招いて作った上質の布です。それを安部屋港(現・志賀町安部屋)から積み出し,特産品として流通しました。いま,織物の町を思い起こすようなものはありません
。ただ能登上布会館で機織り体験ができます。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○久江(くえ)/中能登町久江 
 
   
▲蔵も見応えがあります  ▲旧道沿いに古民家が多数残ります 
金沢から七尾へ向かう主力の街道
 金沢から七尾へ向かう主力の街道で、藩政時代は東往来といわれました。「くえ」とは古代から地滑りを意味するそうで,古墳群が発見されています。
 もともと水量の豊富な久江川のおかげで,稲作が盛んで水田率が高いそうです。また石灰の製造も盛んで明治時代まで続き,さらに絹織物は大正時代まで繁栄が続くのです。そうしたことから物流が盛んになり,町が繁栄していきました。
旧街道沿いに古民家群
 切り妻屋根に真壁造り,格子窓とこの地方独特の建築が並びます。独特の照りのある黒瓦が美しい。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 

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