藤沢市(ふじさわし)

○藤沢(ふじさわ)/藤沢市藤沢 
 
   
▲遊行寺/時宗総本山の古刹。遊行寺坂が箱根駅伝コースで一躍有名になる  ▲金砂山観世音/境内の小さなお堂は「鼻黒稲荷大明神」。梅毒治癒が目的 
東海道でも規模の大きい宿場町 
 中世は鎌倉,三浦半島方面からの街道と東海道が交わるところで,清浄光寺(遊行寺)の門前町として発展しました。江戸時代は,ココに宿場を置き,宿場町,市場町として発展したのです。本陣は江戸中期から蒔田源右衛門が勤め,いまは碑が残るのみとなっています。脇本陣は2軒,旅籠は50軒弱あったとされています。
そこかしこに残る古民家
 遊行寺橋を渡って右に曲がると藤沢宿の始まりです。土蔵造り,格子のある町家などが,ときおり見られます。古民家の存在をすっかりあきらめていただけにうれしいものです。

 地名は地形の渕沢が転訛したといいますが諸説あります。 
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 交通 JR東海道本線藤沢駅から徒歩20分
 
 ○大鋸(だいぎり)/藤沢市大鋸
 
   
▲舩玉(ふなたま)神社/鎌倉3代将軍・源実朝ゆかりの神社
「半僧半俗」の職人(大鋸引き)集団が住んでいました
 境川下流に位置する集落です。そして時宗・清浄光寺(遊行寺)の門前町として発展しました。地名からわかるように大鋸とは大型ののこぎりのことです。すなわち大鋸(おが)引きの職人集団が住んでいました。しかも客寮(きゃくりょう)と呼ばれ、清浄光寺の造営や修造にあたりました。さらに後背に連なる御弊山(おんべさん)からの切り出し・製材に従事しました。これは小田原北条氏の直接の支配下にあったことがわかります。また北条氏に関係する寺院や飯沼城の増築にも出役しています。ところで客寮とは、出家の僧と在家信者との中間にあり、いわゆる「半僧半俗」にあたり、時宗特有の身分でしょうか?
舩玉神社は源実朝が宋への渡る為の安全祈願所
 鎌倉初期に渡来した宋の宮大工の勧めによって、三代将軍・源実朝が宋へ渡るときのための船を建造。渡船用の材木などをこの地から切り出したとされました。同時に乗船成就、海上守護の願いから勧請されたのが舩玉神社です。
幕末の米価高騰に怒り、打ち毀しが起こります
 天保年間(1830-44)の飢饉には、恵まれた町人たちが窮民に施米しましたが、とてもまにあわず、幕末の著しい米価高騰は多くの町民たちを苦しめました。慶応2年(1866)にとうとう打ち毀しが起こり、町内の穀商たちが襲われました。 
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交通 JR東海道本線藤沢駅から徒歩15分
 
○長後(ちょうご)/藤沢市長後 
 
   
▲白壁の土蔵も見かけます  ▲無人の売店もありました 
2mを越す植栽にビックリ
 引地川に沿った町並。江戸時代は,大山道,八王子往還が通り,継立村でもありました。古来,このあたりは農村でしたが,大きな余裕のある敷地が受け継がれました。それにしても2mを越す植栽は大きい。
いたるところに古墳が発掘されています
 ところで、このあたりは数々の古墳が発掘されています。代官山横穴群と呼ばれる古墳がありますが、第二次大戦で軍隊によって破壊。その後の発掘を加えて、須恵器、勅刀、耳環や長頸壺などが発見されています。長後天満宮境内を、渋谷氏の城、あるいは居館とする伝承があります。
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 交通 小田急江ノ島線長後駅から徒歩20分
○用田(ようだ)/藤沢市用田 
 
一時期、春日局領でもありました
 戦国時代から用田郷として存在していました。豊臣秀吉は小田原攻めの際、用田を重要地として早くから掌握しようとしていたそうです。江戸時代は幕府領、旗本知行、各藩と変遷します。おもしろいのは寛永10年(1633)春日局領だったことです。まさしく3代将軍・徳川家光の乳母で権勢を誇っていた時代です。いわゆる生活費をまかなうための領地“化粧領”と言えるかも知れません。
●古民家が散在しています
 旧用田村には厚木道、中原往還、大山道が通り人馬継立てを行っており、交通の便もいいせいか、意外にも早くから発展した集落でした。いま大部分が郊外住宅に変わっており、古民家は鎮守の寒川神社近辺や中原街道の裏手に見られます。
 
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 交通 小田急江ノ島線長後駅からバスで用田辻下車、徒歩10分
 
○宮原(みやばら)/藤沢市宮原 
 
   
▲立小路/中原街道の裏手を通る。屋敷林がいたる所に残ります  ▲地蔵尊/立小路沿いの旧集落入口に立つ地蔵尊。今も残ります
立小路沿いに古民家
 江戸新道(中原街道)裏には、立小路(たてこうじ)という通りがありますが、かつては表通りでした。そのため名主などの屋敷や屋敷林も見られました。現在も立小路入口には地蔵尊が立っています。また畑や造園業などの庭、通り沿いの古民家も見られます。地名は、寒川神社の近くの原っぱを開拓したことが由来だとか。
藩と対立するなど、騒動が絶えません
 元和3年(1617)、百姓(そうびゃくしょう)が村内から一斉にいなくなる事件が勃発。さらに天明元年(1781)には、名主の村役人役料の不正使用と諸役負担の不正割掛けをめぐる村方騒動が起きています。また領主の佐野氏は財政窮乏のため、寛保年間(1741-44)から年貢の先納制をとり、農民たちはかなり苦しめられました。
 
