福井県(ふくいけん)

○愛宕坂(あたござか)/福井市足羽 
 
   
▲百坂/足羽神社へ神水を運ぶための坂を整備したもの ▲横坂/百坂と五嶽楼(代表的な料亭)横を結ぶ坂のこと指します 
   
▲愛宕坂茶道美術舘/福井市の茶道をテーマにした美術舘・1999年開館 ▲橘曙覧(たちばなあけみ)記念文学館/歌人で国学者の市立記念館 
一乗谷から愛宕大権現社を移転させました
 天正4年(1576)、織田信長の家臣・柴田勝家が一乗谷から愛宕大権現神社を足羽(あすわ)山に移したことから命名されそうです。このころの加賀・越前は、一向一揆を含む大戦乱の時期で、勝家は織田信長から北陸方面軍司令官に任命されており、加賀国の平定を任じられていました。江戸時代の慶長6年(1601)、結城秀康が越前藩主として、愛宕山に入り神社に参拝しています。
福井城下の商人が7年かけて坂の修復工事
 とはいえ多くの人々は、足羽山(江戸時代は愛宕山と呼ばれたことも)に登る道が険しく困っていました。そこで福井城下・下立矢町(しもたちやちょう)に住む商人・松岡屋吉兵衛が7年かけて愛宕坂・百坂の修復などの大工事を行いました。ところで松岡屋の住んでいた下立矢町は元々足羽神社の社領で、神官の住んでいた町だったといいます。
●風情のある光景にホッとします
 クルマの駐車場は神社近くだったので、愛宕坂の階段を下りながらの撮影は楽でしたが、駐車場までの帰りの上り階段はかなりキツかった。それでも風情のある光景が広がり、さらに横坂からの眺望にホッとします。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは足羽公園駐車場に停めました
 
○東郷(とうごう)/福井市東郷二ケ町 
 
   
 ▲安本酒造/鎌倉時代から続く旧家。銘酒「白岳仙」は地元を代表する酒 ▲青山あたらし家/昭和初期の建築を修復・ギャラリーなど情報発信地 
   
▲毛利酒造/銘酒「越の桂月」・昭和13年の創業で歴史は比較的浅い ▲米粉えび餃子/米粉を使用しているせいかモチモチ(665円/福龍飯店) 
東郷街道沿いの美しい宿場町
 東郷の名は鎌倉時代の荘園・東郷荘として初めて現れます。貞治5年(1366)朝倉高景にこの地の地頭職が与えられます。その後朝倉氏滅亡後,天正13年(1585),長谷川秀一が東郷に入府し,城下町として形成。しかも大野街道と東郷街道の交差する交通の要衝で,江戸時代は宿場町としてますます発展しました。
福井市の里川に認定
 町並みは,古民家は多くはありませんが,堂田川沿いに残されており,美しい水の流れに心が洗われるようです。堂田川は足羽川の清流を取り入れ、古い荘園時代から農地や生活用水として使われてきました。平成10年10月に用水路改修と共に、そばに“親水路”が完成し、14の橋と共もに、美しい町並み形成の一端を担うことになりました。福井市の里川として認定されると同時に、福井市景観賞・建築部門を受賞しています。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは東郷郵便局に停めました
 
 ○城戸ノ内(きどのうち)/福井市城戸ノ内町
 
   
▲切妻型の本棟造。ところどころ古民家が見られます 一乗谷・復元町並み/武家屋敷や町人の家屋が混在していました 
町内に超弩級の一乗谷朝倉氏遺跡があります
 まさしく戦国時代、一乗谷は朝倉氏五代の城下町のあったところです。近年ドラマ等で紹介されることが多くなりました。特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重指定は極めて珍しい遺跡。そんな超弩級の遺跡を同じ町内に抱える古い町並みなのです。
嘘のような静寂に包まれた町並みです
 古くは鬼戸内、城戸内とも書きました。江戸時代は福井藩領。村高は200石弱の小さな村です。ほとんどが畑作です。明治時代は一乗谷村大字城戸ノ内町となり、昭和46年に福井市の町名となりました。“観光遺跡”は観光バスやマイカーなどで訪れる人が多く、観光客で大変な賑わいですが、北側に隣接する古い町並みは静寂です。板張りの古民家や蔵が点在し、ちょっとホッとする町並みでした。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは一乗谷駐車場に停めました
○勝山(かつやま)/勝山市本町  
 
   
▲旧妓楼と思われる町家も残る  ▲商家の大きな蔵も点在しています 
 江戸時代初期は藩主が絶えず代わる
 江戸時代は元禄4年(1691)になって小松原貞信が美濃高巣から2万2千石を得て入封し、勝山藩が再度生まれました。というのも、当初福井藩領でしたが、騒動が起こったり、廃藩なったかと思うと幕府領。とにかく治世が入り乱れていました。
商家や料亭、遊郭などが並ぶ
 市役所の脇道がおたね坂といい,お種と若侍の悲話が残されています。その後メインの本町通りに出ますと,城下町らしく古民家が多く残されています。庇や軒が突き出た2階建ての町家で,歩いているだけで楽しくなります。本町通りは歴史は古く,柴田勝安の時代に本町,郡町,寺町を形成します。しかし城下町の基礎は、小笠原貞信の入封後に形作られ,商家や町家が建ち並ぶようになりました。なお河原通りは料亭,置屋,遊郭が並んでいました。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは勝山市役所の駐車場に停めました
○永平寺(えいへいじ)/永平寺町松岡春日 
 
   
▲板張りの上に漆喰で固めています  ▲古民家は思ったよりは少ないです 
曹洞宗大本山のある町
 永平寺といえば曹洞宗の大本山として知られています。いまから約760年前道元禅師によって開創され,町は門前町として発展,多くの信者が参拝します。曹洞宗は2本山制を敷いており、もう一つの本山は横浜市にある總持寺(鶴見区)で、昭和の大スター・石原裕次郎の墓のあることで知られています。
意外に少ない古民家
 さて町並みは永平寺役場のある勝山街道(国道416号)の一本裏手にある旧街道沿いに建ち並んでいます。造り酒屋,や商家,寺院などがあって落ち着いた町並を形成しています。

