福島県

○荒町(あらまち)/福島市荒町 
 
福島城下でも元禄以来の歴史を持つ町並み
 文禄2年(1593)、若松城主・蒲生氏の家臣・木村吉清が大森城から移って杉妻(すぎのめ)城を福島城と改名。以後、安斎大学らに命じて本格的な町割り進めました。その後上杉領、幕府領、本田氏15万石の城下と変遷。貞享3年(1686)、堀田氏10万石の城下となります。元禄4年(1691)、南の江戸口から柳町、荒町、中町、本町、上町、北南町、馬苦労町の7町制が確立しました。つまり福島城下の中でも荒町は、元禄以来の歴史を持つ町名なのです。
県道148号線沿いにポツンポツンと古民家が……
 県道148号線に沿って南から柳町、荒町、中町と続きます。いま歩いて見ますと、古い建物がポツンポツンと残っています。江戸時代は、城下に入る道路のすべてに木戸を設けて警戒しました。その数は24カ所にのぼるとか。もちろんいまはそんな面影も見られません。残るとすれば、西側に幾つかの寺院があって、かつての寺町を彷彿させるくらいでしょうか。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR東北本線福島駅から徒歩10分
 
○矢剣町(やつるぎちょう)/福島市矢剣町 
 
   
▲民家の丸い小窓がユニーク  ▲矢剣町会館/特徴的な玄関の破風 
福島藩の後期は波瀾万丈でした
 江戸時代の福島藩は幕府領など藩主はたびたび変わりました。元禄15年(1702)に信濃国・坂本から板倉重寛が3万石で入封。以後、12代160年にわたって在封します。一見、安定したかのように見えますが、百姓一揆や御用商人への打ち毀し、飢餓などが勃発。必ずしも平穏とはいきませんでした。
遊郭は北裡(きたうら)から一本杉へ移転する
 福島藩の発展の基礎となったのは、城下町と奥州街道の宿場町のなりわいでした。宿場は街道沿いの北裡(きたうら)にありました。旅籠をはじめ各種の店や問屋で賑わいましたが、なにより多くの宿屋で遊女を抱えていました。以後、明治維新を迎え、明治に入るとますます遊郭として栄えます。ところが明治32年、廃娼運動が盛んになり、無秩序だった北裡の娼妓たちをきちんと管理した遊郭の設置が叫ばれたのです。当時の知事は新町(一本杉)の設計を許可。明治34年に多くの遊郭業者が一本杉に移転します。
旧一本杉遊郭を歩きました
 もともと阿武隈川の支流・荒川の河川敷で荒れ地でした。そこが一夜(?)にして、煌々と輝く遊郭になるのですから、市民は驚き、ワクワクしたそうです。昭和5年発行の『全国遊郭案内』では、貸し座敷9軒、娼妓は約70人とあります。しかし昭和34年の売防法の施行で、遊郭は廃れます。いま歩いて見ますと、かつての賑わいは全く感じられません。ところどころ古民家も残されています。いまは一般住宅化し、のどかな住宅地でした。 
感動度★
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交通 JR東北本線福島駅から徒歩10分
 
 ○飯坂(いいざか)/福島市飯坂町湯沢
 
   
▲木造3階建ての土蔵は珍しい  ▲町の中心地は温泉風情が漂う 
松尾芭蕉も入湯しました
 飯坂温泉はまさに日本を代表する温泉地です。その歴史は古く,奥州藤原氏の時代に開湯されており,元禄2年(1689)に俳人・松尾芭蕉も鯖湖湯に入湯したそうです。しかし湯治は湯治場としての役割しかなく,一般観光客がどっと押し寄せるのは大正末期の鉄道開通からです。
湯の香りする温泉街
 湯の香りのする坂道を歩いていますと,温泉地に来たなあ,と感慨深くなります。やはり中心地にある共同浴場・鯖湖湯あたりは,木造3階建ての土蔵造りが立っており,温泉地の風情を感じます。坂道の多い町ですが、特に石段を「ちゃんこちゃんこ」と呼ぶそうです。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは福島信用金庫飯坂支店の駐車場に停めました
○桑折(こおり)/桑折町北町 
 
