北海道

○札幌(さっぽろ)/札幌市中央区 
 ○サッポロファクトリー/札幌市中央区北2東4
 
開拓史時代の雰囲気
 恵庭市に移転したサッポロビール北海道工場の跡地を利用した大型複合施設。いくつものレンガ施設を利用しています。写真は三条館。
感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通  地下鉄東西線バスセンター前駅から徒歩6分
○二条市場(にじょういちば)
/札幌市中央区南3東1 
 
   
▲カニ汁(350円/永森商店)  ▲味噌ラーメン(850円/けやき) 
観光客に人気の市場…
 明治36年に魚の小売商から始まったという歴史ある市場。北国の魚介類が豊富なせいか観光客に人気がありましたが,近年の凋落ぶりは寂しい。ところがいまは外国人観光客の増加が救いになっているそうです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄南北線大通駅から徒歩8分
 
○札幌中央卸売場外市場(じょうがいしじょう)
/札幌市中央区北11西21 
 
   
▲チキンスープカレー(950円/曼荼羅)  ▲つみれ鍋(800円/荒波商店・札幌駅 
●人気沸騰の海鮮市場
 近年,市民にも観光客にも人気が出てきました。現在、10ブロックに60軒の店舗がギッシリと軒を連ねています。カフェや寿司屋,レストランもあります。
 昭和34年にもともと中央卸売市場として全国17番目にたんじょうしました。昭和35年から青果部門、水産部門などが相次いで業務を開始。さらに市場から直接仕入れて、格安で一般の人たちにも食することができます。ココで買った魚介類は、航空便で翌日に配達してくれるそうです。、 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 地下鉄東西線二十四軒駅から徒歩10分
 
 ○苗穂(なえぼ)/札幌市東区北7条東9丁目
 
   
▲アイスクリーム黒ビール入り(300円/サッポロビール博物館)  ▲ニシンの刺身(700円/甚平・札幌駅 
「北海道遺産」に指定
 明治時代から産業の町として知られ,今でも工場地帯でもあります。いまJR北海道技術館,サッポロビール博物館,雪印乳業資料館などがあり,これらは工場群と共に「北海道遺産」に指定されています。
明治13年に小学校が個人宅に開設
 明治8年(1875)、苗穂小学校が板野元右衛門宅に開設され、その後明治12年に新校舎に移転しました。北海道の教育の始まりといえます。また明治13年に札幌監獄本署が完成しました。ちなみに既決囚は男89人、女3人。未決囚は男132人、女2人だったそうです。  
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR函館本線苗穂駅から徒歩15分 
○屯田(とんでん)/札幌市北区屯田 
 
   
▲新琴似屯田兵中隊本部/市文化財  ▲琴似屯田兵村兵屋跡/国文化財 
かろうじて残る屯田防風林
 屯田兵制度は,北海道の警備と開拓,失業した士族に仕事を与えるために1874年(明治7年)定められました。翌年,全道に先駆けて琴似に仙台・亘理藩,会津藩の士族約200戸が入植。その後明治32年までに37か村(約7000戸),約4万人が開拓の先兵となりました。
 いま屯田兵村の面影を探すのは困難ですが,大正時代に厳しい季節風から農作物を守るために植えられた防風林が約8kmに渡って残っています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 防風林はJR札沼線新琴似駅から徒歩12分 
○小樽(おたる)/小樽市
 
   
▲小樽は近代建築の宝庫です  ▲旧北海道銀行本店・明治45年築 
雨の小樽も風情があり、近代建築の宝庫です
 札幌に来ても宿泊はいつも小樽にしました。寿し屋通りが、まだ狭く今のような広い形になっていなかったころからです。小樽といっても、明治、大正の近代的な建物が中心です。また運河沿いの煉瓦造りの倉庫群もメインです。
「小樽運河を守る会」の歴史的意義
 小樽を代表する観光地が小樽運河です。大正12年に小樽港の内港施設として完成しました。というのも明治末期には128棟のうち88棟の石造り倉庫がこの地に集中。利便性を高めるために運河を造ったのです。ところが戦後、陸上交通渋滞解消のための道路建設に運河を全面埋め立てを議会で決定。そこで「小樽運河を守る会」を地元民が結成。猛烈な反対運動の結果、運河の全面埋め立てが変更。昭和59年に運河の半分を埋め立て、遊歩道の建設などが実施され今の姿を留めています。もし運河が全面埋め立てられていたらどうなったか、考えただけでゾッとします。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 JR函館本線小樽駅から徒歩15分~20分
 
○南小樽(みなみおたる)/小樽市住吉町 
 
   
▲明治年間に開業した小樽湯。内部はレトロ風で懐かしい 
かつて小樽の中心地
 かつての小樽の中心地です。港も近く,物資の輸出入の拠点でした。石造りの商家や倉庫など昔の姿を見ることができます。また戦前は花町も近く,たいへん賑わいました。歩いてみますと、妓楼らしき建物が残っていました。また小樽湯の女主人が、ぜひ銭湯を見て行ってくれと言われ、見学させていただきました。利用者が減りつつも館内は暖かい感じがしました。その後、小樽市内に銭湯は6軒になり、この小樽湯は廃業されたようです。地元民は「南樽(なんたる)」と呼ぶこともあります。地名の住吉は、住吉神社が由来だとか。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR函館本線南小樽駅から徒歩3分 
○堺町(さかいまち)/小樽市堺町 
 
   
▲アジア系観光客が殺到中  ▲旧久保商店(右)・明治40年築 
歴史的建造物が多数残ります
 近年,堺町本通りとして急速に整備された町並みです。大正から戦後にかけて,豆の問屋や選別所など約30軒で問屋街を形成していました。また旧国道でもあったせいか,利便性が高いので石造りの倉庫街も多かったそうです。これら倉庫を利用して,北一硝子3号館をはじめ,各種ショップ,レストラン,カフェが集中し,小樽最大の観光名所になっています。約1kmの道を歩くと,石造りの建物など歴史的建造物が多く見られます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR函館本線小樽駅から徒歩15分
 
