○北野(きたの)/神戸市中央区北野町 | |
▲うろこの家/国の登録文化財 | ▲風見鶏の館/明治42年築 |
●最盛期には200棟以上 北野は何度も訪れた町です。1977年のNHK連続テレビ小説『風見鶏』(主演・新井春美)の舞台になってから一躍有名になりました。そのころから異人館の町として観光客が殺到したのです。阪神・淡路大震災ではかなりの被害を受けましたが,いまではすっかり復興しました。 ●外国人居留地でした もともと外国人居留地だったところで,最盛期には200棟以上の異人館が建てられたそうです。その後開発の波が押し寄せる中で,1980年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 阪急・JR・阪神の三宮駅から徒歩15分 |
○有馬(ありま)/神戸市北区有馬町 | |
▲有馬川の両側には桜並木と高層の温泉街が並んでいます | ▲アイスコーヒー(500円/兵衛)名物炭酸煎餅が付きます |
●豊臣秀吉の愛した温泉 有馬温泉は神戸の奥座敷といわれ,戦国時代、豊臣秀吉が愛した温泉でもあります。奈良時代に僧・行基が温泉寺を建立し,療養施設の宿坊も多く建てられたとか。 ●裏道に情緒ある街並み テレビのCMの影響か,高層ビル林立の温泉街のイメージが強く,一度も行ったことがありません。実際に町を歩くと,特に裏道は温泉街独特に風情があって,とても楽しい散歩道です。 狭い坂道を歩きますと,和食店や竹細工店,老舗の炭酸煎餅専門店などが並んでいます。有馬は天然の炭酸水のわき出る所でもあります。炭酸煎餅が名物だそうです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 神戸電鉄有馬温泉駅から徒歩5分 |
○道場(どうじょう)/神戸市北区道場町道場 |
●虫籠窓のある古民家 江戸時代は丹波街道,大坂街道,播州街道の交差する交通の要衝で重要な宿場町でした。また南側には鎌倉時代から続く名湯・有馬温泉があります。豊臣秀吉は奉行を置き,町の復活に力を入れ化政期(1804-30)には「有馬千軒」とまでいわれました。当然,その余波を受けており,農産物の出荷など村は大いに賑わいました。しかし明治に入って鉄道が相次いで開通,徐々に衰退していくのです。 ●格子窓や虫籠窓の見られる古民家 いまは街道沿いに格子窓や虫籠窓のある古民家,白壁の土蔵などが往時を彷彿させます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○淡河(おうご)/神戸市北区淡河町淡河 |
●当地を制圧した秀吉は商業に力を入れました 古くは泡河、粟川、淡川とも書きました。志染川の支流・淡河川流域の集落です。川筋に沿って、播磨中部から摂津の有馬、三田方面へ抜ける街道が走っていました。天正6年(1578)6月、当地を制圧した秀吉は「淡川市庭」を楽市にするなどの掟を次々に公布し、商業を保護するなど交易を促進しようとしています。 ●旧道沿いにわずかに残る古民家 江戸時代は明石藩領で湯山街道沿いの宿場町です。播磨国に属し淡河村ともいいました。村高は700石弱で享保20年(1735)の飢餓では無利息で84俵の貸与があったそうです。ところで県道38号線裏の旧道沿いに、わずかに古民家が残ります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道の駅淡河の駐車場に停めました |
○寺町(てらまち)/尼崎市寺町 | |
▲尼崎に文化財があるなんて… | ▲美しい寺壁が続きます |
●秀吉の時代に寺院を1カ所に集めました 関西に一時期住んでいましたが、尼崎に寺町があるのに驚きました。秀吉の時代に尼崎城が築城されたとき、寺院を1カ所に集めたそうです。現在11カ寺あり、国の重文が7件、県や市指定の文化財が16件もあるという、文化財の宝庫となっています。ほんとうに驚きました。 ●「阪神・淡路百名所」の一つ 道路は整備されて、グループ連れの見学者の姿が見られます。大切にしたい街並みです。寺町のパンフレットは、隣接する民家の軒下に置いてありました。「阪神・淡路百名所」の一つです。で、「阪神・淡路百名所」って何? 地元の人も知らない百選です。ただ被災地の復興を目的することのようです。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 阪神本線尼崎駅から徒歩5分 |
○伊丹(いたみ)/伊丹市伊丹 |
●戦国時代から交通の要衝 京都へ向かう西国街道,大坂へは伊丹街道,丹波への丹波街道の交わる交通の要衝でもあります。そのせいか中世はしばしば合戦の舞台になりました。いまは大阪国際空港のあるところで、昔は伊丹空港といいました。 ●旧岡田家酒蔵は最古で重要文化財 名産といえば酒造りがあります。かなり繁栄し酒造家たちは,多くの文人墨客を招き,俳諧をはじめ町人文化が花開いた時期もありました。しかし,それも灘の酒に圧されて衰退していくのです。 旧岡田家酒蔵は,最古の酒蔵で重文,隣の旧石橋家住宅は江戸時代に建てられました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは市営宮ノ前地区駐車場に停めました |
○小浜(こはま)/宝塚市小浜 |
●街道が交差する宿場町 江戸時代は有馬街道,京伏見街道,西宮街道なが交差する宿場町で,まさしく交通の要衝でした。また小浜流と言われる酒造りがあったと言われるくらい酒造りも盛んでした。 ●一流の大工や左官を輩出 しかし一番は大工や左官の町として栄え,享保8年(1723)には大工の組・小浜組が成立し,幕府からも鑑札が出ました。その後,大阪,兵庫などの一帯で活躍。京都御所の蛤御門の修理で名前をあげたのは知られています。現在は江戸時代後期から大正期にいたる町家が残されています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは宝塚市立病院に停めました |
○三田(さんだ)/三田市本町 |
●商家などの町家が中心 九鬼久隆氏が寛永10年(1633),この地に移されてから明治維新まで3万6千石の城下町です。特に本町は,町家や商家が中心で黒瓦葺きの平入2階建てが中心です。ところどころ連なって建っていますが,約1㎞に渡って点在しています。 ●盛り上がる町並み保存 いま行政やボランティア組織などを通して,町並み保存の動きが出ています。ぜひ壊滅しないうちに手を付けてほしいと思います。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR福知山線三田駅から徒歩15分 |
