○姪浜(めいのはま)/福岡市西区姪の浜 |
●大名や長崎奉行が通る重要な宿駅 江戸時代は福岡藩領。このあたりは、かつて塩屋が多い寂しいところでした。岳山というところに、わずかに人家があるのみ。しかし徐々に村が拡大していきました。それは街道の開削が大きな力となっています。福岡から唐津、長崎、平戸へ通じる唐津街道です。姪浜は宿駅で、唐津21宿のひとつに数えられていました。藩主や長崎奉行の往来に利用され、宿代官が置かれました。 ●マンション開発の波が押し寄せます 姪浜駅から歩いて数分のところに唐津街道があります。その街道の両側に古い町並みが並んでいるのですが…。もう十数棟のマンションが建ち、さらに工事中の物件が数棟目に付きました。やはり天神や博多まで地下鉄で20分足らずという交通至便だからでしょう。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄空港線姪浜駅から徒歩10分~15分 |
○前原(まえばる)/糸島市前原中央 | |
▲町家は多数ありますが、看板などで見えないのが残念です | |
●唐津街道の宿場町です 江戸時代は福岡藩領で“御床触(みとこぶれ)”に属します。触(ふれ)というのは、福岡藩の広域行政区画の単位で、大庄屋が管理運営を行います。で、この地は唐津街道の宿駅。でも慶長年間(1596-1615)ごろまでは、民家は街道筋ではなく、舞岳山麓の本村のみあるのみでした。そのため、伝馬はのちの宿駅の西入口にあたる松原で行われていました。貞享年間(1684-88)、藩主・黒田光之が舞岳山麓より人家をこの地に移し、宿駅としました。御茶屋(本陣)、町茶屋(脇本陣)、代官所、郡家、問屋場などが置かれ、管理は代々津田氏が行いました。 ●泉川堤防築造に人柱として山伏を生き埋めにする 前原・萩浦一帯の泉川堤防を“幽心堤防”といいます。伝説によりますと、農民たちの堤防築造を通りかかった山伏の幽心が見ていて、自ら人柱となって生き埋めにされました。その後堤防は二度と破壊されることはありませんでした。ただしばらく人魂がでたとか。堤防上に地蔵大菩薩の石碑が残っています。 ●改築、改装した古民家が多く見られました 訪れた日は雨に降られました。それでも古い町並みの様相は手に取るようにわかります。重厚な蔵造りの町家も残ります。でも2階家の格子のある建物の大部分は看板などで隠れていました。またサッシに改築、改造した民家が多く見られました。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 JR筑肥線筑前前原駅から徒歩10分 |
○門司(もじ)/北九州市門司区港町 | |
▲明治42年築の旧門司税関 | ▲門司港駅・重要文化財大正3年築 |
▲大正6年築の大阪商船門司支店 | ▲焼きカレーランチ/880円・マーメイド |
●古代から交通の最重要地点でした とにかく歴史の古い町です。延暦15年(796)の『豊前門司』によりますと、太宰府管内から瀬戸内海経由で摂津難波(大坂)に向かう場合、門司にて太宰府発行の過所(かしょ/通行許可証)の勘検(かんけん/検閲・調査)を行いました。そこで私船は通行税を支払いました。実際の業務は豊前国が行い、関司・関別当(いわば船番所)が置かれました。平安時代は関の維持費捻出のために門司関・領田が設けられました。関というのは文字通り関所にあたります。古代から交通の最重要地点だったことがわかります。 ●北九州のレトロな町並み 近代の古い建物が多く残されています。ちょっとレトロな感じがし,なおかつ水辺に町です。旧大阪商船ビル,日本郵船ビル,旧門司税関などを核にして,レトロな雰囲気が感じられるのです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 JR鹿児島本線門司駅から徒歩すぐ |
○木屋瀬(こやのせ)/北九州市八幡西区木屋瀬 | |
▲商家や町家などが連なっています | ▲早朝の宿場町は静かでした |
●映画のロケ地みたい こんな田舎町に整備復元された町並みが突然現れるのだからビックリしました。筑豊電鉄始発の黒崎駅周辺が大都会なので、その落差に驚いたのも原因かと思います。 ●長崎街道沿いの宿場町です もともと、長崎街道沿いの宿場町の一つで、約1km弱の長さの両側に商家や町家などが復元されており、映画のロケ地のような感じさえします。町自体が博物館のようです。北九州市の整備・復元は今後も続くそうで、詳しくは「長崎街道木屋瀬宿記念館」でどうぞ。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 筑豊電鉄鉄道木屋瀬駅下車徒歩15分~25分 |