   
▲旧伊達郡役所・国の重要文化財/和風も取り入れた擬洋風建築です 
村民たちは参勤交代や御蔵米輸送の負担に苦しむ
 奥州街道の宿場町です。また羽州街道の分岐点でもあります。この平凡な宿場が,半田銀山発見後大きく変貌。運搬や採掘人夫の遊行の場となって賑わいました。また宿場が置かれたことから、周辺の多くの村々に助郷役を課せられ、参勤交代や御蔵米の輸送の際の負担に苦しみました。
古民家を修復し景観維持
 いま街道沿いには修復した真新しい古民家が建ち並んで,景観を維持。地名は、郷村名にちなむとか。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはドラッグストアウエルシア駐車場に停めました
○貝田(かいだ)/国見町貝田 
 
かろうじて残る宿場の面影
 江戸時代,奥州街道の宿場町。町中を流れる風呂沢川を挟んで長さ四丁(430m),道幅四間(7.3m)ありました。戸数は60軒前後で推移していますが,たびたびの大火で家並みのほとんどが焼失。今は過日の面影はあまり見られません。それでも,歩いていると,そこここに古民家が残されているのがうれしくなります。
番所を置いて旅人や物資を取り締まる
 江戸時代初期には,検断屋敷,制札場が置かれていました。特に仙台藩に隣接していたため,貝田番所を置き,旅人や物資を取り締まったとか。地名は狭い土地に田を作ったことに由来。「貝」は「狭」の意味を持つようです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
○月舘(つきだて)/伊達市月舘町 
 
藩主が九州からやってきました 
 国道349号線と399号線との交わる付近にポツン,ポツンと古民家が残っています。なかでも黒塗りの蔵が目立ちます。それにしても交通量の多い道路だけに,歩くだけでもヒヤヒヤです。
 江戸時代,九州三池藩の立花種善(たねよし)が政争に敗れ,伊達・月舘に1万石の領主として移封されてきました。文化3年(1806)のころです。下手渡(しもてど)藩といいます。以来63年間続きました。
下手渡(しもてど)藩の面影はありません
 現在は往時の面影は全くありませんが,陣屋の碑や耕雲寺に侍墓地が残っています。地名は、江戸時代領主の月見館があり、この辺りを築館というそうです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは川沿いの空き地に停めました
○川俣(かわまた)/川俣町本町 
 
古民家が随所に見られる
 東北地方に見られる切り妻タイプの町家が所々に見られます。歩いていて町の規模が大きく感じられるのは,江戸時代から人気のあった絹織物で栄えたからでしょうか。
養蚕は家内工業から工場生産へと発展
 明治10年以後、生糸や絹織物の新技術習得、機械導入により生産量が増大。その結果、川俣紡織場、川俣製糸会社などが設立されました。さらに商社、陸運会社なども相次いで設立。明治9年には680戸の住人のうち258戸が養蚕業に従事していました。そして家内工業から小工場による生産へと発展します。しかし第一次世界大戦後の不況で、製糸工場群が崩壊します。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは福島銀行川俣支店に停めました 
○二本松(にほんまつ)/二本松市油井 
 
高村智恵子の生家
 彫刻家でもあり詩人でもあった高村光太郎の夫人・高村智恵子の生家(写真)のあるところです。智恵子は明治時代末期から大正にかけての女流画家で,病に侵されてから病院で千数百点もの紙絵を制作しております。
古民家は智恵子の生家のみ
 生家は造り酒屋として明治の初期に建てられました。銘柄は『花霞』で,屋号は「米屋」。2階に智恵子の部屋が再現されています。さて古民家らしい建物は,この智恵子の生家のみで,歩くとガッカリします。地名は、中世の城主・奥州探題畠山氏の居城本丸に“霊松”が2株あったことによるとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは智恵子記念館駐車場に停めました 
○都路(みやこじ)/田村市都路町古道 
 