 この近くには天龍寺があり,初代松岡藩主が祖母の冥福を祈るために建立したとか。また松尾芭蕉の立ち寄った寺としても知られています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはスーパー・ラッキーに停めました
○吉江(よしえ)/鯖江市吉江町 
 
   
▲立派な長屋門も残っています  ▲切妻型の美しい意匠の古民家 
江戸時代の文豪・近松門左衛門が子どものころ在住
 文禄年間に活躍した文豪・近松門左衛門は、吉江藩士を父(杉森信義)にしていたことから,2~15歳ごろまで吉江に住んでいたそうです。その吉江藩もわずか29年で廃藩となり,福井藩に吸収されました。同時に武家屋敷や寺院なども福井城下に移転させられたのです。で、跡地は田地とされましたが、地内の6つの町は福井藩から諸役を免除されるなど、保護を受けていました。
七曲がりが往時を彷彿
 当時,町人町の一つ新町から藩主の住む館(陣屋)まで行くのに大回りさせ,制札場を設けるなどして,七曲がりしていたといわれています。歩きますとカギ型の通りが現存し,長屋,商家などが往時を思い起こさせます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはJAたんなん鯖江北支店に停めました
 
○水落(みずおち)/鯖江市水落町 
 
   
▲旧道を歩きますと漆喰と板壁の蔵  ▲旧家を思わせる住宅も目に付きます
北陸道の宿場町
 江戸時代は福井藩領。近くに神明社(約50石)があり,後に枝郷宮村として分村していきます。15世紀末には市が立ち,住民の大部分は農業と馬喰(ばくろう/馬や牛の売買など)を営んでおり,北陸道沿いの宿場町として発展しました。
 さらに松平忠直による開発が進み,町並みが形成していきます。朝倉氏の旧臣で水落に土着した清水藤右衛門家は,代々本陣や伝馬問屋を務めました。明治30年に陸軍歩兵36連隊が設営され、町はさらに発展します。
風情を感じさせる住宅地
 いまは閑静な住宅地となっていますが,石碑を中心に蔵造りや庇の突き出た町家が所々残っており,風情を感じさせます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは旧宿場跡駐車場に停めました
 
○旭町(あさひまち)/鯖江市旭町 
 
   
 ▲長屋門としてはかなり大きい ▲余談です/軍隊堅パンは軍人の味? 
かつて貧乏藩の陣屋町
 江戸中期の享保5年(1720),越後村上より間部氏が入封し,鯖江藩が5万石で成立しました。しかし貧乏藩で,実際の石高は800石(?)といわれ,北国街道沿いの寒村に過ぎなかったのです。しかも,領地は飛び地をかき集めてやっと成立したもので,それぞれの支配地に6人の大庄屋を置きました。さらに家臣をそれぞれの飛び地に住まわせ,陣屋町を早急に形成させる必要がありました。
徴税の強化や専売制の改革も失敗
 
享保7年(1722)になると、陣屋町らしくなってきますが、財政は火の車!! そこで領民に対して徴税の強化や専売制の改革などを実施しますが、いずれも失敗に終わります。その後1万石の減封など試練が続き、幕末を迎えます。
石畳と板塀が似合う町
 旭町付近は,陣屋町の一つとされています。いまは石畳みを敷き詰め,板塀が続き,往時を彷彿させます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは一乗寺駐車場に停めました
 
○稲荷(いなり)/池田町稲荷 
 
   
▲堀口家住宅/江戸初期築(国の重要文化財)茶色の土壁と茅葺き屋根の美しい組合せ。土間には囲炉裏も残り、屋根組も見えます 
   
▲須波阿湏疑(すわあずき)神社山門  ▲ほとんどが改築、改装 
地名は寺社との関わりが深いから名付ける?
 江戸時代は福井藩領、幕府領、大坂城代、鯖江藩領など絶えず変遷。当地には稲荷大明神・池田惣社などといわれた須波阿湏(津)疑神社、時宗・相模国藤沢清浄光寺末寺の大願寺などがあり、寺社との関わりが深いことから地名を稲荷と名付けたとか。
江戸時代は水害や飢饉もありました
 農業中心の集落ですが、河内川がしばしば氾濫するため被害が発生します。ときおり稲荷橋も流失するので、丸木橋から牛馬の通れる頑丈な橋に変えたとか。天明の飢饉では22人が餓死。天保の飢饉では、藩から救籾を受けています。
旧道沿いの古い町並みの大部分は改築、改装!
 須波阿湏疑神社も気になりますが、やはり堀口家住宅に足を向けます。広場にポツンと1軒が建っています。日本の伝統・入母屋造りです。土間はヒンヤリとします。昭和47年に解体、復元しました。堀口家は須波阿湏疑神社に仕える12軒衆の一軒で、有力な家柄だそうです。ココから須波阿湏疑神社に向かいますが、途中の古い町並みの1軒、1軒は改築、改装されていました。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは池田町役場に停めました
 
○寺島(てらじま)/池田町寺島 
 
いまは須波阿湏疑神社の門前町を形成
 須波阿湏疑(すわあずき)神社正面の足羽川を渡ると、引き続き国道476号線。この国道沿いに古民家がギッシリ詰まっていました。木造2階家の切妻型で大型です。神社の門前町を形成しています。2階の広くとった窓はよく見ると2重になっていました。防寒対策の知恵か。
地名の由来は照島から寺島に転訛説もあります
 地名の由来がおもしろいです。魚見川の氾濫の多い土地柄ですが、氾濫後ところどころにできた川跡の沼が、高所から見ると照り輝いていました。そこで照島と呼ばれ、さらに寺島と転訛したという説があります。寺屋敷という呼び名が残ったとか諸説あるようです。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは八幡神社入口付近に停めました
○宿(しゅく)/越前町宿 
 
   
▲板壁の家屋が続きます  ▲裏道はさらに狭くなります 
隣の新保集落との争いは明治まで続きます
  江戸時代は福井藩領で,ほとんどが漁業で生計を立てていました。しかし隣の新保集落と漁場の境界線での争いが絶えず,屋敷地や山の境界線も含めて明治まで争いが続きました。
道幅の狭い漁村らしい光景
 宿は若狭湾に面した細長い集落です。反対側は崖地になっており,集落内はクルマ1台がやっと通れる道幅です。家屋はひと目見て立派です。なかには木造3階建ても見られますが,狭い敷地を有効に利用しようとしたからでしょう。さらに裏道に入りますと,道幅はさらに狭くなり,漁村らしい光景が見られます。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは漁港の駐車場に停めました
○江波(えなみ)/越前町江波 
 
