茨木市(いばらきし)
○郡山(こおりやま)/茨木市宿川原町 | |
●赤穂藩藩主・浅野内匠頭も宿泊 古くは高峰里山(こおりやま)とも書いたとか。京都と西宮を結ぶ旧西国街道沿いには5つの宿場があります。郡山宿はその真ん中にあります。本陣(写真)は,大名のほか宮家,公家,僧侶などによく利用されたそうです。その御成門(おなりもん・正門)の脇にあった五色の椿から「椿の本陣」とも呼ばれています。母屋は約290年前に再建されており,入母屋造りで本瓦葺きになっています。 残された宿帳には,諸大名や赤穂城主・浅野内匠頭,明治天皇の名前が見られます。昭和23年(1948)12月に国の史跡に指定されました。 ●浪速少年院内に郡山城跡があります 戦国時代から古文書などに登場する地名です。郡山城は浪速少年院の敷地内にあり、少年院建設の際、石垣に使用されたと思われる家紋の刻まれた石が出土しています。郡山は丘陵地のために大豆、小豆、茶、蒲萄などを産出。年貢は米ではなく銀で納めていました。特産品は篭細工で特にザル篭は大坂へ出荷していました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○総持寺(そうじじ)/茨木市総持寺 | |
●江戸時代は絶え間ない水争い 文字通り寺名が町名になっています。江戸時代は幕府領、田安領、旗本知行らに変遷。村高は300石余とそれほど大きな村ではありません。しかし総持寺には幕府から25石前後の石高を与えられており,かなりの力があったようです。さて江戸時代は、安威川からの引水で絶えず水争いが起きているところです。特に江戸末期の文化6年(1809)~文政7年(1824)の16年間は、奉行所でも解決できず、近郷の庄屋5人の調停でやっと妥協したそうです。 ●ぎっしり詰まった古民家群 総持寺周辺は,迷路のような路地が張り巡らされており、軽自動車1台がやっと通れる道幅です。その両側に下板張りの古民家が立ち並んでいます。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 阪急電車京都線総持寺駅から徒歩10分 |
○上泉(かみいずみ)/茨木市上泉町 | |
●江戸時代は領主が絶えず入れ替わる 江戸時代は田中村で、はじめは京都所司代板倉氏領、幕府領、大坂城代、下総古河藩領など数え切れないぐらい領主が変わっています。こういう落ち着かない村は争いも多く、総持寺村と同じように安威川の引水に関する水争いがおきています。 ●まだまだ古民家が残る 明治期に開通した茨木街道沿いの集落です。かつては東西に走る西国街道,南北の亀岡街道に接続しており,交通の要衝でした。いまは格子窓や虫籠窓,土蔵など,古民家が多数残る静かな住宅地です。地名の由来は旧茨木川の左岸にあり。この川の伏流水が酒造りに適していたので、酒造地として栄えました。そこで「よい水のわくところ」ということで通称上泉町と呼ばれ、そのまま町名に採用したそうです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 阪急京都線茨木市駅から徒歩15分 |
○安威(あい)/茨木市安威 | |
▲黒塗り壁の長屋門のある旧庄屋 | ▲ 茨木街道沿いにも古民家群 |
●茨木街道(支線)沿いの集落 古文書や典籍によって阿為・安井・藍・阿井とも書いています。安威川の右岸一帯に広がる土地で、安威郷とあるので名付けられたといいますが、藍を栽培していたところから命名したという説もあります。また中臣氏系の藍氏がいたところでもあります。中世には安威荘と荘園名として記録。江戸時代は交通の要衝であるところから、幕府領、旗本知行でもありました。 ●ギッシリ詰まった古民家群 さて集落内に一歩足を踏み入れると、古民家群のど真ん中にタイムスリップしたような感じ。明治時代からの建物が多く残っており、長屋門や白壁の土蔵などの商家、旧庄屋が見られます。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 阪急京都線茨木市駅からバスで塚原口下車徒歩5分 |