三春藩が積極的に開発しました
 古道(ふるみち)集落は,江戸時代初期まで未開地が多かったのですが,会津藩から三春藩に変わってから積極的に開墾が行なわれました。主な産業として馬の生産があります。山林原野が多く,放牧地として最適だったのですが長く続きません。一方の炭は幕府への献上品で,その後も生産が続けられました。
大型のかぶと造りの光景が圧巻!
 三春藩主が参勤交代で都(江戸)に行く際に通過したことから都路といったとか。街道沿いにはかぶと造りの大型の町家が残っており圧巻です。ちなみに都路街道は、三春から双葉町に至る道路で、国道288号線の一部にあたります。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは田村市都路行政局に停めました
 
○七日町(なのかまち)/会津若松市七日町 
 
   
▲出羽や越後への街道沿いなので旅籠屋が多いとか    ▲黒漆喰の土蔵のある商家は繁盛の印といわれているとか 
   
 ▲昭和12年築の会津若松市役所   ▲一口焼き餃子(472円/喜ど哀楽)
レトロな町並みに復元
 会津若松には何度か来ましたが、七日町ははじめてです。武家屋敷はほとんどなく、町人の町だったようです。江戸時代末期の土蔵などがいくつか残っています。同時に、町ぢゅうあげての景観保護に努めてきた努力がすばらしいといえます。
約1kmの商店街を活性化しました
 この七日町は、特にJR七日町駅から国道252号線を通って、野口英世通りまでの約1㎞の商店街・七日町通りを活性化させた結果です。レトロな周遊バスが走ったり、市が立ったりと「まちなみ協議会」はがんばっているのです。町名は月々7日の付く日に市を開いていたことによるそうです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR只見線七日町駅下車すぐ
 
○会津高田(あいづたかだ)/会津美里町旭杉原 
 
造り酒屋の土蔵が見どころ
 もともとこの地域には寺が多く,しかも会津若松や喜多方同様に文化財が集中しているのが特徴です。旭杉原から近い富岡にある福生寺の観音堂は、国の重要文化財に指定。天台宗の寺院で、富岡観音として親しまれています。
酒蔵がギッシリと並んでいます
 また宮川沿いの小さな集落ですが,宮川扇状地の伏流水を使った酒造りは昔から盛んで,この町にも何軒かの醸造メーカーがあります。距離はさほどではありませんが,なまこ壁の酒蔵がギッシリ詰まっており,密度の高い町並を見ることができます。ところで会津高田は、旧町名で市町村合併と同時に消えてしまいました。今でも残念がる町民が多いとか。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○塔寺(とうでら)/会津坂下町塔寺 
 
越後路と柳津路の分岐点
 国道49号線に沿った細長い集落です。もともと越後街道の気多宮(けたみや)宿でもありました。いまは真新しい碑が立っています。集落の西側には,越後路と柳津路(やないづじ)の分岐点を表す追分という名の石の碑が立っています。
宿場町と門前町が連続します
 この気多宮宿とつながるようにして塔寺(とうでら)の宿場が続きます。しかし塔寺や心清水(こころしみず)八幡神社の門前町と発展したことのほうが大きく,かなり繁栄したものと思われます。交通量の多い街道だけに,のんびりと歩くというわけにはいかないのが残念です。地名は金や白銀をちりばめた塔があったことにちなむそうです。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは塔寺の駐車場に停めました
○喜多方(きたかた)/喜多方市中央通り 
 
   
▲アーケードは積雪でも歩けます ▲大型で切妻型の町家が続きます 
ラーメンだけではありません
 何度目かの訪問です。だいたいラーメンを食べるために寄ります。しかし今度ばかりはしっかり歩きました。パンフレットには蔵のマークが入っているのですが、実際に行くとアーケード(写真下左)になっていて、全体を見ることができません。そんな蔵がいっぱいあるのです。
東北一の蔵の町といえます
 それでも東北一番の蔵の町です。防火だけではなく防寒も兼ねているから、重厚でとても立派です。おもしろいのは、裏道です。意外にのんびりと、蔵の町並みを楽しめます。