○色内(いろない)/小樽市色内 
 
   
▲喫茶北運河/こんな建築も素敵  ▲石造りの倉庫も残っています 
   
▲雪国独特の棟割り長屋   ▲どことなく遊里の面影も… 
北海道鉄道発祥の地
 江戸時代からの開発された港で,小樽港で最初に埠頭が造られたところです。1880年(明治13年)に幌内炭坑の石炭を道外に搬出するために,鉄道が敷設されました。この鉄道が北海道発の鉄道で,手宮は発祥の地とされています。北海道鉄道記念館を改築して,1996年に小樽交通記念館としてスタートしています。
小樽運河発祥の地
 鉄道に施設以外に力を入れたのが港湾の整備です。1914年(大正3年)から1923年(大正12年)にかけて,陸地の前にあった島形及び半島型の埋め立てを行いました。同時に陸地を埋め立て地の間に水路を造り「運河式埋め立て」によって造られた港湾施設が,北運河(後の小樽運河)となりました。
 当時は木骨石造倉庫が立ち並び,運河には艀(はしけ)が盛んに往来していたのです。その後,艀の時代は終わり,運河の役割が低下したため,「開発か保存か」の一大論争となり,開発を選んだのです。わずかに建設当時の運河が残っていますが,このあたりの多くの倉庫は壊されてしまったのです。
 手宮,色内や錦町を歩いていますと,かつての遊里の雰囲気がどことなく感じられます。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 函館本線小樽駅からバスで手宮下車徒歩5分
 
○高島(たかしま)/小樽市高島
 
   
▲高島漁港-ニシンが上がる   ▲カキの玉子とじ丼(840円/やす田) 
小さなニシン小屋が並ぶ
 江戸時代に運上屋(うんじょうや)や場所(漁場)が置かれ,ニシン漁で繁栄しました。漁は大正時代まで続きましたが,もちろん今でもニシン漁は行われていますが,漁獲高はわずかです。運上屋というのは、商いを行う場所のことです。
幕臣・近藤重蔵の提言
 寛政9年(1797)の『松前地並西蝦夷地明細記』では、当地の運上屋が記載れています。文化4年(1807)に巡察した近藤重蔵の記録によれば、当地のアイヌは粟、稗を耕作し、食糧としていたと記載。さらにこの地で越年する漁民は200数十人にのぼり、近藤重蔵は警備を含めて、陣屋を設けるべきだと提言しています。近藤重蔵は江戸時代の幕臣で、松前蝦夷地御用取扱いとなり、蝦夷地に赴任しています。
網にからんだニシンを取り出す作業
 たまたまこの日はニシンが上がり,女たちが軽トラックで網ごとニシンを小屋に運んでいました。バラックのような小屋のなかには,老人がストーブをガンガンたき,待っており,総出で網に絡んだニシンを取り出し,箱に詰めます。そしてすぐに冷凍にするのです。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 函館本線小樽駅からバスで高島3丁目下車,徒歩3分
○梅ケ枝(うめがえ)/小樽市梅ヶ枝町 
 
   
▲マンサード屋根の古民家も点在  ▲しゃこ天そば(1100円/十間坂) 
 ●かつては華やかな花町『手宮遊郭』
 坂道を下りながら,北国らしい古民家が少し残っています。前夜に降ったドカ雪はすごい。
 戦前は華やかな花町として知られていました。住所が手宮裏町のころです。「北部」とか「手宮遊郭」などと呼ばれていました。多くの東北地方出身の女性たちが就労していたそうです。いまは全くの面影はありませんし,それらしき建物も見あたりません。昭和5年に発刊された『全国遊郭案内』では、景気が悪く、私娼も増え、娼妓は70人に減少したとあります。貸席や妓楼は12~13軒。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 中央バス梅ヶ枝町バス停からすぐ
○祝津(しゅくつ)/小樽市祝津 
 
明治末期がニシン漁の頂点
 祝津は小樽のなかでも比較的地味なところです。小樽水族館のあるところとして知られています。もう一つニシン御殿があるように,祝津はニシン漁で栄えた漁港でもあります。明治末期がニシン漁の頂点でした。その後豊凶を繰り返しながら衰退していきます。そのため,ニシン漁に関する建造物がたくさん残っているのです。
ニシン漁関連の建築が残る
 北海道職業能力開発大学校の駒木定正助教授による2008年の調査では,祝津地区には45棟の関連建築が残されており「木造33棟,木骨石造11棟,石造1棟,土蔵造1棟」が内訳です。ただ建築年の判明しているのは15棟のみとか。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは大きな無料駐車場に停めました
○江別(えべつ)/江別市二条一丁目 
 
   
▲板壁の古民家も見られます  ▲石狩川沿いにある石造り倉庫群 
駅周辺に石造り倉庫群
 江別は元々レンガの生産の盛んなところで,至る所でレンガを生かした建築物が見られます。特に駅前周辺多く見られ,石狩川の水運と鉄道輸送がつながるのです。とくに内陸部では開発用にレンガが多く造られました。
レンガ造り400軒の建築物を保存
 現在の野幌丘陵に原料となる「野幌粘土」を豊富に含んだ土壌を持ち、しかも最大の重要地・札幌や小樽に近いことも幸いしてレンガ造りが発展しました。現在でも3カ所のレンガ工場が稼働しており、国内の20%以上のシェアを占めているそうです。市内には400棟を越えるレンガ造りの建築物が保存されており、「レンガの町」として町興しの最中です。
また「江別式土器」も市内の遺跡から発見されています。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 ○余市(よいち)/余市町黒川町
 
ニッカ工場が目に付く町はNHK朝ドラの舞台
 余市にきたのは2度目です。余市といえばニッカウヰスキーです。工場内でモデル撮影やCM撮影がよく行われますが、広報担当者は「異国情緒があるせいか、いろいろなCMの舞台に使われています」といわれました。景観の一部を切り取れば、北欧のような感じになるからでしょうか。煉瓦造りの工場や建物が目を引きますが、その周辺には、港町独特の二重ドアで木造平屋建ての町家がそこかしこに残っています。周辺もおもしろいです。
NHK朝ドラ『マッサン』の影響で大賑わい
 それよりなにより2014年9月から放送されたNHKの朝ドラ『マッサン』(主演・玉山鉄二/シャーロット・ケイス・フォックス)の舞台になったことで、多くの人たちがやってきました。またBS12で2022年5月から再放送されました。