○青柳(あおやぎ)/古賀市青柳町 |
●唐津街道の宿場町 慶長10年(1605),唐津街道の宿駅として作られました。当初はお茶屋(大名が泊まる旅籠)が中心でしたが,その後約40年間かかって広げられました。さらに元禄時代の初期に街並みが完成したといわれます。総延長444m,100軒前後の町家が軒を連ねたそうです。しかし江戸時代に2回,明治時代に1回の大火に見舞われました。 ●宿場町の面影は薄かった 実際に歩いて見ました。宿場町らしい風景は見あたりません。L字型になった通りの西端に,わずかに蔵造りや甲造りの民家が見える程度でした。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○津屋崎(つやざき)/福津市津屋崎 |
●商家や土蔵造り 回船業と漁業で栄えた町です。俗に「津屋崎千軒」といわれたくらい繁栄していたとか。この日は土曜日の午前中です。静かな町で、気持ちいいなあ、と思いました。入母屋造りの商家や土蔵造りの蔵が数軒まとまって建ち並んでいます。 ●2つの浦(集落)が激しい漁場争い 江戸時代は福岡藩領。津屋崎は海岸沿いの“宗像七浦”の一つで、この地の浦庄屋は今林家が世襲。で、隣接する勝浦浜の漁民との漁場争いが絶えず、収束のめどもつきません。しかし寛永17年(1640)に当地の浦庄屋以下6人が斬罪されるに及びました。のちに松原を境とすることで両浦の争いは決着しました。2つの浦を合わせると家数約500余、人数は2400余人という郡内で最大の村でもあったのです。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 西鉄バス「商工会津屋崎支所前」から徒歩で5分 |
○畦町(あぜまち)/福津市畦町 |
●繁栄した筑前街道の宿場 筑前街道の宿場町です。畦の多い田んぼが多かったからその名が付いたとか。弘化2年(1845)の人口は男女合わせて578人だったそうです。福岡藩の奨励で,櫨実(はぜみ/和ろうそくの原料になる),楮(こうぞ),綿の集荷,販売が盛んであったが,麦や粟,菜種などの穀物も豊富で,かなり豊かで繁栄した地域でもありました。明治23年に鉄道が開通すると同時に,寂れていきました。 ●御念寺の煉瓦塀は珍しい 人通りの絶えた通りを歩くと,ひときわ目立つのが護念寺の宝頭です。さらに寺を囲むレンガ塀は珍しいようです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは護念寺の駐車場に停めました |
○赤間(あかま)/宗像市赤間 |
●命がけの街並み歩き 駅を出て右に行くと「赤間宿」の烏帽子のついた門柱があって、いい雰囲気でした。でもここだけで、町並みに入るとものすごいスピードのクルマがガンガン走り抜けます。ちょうど国道3号線の抜け道になっているようです。交通量さえ少なければすてきな町並みです。商家は蔵造りで、江戸末期から明治にかけての建築が多い。 ●幕末、京都を追われた公家・三条実美らが滞在 古くは赤馬と買いました。神武天皇が赤馬に乗って現れ、人々に従軍を命じたことにちなむそうです。江戸時代は福岡藩領。唐津街道沿いには旅館や商店が連なり、往還の人々で賑わいました。藩主の別館もありました。慶応元年(1865)、京都を落ちた三条実美ほか5人の公家たちは、赤間宿に滞在したという記録があります。三条実美は急進的尊皇攘夷派公家の中心的存在でした。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 JR鹿児島本線教育大学前下車徒歩5~20分 |
○芦屋(あしや)/芦屋町西浜町 |
●河川港に開けた宿場町 唐津街道の宿場であると同時に遠賀川(おんががわ)の河川港として発展しました。慶長5年(1600)に黒田長政の入国後,福岡藩領となりました。船着場に番所が設けられ,年貢米の積立所,造船所もありました。また農産物の出荷港でもありましたが,伊万里焼も全国に販売していたという記録もあります。 ●街道の両側に幾つかの古民家が残ります 遠賀川沿いの街道の両側に,土蔵造りの町家が幾つか残っています。またやや坂道を上がると,街道に平行した道があり,そこにも幾つかの古民家が残っています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは光明寺・駐車場に停めました |