○稲田(いなだ)/三木市吉川町稲田 |
●農民の不満が爆発寸前 関ヶ原の合戦後,幾多の領主の支配となりましたが,明石藩領の時代には農民の不満が爆発寸前までいきました。原因はいろいろですが,役人の横暴が多かったようです。また災害の多いところで,河川やため池の決壊,コレラの流行もみました。 ●町おこしの酒米「山田錦のふるさと」 いまでは無名の町ですが,大坂街道の宿場町でもあります。歩いて見ますと本瓦葺き平入の古民家,白壁の土蔵などが若干残っています。また町おこしの一環として酒米「山田錦のふるさと」のミュージアム建設や祭りに力を入れています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは稲田郵便局前に停めました |
○芝町(しばまち)/三木市芝町 |
●湯ノ山街道沿いの町家 有馬に湯が栄えだしたころ,有馬に向かう道を「湯ノ山街道」と呼ばれました。三木城からは平山,芝町,大塚を経て山田町からの山田道,淡河からの淡河道を利用して有馬に向かいました。近くに心光寺がありますが,当初は久留美村にあったとされ,天正年間(1573-92)の戦いで焼失,現在のところに移転,再建されたとか。 ●直角に曲がった「鍵型の辻」も見られます 静かな町並みには造り酒屋,粋なレストランなどもあります。さらにゆるやかな坂道を歩くと,大塚には道が直角に曲がった「鍵型の辻」も見られます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはスーパーながさわに停めました |
○三木(みき)/三木市本町 | |
▲簡素な袖壁と格子が特徴 | ▲登録文化財の旧玉置家住宅 |
●有馬の湯で繁栄した町 秀吉の三木城攻めが激しくなったころ,傷を負った兵士たちを有馬に送り続けたというのは有名です。その後,有馬の湯の効能が広く知れ渡り,湯ノ山街道が形成されました。おかげで三木は繁栄したそうです。 ●江戸時代は大工や金物を扱う職人の町 江戸時代は姫路藩領、明石藩領、幕府領など数え切れないくら藩主が交代しています。寛保2年(1742)の『三木町由緒書上』では、いろいろな職業の人たちが住んでいましたが、町方といっても農村的な色彩が濃いようでした。あえていうなら木工関係の職人の居住する町であったといえます。大工道具を製作する鍛冶職人、それを扱う金物仲買問屋がどんどんでき、いつのまにか金物の特産地となりました。古民家は旧道沿いに連なっています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは中央公民館に停めました |
○寺町(てらまち)/明石市大観町 |
●いくつかの寺院で寺町 大化年間(645~650),法道仙人が創建したとされる善楽寺(現在,戒光院,実相院,円珠院の総称)は,平安時代に17か院もある大寺院でありました。円珠院の庭は,宮本武蔵が作庭したといわれています。そのほか市の指定文化財が多数あります。 ●光源氏が明石の上のもとに通った道??? また無量光寺(写真・正面奥)の静かな土塀沿いの小路は,『源氏物語』の光源氏が明石の上のもとへ通った道に見立てて,現在は「蔦の細道」と名付けられています。しかし現実の細道にはガッカリさせられました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは寺院横の空き地に停めました |
○江井島(えいがしま)/明石市大久保町西島 |
●瓦葺きの大屋根と板塀 古くは江井ヶ島とも書き、江井崎ともいいました。『源平盛衰記』(巻7)に備前児島に流罪になった藤原成親の通過点の一つに「えい崎」が見られます。 ●“兵庫関”での徴税に東大寺と住吉社が争う また江井ヶ島商人たちが、東大寺領であった兵庫関で狼藉を働いたといいます。一部には刃傷沙汰にまで発展したそうです。14世紀前半の流通経済の発展のなかで、兵庫関での徴税の被害を被ったとする江井ヶ島商人に命じて徴税抵抗運動を命じたのが住吉社だといわれています。 ●「灘の酒」と対抗した「西灘の酒」 昔から良質の水が湧いたということから酒造業が発展し「灘の酒」に対して「西灘の酒」と呼ばれました。明治に入るとさらに造り酒屋が増えます。それにしても歩いていますと江井ヶ嶋酒造の黒瓦の大屋根と板塀に圧倒されます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは江井ヶ島酒造横に停めました |
○大蔵谷(おおくらだに)/明石市大蔵八幡町 |
●いろんな建物が見られます 西国街道の宿場町です。格子窓や土蔵など古い町家を見ることができます。また木造2階家の家屋もあったりで,変化にとんだ町並みです。ただ連なっているわけではなく,隣駅の人丸前駅まで歩いて探した町並みでした。ところで本陣は広瀬氏が開いたとされますが、その祖の広瀬治兵衛は天正年間(1573-92)に岩国からこの地に移り住んだとされます。 ●クスノキの大樹が島を覆ったことに由来 地名の由来は、古くからこの地にあったクスノキの大樹が朝は淡路島を、夕方は大和島を覆ったことから旅人が大闇(おほやみ)と呼んだことからきたという説。つまり暗闇のことです。また屯倉(みやけ)が置かれていたからという説があります。屯倉とは収穫物を蓄える倉庫のことです。その後、皇室領全体を指すことにの使われます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 山陽電鉄大蔵谷駅から徒歩10分 |
○大開通(だいかいどおり)/豊岡市中央町 | |
▲旧豊岡市役所/左右の大きなアーチ状の窓が特徴・昭和2年築 | ▲旧兵庫農工銀行/ルネサンス形式の銀行建築・国の登録文化財 |
▲京田邸住宅/以前は家具屋で、角の塔屋が特徴。鉄筋コンクリート造 | ▲リモージュ・ストーク/三戸一体となったRC造3階建て住宅で1階は商店 |