源頼朝による藤原討伐で進出
 古くは与一とも書きました。早くから和人が進出した土地でもあります。文治5年(1189)、源頼朝による藤原泰衡討伐によって和人が海を渡り蝦夷地に入りました。慶長4年(1599)には余市川左岸の下ヨイチ場所が松前八兵衛に、余市川右岸の上ヨイチ場所に松前左膳に給されています。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR函館本線余市駅から徒歩5分 
○栗山(くりやま)/栗山町錦
 
レンガ造りの酒蔵群
 空知地方では最大の歴史的建造物群といわれています。『北の錦』を出す小林酒造の酒蔵です。これらの倉庫群は,国の登録文化財でもあります。
 明治11年,札幌で創業,明治34年に夕張川に着目して,この地に移りました。そして炭坑労働者にも人気の酒となったのです。倉庫の一つは記念館になっており,珍しい酒器などが展示されています。さらに「木の温もり酒道具の館」,「大正・昭和の暮らし展示室」などもあり,往時の雰囲気が伝わってきます。 
村民の要求で栗山駅が設置されました
 明治23年(1890)から始まった北海道炭礦鉄道の追分-岩見沢間(現・室蘭本線)の工事は、栗山トンネル付近が難工事でした。そこでこの付近に土工部屋、人夫小屋などの作業員の宿舎が集まり、さらにそれらの人たちを目当てに数十戸の商店が置かれ、小さな町が形成されたのです。ところがトンネル工事が終了すると、7~8戸が残っただけの寂しい集落に変貌。そのため明治26年、村民の要求により、現在地に栗山駅が設置され、市街地が形成されたのです。
WBC栗山元監督は観光大使を依頼されたのが縁
 WBC元監督栗山英樹監督の自宅があることで知られています。1999年、野球解説者時代に名前が同じということで町から観光大使を依頼されました。2012年に日本ハムファイターズ監督に就任。広大な敷地(栗の樹ファーム)を自宅として購入、野球場やログハウスなどを建てて一般に公開しています。自宅は展示物がいっぱいあるログハウスとは別に一戸建てがありそこに暮らしているそうです。ちなみにWBCとはワールド・ベースボール・クラシックのこと。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは小林酒造の無料駐車場に停めました
 
○美唄(びばい)/美唄市南美唄町下 
 
   
▲炭住は炭鉱の生き証人です  ▲居住者のための銭湯です 
旧三井美唄炭坑の社宅
 南美唄町下地区は炭住(たんじゅう)がたくさんあります。炭住というのは炭坑に勤務する職員たちの住宅のことで,いわゆる社宅のこと。南美唄地区は三井美唄炭坑が管理していました。敷地内のほとんどが未舗装なのは,民有地だからです。
 炭住は,木造の長屋で2世帯,3世帯が入居しています。全国的にもこれだけの炭住が残っているのは,ほかに東明町地区の旧三菱美唄炭坑住宅だけです。
炭住を保存できないか
 一部でも文化財として保存してほしい。美唄市の担当者は「壁や屋根,玄関,窓などほとんどが改造されているので,文化財として保存はできない」といわれました。ならば空き屋を活用して歴史を解説するのも手かもしれませんね。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました 
○留萌(るもい)/留萌市明元町 
 
   
▲もちろん普通の倉庫もあります   ▲北の醤油ラーメン580円/砂川SA
留萌港の石造り倉庫群
 函館や小樽では,倉庫群が観光用として再生されていますが,留萌では倉庫として現役です。昭和初期に建てられたもので,近くには留萌本線の引き込み線もあります。
大部分の住民が東北・北陸出身で「ルモイ」と発音
 古くは「るるもっぺ」、「るるもい」、「るもえ」ともいいました。明治2年住民たちは、松浦武四郎(幕末から明治にかけての探検家・文化人)が提言した地名、「留萌(るるもい)」、「留持(るるもち)」のなかから「留萌」に決定。その後「るるもえ」が「るもい」に転訛したそうです。というのも住民の大部分が東北・北陸地方の出身者で「エ」と「イ」発音が明確ではなく、自然に「ルモイ」になったそうです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○増毛(ましけ)/増毛町弁天町 
 
   
▲風待食堂/昭和8年築   ▲国稀酒造 /明治35年創業 
「北海道遺産」に指定
 増毛は20年ぶり2度目の訪問です。道路といい,建物といいずいぶんきれいになったなあ,という感じがしました。
 明治時代の鉄道が開通以降,本格的に栄えた町です。石造りの商家が今でも残っており,こんな北国にこれだけの歴史的建造物が残っているのが驚きです。いま町は北海道遺産に指定されています。
安政年間に秋田藩が陣屋を設立
 町はニシン漁で栄え,鉄道が開通する前は,海運が中心でした。江戸の末期,秋田藩は本陣まで構えたくらい,町は発展したのです。当時、秋田藩は北方警備とともに、道路の開削にも力を入れていました。弁財天や厳島神社なども勧請、普伝寺の建立なども、商業、貿易が盛んになるにつれ発展していきます。
高倉健主演の映画『駅 STATION』で一躍有名に!
 増毛が一躍有名になったのは、映画『駅 STATION』のおかげといえます。高倉健主演で女優の烏丸せつ子さんが駅前の風待ち食堂で働く姿が登場します。2016年に増毛駅は廃駅となりましたが、高倉健さんの面影を偲んで、訪れる人は絶えません。この映画は脚本家の倉本聰さんが健さんのために書き下ろした作品です。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
○函館(はこだて)/函館市元町
 