 地名の由来は、会津地方北部の通称・北方、また若松城の北方にあるからが一般的ですが、なぜ喜多方という漢字なのかが不明。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマはJR磐越西線喜多方駅横の有料駐車場に停めました
 ○御清水(おしみず)/喜多方市御清水
 
   
▲ 手すりのある2階家  ▲入口の唐破風が象徴的です 
かすかに残る旧遊郭の姿
 御清水は喜多方でも最も賑やかな夜の街です。だいたい市役所の西側、北側付近といってもいいでしょうか。同時に花街でもあったわけです。実際に歩いて見ますと、スナックでも円形窓や手すりの付いた2階家、明らかにかつては妓楼と思われし建物など、あちこちに残されています。
昼と夜の光景の落差がおもしろい
 どこの街でもそうですが、昼間のスナック街はゴチャゴチャしていて見るに耐えない光景です。やはり、薄明かりのもれる夜に見るべき町でしょうか。御清水も貸し座敷や料亭など華やかな町並みであったことはわかります。そして花街に付きものの稲荷神社も朱色の鳥居を連ねています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR磐越西線喜多方駅から徒歩20分
 
 ○小田付(おたづき)/喜多方市中町
 
   
▲小原酒造/享保時代から約300年続く老舗の酒造店  ▲菅井屋薬房/大正3年築・市内唯一道路の角に建つ店蔵です 
   
▲金忠豆丸/江戸末期の建築・味噌醤油の老舗。風情のある店蔵です  ▲遠藤宗平宅/江戸から明治初期の建築。座敷蔵、米蔵、商品蔵と多い 
平成30年に重要伝統的建造物群保存地区に選定
 もともと天正10年(1582)、蘆名(あしな)氏の時代、重臣の佐瀬大和守種常が、中田付村の市場が不便だという理由で93か村から人夫を徴発。そして4つの集落を造り替え、町割を行い小田付村と改めました。江戸時代は会津藩領で小田付組に属していました。村高は1000石を越え、かなりの穫れ高を示しています。その後、六斎市が開設、代官所も設置されました。また米沢への街道筋であったところから、多くの人たちで賑わいました。重要伝統的建造物群保存地区に選定。
大部分の土蔵は明治時代中期の建築です
 いま見られる土蔵の町並みは明治中期に建てられたものです。この日は小雨のせいか、人通りは絶えていましたが、逆にのんびりと歩けました。
 
感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 磐越西線喜多方駅から徒歩25分 
○宮津(みやつ)/喜多方市岩月町宮津 
 
   
▲岩崎集落の土壁の蔵/数は少ないですが見応えのある土蔵です 
街道を挟んで白壁と土壁の2つの集落
 田付川流域に位置し、米沢街道沿いの集落です。片側の大沢集落は白壁の蔵群が目立ちます。しかも漆喰で塗り替えています。街道を挟んだ反対側の岩崎集落は土壁の蔵が目立ちますが,数はわずかです。土蔵と白漆喰の対比のできる、なかなかおもしろい地域です。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大沢集会所の駐車場に停めました
○三津谷(みつや)/喜多方市岩月町宮津火付沢三津谷 
 
レンガ造りの近代建築
 明治23年に操業を開始した旧樋口窯業のレンガ造り用の登り窯は,超大型でした。これは会津地方の建物,鉄道用資材,鉱山の炉などの需要を一手に引き受けていたからです。
 現在は,採算性がとれなくなったために昭和45年に操業を停止しました。しかし,国内ではレンガ製造のできる大型の登り窯は,ココだけになっており,貴重な存在でもあるのです。
近代化遺産の認定
 最近では,近代化遺産の認定を受けると同時に,再生プロジェクトをスタートさせ,体験コースや職人養成コースなどがあるとか。いまではレンガ造りを生かしたおしゃれなレストランも営業中です。名物はやっぱりラーメン!
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました 
○杉山(すぎやま)/喜多方市岩月町入田付杉山 
 