○殿町(とのまち)/直方市殿町 |
●近代建築がゴッソリ残る 直方は初めての訪問です。これほど近代建築が残っているとは驚きです。もともと直方城城下の武家屋敷が密集していたことから殿町と名付けられたとか。大正,昭和初期の旧銀行,旧医院などそのままです。いわば直方の中心地でもあったのです。 ●一国一城令で東蓮寺藩は居館となり、その後直方に 殿町通りに鉄道線路沿いの旧長崎街道へ向かう途中に双林院があります。初代から三代までの東蓮寺藩主の居館があったところです。天台宗の寺院で山門の看板には『雙林院』と書かれています。大坂夏の陣の直後の元和15年(1615)に徳川幕府が出した一国一城令により、東蓮寺藩は藩主居館となったのです。なお延宝3年(1692)には東蓮寺を直方に改めています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは遠賀川の河川敷無料駐車場に停めました |
○幸袋(こうぶくろ)/飯塚市幸袋 | |
▲炭坑王・旧伊藤伝右衛門邸/妻・白蓮のために2階部分を増築しました | |
●炭鉱の発展が町を支えました かつては長崎街道沿いの小さな村でした。ところが遠賀川の水運のおかげで発展し,幕末には船庄屋が置かれるまでになりました。その後,炭坑の発展が町を支え,炭坑技術者の養成,炭坑の発掘機械の製造などでさらに繁栄しました。 ●NHK朝ドラ『花子とアン』の舞台 なんといってもNHK朝ドラ『花子とアン』の筑豊の炭鉱王モデルとなったのが旧伊藤伝右衛門邸です。ドラマでは嘉納伝助(俳優・吉田鋼太郎さん)として登場します。25歳で嫁いできたのが葉山蓮子(女優・仲間由紀恵さん)です。50歳の伊藤伝右衛門は柳原白蓮のために、邸宅を大改造し、2階部分を増築(写真左の2階部分)しました。いずれにせよ朝ドラの放映後、入場者数がいつもの3倍になったそうです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは遠賀川の河川敷無料駐車場に停めました |
○内野(うちの)/飯塚市内野 |
●長崎街道筑前六宿の一つ 慶長17年(1612年)に福岡藩の毛利但馬が黒田公の命を受けて,内野宿建設に当たりました。実際は内野太郎左衛門がその任にあたりました。現在,国道200号線から外れているために,江戸時代の地割りそのまま残りました。西溝口から東溝口まで,約600mの長さとなっています。 ●江戸時代は何度も大火にあう ゆるやかに蛇行した街道を歩きますと,蔵造りや格子のある古民家などが残されており,往時の面影を見ることができます。しかし江戸時代は何度も大火にあっており,記録はほとんど残っていないとか。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○太宰府(だざいふ)/太宰府市宰府 | |
▲参道/典型的な門前町を形成 | ▲太鼓橋/天満宮を象徴する建築物 |
●大和朝廷の九州支配下の最大都市 大和朝廷は4世紀末から5世紀にかけて強大は権力を持ち、九州をも支配下に置き、朝鮮半島まで勢力を伸ばそうとしていました。太宰府はその拠点でもあります。国内最大の地方都市といえます。といっても中心地の政庁(都府楼)はここではなく、かなり離れたところにあります(西鉄天神大牟田線都府楼前駅下車)。 ●京から左遷された菅原道真が祀られる天満宮 昌泰4年(901)、後に学問の神さまと言われる右大臣・菅原道真が太宰府に左遷され、2年後の延喜3年(903)に榎寺にて59歳で亡くなります。さらに延喜5年(905)に神殿が建てられ、ココに祀られます。これが太宰府天満宮です。 ●福岡藩主も参拝した天満宮 江戸時代は福岡藩領で宰府村といい、文化年間(1804-18)は山家触(やまえぶれ)に属していました。天満宮参拝者が多く、たいへんな賑わいを見せていました。福岡藩主もときおり参拝するなど、筑前21宿の一つとなっていました。 ●参道や小町恵比須通りに古民家が残ります 訪れたこの日は雨に降られましたが、土産物店内は観光客でいっぱい。木造風の建物の大部分は土産物店です。よくよく観察すると、鉄筋コンクリートだったりします。また参道を避けて裏手の“小町恵比須通り”も歩きました。古民家が見られますが、やはり土産物店でした。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 西鉄太宰府線太宰府駅から5分 |