   
 ▲国の重要文化財・太刀川住宅店舗(弥生町) ▲歴史的景観形成指定の函館市臨海研究所(弥生町) 
 ●函館の重心は西へ西へ
 北海道のなかでも好きな町の一つです。そのせいか何回も行きました。松風町や十字街周辺は,ここ10数年で寂れてしまいました。結局観光客だけの町になってしまい,住民が離れていったのでしょう。函館の重心は,西へ西へと移動しつつあります。一時は,市電の五稜郭駅前が繁華街でした。今でもデパートや飲食店が集中していますが,それも閉店が続きます。
函館は厚みのある町
 初めて函館に行ったのは,雑誌の取材で40年ほど前でした。それから時々訪ねていましたが,飽きない町です。札幌にもよく行きますが,札幌はただ大きいだけで全体として薄っぺらい感じがします。
レンガ造りは大火後
 レンガ倉庫街は明治40年の大火以後に建てられました。どこの町でもそうですが,大火を経験すると,土蔵造りやレンガ造りに変わるようです。
倉庫の一角に中古カメラコーナー
 この金森倉庫群の一画に,中古カメラを展示したコーナーがあります。かつて,オリンパスの役員だった人が,退職して金森倉庫に移られたときに設けられたそうです。今は見る人も少ないようですが,珍しいカメラが展示されています。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 市電十字街下車徒歩5分
○宝来町(ほうらいちょう)/函館市宝来町 
 
   
▲阿佐利本店/昭和初期の木造建築  ▲盛り合わせランチ(900円/小いけ) 
蔵造りや洋館が並ぶ
 かつてはハイカラな町でした。蔵造りの商家や洋館風の企業なども多く,かなりの賑わいでした。また裏手は,むかし花町でもあって,建物にも面影を見ることができます。いまは人の少ない寂しい町並です。
「蓬莱町遊郭」の面影は見られません 「蓬莱町遊郭」は、函館山山麓の遊郭が大火で移転してきたのがこの地です。このとき娼妓が200人弱、台町36人、その他129人と合計360余人にのぼりました。しかしその後の2度に渡る大火で函館駅付近の大門へと移転します。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 市電宝来町駅から徒歩2分
 
○入舟(いりふね)/函館市入舟町 
 
   
▲目前にイカ釣り船が停泊   ▲イカそうめん680円/函館あかちょうちん 
日中は静かな函館漁港
 函館漁港です。ガイドブックからは完全に無視された地域です。しかしここはまぎれもなくイカ釣り漁船が並ぶ港町です。入舟へは3度目の訪問です。
 プ~ンと潮のにおいがする,漁師町独特の雰囲気のある町並みです。木造2階屋が多いですが,最近ではモルタル塗りが目立ってきました。玄関先には花の鉢植えが並ぶ下町でもあります。
 路面電車の函館どっく前から徒歩10分程度のところです。アマチュアカメラマンが,時おり訪ねてきます。
新鮮なイカそうめん
 函館の名物はいろいろありますが,やはりイカそうめんがいちばん。市内どこのレストラン,居酒屋にもあります。細く切ったイカを,どんぶりに入った氷の上に敷くのです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました 
○寺町(てらまち)/松前町福山 
 
   
▲昔風に再現した城下通り  ▲松前ラーメン(800円/浦里) 
 ●「北の小京都」、「北海道の鎌倉」
 松前城(正式には福山城)の北側に江戸時代を感じさせる寺町があります。かつては15カ寺もありました。いずれも大館から移築されたのですが,明治維新の戦乱で,松前藩自らが火を放ち,ほとんどが焼失しました。
北海道での寺町はココだけ
 現在は5カ寺を残すのみとなりましたが,北海道で寺町を名乗るところはココだけです。ひっそりとたたずむ古刹を巡り歩いていると,「北の小京都」,「北海道の鎌倉」にふさわしい感じがします。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは城周辺の無料駐車場に停めました
○上ノ国(かみのくに)/上ノ国町上ノ国 
 
北海道で最古の住宅
 上ノ国町は,北海道では珍しく史跡が多く,歴史の香りがする町でもあります。国指定の重文・上國寺本堂は北海道で現存する仏堂建築では最古(1757年)といわれています。さらに北海道で最古(19世紀前半)の民家で網元の旧笹浪家住宅もあります。いずれも国道228号線沿いです。この国道228号線を地元では,にしん街道と呼んでいます。かつてはニシン漁の網元の民家がたくさん残っていたようですが,いまは1軒です。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
○江差(えさし)/江差町字姥神町 
 
2軒の重要文化財
 3度目の訪問です。いにしえ通りも拡幅され,とてもきれいになっています。でもあまりにも広すぎて,ちょっとしらけてしまいます。古い町並みに広い道路は似合わないと思いますが…。
 北前船での交易で発展した町です。とくにニシン漁が盛んで,いまでも旧横山家住宅,旧中村家住宅はニシン御殿といわれ,国の重文に指定されています。また江差町や北海道指定の文化財もたくさんあります。もう一つ,民謡江差追分の発祥の地でもあり,毎年全国大会が開催されています。
箱館戦争では一時期、榎本軍が町を占領しました
 寛政12年(1800)、江差に台場が設けられました。箱館戦争に際しては、慶応4年(1868)に激しい大波のため、江差港で榎本軍の海陽丸が沈没しましたが、松岡軍が順正寺を本陣として江差を占領、榎本政権下となりました。しかし明治2年、明治政府軍によって江差は占拠され江差会議所(本陣)が設置されました。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました 
○若松(わかまつ)/釧路市若松町 
 
   
▲鉄北センター入口/ちょっと入りずらい?雰囲気です ▲釧路駅横の地下道、陸橋を通ると駅の裏に出られます 
鳥取町と松浦町の各一部地域を合体して若松町が誕生
 釧路の本格的な開拓は、明治に入って鳥取県の士族が移住から始まったといえるでしょう。当初は釧路川(現・新釧路川)と阿寒川のあいだの地域。しかし慣れない寒冷と洪水で悩まされたそうです。一方西幣舞(にしぬさまい)といわれた地域が松浦町といいます。探検家・松浦武四郎は、「釧路は不毛の泥炭地が多いが、やがて東蝦夷地で第一の都市になるだろう」といったことから松浦と名付けます。で、若松町はそんな鳥取の一部地域と松浦町の一部地域を合わせて昭和35年に起立しました。そして釧路駅裏あたりを「鉄北地区」と呼びます。
昭和のまま止まった飲み屋街・鉄北センター
 釧路駅正面の右奥に地下道があります。ここをくぐると駅裏に出られます。すぐに道道53号線の広い道に出ると右側に鉄北センターがあります。飲み屋街ですが、撤退し無人となった店や営業中の店など混在しています。昼間は薄暗いですが、夜は店の明かりがポツンポツンと見えます。釧路駅正面口付近の賑やかさ(?)とは雲泥の差、静かです。でもこんなところが面白いのです。
鉄北センターはドラマ『硝子の葦』のロケ地です
 またミステリードラマ『硝子の葦(あし)・2015年』(原作・桜木紫乃)のロケ地にも登場します。女優・相武紗季の母親が鉄北センターでスナック「バビアナ」を経営しているという設定。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはホテルエリアワン釧路に停めました
 