   
▲旧道沿いには幾つかの改築、改装した古民家が見られます ▲旧道から離れても板壁や腰板壁の蔵などの古民家が残ります 
集落を苦しめた暴れ川・天王川の普請
 江戸時代は福井藩領、後に幕府領、三河西尾藩領と変遷。村落は700石余で田が560石余、畑作が160石余とまずまず。ところが江波村中央を流れる天王川は暴れ川とも呼ばれ、水害に苦しむことになります。享保20年(1735)には120石余の石砂入り、川欠引きがあり、大きく村高が落ち込みました。それ以後も毎年60石もの穫れ高が落ち込みます。そのため堤の普請、河川修復など村あげての工事を行います。
「日本の民家」を象徴する建築美を見せてくれます
 クルマを降りてしばらく歩き、さらにかつての暴れ川といわれた天王川を渡ると、古い町並みにぶつかります。地元の観光地図には「切妻屋根型住宅群」と明記されています。真壁(しんかべ)の柱、貫(ぬき)なのどで、垂直線と水平線によって見せる美しさです。「日本の民家」を象徴する美しさといえます。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは宮崎コミュニティセンターの駐車場に停めました
 
○今庄(いまじょう)/南越前町今庄 
 
   
▲2階の防火用袖壁が特徴です  ▲旧道沿いには板壁や古民家が健在 
敗走する柴田勝家、追走する秀吉軍……
 北国街道と北陸道が交差する宿場で,かつては軍事・交通の要衝でもありました。天正11年(1583),敗走する柴田勝家軍を追って北上する羽柴秀吉軍は,まず「板取,今庄,いのお」付近に陣を張って,柴田勢の反撃に備えたそうです。
約1kmも続く宿場町
 京や江戸,伊勢参りも必ず今庄を通ることから,かなり繁栄しました。天保年間で旅籠が55軒もあったとか。福井藩の参勤交代は、城下を早朝に発ち、今庄宿に宿泊しました。翌日は板取関所を通過して木ノ本宿を目指しました。

 約1kmの町並みは江戸時代初期に形成されました。建物は庇が突き出てた豪雪地帯らしさを感じます。なお、2021年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○板取(いたどり)/南越前町板取 
 
   
▲茅葺きの甲造り/電線は地中化 ▲門を抜けると今庄宿へ行く 
北國街道の宿場町
 天正6年(1578),柴田勝家が北ノ庄から信長の居城安土に赴く最短路として,栃ノ木峠の大改修を行なうと人馬の往来が多くなり,板取宿を設けたました。その後北国街道の玄関口として,近江-越前を結ぶ要の宿として発展しました。江戸時代は,関所を設けたそうです。
4棟の茅葺きの「ふくいの伝統的民家」
 石畳みの両側に4軒の甲造りや妻入り型の茅葺きの民家が残っています。また役場の募集をみて,東京からKさん一家が移住されて、約20年になります。移住の条件が「家の周りの整備といろり焚くこと」だったとか。電線は地中化されており、プロパンガスは見えない裏手にあります。国道もすぐ下を通っています。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは板取宿駐車場に停めました
 
○河野(こうの)/南越前町河野 
 
   
▲北前船主の右近家   ▲右近家の西洋館(国の登録文化財)
   
▲北前船も寄港した河野集落  ▲中村家(非公開・国の重要文化財) 
右近家と中村家の二大船主
 江戸時代は福井藩領。何より江戸時代中期から明治にかけて北前船の活躍に著しいものがありました。特に右近家と中村家の2大船主は,大きな力を持ち,地元に対しても,道路の建設,水道の施設など大きな力を発揮したのです。
北前船の衰退とともに両家は異分野へ進出
 慶応元年(1865)には右近家は,大型船5艘,中村家も大型船5艘を持ち,河野浦をほぼ独占していました。しかし北前船の衰退と共に右近家は火災海上保険の分野へ,中村家は北洋漁業の分野へと進出。なお建物は京風の本瓦を使った豪勢な造り。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはシーサイドパークに停めました
 
 ○金ヶ崎(かねがさき)/敦賀市金ヶ崎
 
   
▲旧敦賀港駅舎/鉄道資料館・港町  ▲板張りの倉庫はまだまだ現役 
レンガ倉庫は登録文化財
 1905年アメリカの石油会社が貯蔵庫として建設,県内で最大規模のレンガ建築物です。柱の内側に壁を設け,柱が出ない設計になっており,平成21年に国の文化財に登録されました。少し離れた所には黒板塀や鉄筋の古い倉庫群があり,現在も使われています。
伝聞・金崎城で木曽義仲に追われた平通盛が籠城!?
 南北朝時代から歴史に登場する町で、この地には金崎城があります。養和元年(1181)9月、木曽義仲軍に敗れた平通盛(たいらのみちもり)が“津留賀城”にて籠城、やがてここも捨てて敗走した、という伝聞がありますが、この城が金崎城をさすのではないかといわれています。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは金ヶ崎緑地の無料駐車場に停めました
 
 ○相生(あいおい)/敦賀市相生町
 
   
▲市立博物館(昭和2年築) ▲鯖のへしこ焼(400円・まごころ) 
敦賀で最も歴史のある地
 敦賀でも最も歴史のあるところで,古代以来,気比神宮の社領ともいわれ,共に発展してきました。江戸時代は36町とも41町ともいわれ,この地は金ヶ辻子(かねがずし)と呼ばれ,鉄問屋,刀鍛冶屋,糀屋,酒屋などがありました。現在でも造り酒屋の敦賀酒造(寛永元年創業)が残っています。
ヨーロッパへの最短距離で行けました
 また戦前はヨーロッパへシベリア鉄道,航路を併用すると最短距離で行けるというので,敦賀は国際港として賑わいました。なお古民家はこの三叉路付近に残っているいます。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは市立博物館に停めました
 