○大隈(おおくま)/嘉麻市大隈 |
●秋月街道と日田街道 江戸時代は福岡藩領でした。ここは秋月街道と往来の激しい日田街道が交差する要衝の地・宿場町です。ただ現在の街並みは,大隈交差点にわずかながら,往時の雰囲気を残している程度です。 ●大正時代から炭鉱が中心の町 明治31年九州鉄道筑豊線が下山田まで開通し、牛隈に大隈駅が開業しました。このころから牛隈を中心に炭鉱が開発。大正6年には久恒鉱業生炭鉱が開坑、さらに中小の炭鉱も相次いで開坑し、まさに炭鉱の町となりました。 ●地名は大熊から転訛して大隈に ところで地名の由来は、神功皇后が東部山地の益富山で熊鷲を討ったので、この地を大熊郷と名付けました。そしてその山を大熊山と呼んだことによるそうです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは産業会館駐車場に停めました |
○千手(せんず)/嘉麻市千手 |
●秋月街道沿いの宿場町 南北朝時代から見え,歴史ある所です。江戸時代は,当初は福岡藩領でしたが,元和9年(1623)から秋月藩領となります。小倉(小倉藩)から府中(久留米藩)へ向かう秋月街道沿いの宿場町で,町の長さは4町余(約450m)とかなり大きいといえます。 ●旧茅葺き屋根の古民家が残ります 国道322号線から横道にそれると千手の街並みにぶつかります。幾つかの古民家が見えますが,やや少なめです。実際に歩いて見ますと,元茅葺きが見られました。かなり改装されていますが,それなりに風格を感じます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは消防団詰所の駐車場に停めました |
○秋月(あきづき)/朝倉市秋月 | |
▲往時の面影を残す城下町 | ▲蔵造りの大型古民家が連なります |
●福岡藩の支藩・秋月藩が誕生 秋月氏は鎌倉時代から続く名門の武家でしたが,慶長5年(1600),徳川家康は,恩賞として筑前を黒田長政に与えます。長政は福岡藩を創設し,秋月に長政の叔父・黒田直之が1万石を与えられて移りました。2代目藩主忠之は,弟・長興に5万石を分け与えて,支藩・秋月藩が誕生するのです。 ●筑前の小京都 秋月氏,黒田氏の栄華がひっそりと眠る城下町は「筑前の小京都」といわれています。町は,中町を中心とした商家群,杉の馬場を中心にした秋月城跡,武家屋敷群に大きく分かれます。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 クルマは有料駐車場(1回300円)に停めました |
○比良松(ひらまつ)/朝倉市比良松 |
●日田街道沿いに立派な蔵造りが連なります 蔵造りの建物の大きさに驚きました。明治時代に建てられたそうです。妻入りで,下回りは漆喰で固めており,格子がとても美しいのです。日田街道の宿場町の一つで,桂川を挟んで両方に町並みが残っていますが,東側の方が比較的残っています。 ●あまりの交通量の多さに驚きます 車で出かけましたが,交通量が多く,しかも観光地ではないので,駐車場を探すのに苦労しました。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは桂川沿いの空き地に停めました |
○山家(やまえ)/筑紫野市山家 |
●福岡藩領で“山家触”の所属 江戸時代は福岡藩領。文化年間(1804-18)は山家触(やまえふれ)に属しました。“触(ふれ)”というのは、福岡藩領の広域行政区画を表しています。触には大庄屋が置かれ、大庄屋が交代すると触名が変わるため地名も変わるそうです。というのも、福岡藩領では、庄屋の名前の頭に地名を付けることが多いからです。山家の大庄屋は「山家村久七」で給米(きゅうまい/給料として支払われる米)は100俵でした。 ●宿場の面影はわずかで、標識が立つのみです 山家は長崎街道沿いの宿場町で、筑前六宿の一つでもあります。宿場には代官が置かれ、御茶屋がありました。歩いてみますと、もう宿場の面影は少なくなっています。「代官所跡」や「下屋敷跡」などの標識がポツンと立つのみです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR原田線筑前山家駅から徒歩15分 |
○松崎(まつざき)/小郡市松崎 |