○浪花(なにわ)/釧路市浪花町 
 
貨物線・浜釧路駅の隣接地として発展します
 明治時代の釧路はこのあたりが中心地。小鰊の豊漁期に漁村として集落化したのです。また明治34年開通の北海道官設鉄道・釧路線の釧路駅のあったところです。そして駅の隣接地として発展。しかし釧路線が厚岸方面への延長工事にともない釧路駅が現在地に移転。残された駅は貨物線“浜釧路駅”と改名しました。
寿町から港大阪の発展にあやかり浪花町に改名
 また昭和7年にはそれまでの寿町から浪花町に改名。将来、鉄道省海陸連絡設備が完成し発展するとして、港大阪(浪花)にあやかり命名されました。昭和10年代には、各種営業倉庫や工場が進出。そしていまに至ります。しかし浜釧路駅は平成元年に鉄道とともに廃止されました。
レンガ倉庫を釧路の遺産として守る運動
 レンガ倉庫が連なっています。釧路倉庫(株)の東港倉庫群の一画です。またレンガ倉庫を釧路の遺産として守りたいという市民が「NPO法人浪花町十六番倉庫」を結成しさまざまな活動をしています。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 
 ○大町(おおまち)/釧路市大町
 
   
▲港文館/石川啄木が働いていた当時の釧路新聞社を復元。2階は釧路における啄木の資料約200点が展示。1階は喫茶店や売店があります。入館料は無料 
極寒の夜に釧路駅を下り立つ石川啄木
 啄木が釧路線の終点・釧路駅(今の釧路駅ではなく、旧浜釧路駅・廃駅)に降り立ったのは明治41年(1908)1月21日の午後9時30分。旭川から釧路間が開通して4ヶ月後でした。当日の最低気温はマイナス24.4度、最高気温でもマイナス9.2度という極寒の夜。
 「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしく町にあゆみ入りにき」
 と詠んでいます。当時の中心地は入船町・洲崎町など幣舞橋(明治22年架橋)の橋南地区。しかしその後の釧路での生活は順調とはいきませんでした。
啄木は76日間の滞在で釧路を離れます
 釧路新聞から高給を受け取りながらも芸妓・小奴をはじめ幾多の女性と浮き名を流した果ての散財、料亭の多額の借金、釧路新聞の無断欠勤や編集長との確執などが表面化。結局、76日間の滞在で釧路を離れます。港文館には借金の詳細や料亭を訪問した日などの記録が残されています。訪問回数で最も多かった料亭は『しゃも寅』の12回、『喜望楼』の8回でした。
“寂れ感”が残る釧路・橋南地区
 もともとこのあたりは入船町で、漁村でもありました。埋め立て造成地でもあったので、漁菜市場の開設、水産工場の設置などができて賑わいました。昭和7年に入船町から分離し大町となります。まさに釧路市経済の中枢でもありました。しかしいまの中心地は、幣舞橋の北岸に移り、南側は寂しくなりました。歩いていても、空き地や廃屋が目立ちます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは港文館の駐車場に停めました
 
 ○富士見(ふじみ)/釧路市富士見
 
   
▲戦前から宅地化が進み、古民家もポツンと点在します ▲旧五十嵐邸/昭和24年築・国の登録文化財・戦後の寒冷地対応住宅の先例
阿寒連峰の眺望が自慢の“富士見”
 北海道各地に“富士見”と称する地名はあります。大部分は○○富士と名の付く地元を代表する山々を指しています。釧路では、阿寒富士(1476m)、雌阿寒岳(1499m)、雄阿寒岳(1370m)などの連峰を眺望できることにちなむそうです。
“富士見”という地名で宅地化が加速します
 昭和7年に富士見町が誕生しました。現代の富士見は昭和45年になってからです。釧路駅方面からやってきて幣舞橋を渡ると小高い丘の麓に到着します。この丘の上が富士見にあたります。大正2年に道東地方で初の道立釧路中学校が開校しました。その後昭和10年ごろから一気に宅地化が進みます。そのさい、“富士見”という地名が人気になったとか。
旧五十嵐家住宅は国の登録文化財
 いまは釧路の一般的な住宅地です。早くから開けていたせいか、木造の古民家がわずかに残ります。特に旧五十嵐家住宅は、国の文化財に登録されています。正確にいいますと、工務店経営者だった五十嵐一雄さんの事務所兼住宅となっています。当時では珍しかった、手作りの食器棚や木製の調理台、洗い場などが一体となっており、まさにシステムキッチン風に仕上がっているのです。 
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交通 クルマは道端に停めました
 