○川崎(かわさき)/敦賀市川崎町 
 
   
▲路地も板壁の住宅が密集   ▲1階の開口部が広いので旧商店
江戸時代初期は茶問屋が集まっていました
 江戸時代は茶町といいました。寛永11年(1634)、小浜藩主・酒井忠勝がはじめてやって来たとき、笙ノ川(しょうのかわ)を検分したとき、今橋橋詰町と命名。ところこが3~4年後から多くの茶問屋が建ったことから茶町と称するようになったそうです。明治に入って川崎となります。その後離合集散を経て、昭和41年に現在の川崎町となりました。
笙ノ川の治水工事で町の位置は左岸から右岸へ
 このころの茶町(川崎町)は笙ノ川の左岸に位置しました。しかし古来より洪水氾濫、氾濫土砂の被害がいちじるしく住民にとって笙ノ川の治水対策が大きな問題でした。県や町に何度も対策を訴えましたが、大正15年の付け替え工事が県議会で承認。昭和3年から河川の改修工事が着手され、昭和4年12月27日に通水し、現在の笙ノ川となりました。結局、現在は笙ノ川の右岸に位置することになります。旧笙ノ川はしばらく石炭輸送などの運河として利用されていましたが、現在は埋め立てられたり、暗渠となり“旧笠の川”として生き残っています。
かつては銭湯もあった賑やかな商店街でした
 いま歩いて見ますと、2階木造家が続きます。大部分が戦後の建物です。1階の開口部が広いので、かつては商店であったことがうかがえます。棟割り長屋も多く、下町という雰囲気を残しています。なお、全国の銭湯ファンに知られた“赤壁の銭湯”こと千鳥湯が廃業されていました。残念! 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 
○栄新町(さかえしんまち)/敦賀市栄新町 
 
江戸初期から花街として歴史がありました
 江戸時代は新町といいました。『敦賀志』によれば、町の成立と性格について「花街他~寛文10年(1670)に至って一町となし新町と名付けたり」と記されています。天和2年(1682)の『遠目鏡』には揚屋(あげや)7軒を掲載しています。揚屋とは遊女を置屋(おきや)から呼んで遊ぶ家のことで、いまでいう貸し座敷のこと。さらに芝居町でもあり多くの役者の名前も登場します。このように江戸時代初期からの花街として歴史があったのです。
戦後もしばらく花街として歴史を刻みます
 明治7年は常磐町といいました。このころも料理屋、貸し座敷業、芝居小屋などが集中し、花街として繁栄しました。しかし昭和20年の空襲で焼失。しかし戦後も花街として続いていました。昭和32年に現在の栄新町となったのです。花街として歴史のある町であったのですが、いま天満神社付近を歩き回りましたが、往時の面影はありません。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは天満神社横の道端に停めました
 
○疋田(ひきだ)/敦賀市疋田 
 
敦賀と京・大坂を結ぶ要衝
 江戸時代から交通の要衝で,西近江路,塩津道などの分岐点にもあたり,また本陣も置かれ郡内で最大の宿場町に発展しました。しかし何より疋田の名が知られるようになったのは,敦賀港と琵琶湖を水路で結ぶという計画でした。これは平安時代末期の武将で公卿・平清盛の時代から念願で,江戸時代に入って幾度か計画され,実際に工事が行われました。舟川の川幅は2.8mで牛車で荷物満載の舟を引くというものです。川底には丸太を敷き詰め,舟が滑りやすいようにしたそうです。これらも慶応2年の大洪水で崩壊したそうです。
「ふくい歴史百景」、「福井ふるさと百景」
 いまは農業用水として利用されたり、排雪や防火用水、洗い場などの生活用水として活用。さらに一部は用水周辺の町並みを整備、福井県の農業用水で唯一「ふくい歴史百景」、「福井ふるさと百景」に選ばれました。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 

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○早瀬(はやせ)/美浜町早瀬 
 
   
▲裏道に入ると道が細くなり、漁師町特有の板壁の古民家が散在しています 
大部分が上方に出荷
 南北朝時代は早瀬浦と呼ばれた地域。地頭職が支配地を京都の臨川寺に寄進,まもなく天竜寺の支配も始まりました。風光明媚な荘園だったのでしょう。江戸時代は小浜藩の所領でした。文化4年(1807)の人口は1024人,203戸で,漁業が盛んなのはいうまでもありません。現在でも6割が中京や京阪神に出荷されているそうです。また北前船の寄港地でした。
板張りの土蔵や民家群
 道は入り組み,裏通りに入ると狭くなります。土蔵は風雨に強い板張り,なまこ壁。町家は2階屋も低く,オール板張りです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは早瀬漁港の空き地に停めました
 
○日向(ひるが)/美浜町日向 
 
   
▲下見板張り(押縁)の住宅群 ▲鯖に糠を塗って保存するへしこ 
約1kmの細長い集落
 日向浦と呼ばれ,弘安年間(1278-88・鎌倉時代),奈良・春日社が荘園とした,という記録があります。しかしながら、春日社のほか天竜寺など都の大きな寺院が入り乱れてこの地を支配を強めようとしています。やはり豊富な漁業が目当てなのか。集落は日向湖畔に沿って約1km以上の細長く,漁村特有の板張りの民家が続きます。日向橋の袂にへしこの里の碑がポツンと立っています。
へしこはサバのぬかずけ
 へしことは若狭地方の郷土料理で「農山漁村の郷土料理百選」(農林水産省)に選ばれています。サバを内蔵をきれい取り、ぬかずけにします。ただ、店によっては、製造過程でうす塩を使用したり、唐辛子を加えたり、1年以上熟成したりと様々です。鯖の代わりに各種青魚を使うこともあります。歴史は古く江戸時代には、保存食として作られていました。製法は北前船で釧路、根室方面から伝わったという説がありますが、その時はサンマやニシンだったそうです。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 
○佐柿(さがき)/美浜町佐柿 
 
   
▲旧道沿いに各種古民家が残ります  ▲用水沿いの黒板壁2階家 
商家と農家の混合型町家
 秀吉の家臣・木村常陸介定光が国吉城主となった天正11年(1583)から,本格的な町づくりが始まりました。丹後街道の向きを変えて,新たな街道に短冊型の町割りを整えたのです。なかには表構えは商家でも,奥には土蔵や牛小屋のある町家も見られます。これは商家と農家の両方の機能を持った,きわめて珍しい町家といえます。歩いて気がつくのは、洗練された意匠です。窓や庇、格子など京風の「はんなり感」が出ているのです。
女留番所も併設して出女を取り締まる
 慶長5年(1600),入封した京極高次は若狭と越前の国境に関所を設けました。その後の小浜藩主・酒井忠勝も佐柿の重要性から町奉行を置きました。さらに女留番所も併設され、出国する婦女を取り締まったそうです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは国吉城址駐車場に停めました
 