蔵座敷や貯蔵倉がズラリ
 喜多方の蔵は市街地だけにあるのではありません。北部の農山村にも昔から点在していました。この杉山も米沢街道から奥へ入った,戸数19の小さな集落です。1本の小道の両側にズラリと蔵が並ぶ光景は壮観です。特に白と黒の漆喰が調和した観音開きの窓は,市街地の蔵にはない杉山集落だけの特長です。
当時、最高ランクの蔵座敷でした
 蔵には,生活や生産のための貯蔵倉,冠婚葬祭時に来客を迎える蔵座敷があります。蔵座敷の内部は漆で塗り飾られ,当時の座敷としては最高でした。なお住所の入田付は「いりたづき」と読みます。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは空き地に停めました

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○上野尻(かみのじり)/西会津町上野尻 
 
越後街道沿いで米蔵が多かった
 戦国時代は伊達政宗の知行であった記録が残されています。江戸時代はもちろん会津藩領。野沢組に属します。当時は幾つかの村が集まって一つの組を形成していました。また越後街道の宿場町で、人や物資の往来も多かったようです。そのせいか、野沢組の米を収容する米蔵が設置されました。交通の便が良かったからでしょう。
●土蔵や切妻型の真壁造
 一方、天明の大飢饉では餓死者が多数でました。その後大火も多く、さらに洪水と苦難の歴史を背負っていました。
古民家は、街道沿いに多く見られ、土蔵や真壁造りの大型の町家など見応えがあります。 
 感動度★
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交通 クルマは道端に停めました
○大内宿(おおうちじゅく)/下郷町大内 
 
   
▲寄せ棟茅葺きで妻側が街道に面す  ▲太いネギ1本が箸代わりのネギそば 
整然とした茅葺き建物
 2度目の訪問でです。会津西街道の南山通り,標高660mの高地に位置します。江戸への荷物の輸送,日光参拝客で賑わったそうです。江戸から明治にかけて,40数棟あったといわれていましたが,街道の往来も無くなり,単なる一寒村になってから急速に衰えたそうです。しかし約50年前から,各種メディアに紹介されてから,徐々に観光客が増え,今は重要伝統的建造物群保存地区に選定。
江戸時代末期から大火はゼロ
 それにしても,これだけの茅葺き屋根の建物が残っているだけでも驚きです。それは何より、江戸末期から大火がなかったというのが原因でしょう。
 
感動度★★★★
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 交通 クルマは村の入口の大きな駐車場に停めました 
○福良(ふくら)/郡山市湖南町福良 
 
会津藩、白河街道の宿場町
 古くは「福浦」とも書きました。江戸時代は会津藩の所領。そして白河街道の宿場町でもあります。宿場は古町,中町,荒町で構成され、ほかに新町、裏町があったとか。江戸後期になると,本陣1軒,脇本陣1,問屋2軒になっています。

茅葺きの民家が数軒残ります
 会津藩の江戸米は,猪苗代湖の舟運を利用して,この福良で一時納め,その後江戸へ運んだそうです。しかし湖岸の村々による保管米の誘致争いは激しいものがありました。誘致すれば、収入があるからです。ところで福良を歩いていますと,まだ茅葺きや冑造りの民家が数多く残っています。
 
感動度★★
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 交通 クルマは湖南高校のそばに停めました 
○湯本(ゆもと)/天栄村湯本 
 
茅葺き屋根のある温泉
 約1000年前に開湯したと伝えられています。また白河藩主・松平定信が湯治にきたとか。歴史のある温泉です。国道118号線沿いにある小さな温泉地ですが,歩いていると茅葺き屋根の民家が7~8棟も見られます。これだけまとまって存在するのも珍しい。
共同浴場の旅人利用はNG!
 旅館も茅葺き屋根ですが,かなり手入れが行き届いているように見えました。歩いていますと意外に小さな小さな集落ですが,共同浴場の張り紙には,住民以外の人の利用はお断りと書かれており,ガッカリ。