●久留米藩の宿場町 江戸時代の初期は柳川藩領でしたが,その後久留米藩,松崎藩,幕府と変遷。元禄10年(1697)からは再度、久留米藩領となりました。延宝6年(1678),松崎往還が完成。そのなかでも重要な宿場町でもありました。 ●西郷隆盛も宿泊した旅籠・油屋 陣屋(現・三井高校あたり)も置かれ、松崎藩と称しました。しかし松崎藩廃絶後本陣,脇本陣が置かれました。そしてその次の地位としての扱いを受けていたのが,旅籠・油屋(写真)です。江戸時代の姿をそのまま残しており,一般の旅人を「主屋」に,武士を「角座敷」に泊めていました。西郷隆盛も宿泊。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは旧・旅籠油屋の無料駐車場に停めました |
○寺町(てらまち)/久留米市寺町 |
●藩の防衛のために寺院群を配置 かつて久留米城主の有馬豊氏が城下町の防衛のために寺院群を配置しました。なかでもこの寺町地区は最大で,22ケ寺が建ち並んだそうです。現在は,6つの宗派17ケ寺が残っています。また勤王の志士.高山彦九郎の墓所があります。 ●朝日の似合う17ケ寺 早朝,出かけました。朝日のなかで地元の人たちが丁寧に清掃されています。朝日の似合う町並みでした。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 西鉄天神大牟田線久留米駅から徒歩10分 |
○草野(くさの)/久留米市草野町草野 | |
▲18世紀後半に建てられた鹿毛家住宅 | ▲まるで古民家の博物館のようです |
●旧草野銀行などの近代建築も残る 豊後街道沿いに形成された町並みです。こんな小さな町並みに,江戸時代から大正時代にかけて作られた町屋,商家,土蔵など30軒近く残されています。中には旧草野銀行なの近代建築も見られます。現在は歴史資料館として活動しています。 ●裏道にも伝統的家屋が残ります 草野駅から旧豊後街道に出て右折してしばらく歩くと,古るそうな建物が見られます。ただ交通量が多いので,撮影には十分気をつけてください。 かぶと造りの民家や格子窓のある商家,いずれも規模が大きい。草野の特長は裏道にも伝統的家屋が点在することです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR久大本線筑後草野駅から徒歩15分 |
○城島(じょうじま)/久留米市城島町城島 |
●八つ酒蔵が集中する町 毎年2月になると,「城島 酒蔵びらき」が開催されます。福岡県最大の酒祭りで,県下各地から新酒ファンがやってきます。現在,城島町(一部三潴町含む)界隈には8つの酒造メーカーがあるとか。ほとんどが明治の創業ですが,なかには江戸時代から続く老舗もあります。「花の露」の工場は下見板塀が続き,工場も瓦葺き板張りの趣のある風情を見せてくれます。 ●久留米藩の城下町で“手づくり郷土賞”を受賞 江戸時代は久留米藩の城下町で,筑後川の水運,肥後街道の陸運などの利用で大いに繁栄したそうです。「手づくり郷土賞」は国土交通省の主催です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは城島総合文化センターの駐車場に停めました |
○御井(みい)/久留米市御井町 |
●久留米藩の統治形態は大庄屋の“組”単位です 豊臣秀吉の九州仕置き以来、所領の主は変遷します。関ヶ原の戦い以後も統治者は変わります。元和6年(1620)、久留米藩に有馬豊氏が21万石の大名として入部。以後、明治維新に至るまで久留米藩領として安定した統治を行います。久留米藩の統治形態は、広域的な行政単位として“組”を置き、大庄屋が管理します。御井は安居野組(やすいのぐみ)の府中町に属します。現在の高良大社参道口付近です。 ●昔から良質の水が湧いたそうです 御井は中世の古文書や発掘した土器には三井と御井が混在していますが、地区内に良質の泉(井戸)にちなむとか。また古来から大城村の“益影の井”、高良山麓の“朝妻の井”、同じく“御手洗の井”を「御井の三泉」と称し、御井の由来と考えられています。ただ、御井の語源をたどると、天皇の産湯に利用した井戸という意味もあります。特に天智、天武、持統天皇を三井というとか。定かではありませんが。 ●高良神社の門前町で宿場町でもあります 御井を語るには、高良大社は欠かせません。詳しいことは省きますが、多くの文化財を所有しています。参道口に立つ一の鳥居(石造大鳥居・写真)も国の重要文化財です。門前町を形成していますが、多くの街道が交差し、参勤交代の宿場町でもあります。町筋には御茶屋(本陣)、人馬問屋や旅籠屋20軒がありました。さらに早くから馬市が開催されるのなど、たいへんな賑わいようでした。 ●“聖と俗は表裏一体”?? 訪問した日は雨に降られ、歩き回ろうとする意欲が失せるほどでした。石造大鳥居の門前に残る旅館風の建物は、どう見ても貸し座敷に見えました。“聖と俗は表裏一体”といいますから、多分兼業しているのでしょう。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR久大本線久留米大学前駅から徒歩15分 |