●大正12年・北担大震災後の復興建築 東京でいう復興建築は関東大震災後の建築を指します。しかし豊岡では大正12年(1925)5月23日に発生した北但大震災後の建築を指します。市街地の大半が倒壊と焼失、壊滅的な打撃を受けました。町の復興にあたり当時の豊岡町は、防火様式に加え最新の様式を取り入れて建築にあたるように指導。兵庫県も大幅な補助金を供出しました。 ●目を見張る“復興建築群”にも注目! いま大開通や生田通り、宵田通りなど多くの復興建築が残されています。限られた期間で一気に造られた建築群は珍しいといえます。「復興建築」がひとかたまりになっているのです。 豊岡といえば、城崎温泉やコウノトリ、出石の町並み、カニなどが知られていますが、近代化遺産ともいえる「復興建築」にも注目されてもいいかもしれません。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 JR山陰本線豊岡駅から徒歩10分 |
○元町(もとまち)/豊岡市元町 | |
▲豊岡劇場/切妻型屋根を全面に見せた木造の蔵を改造・昭和初期築 | ▲高石医院/旧但馬貯蓄銀行でいまは1階が医院、2階が画廊・昭和初期築 |
●かつて藩政時代の中心地でした 元町通りも復興建築が集まっているところです。もともと中世から江戸時代にかけて、豊岡城の城下町として発展。中心地だったところです。特に船着き場として水運の利便性の高さから、人や物が集まりたいへん賑わいました。 ●オシャレな近代建築も見られます 繁栄の名残として、旧料亭、劇場、旧家、寺院が点在します。町を歩いてみます、看板建築が連続して連なり、さらにオシャレな近代建築も見られます。魅力ある町並みです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR山陰本線豊岡駅から徒歩20分 |
○京町(きょうまち)/豊岡市京町 | |
▲旧兵庫県庁正門(明治2年築) | ▲豊岡藩主・京極家の屋敷(非公開) |
●町の中央に豊岡城址 町の中央部に神武山があり、そこは豊岡城址。周辺を城下町を形成しており、武家屋敷が連なっていました。その後、明治に入って商業地区ができはじめ、市道の両側の豊岡商店街は城下町の一部でした。商店街のまわりは住宅地として形成されました。 ●豊岡城址の北側に古民家が残されています いま豊岡城址の北側に旧藩邸が見られますが、その周囲に商家や武家屋敷が残されており、往時の面影を見ることができます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR山陰本線豊岡駅から徒歩20分 |
○府市場(ふいちば)/豊岡市日髙町府市場 |
●近世になって少しずつ市場が衰える 地名の由来は、但馬国の国府が置かれ、なおかつ市場があったことからと言いますが、定かではありません。江戸時代当初は出石藩、その後幕府領となります。中世には確かに市場が存在したそうですが、近世になって商人たちの商いが必ずしもうまくいったとはいえず、市場の機能は衰えていったそうです。 ●但馬街道沿いに古民家群を形成 いま旧但馬街道沿いに旧家があり、古民家群を形成。 蔵や格子、虫籠窓のある町家が軒を並べています。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○江原(えばら)/豊岡市日髙町江原 |
●出石藩から幕末まで保護された商業の町 古くは大和国からやってきた豪族・巨勢(こせ)氏が当地を開拓し、地味良好で「善原(えばら)」とほめたからという伝承があります。南北朝時代は、荏原(えばら)と書いたようです。江戸時代は出石藩領で、村高は70石前後ときわめて少ないですが、商業の町と発展しました。出石藩からも諸役免除され、特権地区として保護されました。この保護政策が幕末まで続きます。 ●古い町並みは但馬街道沿いに展開 明治42年に山陰本線が城崎まで開通し、途中の江原でも駅が誕生しました。古い町並みは但馬街道沿いに展開し、格子窓や虫籠窓のある町家が残ります。また煙出しの付いた大屋根のある旧養蚕農家と思われる古民家も見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは江原駅東駐車場(最初の30分無料)に停めました |
○出石(いずし)/豊岡市出石町出石 | |
▲観光客でいっぱいの辰鼓楼 | ▲出石そば(10皿) |
●伝統的な町家があります 2回目の訪問です。雨が降っています。出石の辰鼓楼の付近は、観光客でいっぱいでした。土産物店もレストランも一通りそろっています。年間100万人の観光客がくるというから驚きです。 町家を含む伝統的な建物の比率は高いようです。確かに人のいっぱい集まっているところから離れたところに、意外にも景観の美しい町並みが存在しています。なお芝居小屋「永楽館」がちょっと離れたところにあります。 ●兵庫県は高速道が発達 ここに来たのは2回ともクルマです。駐車場は完備されており、苦労はしないでしょう。兵庫県は東西の高速道のほかに、南北を結ぶ高速道が意外に発達。大阪、神戸からも比較的気軽に行けます。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは観光客用駐車場に停めました |
○養父市場(やぶいちば)/養父市養父市場 |
●但馬牛の集散地でわが国最古の牛市場 戦国時代、但馬牛の集散地として栄えました。古くは市場と呼ばれていたようです。販路も伊勢、泉州、紀州への“上り牛”の拠点となりました。市場には、出石藩、豊岡藩、村岡藩、鳥取藩など諸藩の本陣を務めた大橋家があります。これらのことから、わが国最古の牛市場といわれています。 ●旧商家などの町家が軒を連ねます 街道筋には各地から訪れる商人や旅人、近郊近在の住人などに向けての商店が軒を並べていました。いま歩いて見ますと、旧商家と思われる町家が見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマはJAたじま養父支店に停めました |
○畑(はた)/養父市畑 |
●古代は都に絹織物を献上していました 古くから養蚕が盛んな土地柄でした。最盛期には年間5㌧の繭収量があったそうです。古代では都に絹織物を献上し、機織が盛んであったことが地名の由来ともいわれているとか。江戸時代に入ると、幕府からの商品作物の奨励が行われ、桑以外に漆、茶、楮の4種で四木栽培ともいわれ、畑地の多いことがうかがわれます。 ●多くの大型旧養蚕住宅が見られます 大正末期には畑紙ともいわれ、和紙の生産が盛んになり、特産品になりました。いまの集落は大きく上畑、下畑の2カ所に分かれており、旧養蚕住宅は畑下の方が多く見られます。大きな切妻型の土壁が残りますが、3階建て木造住宅に改築した建物も点在。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○左近山(さこやま)/養父市左近山 |