 地名の由来は、温泉の湧き出るところにちなむそうです。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは湯本集会場の駐車場に停めました
○田島(たじま)/南会津町田島 
 
   
▲県の重文・旧南會津郡役所   ▲会津ラーメン(900円/三保食堂) 
鎌倉時代から続く祇園祭
 田島といえば国の重要無形文化財である祇園祭があげられます。鎌倉時代から続く,日本三大祇園の一つといわれます。子ども歌舞伎や祇園囃子,何十人もの白無垢姿の花嫁の行列は圧巻であります。
下野街道の宿場町で南会津の要衝でした
 江戸時代は下野(しもつけ)街道の宿場町でした。六斎市や馬市が開かれたり,本陣,陣屋などがあったりと、とても賑わいました。また南会津地方の中心地で、交通の要衝で、検断も設置されていました。

 町を歩いていると昭和初期の建物が点在しています。しかし古い町並みとまではいきません。やはり祇園祭のころに訪ねるのがいいのかなと思いました。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは福島県田島合同庁舎に停めました
○前沢(まえざわ)/南会津町前沢 
 
珍しい曲屋集落が現存
 雪深い東方地方の一般の農家は直屋(すごや)で,家族と牛馬が共に生活することが多いですが,飼育数が増えるにつれ,直屋から突出する形で,多数の牛馬を収容。それが曲屋(まがりや)のはじまりといわれています。ここでは数軒の曲屋が現存しており,もちろん牛馬は飼っていませんが,かなり大型化しています。大型化は豪雪に耐えるための造りだからです。柱と貫の構成が実に美しいです。
横田城主の家臣が移り住んだのがはじまり
 文禄年間(1592~95)に,横田城主・山内氏勝の家臣が移り住んできたのが最初。明治40年の大火で壊滅しますが,約1年かけて13戸を再建したとか。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは観光客用の無料駐車場に停めました
 ○水引(みずひき)/南会津町水引
 
茅葺き屋根の保全に力
 水引には7軒の茅葺き屋根の家屋がありますが,そのうち数軒は曲屋です。訪れた日も2人の職人による屋根の「差し替え」修復を実施中でした。茅葺き屋根の修復は何度も見たことがあります。「差し替え」とは痛んだところ茅だけを入れ替える方法です。これならそれほど費用はかかりません。ただ、その都度補修するため、長期間を覚悟する必要があります。「差し茅(さしがや)」と呼ぶ地方もあります。
となり町まで「馬不通」の交通困難地域でした
 『会津風土記』には,隣の今市(栃木県)までの枯木(かれき)超えは「馬不通」とあります。今で言う交通困難地域です。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは空き地に停めました
○三春(みはる)/三春町大町 
 
   
▲裏手に回ると、そこも風情がある  ▲ところ所に蔵や商家が見られる 
やはり桜だけの町
 30年ぶりの訪問です。以前は、三春の紙細工による面を買うために寄りました。最近の三春は、桜ですっかり有名になりました。特に「三春滝桜」は日本三大桜として知られています。風景写真家・竹内敏信氏によれば「観光客が多すぎて、じっくり撮れない」と嘆くくらいです。
ちょっと寂しい古い町並み
 桜はともかく、古い町並みは、ちょっと残っている程度です。城下町なのに、武家屋敷などは残っていません。若干の土蔵、町家が数軒。思った以上に寂しい町でした。地名の由来は、春の花、梅・桃・桜が一緒に咲くからというが、確証はありません。「見張り」の転訛説もあります。
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは役場付近の駐車場に停めました
○白河(しらかわ)/白河市本町 
 