○小浜(おばま)/小浜市小浜香取 
 
   
▲商家などの町家、小料理、貸席、妓楼などさまざま古民家が残ります 
   
▲板塀や壁窓などオシャレっぽい  ▲大型の切妻型住宅や土蔵 
NHK朝ドラ『ちりとてちん』の舞台
 2度目の訪問です。NHK朝ドラ『ちりとてちん』(平成19年・貫地谷しほり主演)の舞台となったところで,小浜が爆発的な人気となりました。
 
若狭の小京都と言われ、古い町並みや寺院などがたくさんあり、かなりの歴史的建造物が残っています。国民宿舎小浜ロッジから古い町並みの「三丁目」(写真上)まで徒歩3分ぐらいとすぐです。夜になる三味線の音が聞こえる、お茶屋街です。クルマ1台がやっと通れる狭い道を歩きながら、格子の向こうからにぎやかな声が聞こえてきます。
町並み資料保存館
 「三丁目」が西の端で、ここから東のJR小浜駅方向へのんびりと歩きます。道幅も広くなります。格子のはまった2階建ての町家がそこここに見られます。
 途中「町並み保存資料館」があります。小浜は北前船の寄港地で、資料館は江戸時代の町家を再現したものです。
鯖街道の起点
 若狭はかつては朝廷に海の食材を送っていたところで、小浜はその基地でもありました。「鯖街道資料館」もあります。サバにひと塩して、一昼夜かけて京都に運ぶと、ちょうどいいというわけであります。 
感動度★★★★
  もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは国民宿舎小浜ロッジ横の無料駐車場に停めました
 
○遠敷(おにゅう)/小浜市遠敷 
 
   
▲鯖街道の両側に残る古民家群  ▲低い2階家、格子が特徴です 
中世、若桜姫神社の前に市が立ちました
 若狭姫神社(写真),若狭彦神社と共に発展した町並みです。若狭姫神社の歴史は古く,創建は奈良時代養老5年(721)といわれています。また現在の本殿は享和2年(1803)の造営されました。
 若狭姫神社の前に,中世に市が立ったところでもあり,南北朝時代の建武元年(1334)には“遠敷市”と呼ばれていたそうです。
街道と参道の町
 いまは「街道と参道の町」と呼ばれ,幾つかある鯖街道の1つが通り,門前町と相まって風情のある町並みを形成しています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは若狭姫神社前に停めました
 
○下竹原(しもだわら)/小浜市下竹原 
 
   
▲堀屋敷地区は江戸時代の武家屋敷の地割りが残っています  ▲用水沿いにはしもたや風の古民家が多く見られます 
小浜城築城時に竹原村から分離独立
 丹後宮津街道沿いに古民家が残っています。江戸時代は小浜藩領で,人口の95%が漁業で生計。もともと竹原村にありましたが、慶長6年(1601)京極高次によって小浜城が築城されましたが、その時に強制的に現在地に移転させられました。竹原村から分離したので下竹原村と呼ばれました。ただ祭りなどは共同で行っていました。
●若狭塗りの箸の生産地
 明治に入って沿岸漁業の衰退とともに、若狭塗りの箸生産に転職していきました。いまは伝統工芸となり、家内工業的な木地屋、塗工場が多数見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは小浜漁港に停めました
 
○和田(わだ)/高浜町和田 
 
   
▲旧道沿いにわずかな古民家が残る ▲石積みに漆喰の塀も続きます 
小浜へは「和田通舟」がゆく
 文献によれば12世紀ごろから成立した荘園だったそうです。和田は戦国時代から海運の要衝だったところで,特に小浜へは「和田通舟」と呼ばれていました。江戸時代は小浜藩領で,人口は1100余人,当時としては比較的大きな集落でもありました。また郡内を治めるための陣屋も置かれており,800坪に及ぶ広さだったとか。
独特の照りのある黒瓦の切妻型2階家
 現在の町並みは,海水浴場の裏手に広がっており,黒瓦の切り妻屋根に板壁の戦後の建物で,漁村らしい光景が広がっています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは和田浜海水浴場の無料駐車場に停めました
 
○三明(さんめい)/高浜町三明 
 
   
▲蔵造りの古民家も残ります  ▲改築、改装されていますが趣は十分 
明治9年「学制領布」にともない新校舎設立
 高浜湾に面しており、旧丹後街道の宿場町・高浜宿の一画でもあります。もちろん城下町としての性格も持ち合わせています。明治5年8月の学制領布にともない、妙光寺に収美本校、長福寺に同支校を設置しました。のち妙長寺にも支校が置かれます。明治9年雪浜学校と改称。三明町に新校舎を設立しました。この学制は、日本の近代的学校制度を定めた基本法令といわれています。
旧丹後街道沿いの町並み
 町内で最大の繁華街でもある中町商店街から三明に至る通りに土蔵造りの商家など古民家が点在しており,往時の面影が見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは中町商店街駐車場に停めました
 
○大野(おおの)/大野市元町 
 
   
▲御清水(おしょうず)/お殿様のご用水  ▲寺町通り/京都を模しての町造り 
名水百選のトップクラス
 大野市は2回目の訪問です。名水百選のトップクラスで、清水のわき出る町です。30数年前に訪ねたときは、もっとこぢんまりしていたような気がします。当時、役所には水道局というものがなく、各家庭の井戸水の検査する機関のみでした。ところがこの清水を生かして、大手のクリーニング業者が参入することで、町じゅう大騒ぎになったそうです。
市内各所に水の名所があります
 実際に歩いていて、石畳でも道も広く、他の町の古い町並みとはいささか趣が違います。町並みはきれいな碁盤の目状で、わかりやすいのが特長。市内各地に水に関する名所があって、素朴な光景を見ることができます。

江戸時代初期、めまぐるしく代わる城主
 寛永元年(1624)に松平直政が5万石で入封するまでは、城主がめまぐるしく変わり治世が乱れがちでした。以後、松平氏から土井氏に代わるものの幕末まで続き、明治維新を迎えました。 
感動度★★
  もう一度行きたい度★
  駐車場 クルマは無料駐車場に停めました
 