●旧養蚕住宅や旧家の残る集落 大屋川沿いに開け、一部急斜面に立地する集落です。古くは、迫山とも書いたとか。地名の由来は、山が左に近く迫った地形からからだととか。江戸時代は出石藩領ですが、米作には恵まれず村高は50石前後とわずか。 ●小野山鉄蔵は剪定法を考案して黄綬褒章を受章 しかし明治に入って養蚕業の発展は著しく、特に小野山鉄蔵の貢献は偉大でした。桑の木の独自の剪定法を考案、小野山式剪定法と呼ばれました。増産に貢献したことから県下で最初の黄綬褒章を受章。県道沿いに顕彰碑が立っています。 ●旧養蚕住宅も消えつつあります 歩きますと、集落自体はそれほど大きくありません。旧養蚕住宅もそれほど残らず、残念ながらわずかしか見られません。それでも旧家と思われる板塀や蔵のある古民家は点在しています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○関宮(せきのみや)/養父市関宮 |
●最も華やかな明治~大正~昭和初期 地名は、その昔、皇極天皇の皇極元年(642)、疫病が西国に蔓延しましたが、この地でせき止めたということで、神徳により関宮となったそうです。江戸時代、慶長9年(1604)に幕府領となります。しかし村が繁栄するのは明治に入ってからです。まず養蚕業が発展し、さらに明治32年に国道23号線が大野峠を越えたことから沿道集落は活気づきます。さらに牛市の開設で牛の飼育が活発化。果樹の栽培、中瀬鉱山(後の日本精鉱)の誕生。思えば、明治から大正、昭和初期が最も華やかで楽しい時期だったかも知れません。 ●旧商家や養蚕住宅は改築、改造されています いま往時を偲ばせる建物は少なくありません。商家が密集し、養蚕住宅も数多く残っていますが、いずれも大幅に改築、改装されています。 ●作家・山田風太郎の記念館もあります 大正11年(1922)、作家・山田風太郎は20歳で上京するまで、当地の医家に生まれ育ちました。記念館もあります。説明を受けましたが、かなりの秀才だったようです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは山田風太郎記念館に停めました |
○八鹿(ようか)/養父市八鹿町八鹿 |
●豊岡との船運が盛んになりました 江戸時代は幕府領。在郷町の性格を持つ集落です。農村部に煙草、養蚕など商品作物の発展にともなって発生した集落といえます。江戸中期から市が立ち、たいへんな賑わいをみせたそうです。特に豊岡とのあいだに舟運が盛んになり、米穀類、薪、炭、湯治客を送り、帰りに塩、肥だめを運んだそうです。明治に入ると周辺の集落ともども養蚕業が栄え、生糸の仲買人が多く、町は大きく発展しました。 ●改築改装された旧商家が連なります 町並みは八木川沿いに広がり、改装はされていますが、2階建ての棟割り長屋、看板建築、蔵造りの商家などがきっちり連なっています。なお、地名の由来は、屋根の立ち並ぶ岡という所から起こったとか。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは養父市役所の駐車場に停めました |
○八木(やぎ)/養父市八鹿町八木 |
●江戸時代は幕府領で生野代官所の支配 古くは養耆(やき)とも書きました。戦国時代以降、代々八木氏が知行していましたが、天正8年(1580)に豊臣秀長の軍門に降り、因幡討伐に加わりました。その後、八木氏が去ったあと別所重棟が城主となります。江戸時代は出石藩領ですが、後に幕府領となり、生野代官所の支配下となります。 ●養蚕住宅以外に旧商家も多く見られました ところで、八木城の城下町としての町並みは、八木氏のころから形成されました。現在、家老屋敷、お殿屋敷などの小字名が残っています。町を歩いてみますと、旧養蚕住宅も見られますが、商家も多くかつて城下町だったことを印象付けます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○大屋市場(おおやいちば)/養父市大屋町大屋市場 | |
▲旧養父合同銀行大屋支店/昭和8年頃の建築で、現在建築工房・ヴエネックスが所有・管理。兵庫県が景観形成重要建造物の指定 | |
●古くから市が立ち、にぎわっていました 江戸時代は出石藩領で後に幕府領となります。古くから村の中心地で、盆、正月の必需品などを売る市場が立っていました。しかし大屋川や明延川の水害が多発。住民たちが上流地域に移転するなどし、その都度、露店を出したと言われます。しかし次第に衰退していったようです。 ●多くの古民家は改築、改造されています ところで市場の店頭には、農産物や日用品のほかに、葡萄石、煙草、麻糸、牛、玉石、蝋石、蚕種、繭、山桑など特産品が並んだそうです。銀行の支店が進出するくらい町はにぎわいました。いま町中を歩いて見ます、屋根に空気抜きのある旧養蚕住宅がけっこう見かけます。出格子や虫籠窓のある商家など、軒を並べていますが、大部分は改築、改造されています。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは大屋保健センターに停めました |
○大杉(おおすぎ)/養父市大屋町大杉 | |
▲3階建てや2階建ての旧養蚕住宅が密集しています | |
●3階建て養蚕住宅の集積度の高い集落です 3階建ての養蚕住宅が林立する農村景観が評価されたそうです。大杉は大屋川沿いに広がる比較的小さな集落です。平成18年度に行った市の調査では、養父市内になんと495戸の3階建て養蚕住宅がありました。これだけの建物が残っているのは極めて珍しい。大杉集落には27棟の養蚕住宅がありますが、そのうち3階建てが12棟。密度の高い集積度といえます。もちろん2階建ての養蚕住宅も多数残されており、一般住宅として使用されています。 ●重要伝統的建造物群保存地区に選定 江戸時代は出石藩領で、良質の煙草が名産品として知られていたようです。クルマを駐車場に停めて路地のような狭い道を歩きます。土色の養蚕住宅が目に入ります。いまではギャラリーや飲食店、宿泊施設、一般住宅などに活用されています。もともと但馬地区を車で走っていても、旧養蚕住宅は目に付きますが、大杉は特に多いように思います。平成29年に文化庁から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★★ 交通 クルマは観光客専用駐車場に停めました |