○米町(よねまち)/釧路市米町 
 
   
▲本行寺/寺子屋子どものつどいを30年以上も続けています ▲法華寺/大正2年、令闡寺から法華寺に改名されまし
   
▲米町ふるさと館/旧田村邸。釧路に現存する最古の木造建築です  ▲佐野碑園/石川啄木が足繁く通った料亭『喜望楼』がありました
道路幅が異様に広いことに違和感を覚えました
 明治期は米町(こめまち)と呼んでいました。地名は江戸時代、クスリ場所請負人で、のち釧路地方への移民や釧路市街地の開発に功績のあった佐野屋の屋号・米屋にちなみます。まだ佐賀藩が支配していたころ、佐野孫左衛門は幅4間(約7.4m)もの道路をの開削しました。道理でこのあたりの道路の広さに違和感を覚えたのも事実です。しかしのちの市街地開発の先がけとなりました。
明治末期に寺町を形成します
 明治14年に聞名寺が開創。明治23年に厳島神社が移転。だいたい明治30年までに多くの寺院が開山します。それにしても寺院の敷地の広さに驚かされます。鎌倉あたりの狭い地域にギッシリと詰まった寺院とはけた違いです。
大正末期には23軒の貸し座敷がありました
 明治23年に春採(はるとり)炭鉱の馬車軌道が開通し、利便性が高まります。明治31年に遊郭が誕生します。当時の遊郭は幣舞橋を挟んで橋北地区と橋南地区に分かれ、それぞれに検番がありました。米町は大正末期に23軒(娼妓150人前後)もの貸し座敷があったそうです。ここでも「聖と俗は表裏一体」。
いつのまには“こめまち”が“よねまち”に…
 ところで、当初“こめまち”と呼んでい地名がいつのまにか“よねまち”になりました。変わった時期や理由はわかりません。一説には、遊郭通いの常連客たちがわざと“よねまち”と言い換えたのではないかといわれていますが…。いずれにせよ昭和7年、正式に「よねまち」と呼ぶようになりました。行政も“こめまち”のイメージを一掃したかったのかもしれません。 
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交通 クルマは米町公園駐車場に停めました
 
○寺町(てらまち)/厚岸町梅香 
 
   
▲正行寺/国重要文化財。内陣・外陣の豪華さ、格天井の格調など目を見張る 
   
▲教雲寺/明治27年開基、浄土真宗  ▲大厚寺/境内には石仏が多い 
   
▲隣接する湾月(わんげつ)に商店や一般住宅がありますが、明治時代には貸し座敷が数軒ありました 
新潟県から移築した正行寺
 厚岸町には17軒の寺院がありますが、その大半が梅香とその周辺に集まって寺町を形成しています。なかでも目を引くのが、道東で最初に国の重要文化財に指定された正行寺です。もともと、新潟県西頸城郡(現在の糸魚川市平牛)にあった浄土真宗満長寺の本堂を購入して現在地に移築したもの。明治44年3月に移築落慶法要が行われました(『釧路工業高専紀要26号』より)。
梅香の地名は“松竹梅”の風趣から選定したとか
 当時、厚岸は千島・根室と箱館・松前航路の中継地点でたいへんな賑わいを見せていました。当然「聖と俗は表裏一体」のごとく、正行寺門前に遊郭が軒を並べたといいます。ところで、地名の梅香は、隣接する湾月、若竹、松葉とともに松竹梅の趣もあって、名付けたといいます。自由な発想といえます。
正行寺の内陣・外陣の豪華さに目を見張る
 正行寺では静かな境内を撮影していますと、住職の奥様がやってきて、本堂を案内していただきました。内陣・外陣の豪華さに目を見張りました。もちろん京都や奈良の寺院と比較できませんが、厚岸にこのような寺院が残っていることが驚きです。そしてその周辺にも寺院が建っています。のんびりと歩きました。ただ厚岸町の寺院の歴史を語る場合、徳川将軍・家斉の命によって建立した“官営・国泰寺(現・国泰寺跡)”が欠かせませんが、次回にゆずるとします。 
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交通 クルマは正行寺の駐車場に停めました
 
 ○太田(おおた)/厚岸町太田
 
   
▲太田屯田兵屋/木造平屋建てで昭和46年に復元・北海道有形文化財 
カマボコ型の建物がチラホラと見られます
 古い町並みといっても、明治以降の建物が中心でそのまま残っているのは皆無に近い。いまは、酪農での農機具を収納するカマボコ型の建物が見られます。とりあえず、太田屯田開拓記念館に向かいます。ちなみに地名は、アイヌの指導者・太田紋助の名によります。
死者がでるなど過酷を極めた屯田兵による開拓
 明治22年に屯田兵舎492棟を建設。この工事は標茶集治監の囚人によって、厚岸道路開削と一緒に行われました。明治23年に本州から440戸が入植しましたが、その生活は過酷を極め、翌年には39人の死者が出ました。寒冷地農業というものがわからず、手探り状態。養蚕や水稲田などにも挑戦しますが、ことごとく失敗します。しかし明治44年に太田村農業試作場が設置され、本格的に酪農を踏み出します。 
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交通 クルマは太田屯田兵屋の駐車場に停めました 
○丸山散布(まるやまちりっぷ)/浜中町丸山散布 
 
   
▲砂利の広場に最長15mに及ぶ昆布が並びます ▲昆布の天日干し(乾燥)は、集落中総出で行います(町役場のHPから) 
江戸時代後期から昆布採取、加工が行われていました
 散布(ちりっぷ)というのはアイヌ語でアサリ貝という意味。文字通りかつてはアサリが獲れました。同時に昆布は江戸時代後期から採取、加工が始まり、当初は不老長寿の海藻として珍重。上方(関西)方面で需要が増し、盛んに移出されたそうです。いまは天然昆布として全国水揚げ量の1割を占めています。ただ昆布漁は、資源を守る意味から厳格に管理され、一斉出業から天日干しなど日程が決められています。
砂利の浜辺沿いに作業小屋が連なります
 訪れた日はシーズンオフ。全く人影は見られませんでした。砂利浜には作業小屋がズラリと連なります。夏場のシーズンになりますと、昆布の干し場と化し、とても賑やかになります。作業小屋は漁業具を収納したり、昆布の切断などの作業も行うとか。 
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交通 クルマは海岸沿いに停めました
 
○清隆(きよたか)/根室市清隆町 
 
地名は開拓史長官・黒田清隆が名付ける
 北海道の地名の大部分はアイヌ語を語源としますが、人名からも引用することがあります。清隆はまさに人名で、開拓史長官だった黒田清隆の名前にちなみます。ついでに明治9年開校の花咲学校も黒田の命名だそうです。明治22年の人口は38軒、110人というから超田舎でもあったのです。よくぞ学校を開設したものです。
日本最東端の蔵元のレンガ倉庫が見られます
 町を歩いてみますとレンガ造の大きな建物が見られます。地酒・北の勝(きたのかつ)を製造する碓氷(うすい)勝三郎商店の倉庫です。明治27年の発足当時は缶詰工場でした。明治末期に隣接地に碓氷酒類醸造所を設置します。米も採れないところで酒造りをするのか、「それは、かつて大阪など上方から根室まではるばる運ばれてくる酒はとても高価だったので、安価で気軽に飲めるようにと地元で造ろう」とのことです。いまや手に入りにくい銘酒となっているとか。 
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交通 クルマはときわ台公園駐車場に停めました
 