○寺町(てらまち)/越前市京町 
 
   
▲旧福井県警察部庁舎/登録文化財  ▲寺町/静かな散策に向いています 
北陸街道沿いの寺町です
 江戸時代は府中町といいました。慶長5年(1600)に結城秀康の越前入封に伴い、家臣の本多富正が領有することになりました。中世のころから寺院が集中しており、しかも北陸街道沿いの西側にあたります。街道の東側を開発し、侍屋敷で囲むなどしました。一時期、街道の東側の町屋地域を“東京町(ひがしきょうまち)”といい、西側の寺町を“西京町(にしきょうまち)”と呼んだとか。
織田信長の討ち取った一向一揆勢1500の首を埋葬?
 石畳のある落ち着いた寺町です。なぜ、この地に寺が多いのでしょうか。一説には、一向一揆を制圧するために再来した織田信長は、浜手から明智光秀、豊臣秀吉の大軍を突入させ、「府中」に逃げ戻る一向一揆勢を挟み撃ちして、約1500もの首を切ったといい、当地は死骸の山となりました。そこで埋葬するために寺院が必要だったというが……、嘘か誠か定かではありません。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはJR武生駅前駐車場に停めました
 
 ○蓬莱町(ほうらいちょう)/越前市蓬莱町
 
   
▲旧武生郵便局/国の登録文化財 ▲蔵の辻/いまはおしゃれな町に
江戸時代は札の辻と呼ばれる高札場がありました
 はじめは武生町と呼ばれていました。明治初年、武生警察署が設置され、その横に火の見櫓が立ちました。後にココに武生の道路元標も建てられました。というのも、かつてこのあたりに札の辻といわれる高札場あったからです。高札場あったということは、江戸時代はこのあたりが中心地ということになります
蔵を店舗に改造して「蔵の辻」が誕生
 上方からの越前・加賀方面への物資の中継地として栄えており、商人たちの蔵が並んでいました。それは明治、大正へと続きます。戦後、市街地活性化の一環として蔵が集められ、修復、復元など「蔵の辻」という市民いこいの広場として蔵の町が復活しました。いまはオシャレな町ということで、観光客はもちろん地元民で賑わっています。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはJR武生駅前駐車場に停めました
 ○元町(もとまち)/越前市元町
 
   
▲慶応年間創業の三崎箪笥 ▲切妻型の平入り木造2階家が連なる 
戦国時代から優秀な職人が集まっていました
 江戸時代末期から家具・建具製造業者が集まりだしました。武生の家具・建具の6割余を生産。そのため通称・箪笥町と呼ばれました。能面などの工芸的な仕事をしていた者や手先の器用な農民などがお膳風呂(水屋)や板戸などを製作していました。もともと戦国時代から優秀な職人がいたとされ、前田利家が金沢に入封のときに連れっていったとされるくらいされます。法隆寺の国宝・橘夫人厨子の台座に「越前」と書かれているそうです。
珍しい「タンス町通り」
 バス停にも「タンス町通り口」とあります。庇の深い2階家が連なりますが、それほど長くは続きません。木造モルタル塗りや鉄筋の建物も見られます。しかし歴史の深い町並みであることには変わりません。庇を注意して見ていますと、瓦ではなく杉板であることに気がつきます。これは家具に傷を付けない配慮だからとか。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはJR武生駅前駐車場に停めました
○天王町(てんのうちょう)/越前市天王町 
 
   
▲「ちひろの生まれた家」本名は千弘 ▲いわさきちひろの生誕の碑 
町名は天王社(八坂神社)に由来します
 江戸時代は府中町といいました。明治2年から武生町の1町。町名の由来は、町内にあった天王社(現・八坂神社)に由来し、通りを「てんのまち」と呼びました。
絵本画家・いわさきちひろの生誕地で有名に
 古い町並みはわずかですが、なんといっても絵本画家「いわさき ちひろ」の生誕地であることで有名にしました。本名は岩崎千弘といい大正7年にこの地に生まれました。といっても、生後3ヶ月で東京に移ります。というのも母親の文江は、武生町立実科高等女学校の教師として単身赴任していたのです。この地で結婚し、ちひろを生んだ母・文江の方が、武生への思いは強かったようです。 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはJR武生駅前駐車場に停めました
○五箇(ごか)/越前市新在家町 
 
   
▲岡本川沿いに残る古民家群  ▲紙の文化博物館/古代からの紙の歴史 
古代から和紙生産は正倉院文書にも明記
 五箇地区とは、不老(おいず)、大滝、岩本、新在家、定友の5集落からなる所で、地名の由来となっています。和紙の生産の歴史も古く、宝亀5年(774)の正倉院文書には、越前が紙や紙の原料を納める国として明記されています。つまり古代から紙の需要があったものと思われます。中世の入りますと、和紙の技術は高まり、良質な越前和紙の生産販売は,天正9年(1584)に大滝村が,佐々成政に許可を願い出ていたので,岩本村(当時)も生産販売しました。
岡本川沿いの閑静な古民家群
 昭和初期,大蔵省印刷局の出張所ができ、紙幣用紙をすきました。また和紙生産の過程で多くの職人を輩出。県の無形文化財保持者や人間国宝も出てきました。いま紙の文化博物館を出て岡本川沿いを歩きますと板塀や黒板壁のある建築群を見られます。まさに閑静な古民家群といえます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは紙の文化博物館に停めました
 
○広瀬(ひろせ)/越前市広瀬町 
 
   
▲手入れの行き届いた蔵がいい  ▲漆喰と板壁の蔵が林立しています 
歴史のある小さな宿場町
 南北朝時代から広瀬の地名が見られる歴史のある町です。江戸時代は福井藩の所領。府中と河野・今泉浦を結ぶ西街道沿いの,宿場町とはいえ、小さな集落でした。
 明治に入って,当初は石川県でしたが,上広瀬村と下広瀬村が合併して広瀬村が誕生,明治14年に福井県に所属が決まりました。
板張りの蔵群が目立つ
 歩いていて目立つのは,蔵です。雪国らしく土壁に板を横に張り付けて補強しています。これは風雪対策のためです。また寺院や町家など見ながら歩くのも楽しいもの。
 