○筏(いかだ)/養父市大屋町筏 | |
▲2階建て、3階建てが入り交じりますが大部分が一般住宅に改造 | |
●繭、桑などの養蚕関連業が中心 地名は文字通り、筏を組みスギやヒノキを大屋川を利用して搬出していたことがいわれとか。戦国時代は青木氏領から前野氏領、そして文禄4年(1595)には出石藩領、幕末には幕府領となりました。特産は木材、木炭などの林業分野、鉱石や牛なども目立ちますが、やはり、繭、桑などの養蚕関連業が中心となりました。 ●2階建て、3階建て混じった旧養蚕住宅がギッシリ 実際に町を歩いてみますと、大部分が旧養蚕住宅と思われます。もちろん一般住宅化していますが、面影はいたるところに見られます。隣の大杉集落よりも多いように思えますが、残念ながら原型を保っている養蚕住宅はほとんど見られません。2階建て、3階建てが入り交じり見ていても楽しくなってきます。話は変わりますが、中尾姓の多い土地だそうです。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは西谷公民館の駐車場に停めました |
○中間(なかま)/養父市大屋町中間 | |
●産業はやっぱり養蚕が盛んでした 地名は西谷地区の真ん中にあることに由来するとか。戦国時代は青木氏領から前野氏領。江戸時代、文禄4年(1956)出石藩領、幕末の天保6年(1835)に幕府領となりました。特産に繭、桑、木材、製炭などがありますが、なんといっても養蚕が盛んでした。 ●養蚕住宅を改築、改装して一般住宅化 いま集落を歩いて見ますと、2階建て、3階建ての旧養蚕住宅が残っています。ただ大部分が一般住宅に改築、改造していますが、面影は見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは栗の下会館の駐車場に停めました |
○門野(かどの)/養父市大屋町門野 | |
●生野鉱山で使用した樋などの部材はこの地から出荷 古くは葛野と書きました。江戸時代、文禄4年(1595)出石藩領で、元禄16年(1703)からすでに幕府領となります。隣接する集落と比較してかなり早い段階から幕府領となるには、鉱山との関係が取りざたされています。まず生野鉱山で使用した樋(とい)、おけなどの大部分は、この地の守り神・萱森神社の竹林に依存していたからです。 ●やや小ぶりな旧養蚕住宅が見られます しかし江戸末期からは桑や繭が特産となり、養蚕住宅が一気に増えました。いまは小ぶりな旧養蚕住宅が残っています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○和田(わだ)/養父市大屋町和田 | |
●文禄時代に多量の銀が産出 近隣の集落と同じく、江戸時代・文禄16年(1703)から幕府領となりました。明延地区には古くは、奈良時代から鉱石が産出し、奈良東大寺大仏の造像に多量の銅が送られた鉱山があるとか。幕府領になったのは、文禄年間に多量の銀が産出されたからです。しかし鉱石の産出が衰えてくると、繭や桑木、製紙業が盛んになってきました。とくにご多分にもれず、養蚕住宅が林立しましたが、その規模は小さいものでした。 ●小規模な改築後の一般住宅が残ります ところで地名の由来は木の皮(きわだ)からだとか。また川がゆるやかに曲がるところという語源もあります。いま歩いて見ますと、川沿いに旧養蚕住宅と思われる改築後の一般住宅が残っています。土蔵などもポツンポツンと見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは和田会館の駐車場に停めました |
○篠山(ささやま)/篠山市西新町 | |
▲河原町には商家が軒を並べます | ▲お徒士町通り/武家屋敷が続く |
●茅葺きの武家屋敷群 篠山は古くから観光地として関西方面の人たちに知られています。栗、松茸などを求めて秋に訪れる人たちが多いようです。また毎年12月に実施される丹波篠山ABCマラソンには、1万人近い参加者が関西一円から集まります。なお、お徒士町通りにはかやぶき屋根の武家屋敷がそのまま残っています。 ●河原町の蔵造りの商家群も見どころです 数年ぶりに3度目の訪問です。重要伝統的建造物群保存地区に選定されてから急ピッチで整備がすすみ,見違えるようになっていました。なお、河原町には時代は違いますが江戸や明治に建築された商家群も残っていて、篠山は多彩な顔を見せています。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました |
○福住(ふくすみ)/篠山市福住 | |
●中世は豊臣氏の蔵入地でした 古くは福泉とも書きました。地名は川岸の肥えた土地であることによるとか。近くの桂山には、中世の仁木市の居城であった城跡と館跡が見られます。もとは豊臣氏の蔵入地(くらいりち)だったところです。軍勢の兵糧米を確保する意図があったのですが、のちに財政基盤の安定を図るためといわれています。 ●重要伝統的建造物群保存地区に選定 慶長13年(1608)から篠山藩領となりました。盆地で寒冷地のため冬期間,村民の多くは灘五郷への出稼ぎをするなどで現金収入を得たとあります。地元でも酒造りや養蚕業が盛んでした。そのため土蔵や豪華な商家などの町家が残ります。平成24年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは篠山市役所多紀支所駐車場に停めました |
○青垣(あおがき)/丹波市青垣町佐治 | |
●迷惑な年貢上納銀の警護で困窮度が増す もともと丹後ちりめん,京都西陣織の原料の供給地で,養蚕業が盛んでした。丹波路や山陰道なのど交通の要衝であったこと,生野銀山からの上納銀の通過する宿場であったことなどから大きく発展しました。ただ大坂への年貢上納銀の警護は厳重で,伝馬人足の確保,宿泊準備,接待費用などは通過する町村の負担で,村民の困窮度が増したのも事実。 ●豪華な商家が残されています いまは往時を彷彿させる豪華な商家が残されています。明治の建物ですが,土蔵や商家などの町家がホッとさせます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは中兵庫信用金庫に停めました |