○北斗(ほくと)/根室市北斗町 
 
   
▲雪囲いの塀も珍しくなりました ▲廃屋もそのまま残されています
北斗七星の方向に位置したからか?
 地名は明治35年に北斗小学校が設置されたことにちなむそうです。ただ北海道には北斗と名の付く地名がたくさんあります。いずれも北斗七星の方向に位置することから名付けられたことから、北斗小学校の校名も北斗七星から名付けられたかも知れません。北斗小学校設置当時は周辺は牧場でした。昭和7年に平内町(へいないちょう)の大字が廃止され、北斗町1~4丁目が起立しました。また第二次世界大戦時の昭和19年には校舎の半分が兵舎になりました。
新旧の一般住宅が混在します
 新興の住宅団地と違い、歴史ある町ですが根室市の一般的な住宅地ともいえます。歩いていますと板張りの家屋と改築、新築などの住宅が混在し、北国らしい雰囲気を感じさせてくれます。
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交通 クルマはときわ台公園駐車場に停めました
 
○花園(はなぞの)/根室市花園町 
 
   
▲花園町には廃屋が点在していますが、往時の面影はありません ▲三吉神社/娼妓たちは、故郷の家族の幸せを祈ったそうです 
明治初年の西コイトイ(恋問)の坂に遊郭が誕生
 昔は弥生町といいました。明治10年には1~4丁目まで設置され、さらに明治18年には9丁目まで区画整理されました。区画整理される前は、西コイトイの坂に遊郭がありました。明治9年に遊郭の区域が定められ、明治10年の弥生町設置と同時に遊郭も地区内に入ります。当時は十数軒の妓楼が建ち、娼妓は90人ほどいたとか。大火の後、弥生町3~4丁目に(現・平内町1~2丁目)に移転。昭和7年に大字が廃止され花園町1~9丁目が誕生しました。
若い衆たちは「山の上」に行こうぜ!!
 明治~大正期かけて商店、髪結、銭湯などがあり、千島からの漁夫や蟹場、ニシン場問屋街で働く若い衆たちは「山の上」と称する遊郭街に出かけました。坂の上にある花園遊郭です。今の三吉神社付近や花園6丁目と推定されます。最盛期には妓楼が30軒ほどあったとされますが、大正末期には20軒、約120人ほどの規模だったそうです。
歴史を感じさせる板張りの古民家
 実際に歩き回りました。もちろん往時の面影は見られません。廃屋や無人の家屋が寂しげに点在します。坂の上から根室湾が見渡せます。路地から路地へと歩きますが、路地といってもかなり広いので、さすが北海道と感心します。木造2階家の板張りの古民家を見つけますと、北海道の歴史を感じざるを得ません。 
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交通 クルマは道端に停めました
 
 ○花咲(はなさき)/根室市花咲港
 
   
▲裏手には無人の家屋や旧妓楼  ▲港に面した小ぎれいな建築物
江戸末期、色丹島からアイヌが移住
 地名は花咲岬の鼻先ということから名付けられたそうです。アイヌ語ではホロノツといい、大きい、岬の意味があるとか。ただ江戸時代からある地名で、絵図や古文書にも“ハナザキ”として登場します。文化4年(1807)、色丹島(しこたんとう)のアイヌ全員が花咲に移住してきました。このときの人員は15軒、105人で番屋や蔵があったそうです。嘉永7年(1854)には12軒、47人に激減。思ったほどの漁獲量はなかったようです。その証拠にノツケ(野付)方面にニシン漁に出稼ぎに行っています。
明治の一時期、東京の領有でした!!
 ところで明治2年に根室国花咲郡に属し、明治5年に花咲村となり、明治8年に正式に花咲村と表記。ところがどいうわけか、明治3年に一時期東京府の管轄になりました。それは明治維新後の混乱と物価の高騰などで、失業対策も兼ねて根室国三郡(花咲郡・根室郡・野付郡)を東京府に併合。ところが東京の大商人たちが物資の独占を図ったのです。結局5ヶ月で東京府領有は中止となったのです。
花咲ガニの漁期以外は静寂の町
 花咲港(はなさきみなと)を歩きました。港に面した建物は小ぎれいですが、裏手にまわると無人の家屋、廃屋などが連なっています。人影もなく、花咲ガニの夏場シーズン以外は全く死んだような町と化していました。 
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交通 クルマは花咲港の空き地に停めました
 
○和田(わだ)/根室市和田 
 
   
▲和田屯田兵村の被服庫/明治18年ごろの建築。屯田関係で唯一現存する被服庫で北海道有形文化財に指定 ▲JR根室本線西和田駅/大正9年に開業。昭和61年に貨車駅に改築されました。いまは上下10本の列車が停車
地名の由来は屯田兵の大隊長・和田から
 北海道の地名の由来の大部分がアイヌ語ですが、和田は違いました。当地に置かれた屯田兵村の大隊長・和田正苗の名にちなみます。そして東西に二中隊がありそれぞれ東和田、西和田と命名されました。3年間は戸主に家族共食糧、家具、農具が給与され、3年間で家屋所有地の1万6500㎡(約5000坪)の開墾を完成させました。しかしいろいろな穀物を栽培しましたが、風土に適さず次第に農業は寂れていきます。一方、明治末期から酪農が本格的に始動するのです。
開拓時代からの酪農を3世、4世へと引き継がれている
 ガラ~ンとした西和田駅前にクルマを停めて歩きました。県道142号線に出ると、大きな酪農場・矢部牧場があります。でっかいサイロも目に付きます。旧和田村は屯田兵に与えられた当初の給与地を子孫がしっかりと守っている珍しい例。その数は16軒でいずれも酪農経営者。いまは3世から4世へと引き継がれているそうです。
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交通 クルマはJR根室本線西和田駅前の空き地に停めました 
○浜松(はままつ)/根室市浜松 
 