感動度★★
もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 ○野岡(のおか)/越前市野岡町
 
土岐頼殷が陣屋を置いていました
 歴史のある集落です。古代条里制の遺構があります。江戸時代は福井藩領、幕府領、大坂城代……と変遷。村高は650石前後。元禄5年(1692)から約20年間、土岐頼殷(ときよりたか)が正徳2年(1712)の転封(駿河田中藩)まで、当地に陣屋を置いて支配しました。
戦前まで商業が発達していました
 江戸時代後期以降、商業が発達。大正、昭和と商店街として町並みが形成されました。大正3年に武生から武岡軽便鉄道が、大正5年に戸ノ口まで延長。それにともない野岡駅が設置されました。その結果、野岡の住民や産業に大きな影響を与えました。しかしながら昭和46年の廃線で人口減へと進みます。いまは白山神社近くの県道25号線沿いに旧商家などの古民家が残ります。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○定友(さだとも)/越前市定友町 
 
   
▲至るところに古民家が見られます ▲西野家住宅/国の登録文化財
戦国時代から続く越前和紙
 戦国時代は貞友とも書きました。この地域で作られている奉書紙(ほうしょし/古来から大切なことを伝える和紙のこと)は、天正9年(1581)正月以来、大滝村の掃部(かもん/下級職員)が独占的な販売権を持っていました。ところが文禄4年(1595)11月に定(貞)友村の与三郎は禁止されていた紙に似た幅広の厚手紙を漉いたために罰を加えられようとしていました。そこで定(貞)友村4人の人々の仲介で簾桁(すけた/紙漉き道具)を大滝村の紙屋久次郎に差し出すことで許されています。
越前和紙・西野家の古民家群
 定友は五箇(ごか/5つの集落)の1つにあたります。西野家は代々紙漉きを生業としてきました。すなわち越前和紙界のリーダー格といえます。岡本神社にクルマを停めて歩き出すと、「クマ出没注意!」の張り紙が目に付き、一瞬ゾッとしました。このあたりは西野家の家屋を中心に古民家群がひとかたまりになっています。今は(株)西野商会の看板があり、和紙の総合商社となっています。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは岡本神社前の駐車場に停めました
 
○大滝(おおたき)/越前市大滝町 
 
   
▲神宮堂・地蔵堂/安置されている仏像や地蔵堂は県や市の文化財指定 ▲紙漉き工房が点在し、まさに越前和紙のふるさとと言えます 
“神郷”の異名を持つ大滝の紙を歴代の藩主が保護
 戦国時代からすでに紙漉きが盛んでした。しかも大滝村は室町時代から“神郷”の異名も持ち、正月になると牛王紙20帖を大滝寺公文所に治めていました。紙は大滝の掃部(かもん/下級職員)の判を押したものだけが奉書紙として販売が許されました。その間いろいろな紙が漉かれましたが、歴代の領主は徹底して禁じ、掃部を保護しました。
農業のかたわら紙を漉く農民たち
 江戸時代は福井藩領。寛保2年(1742)、本百姓63軒のうち43軒が別に紙漉き小屋を持っており、農業のかたわら和紙を生産していました。旧家・三田村家は越前和紙の成立、発展に寄与したとして、奉書紙職まかされていました。また福井藩はもちろん幕府の奉書紙も越前紙が占めるようになったのです。
若い紙漉き工房の職人たち
 紙漉き集落の空き地にクルマを置き、歩き出しました。人影はなく、ときおり木造の建物から職人らしき人の出入りがあります。職人が意外に若いのです。30歳代でしょうか。いまは和紙だけではなく、美術紙など各種の紙の開発が進んでいます。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは空き地に停めました
 
 ○春宮(はるみや)/あわら市春宮
 
かなりの力を持っていた奈良・春日大社
 元は金津町で竹田川右岸の北金津地区にあたります。その後芦原町と金津町の合併であわら市となり、春日から中央、さらに春宮へと変わります。地名は奈良・春日神社にちなむと考えられています。平安末期、現代のあわら市や坂井市の一部を社領としていたと推定。すなわちこの地で十郷に十社の春日社を建立、数百の社領を寄付させられとか。かなりの力を持っていたようです。
竹田川沿いの市姫橋手前に古民家
 昔から竹田川が北と南を分ける目安になります。駅方面から竹田川沿いを歩きます。そして県道9号線に架かる市姫橋にぶつかる手前の所になまこ壁の蔵造りの町家が見られます。観光協会発行の観光パンフにも利用されています。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはビッグマートに停めました
 ○温泉(おんせん)/あわら市温泉
 
   
▲温泉街という“かたまり”から離れると、もう普通の町並みです ▲旧杉田定一別荘庭園/芦原温泉の発展に寄与した明治の政治家 
古来から加賀道、金津道が通る交通の要所
 江戸時代は福井藩領で二面(ふたおもて)村。村高は田が940石余、畑作が200石余とかなりの穫れ高を示していました。また古来から加賀道が西部を通り、加賀道から分岐して金津道が東西に通るなど交通の要所でした。
相次いで田んぼから温泉が湧き上がる
 明治16年9月に堀江十楽村で灌漑用に掘った井戸から温泉が湧きました。そこで二面村でも温泉を掘り当て、二面温泉と称しました。さらに近隣からも相次いで温泉が湧き、舟津温泉、二面温泉、田中々温泉を総称して芦原温泉と呼んだのです。鉄道の開通とともに湯の町として大きく発展。その後福井大地震(昭和23年)、温泉街の大火(昭和31年)などを乗り越え、今日に至ります。
風情がないので庭園に力を入れます
 とはいえ、田んぼのなかに突然の湧出、風情が実に悪い。そこで各旅館は庭園に力を入れ、“関西の奥座敷”というまでになりました。ただ歩いていても、温泉街という感じがしません。大部分は鉄筋コンクリート造で現代的です。なお昭和34年に温泉1~5丁目、昭和51年二面1~5丁目となりました。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはあわら湯のまち駅南口駐車場に停めました
 