○口銀谷(くちがなや)/朝来市生野町口銀谷 | |
▲独特の形をした虫籠窓 | ▲グレーの壁と格子窓が似合う |
●銀山従事者の住む住宅を銀屋といいます 古くは口銀屋とも書きました。江戸時代から生野銀山の採掘で発展した町です。銀山に従事している人の住む所を銀屋といいます。生野で精製された銀の全量を、銀の横流しを防ぐために代官所で買い取りました。また人と物資の出入りの監視のため、街道・間道を問わず要所に番所を儲け、厳重な監視が行われたのです。 ●3日で終わった“生野の変”は明治維新の導火線 文久3年(1863)の討幕を旗印にした“生野の変”はこの地が舞台です。約1000人もの農民が参加した大がかりな挙兵。しかし周辺の藩の動きも早く、3日で収束しました。しかし天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されています。 ●旧社宅群を整備復元中 昭和48年,銀山は廃坑となりました。現在,生野銀山勤務者の旧社宅群(写真上)を近代化遺産として整備中です。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマはマインホール前の駐車場に停めました |
○竹田(たけだ)/朝来市竹田 | |
●古民家の残る旧街道沿い 生野のあと竹田に行きました。あっという間に着きました。竹田は旧街道沿いとJR竹田駅裏の寺町通りに分かれています。街道沿いは、ところどころに古い家があり、交通量もそこそこあります。蔵造りのうだつのある商家や2階建ての民家が見られます。 ●竹田城の麓は寺町風情があります 一方、竹田城跡の麓に4つの寺院が並び、その前の石畳の小道を寺町通りと呼んでいます。すこし寺町通りを歩きましたが、きちんと整備されていました。小川がすてきでした。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは観光案内センターの駐車場に停めました |
○北条(ほうじょう)/加西市北条町 |
●平安時代からの古刹 北条は平安時代からの歴史を誇る酒見寺の門前町として発展しました。さらに交通の要衝として宿場町、商業の町へと変わります。住吉神社の例祭は、播磨三大祭りの一つに数えられています。特に竜王舞は県の民俗文化財に指定されています。古来、一見田舎のように見えても、実際は都会のように賑やかな町といわれています。ところで商家独特の土蔵造りや間口の広い町家などの古民家は旧道沿いに集中しています。 ●ローカル鉄道・北条鉄道の終着駅 北条と言えば鉄道ファンならだれもが知っている“北条鉄道”が耀いています。小野市の粟生(あお)駅から加西市の北条町駅までの約14kmのローカル鉄道です。カブトムシ列車、ビール列車、サンタ列車など数多くのイベントを実施。面白いのは地元の菓子メーカーと一緒になってドーナツ列車が運行されました。かつては駅長を公募したことで話題にもなりました。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 北条鉄道北条町駅から徒歩10分 |
○赤穂(あこう)/赤穂市加里屋 |
●赤穂事件で一躍有名になります ご存じ赤穂事件で一躍有名になった町です。話題はどうしても大石神社や赤穂城に集中しますが、古い町並みが存在します。といっても天正10年(1582)、羽柴秀吉が備中攻めで当地を通過したときは、まだ町並みらしきものはなかったそうです。 ●浅野氏の積極的な城下町の整備 正保2年(1645)、浅野氏が入封すると、本格的な赤穂城の築城がはじまりました。約13年を費やして城が完成。同時に城下も整備され、武家地、町人町などを設けました。浅野氏は新田開発を積極的に行いました。特に上水道は近代まで続く赤穂の産業・生活を支えたと言われています。 ●本町筋(備前街道)に古民家が点在 本町筋(備前街道)に虫籠窓や格子窓のある古民家が集中。また浅野家や赤穂藩歴代藩主の菩提寺・花岳寺もあります。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは高光寺駐車場に停めました |
○坂越(さこし)/赤穂市坂越 | |
▲古民家がひと塊となっています | ▲ゆるやかな坂道にも古民家群 |
●膨大な古民家群に驚きます 国道250号線から一歩海側に入るのですが、案内板がなく、どこの信号を曲がればいいのかわかりませんでした。しかしクルマを停めて歩きますと、日本の古い町並みにふさわしい景観が守られていることに気がつきます。 ●豪華な蔵造りです 塩の積出港としても栄え、かつての回船問屋などの豪商がずらりとならんでいました。蔵屋敷を見ていますと、繁栄ぶりが偲ばれます。また造り酒屋の酒蔵もほぼ残されており、坂越の住民たちの保存に対する熱意が伝わってくるようです。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは海岸沿いの道端に停めました |
○龍野(たつの)/たつの市龍野 | |
▲蔵造りの町家が多く見られます | ▲ドラマのロケ地として多用されます |
●映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』のロケ地 2度目の訪問です。揖保川の西側(龍野城付近)に実にきれいに、歴史的民家が残されています。映画『男はつらい』(マドンナ・太地喜和子)の舞台にもなりました。 ●重要伝統的建造物群保存地区に選定 醤油蔵や武家屋敷、商家、町家などひとかたまりで保存、景観維持されているのです。そのうち重要伝統的建造物群保存地区に選定されるでしょうと思っていたら、実際に選定されました。ところで町並みのなかにはいくつかの資料館がありますが、赤レンガ造りの「うすくち醤油資料館」では、町の様子がよくわかります。路地まで板塀が続き、歩く楽しみの多いところです。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは龍野城付近の無料駐車場に停めました |
○新宮(しんぐう)/たつの市新宮町新宮 |