交通の利便性を最重要視した町づくり
 白河藩が成立後、寛永6~9年(1629-32)に連日2000人もの人夫を動員し、莫大な費用をかけて城下の整備事業が行われました。南側に大手門を設けて、棚倉街道、関街道に通じ、さらに江戸街道をつなげました。さらに奥州街道、会津街道へも整備し、まさに交通の要衝へと発展させたのです。中町に宿駅を置き、人馬を常備。しかし本陣はとなりの本町に置かれ、旅篭屋も本町が多かったようです。
旧奥州街道沿いの町並み
 旧奥州街道沿いになまこ壁の蔵が点在。また玄仙小路のように路地にも千本格子の町家が見られます。戊辰戦争で白河小峰城が焼けましたが平成に復元されました。また平成31年に東日本大震災で崩壊した石垣の復旧工事が終了しました。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは東邦銀行白河支店に停めました
 ○矢吹(やぶき)/矢吹町本町
 
明治以降の建物が中心
 奥州街道の宿場町です。参勤交代制度が確立すると,街道の両側には,本陣,脇本陣,旅籠,休処などが軒を並べ,一気に賑やかになったのです。
八幡太郎義家、松尾芭蕉、十返舎一九も…
 かつて松尾芭蕉も奥の細道の途中,矢吹に滞在したことがあります。十辺舎一九の『方言修行金草蛙』では,名物にそばをあげています。

 嘉永7年(1854)では,81軒,人口406人でしたが,戊辰戦争で戦火を受けて町並みが消滅しました。いまある建物は明治以降のものです。地名の由来は、八幡太郎義家が戦いの帰途、神社を造営する際、矢の柄で屋根を葺いたことにちなむとか。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは白河信用金庫矢吹支店の駐車場に停めました
 ○小野(おの)/小野町小野新町
 
内陸部の交通の要衝
 住所は「おのにいまち」と読みます。江戸時代,白河藩から幕府領,さらに常陸笠間藩へと変わっていきました。早くから在郷町として発展。1と6の付く日に六斎市が開かれ、江戸時代の中期には米市が立ちました。小野新町村の米相場は、年貢を決定する基準米価の一つで、たいへん重要な相場でした。
悪徳代官と悪徳名主が手を組んで米相場をつり上げ
 ところがどっこい、享和2年(1802)に御用商人で名主でもあった藤田与四郎が代官と組んで、つり上げた米価を代官所に報告。この違法な価格が相場となりました。これを知った農民たちは不当な米相場を取り消せと二度にわたって小野新町村と近隣の永田村に押し寄せ、要求を通しました。いわゆる「仁井町騒動」です。
平安時代の女流歌人・小野小町のふるさと
 平安時代の女流歌人・小野小町のふるさととか。桓武天皇(781~809)の時代、この地を治めていた小野篁(おののたかむら)とこの地の長者の娘・愛子(めずらこ)の間に生まれたのが小野小町といわれています。ただ水を差すようですが、小野小町の墓や碑は全国に20カ所以上もあって、いずれの町も「おらがふるさと」と主張しています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは東邦銀行小野支店の駐車場に停めました
 ○古殿(ふるどの)/古殿町竹貫
 
 ●海岸と内陸を結ぶ中継地
 江戸時代,竹貫(たかぬき)氏の城下町で,御斎所街道の竹貫宿として栄え,浜通りと内陸部を結ぶ重要な中継地の役割を果たしていました。また幕府の竹貫代官所も置かれました。今は造り酒屋や味噌蔵があって往時を偲ばせます。
なぜか本陣、脇本陣はありませんでした
 宿場は上町、中町、下町に分かれ、それぞれに問屋が置かれており、旅篭屋、茶屋などがありました。しかし本陣、脇本陣、検断などの制度はなぜかありませんでした。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大東銀行古殿支店に停めました 
○浅川(あさかわ)/浅川町本町 
 
