広島県(ひろしまけん)

○草津(くさつ)/広島市西区草津本町 
 
浜田藩の参勤交代にも利用された町です
 古くは久曽津とも書きました。南東に広島湾があって、草津港を中心に発展しました。江戸時代ははじめは広島藩領、次に三次藩。享保5年(1720)から広島藩領となります。西国街道の間宿(あいのしゅく)が置かれ、人馬の継立てを行いました。また寛文2年(1662)~宝暦9年(1759)は浜田城主・松平氏の繁船所(けいせんじょ/船の係留施設)もあって、参勤交代の往復になどに利用されました。
板塀に船板を利用しています
 歩いていますと「草津まちなみ探訪マップ」の看板を見つけました。でも,それでもわかりづらい町でした。というのも町自体が迷路のようになっているからです。全体的に普通の住宅街,という感じを受けました。ポツンポツンと古民家が残っています。2階屋で板塀囲いですが,珍しいのは舟板を使用していることです。漁村に多い例ですが、廃船後の船底などを再利用します。とても丈夫です。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 広島電鉄草津駅から徒歩10分
 
○可部(かべ)/広島市安佐北区可部 
 
   
▲可笑屋/街づくりデザイン賞受賞   ▲シゲタ写真館/大正2年創業
戦国期から物流の中心地でした
 戦国時代には、旧道沿いにすでに市が立っていました。可部市は高松城の城下町として、陸上、水上交通の物流の要衝として発達しました。
街道沿いに往時の面影
 雲石往還、庄原往還、石見路んどが交差する陸路の要衝にあたります。さらに幾つかの河川を利用して太田川から一気に瀬戸内海につながるのです。つまり中国山地から運ばれた産物の積出港で、なおかつ多くの市が立つなどで発展しました。いま街道沿いに蔵造りなど町家がギッシリ並び、往時の面影が残ります。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○神辺(かんなべ)/福山市神辺町川北 
 
3つの街道が交差する
 神辺は山陽道,石州銀山道,笠岡道が交差する,交通の要でもありました。そのため参勤交代で,西国の大名たちが利用することが多くなりました。資料ではその数は30カ国(藩)にのぼります。本陣は2カ所ありましたが,現在は1カ所(西本陣)のみ往時のまま残っています。当時の建物は,本陣と商家が数軒のみ。
藩の中心が福山に移転したことで衰退が始まります
 しかしながら備後10万石の領主が福山城を築いたことから,政治,文化,経済は神辺から福山に移ってしまったので,一宿場町となったのです。

 ところで町名の由来は「神を祀った近く」、すなわち「神の辺(あたり)」だそうです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは本陣の駐車場に停めました
○松永(まつなが)/福山市松永町 
 
藩の最重要政策が塩田の開発と販売でした
 江戸時代は福山藩。藩の奨励策で塩田開発が盛んに行われました。製塩のために多くの入植者があり、そのため米の買い占めが許された地域でもあります。大量の米飯が必要だからです。また船も38艘も所有していました。これは土の入れ替えや薪の搬入、塩の移送などに利用されました。
塩問屋と製造する浜方と激しい争いが起こります
 塩の販路は「尾道屋」、「機折屋」、「住吉屋」の3軒の問屋や独占していました。しかし天保年間(1830-44)になって、製造する浜方と間で争論が起こり、浜方でも問屋を造って販売。主に、越後などの北國筋が中心だそうです。
 いまはわずかに蔵造りや板壁の町家が見られる程度です。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは妙藏寺の駐車場に停めました
 
 ○今津(いまづ)/福山市今津町長波
 
   
▲村上家住宅/国の登録文化財(江戸後期~明治後期/城郭のような建築は大富豪) 
旧庄屋の面影を見る
 中世は神辺と尾道を結ぶ街道の中継点でした。江戸期は宿場町へと発展。しかし村上家住宅のあるところは、旧宿場町から離れた完全な農村地帯。米のほか大麦、大豆、馬の飼料、縄などを生産。大型家屋が残る農家が多く、旧庄屋の面影。
大富豪・村上家住宅は8軒の国登録文化財
 松永湾を見下ろす丘陵地にあるのが村上家。かつては「竹本屋」と呼ばれ、塩の販売・廻船業などを営み栄えました。現在の建物は、江戸時代から明治時代後期にかけて建てられました。城郭のような風情の石垣上に主屋、各種蔵、納屋、長屋門、腕木門など8軒が国の文化財として登録されています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○横倉(よこくら)/福山市沼隈町中山南横倉 
 
茅葺き屋根はゼロでした
 沼隈半島のど真ん中にあって,山道のなかをクルマでクネクネと走りました。目的は茅葺き屋根のある農家です。一説には30棟近くあるといわれていましたが,走っても走っても見あたりません。横倉地区,中横倉地区にもありませんでした。
懐かしい土蔵や土塀が見られます
 中横倉地区には,江戸時代に建てられた土蔵や遺構が残されています。横倉は昔から平家谷と呼ばれており、数多くの平家伝説を残しています。それらは郷土芸能、神社などを通して、住民たちは後世に伝えようとしています。土塀や、土蔵などが通りに面してわずかに残されていました。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○横尾(よこお)/福山市横尾町 
 