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 交通 小田急江ノ島線長後駅からバスで用田下車、徒歩15分
 
○鵠沼(くげぬま)/藤沢市鵠沼松が岡 
 
江戸時代は半農半漁の村
 歴史は古く、平安時代の書物に鵠沼郷の地名が見られます。江戸期,享保13年(1728),海岸沿いに大筒(大砲)実射場が設置されました。このため幕府鉄砲組の逗留費用など,経済的な負担が大きく,ただでさえ藤沢宿の助郷負担もあって,村民は疲弊するばかりでした。もともと半農半漁の村で,農繁期のあと,漁に出ていました。
明治時代は別荘地として開発しました
 明治時代,海水遊泳場,別荘地として開発。明治35年,鉄道が開設してから一気に観光地化したのです。鵠沼の一部には,生け垣,竹垣などの植栽が残されており,旧別荘地としての風格が漂っています。
 
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 交通 小田急江ノ島線鵠沼海岸駅から徒歩15分 
○片瀬(かたせ)/藤沢市片瀬 
 
   
▲名主でもあった旧小池邸(左)と旧福原邸の長屋門(右)。新林公園に復元 
新田義貞の鎌倉攻めの地
 古代からの開発が進み、水田も広範囲に存在し、そのため遺跡も多く発見されています。鎌倉時代は鎌倉への入口にあたり、幕府にとっても要地でもあります。刑場もありましたが、基本的には鎌倉幕府の外にあったことになります。逆に言えば、それだけ多くの合戦が行われました。特に新田義貞の鎌倉攻めは有名です。また江戸時代は徳川幕府の所領となり、幕末まで続きます。
●えのしま道沿いの集落です
 藤沢宿からのこのえのしま道は、「江の島詣で」の人々で賑わいました。いまはほとんどが宅地化されていますが、江の島に近づくにつれ、旧家が残り、土蔵や美しい植栽に囲まれた古民家がわずかに見られます。また藤沢最古の本連寺、龍口寺など古刹も多い所です。 
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 交通 江ノ島電鉄石上駅から徒歩10分 
○州鼻通り(すばなとおり)/藤沢市片瀬海岸 
 
 ●江ノ島神社の門前町
 州鼻というのは砂州のことで,境川河口から江ノ島に伸びています。江戸時代から江ノ島神社への多くの参拝客が通った道で,両側には土産物店や旅籠などが林立。また境川河口には片瀬港があり,藤沢宿の周辺の米などの農産物の移出,日用品,雑貨などの移入品があふれ,賑わっていました。
大正から昭和にかけて海水浴客がゾロゾロ
 大正から昭和にかけて、流行りだした海水浴客がゾロゾロと歩いていました。いま「片瀬州鼻通り」を歩きますと,高層マンション、おしゃれなカフェやレストランなどの間に,木造旅館,蔵造りの土産物店な幾つかの古民家が見られます。
 
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 交通 江ノ島電鉄江ノ島駅から徒歩5分
○江ノ島(えのしま)/藤沢市江の島 
 
   
▲岩本楼/岩本院の宿坊が発展。ローマ風呂は国の登録文化財  ▲弁財天仲見世通り/最もにぎわうところ。土産物店や飲食店が集中 
江戸中期からますます盛んになる江ノ島詣で
 古くは絵島、絵嶋とも書きました。江戸時代,寺院の三坊(岩本院、上之坊、下之坊)の中で多くの論争、すなわち相続権や財産権などの訴状があり、幕府は裁定の結果、他の二坊(上之坊、下之坊)は岩本院の末寺であるとしました。そのため岩本院は江ノ島全体に力を及ぼしていきます。江戸時代中期から、弁財天信仰の高まりとともに、江戸庶民の江ノ島詣でが盛んになりました。参拝者の急増で、片瀬村と江ノ島との間で船賃をめぐる論争が発生するくらいです。
●裏道に漁師町の雰囲気
 明治政府の神仏分離政策で三坊の僧侶は、一転して神主になり島内から仏教色が一掃されました。それでも江ノ島神社参道が賑わったのは変わりません。土産物店やレストランが集中しています。裏道は古民家は見られませんが,漁師町らしい雰囲気が残っています。
 
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 交通 小田急片瀬江ノ島駅から徒歩10分
○御岩屋道通り(おいわやみちどおり)/藤沢市江の島 
 
   
▲道は狭く、アップダウンも多い  ▲大部分が土産物店や飲食店 
岩屋へ行くための“修行道”
 名所「山二ツ」から「稚児ヶ淵」までの小道を御岩屋道通りと呼んでいます。つまりその先の岩屋へ行くための“修行道”というわけです。岩屋は、鎌倉時代から宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきました。海食洞で富士山風穴をはじめ関東各地の洞穴と奥でつながっているという伝説があります。
聖地へ向かう“修行道”沿いに建つ二重せがい造り
 いまはアップダウンの激しい通りで、両側は飲食店や土産物店が続きます。いずれも頑丈な古民家を改装したもので、太い出し桁が二重になっており、いわゆる二重せがい造り。そのなかを多くの観光客が歩いています。 このあたりの飲食店は崖側にテラスを設け、富士山などの眺望が楽しめることから人気が高い。
 
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交通 小田急片瀬江ノ島駅から徒歩60分(ほかに船やエスカレーターあり)
 

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