○三国(みくに)/坂井市三国町神明 
 
   
▲この先が滝谷出村遊郭です  ▲旧森田銀行本店/国の登録文化財 
三国にも思案橋がありました
 北前船の寄港地です。往時はかなりにぎわったようです。かつて出村(写真左)あたりは遊郭(滝谷出村遊郭)だったところです。そして辰巳川にかかる思案橋は、多くの男たちが「出村に行こうかもどろうか」と思案したところとか。長崎市の思案橋と同じ言い伝えです。昭和初期の貸し座敷は17軒、娼妓は約60人とか。
福井県で最古の鉄筋の建築物・旧森田銀行
 三国は、九頭竜川に沿って細長く1本の道が連なっています。格子が連なる町並みもあれば、福井県でいちばん古い鉄筋の建物・旧森田銀行本店(写真下右)は大正時代の建築です。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは九頭竜川の堤防沿いの駐車場に停めました
 
○竹田(たけだ)/坂井市丸岡町上竹田 
 
   
▲千古の家(坪川家住宅)/江戸時代初期の建物と推定。県内最古の民家、入母屋造で壁は杉皮張り。国の重要文化財 ▲豪雪地帯だけに冬への備えは万全です。どこの家にも、薪が積み上げられていました
明治時代中期まではまさに辺境の地
 竹田川上流にあって火燈山(ひともしやま)などの山々に四方を囲まれた集落です。古来、竹田川上流域を竹田と称していました。ところで火燈山は、石川県との県境にあって、山伏たちが修行に護摩をたいたとか、一向宗徒が烽火をあげたところなど諸説あります。また明治中期までは、ほぼ平野部とは隔絶した山村でもありました。まさに竹田はかつて辺境の地でもあったのです。
5年の歳月をかけて竹田新道が完成
 明治30年から5年の歳月をかけて竹田新道が開削。やっと開発が進みました。特に林業が盛んになり、薪や竹田炭以外、県内でも有数のスギの産地となりました。
歴史ある千古の家とその周辺
 千古の家の家主・坪川家は平安時代後期、院(中枢)の警護にあたった北面(御所の北面下)武士・坪川但馬貞純の子孫と伝えられています。また源三位頼政(みなもとのさんみよりまさ)の後裔ともいわれています。ゆえあって北國に下り、この竹田の山中に移り住んだそうです。そんな土地柄か、人影もなくまったく静かな集落です。2階家で板壁の民家がほとんですが、街道沿いには現代住宅が並びます。古民家は千古の家周辺にかたまっていました。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは千古の家の駐車場に停めました
 
○木根橋(きねはし)/勝山市北谷町木根橋 
 
   
▲戦国時代は貧しい山村で、一向一揆の一大拠点となりました 
一向一揆の一大拠点でした
 天正2年(1574)に平泉寺を焼き討ち・滅亡させた一向一揆の一大勢力・七山家の1つのあるところでした。七山家は、木根橋をはじめ加賀国白峰村への街道沿い集落の人々で構成されており、背後に加賀一向宗が存在していました。また七山家など幾つかの一揆勢が協議して一夜で塀・柵や堀をしつらえた城(簡単な砦のようなもの)を構えました。これが後の織田方の手によって完成した村岡山城となります。
江戸時代の領主は絶えず変わりました
 江戸時代は、福井藩領、勝山藩領、幕府領…と幕末まで幾つもの変遷を重ねます。村高は田が100石余、畑作が81石と貧しく、駄賃稼ぎに生糸、炭、石炭、繭、布、杉板、桑などあらゆるものに手を出します。
今では珍しい土壁の古民家が見られます
 典型的な山村集落で過疎化は戦後まもなく始まったといいます。やはり豪雪地帯であることが原因の1つだとか。さらに歩いていて気がつくのは、今では珍しい土壁の古民家が点在していることでした。柱と柱の間に木や竹を編み込んで、その上から土を塗り込んでいます。
地名の由来はケヤキの根っこ説
 地名は、小原道に架けられた橋が、ケヤキの古い根っこを土台にしていることから名付けられたといいますが、定かではありません。 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました
○三方(みかた)/若狭町三方 
 
   
▲いまは人通りの少ない旧街道ですが、往時は多くの人々が往来しました  ▲臥竜院総門前/旧料亭・妓楼が残ります。「聖と俗は隣合わせ」
小浜藩主が参勤交代時に必ず中食をとる所
 風光明媚な三方湖に面した町です。地名の由来は三つの潟があったから。江戸時代は小浜藩所領で,参勤交代時は必ず三方で中食をとっていたそうです。というのも臥竜院という寺がありますが、文応年間(1260-61)北条時頼の創建で、当時は宝福寺といい、小浜藩主京極氏が田を寄進し、さらに酒井氏入部に際して当院に寄宿。以後、藩主が中食することとなりました。美しい景色を楽しんだのでしょうか。
旧街道沿いに古民家が点在
 国道27号線に沿った裏道の旧街道に格子のはまった歴史的建造物が所々に残っています。若狭街道は京を結ぶ主要な街道です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはふるさと会館に停めました
 
○熊川(くまがわ)/若狭町熊川 
 
   
▲入母屋造りの歴史的建造物もきちんと保存されています ▲旧問屋・菱屋/他の数軒の問屋と共に宿場の繁栄を支えました
   
▲街道から幾つかの路地を抜けると、自然たっぷりの景観が広がります  ▲長屋道/この奥に町奉行配下の足軽長屋がありました
若狭街道は別名・鯖街道
 若狭と近江,京都とを結ぶ若狭街道沿いにある宿場町です。江戸時代には,あらゆる物資がこの町に集まり,ここから都へ運ばれました。
 酒井氏の時代は,鯖など水産加工物以外にも小浜藩の年貢米を納める蔵が12棟もあり,近くの村々から3万俵の貢米が運び込まれたそうです。そのため宿場は発展し,問屋,酒造業,さらに明治に入っても銀行,郵便局,警察などが設けられ,この地方の中心地でもありました。なお重要伝統的建造物群保存地区のほかに手造り郷土賞,平成の名水百選にも選定されています。 
山間の地にある宿場町
 通りを歩いていますと,側道に豊かな前川(用水路)が流れています。建物は中心部は,平入りで瓦葺きが多いようです。格子戸のある建物も多く,やはり京都の影響が色濃く感じさせられます。しかし多種多様の建築様式が健在で、歩いていても飽きません。
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道の駅の無料駐車場に停めました
 


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