南北朝時代からの歴史ある町
 歴史のある町です。南北朝時代の文献には,すでに浅川の名前が見られるとか。江戸時代は会津領,白河藩領,浅川領,越後高田藩領,幕府領と転々としました。寛政10年(1798)正月には村内全域で農民たちよる一揆が起こり,多くの死傷者が出ましたが,現在の夏の花火大会は,その死者を弔う祭りという説があるそうです。
古民家はポツンポツンと散在します
 石川街道(須賀川市-磐城棚倉)沿いの町で,ポツンポツンと古民家が見られます。蔵造りや2階建て平入住宅が多く、ほとんどが商家です。地名の由来は、城主・浅川治郎左衛門にちなみ、館下の宿を現在地に移したことによる説。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは東邦銀行浅川支店に停めました
○棚倉(たなぐら)/棚倉町古町
 
城下町らしい風情が漂う
 江戸時代は棚倉藩の城下町で常陸太田街道沿いの宿場町でもあります。当時,宿場は新町,古町に,さらに文化14年(1817)ごろは,下町,鉄砲町もできてかなり賑わいました。2,7の日には六斎市が開かれ,10月には馬市が開催。
バス停周辺に町家が見られます
 棚倉古町バス停周辺に,蔵造りや板塀の続く町家が残っています。また「城下町くらしの資料館」なるものがありましたが閉館していたのが,残念です。でも意外にも城下町らしい風情が感じられました。地名の由来は、東北地方で始めて稲作が導入されたころ、種を保管する倉が置かれていたからとか。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは白河信用金庫棚倉支店の駐車場に停めました
○三和(みわ)/いわき市三和町上市萱 
 
浜通りと中通りを結ぶ重要な街道沿いの町
 江戸時代末期は上一萱(かみいちがや)や上一ノ萱とも書きました。はじめは磐城平藩、泉藩、幕府領、常陸笠間藩分領と変遷。浜通りと中通りを結ぶ重要な道路でもありましたが,特に米を運ぶための馬の中継ぎ所として栄えました。
地割りは江戸時代のまま
 古民家は入母屋造が多くで茅葺きは見られませんでした。ちなみに地割りは、江戸時代のままだそうです。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○小名浜(おなはま)/いわき市小名浜古湊
 
寂れることなく一貫して漁業が発展! 
 江戸時代から船運の要衝で,東北と関東をつなぐ中継地でもありました。同時に漁業も盛んで,特にカツオ漁が盛況でした。また江戸時代末期から石炭の積み出し行われました。そして明治20年の鉄道敷設は町をいっそう発展させました。しかし鉄道に石炭輸送を奪われたことで、逆に漁業基地として命脈を保ち今日の発展となりました。
北関東の工場団地への資材輸入港の役割
 また群馬県や栃木県の各工場団地への海外からの輸入資材は、東京都心を避けて小名浜港に陸揚げし、磐越高速道路利用で一気に時間の短縮を図りました。
一歩内側に静かな町並み
 いま町は休日になると小名浜漁港付近の魚介類の安売り店に,観光客が殺到しています。しかし一歩内側に入ると,静かな町並みが続きます。旧廻船問屋の蔵や町家などがそこかしこに残っているのです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは小名浜漁港の無料駐車場に停めました 
 ○江名(えな)/いわき市江名
 
漁業の発展で栄えた港町
 江戸時代は幕府領の小名浜港を控え、まさしく漁業が中心の村でもありました。漁獲物の中心はカツオとイワシでした。ほかにもタイやもブリ、海藻類も陸揚げされました。また製品では明治時代のカツオ節生産量が多かったようです。また小川地区にある光明寺の修験者・上平清賢(うわだいらせいけん)は、巣平山に常夜灯を設けて、船の便宜を図ったそうです。修験(しゅげん)者とは修験道の行者をさします。
茅葺きの民家が目に付く
 いまでは漁業のほかに蒲鉾やちくわなどの練り製品の生産が主流の町。海岸通りをまっすぐに行くと手入れの行き届いた茅葺きの民家が目に付きます。さらに通りの一歩内側には古民家が並ぶ。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは江名漁港の大駐車場に停めました

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