●13歳の藩主が病死、お家断絶…… 江戸時代,新宮藩主池田氏は鵤(いかるが)村から陣屋を移しました。寛文10年(1670)、藩主の池田邦照が13歳で病死し、藩は断絶します。しかし弟の次左衛門が新たに旗本に取り立てられ、知行地3000石を与えられて、引き続き陣屋が置かれました。以後街道の発達に伴い,陣屋町として発展しました。 ●高瀬舟を利用した抜け荷が盛んでした 交通の要衝ですが,特に揖保川を利用した高瀬舟で龍野へ一直線で行けるため、「抜け荷」が盛んでした。大豆、油粕など年間1000駄(1駄約40貫)にも及びました。特に大豆は竜野醤油業を背景に需要が旺盛で、大豆の相場が高騰するのを待って、新宮商人に売却されたといいいます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはゴダイドラッグの駐車場に停めました |
○室津(むろつ)/たつの市御津町室津 | |
▲木造3階建ての古民家群 | ▲港近くまで古民家が迫ります |
●狭い七曲がりを行きます 国道2号線から室津へクルマで行くためには、かなり狭い道を通りました。七曲がりというそうですが、対向車線にバスが来ようものなら、バックするなど神経をすり減らします。さすが三方山に囲まれた天然の良港です。瀬戸内海には歴史のある港町が多いですが、この室津も8世紀初頭の古文書『播磨国風土記』にも出てくるそうです。 ●漁港と蔵造りの民家 石畳ののんびり歩いていますと海の香りがプ~ンとします。瓦葺きの2階建ての町家がそこかしこに見られます。なかには防火壁をほどこした3階建てもあります。また格子のはまった民家も見られますが、2階にてすりのある出窓があります。このタイプは結構珍しいものです。 港にも足を入れます。そばまで蔵造りの家々が並んでいます。水辺の町は,本当に落ち着きます。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマはちいさな駐車場に停めました |
○屋形(やかた)/市川町屋形 |
●宿場ができたり川船の終点だったりで、にぎわいました 寛文6年(1666)に旗本池田氏領となり,陣屋を設け10軒ほどの家臣とともに統治しました。宿場ができ,交通の要衝として,さらに市川の川舟も終点であったことから町は繁栄しました。安政6年(1859)の家数は120軒というから結構発展しました。 ●「銀の馬車道」沿いの集落 明治に入って,フランス人を技師長として最新の土木技術を導入。生野から播磨港までの49km「銀の馬車道」が明治9年に完成。当初,この屋形地区を避ける計画でしたが,村民たちの「町が寂れる」という陳情で,迂回計画が中止されました。現在では「銀の馬車道プロジェクト」が発足しました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○福崎(ふくさき)/福崎町西田原 |
●日本で初の「高速産業道路」を建設 明治9年(1876),銀の産出地である生野と積出港の姫路市・播磨港とを結ぶ49kmの道を新たに造りました。この道は従来とは違い馬車専用道路として開削されたもので,日本で初の「高速産業道路」といわれています。 ●大庄屋・三木家の遺構 この道路建設に大きく協力したが,大庄屋・三木家です。秀吉の中国遠征後,この地に移り住み,姫路藩の大庄屋として地域の政治・経済・文化の中心となりました。現在は表門,土塀,厩などが残り福崎町が管理しています。隣に建つ旧辻川郵便局は登録文化財です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはもえぎの里観光客用駐車場に停めました |
○山崎(やまさき)/宍粟市山崎町山崎 |
●本多家が9代190年間統治する 姫路藩主・池田氏の4男・輝澄が3万8千石で入封。その後紆余曲折があり,延宝7年(1679)に大和国から本多忠英氏が1万石に縮小されて入封,その後9代約190年間本多家が治めました。 ●因幡街道沿いの要衝 山崎は,姫路藩・播磨と鳥取藩・因幡を結ぶ因幡街道(いなばかいどう)沿いの城下町です。また合併以前の旧山崎町の中心地で,銀行や店舗,大病院,文化会館などがあって,とても賑わっています。古民家はそんな賑やかな県道53号線の一歩裏手に佇んでいるのです。また社寺も多く,比較的のんびりと歩けます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはみなと銀行山崎支店に停めました |
○三日月(みかづき)/佐用町乃井野 | |
▲三日月藩乃井野陣屋館(復元)/入館料は無料/土・日・祝日に開館 | |
●かわいい名前の外様の小藩 三日月藩って、何やら漫画にでも出てきそうなかわいい名前です。でもれっきとした藩で1万5千石の大名です。元禄10年(1697)津山藩・森家15万石の改易にともない、分家の森長俊美作国・勝田北からココに移封されて三日月藩ができました。江戸城では柳間詰で、江戸の上屋敷は目黒行人阪に、大坂蔵屋敷は堂島3丁目にありました。 ●三日月藩の陣屋が復元 森氏が入封すると、陣屋を造ると同時に,藩政を執行しました。現在でも,わずかに土塀や水路,町割りが残されています。つまり三日月城の面影はなく、大部分は水田になっています。そこでかつての三日月藩の陣屋を復元してあります。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは陣屋前の空き地に停めました |
○平福(ひらふく)/佐用町平福 | |
▲鳥取藩本陣も置かれていました | ▲蔵造りの旧商家も多い |
●作用川沿いの土蔵群 作用川に沿った石垣に川座敷,土蔵の風景はおなじみです。先般,この作用川が氾濫し,平福の町は水没しました。そのため甚大な被害をだしましたが,急ピッチで復興しました。町を歩いていると,真新しい家屋も見ることができます。 ●因幡街道を代表する宿場町 因幡街道沿いの宿場町として慶長・元和年間(1596~1623)に現在の町並みが形成され,南北1kmほど続きます。鳥取藩の本陣も置かれ,街道有数の宿場町となりました。連子窓,格子戸のある町家が,訪れる人をホッとさせてくれます。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは道の駅ひらふくに停めました |
○高砂(たかさご)/高砂市高砂町 |