○吉井(よしい)/うきは市吉井 | |
▲清流と白壁の似合う町並みです | ▲豊前街道の宿場町として発展 |
●清流と白壁の街並み 江戸時代は城下町・久留米と天領の日田を結ぶ豊後街道の宿場町として発展しました。さらに3つの堰が完成すると,このあたりは一大穀倉地帯となりました。そのため多くの人たちが集まりだし,多くの産業が生まれたのです。商人,地主は農産加工物と売買で,莫大な財産を蓄えました。白壁の商家は,その富の象徴だったのです。 ●平成8年に重要伝統的建造物群保存地区選定 これだけの蔵造りの家々を保存,再生するには,かなりの努力が必要だったと思います。平成8年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは文化会館の無料駐車場に停めました |
○新川(にいかわ)/うきは市新川 |
●産物で年貢を納めていました 江戸時代の初めは柳川藩領で、のちに久留米藩領となります。庄屋・権右衛門は田篭村の庄屋も兼任していました。“十三ヶ山”の一つとして山中出産の品々(シイタケ、キクラゲ、ヤマイモ、ワラビなど)や、紙運上14束、漆運上485匁(もんめ)を上納していました。運上(うんじょう)とは租税の一種で金銭の場合は運上金といわれます。 ●棚田と茅葺き屋根(?) 棚田と茅葺き屋根の見える集落があるというので行きましたが,茅葺き屋根はもうありませんでした。でものんびりとしたすてきな山間の村です。重要伝統的建造物群保存地区です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○田篭(たごもり)/うきは市田篭 | |
▲平川家住宅(左)は改装中でした | ▲茅葺き屋根も見られます |
●江戸時代に大きな土石流が発生! 江戸時代ははじめ柳川藩領、のちに久留米藩領となります。享保5年(1720)の大水害では、「大山汐」と呼ばれる高さ6mの土石流が耳納連山から押し寄せました。久留米藩内では、半分以上の田畑が壊滅。なかには200年たっても復旧できない村があったそうです。大山汐とは大きな土石流のことです。 ●農村の原風景 新川からさらに奥へ入った集落です。重文の平川家住宅(改装中でした)のあるところです。茅葺き屋根の農家が残されており,農村の原風景とも言われています。美しい村でした。重要伝統的建造物群保存地区です。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは平川家住宅前の無料駐車場に停めました |
○小保・榎津(こぼ・えのきづ)/大川市小保 |
●柳川藩と久留米藩の境界(藩界)にあった町並み 住所は小保ですが,柳川藩小保と久留米藩榎津からなる町並みです。「小保・榎津」といいます。通りが2本あって,のんびり歩いてもそれほど時間はかかりません。蔵造りでも板による囲いもあり,木工の町,家具の町にふさわしい町並みです。 ●歴史的建造物も残っています 重文の旧吉原家住宅(写真)や市の文化財・高橋家住宅などもいくつか残っています。建物のほとんどが江戸末期から明治の初期にかけてのもので,その姿は実に美しいのです。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは観光客用の無料駐車場に停めました |
○向島(むかいじま)/大川市向島 |
●水運の基地として発展しました 筑後川に面しており、水運の基地として利用されていました。江戸中期からは藩米倉庫をはじめ幕府豊後日田郡から長崎回送の公米倉庫も設置されました。1万余石の幕府米が川舟で運ばれ、ここで海船に積み込まれたのです。 ●いまは昇開橋(重文)の町 筑後川昇開橋は全長507mで、建設には苦難の連続だったそうです。有明海の干満の差が大きく、水面が一定でないことが大きな原因の1つとされています。現在、日没から22時までライトアップされており、すっかり観光名所となっています。国の重要文化財に指定。 ●明治時代は花街として栄えました 明治時代から花町として栄えたところでもあります。明治16年の娼妓数は115人、貸し座敷44軒という記録が残っています。いわゆる「若津町彌生町遊郭」です。いまはその面影もありませんが,洋館や古民家,釣り宿などがそこかしこに見ることができます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは筑後川昇開橋展望公園駐車場に停めました |