   
▲浜松の人口は33世帯・104人(令和2年12月現在)。静かな集落です 
地名の始まりはムシュムシュウシっていいます??
 江戸時代後期の文化5年(1808)の『東蝦夷地名考』にはコンブイとあります。また他の書物にはコンフムイとあります。すなわち、このあたりは昆布盛(こんぶもり)村に属していました。ずっと後の昭和42年昆布森村の大字が廃止され、浜松が分離独立。アイヌ語のシュムシュムウシ(鯨油を搾る所)から「セフセウシ」に変化。しかし発音、表記がしにくいというので浜松にに変えたそうです。
ドラマ『北の国から』のロケ地です
 『北の国から』は富良野を中心に20年以上放映(1981-2002)された人気ドラマで、そのロケ地は北海道全域に広がります。浜松はロケ地の一つで、いまなお聖地として訪れる人が多いようです。とはいうものの、果たして1995年の放送なので、どの建物が使用されたのか全くわかりませんでした。
木造で板壁の連なる小さな漁村
 浜松海岸は“根室十景”のひとつです。少し高台から眺めた光景がいいようです。で、集落内を歩いてみました。静かな町です。板壁の家屋が連なります。住宅や作業小屋などが混在しており、空き家も目に付きます。
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○落石(おちいし)/根室市落石西 
 
   
▲落石漁港/主にサケ、マス漁が盛ん ▲JR根室線落石駅/大正9年開業 
江戸時代の絵図にも“オッチイシ”が登場
 地名はアイヌ語のオッチシに漢字をあてました。落石岬と陸地との間の凹部をさしたものとか。江戸時代からある地名で、数々の絵図に登場します。やはり漁業が盛んだったようです。ただ幕末になると、漁業に陰りが見えてきます。
明治に入ると本格的な開拓時代に入ります
 当初オツチイシ村と表記されていましたが、明治8年落石村と表記され、開拓史の管轄になります。まさしく、開拓時代に突入。釧路までの道路も整備され、明治12年に馬40頭を常備する落石駅逓が設置されました。明治28年の入植者の大半は岩手県、秋田県の移住者が占めていたそうです。当時は海岸沿いに家が点々とあり、落石だけが集落を形成していました。
活躍した落石無線電信局
 明治41年に落石無線電信局が落石岬に設置されました。その後この無線局が大活躍。昭和初期、ドイツ飛行船・ツェッベリン伯号、リンドバーク大佐の太平洋横断飛行などの通信にも活躍。これは銚子無線局で通信不可能な北米航路を補ったのです。しかしながら太平洋戦争で米軍機に爆撃されて全焼しました。
●漁村らしい木造で板張りの古民家が見られます
 漁師町らしい木造板張りの古民家は、ところどころに点在。港周辺の道路沿い、人影を見ない落石駅周辺などに残ります。 
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交通 クルマは落石港の空き地に停めました
○奥行(おくゆき)/別海町奥行 
 
   
▲旧奥行臼駅逓所/駅逓所が開設された当時は大勢の人々で活気にあふれました。駅舎(写真)の奥の方が駅で、手前の建物が増設された旅館部です 
   
▲旧国鉄奥行臼駅/標津線の駅で1989年4月の廃止まで重要な役割を果たしました。木造駅舎は、開通当初のものです 
   
▲旧別海村営軌道風連線奥行臼停留所/1963年12月に開通した簡易軌道線です。翌年に役場上風連出張所まで延長。生乳の輸送も陸上に転換とともに1971年に廃線 
江戸末期のわずかな期間は仙台藩領でした
 江戸時代末期は松前藩領、幕府領を経て安政6年(1859)に西別川以北は会津藩領、以南は根室、国後・択捉島、厚岸は仙台藩領となりました。奥行はもちろん仙台藩領です。もっとも戊辰戦争が始まる頃には両藩とも引き揚げました。
アイヌ語にそのまま漢字をあてて“奥行臼”としました
 地名はアイヌ語の“ウコイキウシ”に由来し、そのまま漢字をあてて、“奥行臼”としましたが、のちに臼を省略し奥行となりました。駅名に奥行臼とあるのは、当時の名残です。
辺境の地の開拓は鉄道ともにすすみます
 辺境の地の開拓は馬による輸送と共に発展します。そこで駅舎と人馬を備え、物資の輸送中継、宿泊など便宜を図るために設けられたのが駅逓所です。明治43年(1910)に奥行臼駅逓所が開設され、昭和5年の廃止。廃止後は旅館として使用されました。
木造板張りの作業小屋などが点在
 いまは北海道の文化財、さらに国の史跡に指定されています。鉄道関係の建造物の周辺を歩いてみました。道路沿いに無人の作業小屋などが見られます。木造板張りで、廃屋も残っています。10月末というシーズンオフのせいか、人影は無くちょっと寂しい感じがしました。 
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交通 クルマは旧奥行臼駅逓所など2カ所の駐車場に停めました
 
武佐(むさ)/中標津町武佐 
 
   
▲北村家住宅(旧土田旅館)/武佐駅逓所の付属施設として昭和2年に増築。旧国鉄標津線上武佐駅開業に合わせて現在地に移転。国の登録文化財 ▲高倉健主演映画『遙かなる山の叫び声』のロケ地。函館に住む兄(鈴木瑞穂)が耕作(高倉健)のもとへ尋ね、駅で再会する場面。駅舎内でコーヒーを渡すシーン 
明治末期から大正にかけて本格的な開拓
 明治時代末期、北見のアイヌ、サンケチャチャが一人で狩猟生活を営んでいましたが、開拓者が入植するようになって獲物が減少。後に老衰死したという。大正時代になって入植者が増えました。大正2年、岐阜県の吉田三兄弟、翌3年にも吉田庄次郎、作衛が加わり“吉田団体”と呼ばれました。以後、学校の建設、寺院、教会の進出などが相次ぎました。
高倉健主演映画『遙かなる山の叫び声』のロケ地
 バス停の上武佐に北村家住宅があります。高倉健主演の『遙かなる山の叫び声』(山田洋次監督・1980年)のロケが行われました。いま、朽ちた映画の看板が建っています。昭和12年国鉄標津線上武佐駅が開業。北村家住宅の付近に上武佐駅跡の案内板が見られます。 
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交通 クルマは北村家住宅の駐車場に停めました
 






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