福島区(ふくしまく)

○福島(ふくしま)/大阪市福島区福島 
 
   
▲改築、改装された棟割長屋  ▲長屋もいろいろな店舗に転用 
源義経ゆかりの地だった?
 もともと菅原道真が旧称・餓鬼島と呼んでいたのを、福島と名付けたと言われていますが定かではありません。しかし中世初期、大川尻にあたり、「渡辺の津」の西に形成された島であったと推定されます。この渡辺の津は、『平家物語』によれば、源義経と梶原景時が激論の末、元暦2年(1185)2月16日風波を恐れず、義経は5艘の舟で船出し、翌日阿波の地に着いた~、と記されています。
●取り壊し寸前の町並み?
 いまはJR大阪環状線福島駅,JR東西線新福島駅に近く交通至便の地。歩いていると,あちこちに空き地が見えているのも,多分,高層ビルやマンションに変わるのではないでしょうか。

 このあたりは,戦災に遭った地域と遭わなかった地域とが重なってまだら模様になっており,古民家とマンションが混在。独特の2階建て棟割り住宅が,裏通りに密集しています。最近では,おしゃれなレストラン,雑貨店,カフェなどに変身しつつあるようです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR東西線新福島駅から徒歩5分
 
○野田(のだ)/大阪市福島区野田 
 
戦国時代は何度も戦乱巻き込まれました
 野田村は戦国時代から何度も戦火に巻き込まれました。享禄4年(1531)細川高国と細川晴元が争った「大物(だいもつ)崩れの戦い」。その後の元亀元年(1570)、織田信長による三好三人衆、石山本願寺攻略が開始。野田・福島は三好三人衆と本願寺でガッチリ固めていました。特に野田村は西国大名との連絡拠点であったと推定されます。
戦災に遭うこともなく古民家が残りました
 戦国時代が戦乱の地であったのですが、先の大戦では空襲にあうこともなく、奇跡の街として残りました。古民家の大部分は大正から昭和初期の建物ですが,いまも健在です。2軒,3軒の続く棟割り長屋が特徴です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR環状線野田駅から徒歩5分
 
○吉野(よしの)/大阪市福島区吉野 
 
江戸時代はのどかな水郷地帯
 繁華街の梅田へも電車で10分と交通至便の地。それでも大阪のあちこちで見られる棟割長屋が生きています。まさに昭和の庶民的な光景が広がっているのです。地名の由来は諸説ありますが、「葦(ヨシ)が群生していた所」が有力です。というのも旧野田村の一集落ですが、どちらかといえばのどかな水郷地帯といっていいでしょう。
●昭和の面影が色濃い
 秀吉の時代から新田開発が進み、江戸時代にさらに発展。それでも遊興の舟遊びがあったようです。

 戦後になっても発展から取り残されたような所です。昭和の面影が色濃く残ります。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 阪神本線野田駅から徒歩6分
 
○玉川(たまがわ)/大阪市福島区玉川 
 
野田恵比寿神社周辺に広がる古民家
 一歩,足を踏み入れて驚くのは,意外にも多くの古民家が残されていることです。蔵造りや格子戸のある町家などが,当地の守り神の野田恵比寿神社周辺に散在しているのです。ちなみにこの神社は藤が有名で,足利義詮をはじめとして、公家や武家、歌人などが歌を詠んでいます。また豊臣秀吉も藤を見ながらの茶会を催しています。
●空襲から逃れた奇跡の町
 第2次大戦の被害は福島区自体全体の3割り程度と,比較的軽微でありました。そのため今でも玉川地区も昔からの住民が多く住んでおり,古い町並みとともに庶民的な人情も失われていません。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄玉川駅から徒歩5分
 
○海老江(えびえ)/大阪市福島区海老江 
 
   
▲蔵も改装されていますが、あちこちに見られます   ▲海老江で最も多く見られる板壁の町家です。板を縦に張り付けています 
迷路のなかに長屋が…
 江戸時代から明治時代中期まで海老江村と呼ばれていました。その後鷺洲(さぎす)村,さらに鷺洲の字名,戦後しばらくして現在名になりました。古くは海老洲(えびす)と呼んだとか。
 この町を歩いていると,路地がくねくねと網の目のように広がっており,本当に迷い子になってしまいそうです。やはり戦災にあっていないためでしょう。また家屋自体が古いのが特徴。
板張りの古い町並み
 町家が中心ですが,寺院もあり落ち着いた町並みを形成しています。町家は蔵造りもありますが,板を縦に張った羽目板張りの長屋が多いのが目に付きます。“板張の町”といえます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR環状線野田駅から徒歩15分
 




『大阪府の古い町並み』へ