○黒木(くろぎ)/八女市黒木町黒木 |
●圧巻の蔵造り 期待しないで訪ねたぶん,予想以上の建物の出現で感動しました。小さな町でしたが,体育館や競技場付近に人や車があふれていました。何かの催し物とぶつかったのでしょうか。しかし古い町並みは静かでした。重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 ●水路や路地に情緒があふれています 黒木は久留米藩の支藩として栄えたましたが,伝統的な建物が40軒ほど点在しています。特に明治13年の大火で多くの町屋が消滅していますが,その後に建てられた重厚な入母屋造りの蔵がそこかしこに残っているのです。路地や水路にも情緒が感じられます。 ●民俗学者・柳田國男も絶賛! 明治41年、民俗学者の柳田國男は黒木を訪れて、路傍の小溝の水が早く、流れが清らかなこと、また町並みに植えられた梅やザクロ、ヤマナシに印象を深くし、知人あての書簡に絶賛していました。なお女優の黒木瞳さんは同町の出身です。 |
感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは八女市役所黒木支所に停めました |
○八女福島(やめふくしま)/八女市本町 | |
▲蔵造りの古民家が残ります | ▲蔵造り(居蔵)の商家が並びます |
▲大火の経験から頑丈になった | ▲八女のひな祭りは豪勢です |
●重厚な蔵造りの商家 堂々たる蔵造りの商家が建ち並んでいます。この町も何度も大火を経験していることから火災に強い漆喰で固めたとか。 緑茶や和紙,仏壇,提灯を扱う商家が多く,この地域の商業の中心地でもあったのです。特に八女茶は有名で,土産物店でもたくさん並んでいます。 ●官民あげて町並み保存に力を入れる バスを降りてから歩くと,歴史的町並みの意外な距離の長さに驚かされます。曲りくねった往還沿いの両側に並び,結構時間がかかります。これは官民あげての町並み保存に力を入れた結果か。特に“修景事業”に力を入れています。重要伝統的建造物群保存地区です。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは八女市役所に停めました |
○柳川(やながわ)/柳川市柳川 | |
▲御花/柳川藩主・立花家の別邸 | ▲北原白秋の生家/記念館も併用 |
●どんこ舟で下る 2度目の訪問です。30年ほど前に,仕事で訪れました。状況はいまもそのときと変わりません。縦横に走る堀割りに、どんこ舟が下る光景は実に美しいです。西鉄柳川駅から御花(おはな)へ行く方法は、3通りあります。バスは本数が少なく、実用的ではありません。どんこ舟は1時間以上かかりますが、とても情緒があります。タクシーは片道約1000円前後です。 ●御花付近が中心地 水郷の中心地は御花です。観光客が集中していて,かなり混んでいます。水天宮や白秋記念館、御花などは沖瑞町にあります。歴史的景観は、かなり広い地域を指定されていますが、1日で全部回るのは不可能です。 しかし、みそ醸造を営む吉開家の蔵「並倉」が、明治から大正にかけての姿を残しています。その並倉は見ものです。白秋生家(写真下)と同様に見学するといいと思います。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 西鉄柳川駅から西鉄バス(約10分・210円)で御花前下車 |
○英彦山(ひこさん)/添田町英彦山 | |
●坊の跡地は荒れ放題 シーズンオフに行ったせいか、駅前はガランとしていて、タクシーを呼びました。参道入口の銅の鳥居から上りました。参道の両側は荒れ放題という感じでした。時折、登山客に追い抜かれる程度でした。 宿坊群は荒れていましたが、かろうじて財蔵坊(県指定の文化財)が保存されていました。帰りは町営バスで、もどりましたが、JR添田駅のほうが便利でした。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 JR日田彦山線彦山駅からタクシー利用(JR添田駅から町営バスあり) |