●廃墟(?)の町並みか 無人で廃墟となった家屋もたくさん存在します。姫路藩の支藩として発展,さらに加古川河口の港町として栄えたのです。 平入りで2階家が多いのですが,洋館もところどころ見られます。ちょっと寂しい町でした。 ●本多家に代わってから町づくりがスタート 江戸時代は姫路藩領。初代藩主・池田輝政が慶長6年(1601)に高砂城を造営。とりあえず家臣の中村主殿介に4500石、侍100騎を与えて治めさせました。ところが元和元年(1615)になって、大和国から移封してきた本多忠政が、何を思ったのか城(城館)を取り壊したのです。これからが町づくりを始めるのです。住民を移住させ、港町として再開発します。本格的に町場形成に舵を切ったといえます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 山陽電鉄山陽高砂駅から徒歩15分 |
○曽根(そね)/高砂市曽根 |
●曽根天満宮で栄えた町 曽根天満宮の門前町として発展しました。延喜元年(901)菅原道真が九州・太宰府に左遷される旅の途中,天満宮近くの伊保港に寄って日笠山に上り「我に罪なくば栄えよ」と祈念して小松を植えたという。 ●歴史に翻弄された町 天正6年(1578)の信長の命を受けた秀吉が播州征伐のさいの兵火で社殿を焼失しました。その後,徳川幕府の時代に入り,姫路城主・池田氏により再建されていくのです。 曽根駅前の大鳥居をくぐると参道となり,両側に商店が幾つか連なる小さな町でした。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは曽根天満宮駐車場に停めました |
○大浜(おおはま)/姫路市播磨区大浜 |
●銀の積み出し港として発展 江戸時代,幕府の直轄として生野銀山の銀の運搬として生野街道が開削されました。明治になっても,フランス人の設計によりさらに最短距離の街道49kmが完成し,一般に馬車道とも呼ばれました。後世の人たちは「銀の馬車道」と呼んだそうです。 ●あまりにも大きな古民家群 これほど古民家が残っていると思いませんでした。集落がひとかたまりになって存在していのです。漆喰塗りの虫籠窓,下は板張りの独特の町家がぎっしり詰まっています。細い路地を歩いていますと小さな港に出ます。銀の積み出し港だった港です。プーンと海のにおいがしました。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは寺院横の道端に停めました |
○野里(のざと)/姫路市野里寺町 | |
▲蔵造りの町家が続きます | ▲虫籠窓の意匠が美しい |
▲旧野里街道沿いに町家が並ぶ | ▲正願寺/天正9年(1581)創建 |
●虫籠窓のある町家が多い 意外にも多くの町家が残されているのに驚きました。いずれも虫籠窓のある2階屋で漆喰塗りの蔵造りです。 かつて豊臣秀吉と池田輝政の城下町として繁栄し但馬,播磨へ通じる交通の要衝でもありました。商業の町でもありますが,職人の町でもあります。野里鋳物のなかで播磨鍋(野里鍋)の名は,近畿一円に広がっています。 ●にぎわいを取り戻す「野里まちづくりの会」 こんな町並みをかつての賑わいを取り戻すために平成18年,「野里まちづくりの会」が発足したそうです。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR山陽本線姫路駅からバスで野里門下車徒歩10分 |
○船場城西(せんばじょうさい)/姫路市龍野町 | |
▲ノコギリ型は城下町の特徴? | ▲蔵もオシャレな店に変身! |
●船場御坊・本徳寺の門前町でもあります 姫路城の南西側に位置し,船場川を渡ったところに広がる町並みで,旧西国街道に沿って発展しました。また船場御坊本徳寺の門前町としての様相を示しています。 ●西国街道沿いの町並み とりあえず西国街道を歩きました。虫籠窓や格子戸のある町家や寺院を所々見かけますが,連なっているわけではありません。農人町あたりでは,のこぎり型の道路が見られますが,これは姫路城の守りの戦術の一環ではないかといわれています。これは佐賀城下の長崎街道沿いと同じ理由のようです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR山陽本線姫路駅から徒歩20分 |
○網干(あぼし)/姫路市網干区余子浜 | |
▲横道に入ると黒板壁が続きます | ▲旧網干銀行本店/明治27年築 |
●かつては漁師町 網干の名の由来は,魚吹八幡神社の放生会(ほうじょうえ)が行われる日,氏子の漁師が殺生をやめて網を干してお参りしたことからきました。そして周囲を網干と称したそうです。養老4年(720)のことです。 網干は古くから開発の進んだところで,当初は姫路藩領でしたが,のち,幕府領,龍野藩領,丸亀藩領など複雑な様相を示していました。 ●景観維持の住宅も点在 町を歩きますと,格子戸や板塀が続きます。幾つかの住宅は,都市景観を維持するために景観指定されています。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマはあぼしまち交流館の駐車場に停めました |
○青山(あおやま)/姫路市青山 |
●お伊勢・おかげ参り一団の宿泊地でにぎわう 近くを旧山陽道,旧龍野海道,因幡街道が通り,なおかつ稲岡神社の神域でもありました。そのため江戸時代末期「おかげまいり」が,全国的に流行したことがありましたが,この地もその余波を受け,お伊勢参りの一団が宿泊したようです。そのため旅籠,商家など多くの町家ができました。そのことは県の重文指定となっている「お陰参り図絵」にも情景と雰囲気が表されています。 ●虫籠窓のある蔵造りの商家 歩いていますと虫籠窓のある町家や漆喰塗りと下板貼りの蔵も見ることができます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは稲岡神社に停めました |
○林田(はやしだ)/姫路市林田町六九谷 |
●一時は因幡街道で栄えましたが…… 江戸時代は,当初姫路藩領ですが,その後元和3年(1617)には林田藩領となりました。そして少しずつ町場が形成されていくのですが,姫路から鳥取への因幡街道が林田を通過するようになってからいっそう発展しました。しかし明治以降は安全な別ルート(戸倉峠超え)が開発され,街道は廃れていくのです。 ●重厚な長谷川家住宅 手延べそうめん揖保乃糸の生産地の一つです。町並みは虫籠窓や格子のある重厚な建物が並んでいます。特に長谷川家住宅は,姫路市から都市景観重要建築物にも指定。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはヤエガキ酒造の駐車場に停めました |