重厚な蔵造りの商家群
 旧山陽道の一部が通り、今も昔も交通の要衝。江戸時代は福山藩領で、街道筋には名産・福山飴の名で知られた飴屋など各種の商店が軒を連ねました。今はクルマが通過するだけの集落ですが、蔵造りの商家群が見事です。
●みりん粕を使った名産“福山飴”
 福山飴とは、酒粕(みりん粕)を使った飴です。もちろんノンアルコールです。福山キャンデーなどの名前で売り出されているようです。 
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは岩明神社参拝者専用駐車場に停めました
 
 ○鞆(とも)/福山市鞆町
 
   
▲太田家住宅/国の重要文化財。造り酒屋の屋敷  ▲岡本家長屋門/福山市指定文化財。福山城長屋門 
江戸時代の建物が残る
 こんな小さな町に約80軒以上の江戸時代の建物が残っているのは奇跡的です。かつては潮待ち港として栄えました。また港に面した豪商や回船問屋の土蔵,商家が江戸時代の面影をそのまま伝えています。また昭和初期にも遊郭があり、貸し座敷は9軒、娼妓は40人とか。
長年の開発論争に終止符を打つ
 ところが永年、埋め立て地問題で、バイパスを造り、橋を架ける案が出ています。開発か否かで揺れています。しかしこの貴重で美しい景観を守らなくてはいけないのは事実です。反対に住民に便利な生活をガマンしろ,というのも酷です。結局、景観を守ることを選択したようです。ところで地名の由来は、神功皇后が新羅侵攻の帰り、手に巻いた鞆を沼名前神社に納めたことからだそうです。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR福山駅からバス30
 
 ○府中(ふちゅう)/府中市府中町
 
   
▲恋しき・主屋(国の登録文化財)/明治5年に開業した老舗旅館です   
古代「安芸国府」の置かれた地
 地名の由来は、国府が置かれていたこととか。「国庁」の名を残し、天平期の瓦を出土する道隆寺や鎌倉期の国衙領注進状にも見える総社・松崎八幡宮・水分神社などがあります。なお松崎八幡宮は現在の多家社に合祀されています。
蔵造り商家などが点在
 江戸時代は広島藩領で西国街道沿いの集落です。いま歩きますと、蔵造りの商家などがあちらこちらに点在しており、歴史を感じさせる町並みとなっています。
「恋しき」は心機一転出直し!
 府中市は2020年に「恋しき」の土地と建物を取得することに決めました。というのも現在の運営会社では維持管理が続けられないからと判断したからです。事業費は2億1200万円で古民家ホテルなどの再生などの活用を考えるそうです。
レストランなどはすでに撤退しており、アフターコロナを見据えた観光振興の賑わいづくりを準備するとか。
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは府中第一ホテル駐車場に停めました
 
○出口(でぐち)/府中市出口町 
 
   
▲神谷邸/修景事業第1号として改修  ▲金光邸/石州街道の代表住宅 
石州街道沿いの商家群
 街道が中国山地からやっと平地に出たところ、ということから出口と名付けられとか。出口川に沿って、織物、煙草、染料などの製造所が集まり、さらに牛市がたち商家、問屋が集中。今は往時の面影を残します。
甘南備神社は国守が出雲国から移し祀る
 三室山の甘南備(かんなび)神社は備後式内神社17社のうち、出雲国三保崎から和銅元年(708)に国守・佐伯宿禰麿(さえきのすくねまろ)が移し祀ったそうです。三室山の中腹に岩座の史跡があり、付近一帯は桜の名所となっています。
伊万里焼の技術を導入した洞山焼
 ところで50年ほど続いた洞山(どうせん)焼き窯は藩の財政事情策として開発された窯でもあります。しかし幕末に廃業しています。現在窯跡は民家の敷地となっています。伊万里焼の技術が伝わった焼き物とされるため、図柄や形は伊万里焼に似ているそうです。代表的な作品は市の文化財指定になっています。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは石州駐車場に停めました
 
○目崎(めさき)/府中市目崎町 
 
世界のトップメーカー・リョービ(株)の本社・工場の地
 江戸時代は福山藩領で旧目崎村。そして芦田川沿いの集落です。でも剣先橋(けんさきばし)のある所といったほうがわかりやすいそうです。かつて剣先付近に河川港があり、特産物の交易の中心地で、そのルートは大坂まで伸びていました。しかし鉄道が開通すると、水運は一気に衰退。現在はクルマや電化製品に使うダイカストの世界トップメーカであるリョービ(株)の本社・工場のあるところです。
蔵造りの町家が連なる 
 歩いて見ますと、川沿いや街道の裏手などの旧道に、蔵造りの町家、土蔵が軒を並べています。虫籠窓や出格子があり、漆喰が映えています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○上下(じょうげ)/府中市上下町上下 
 
映画のロケ地のよう
 これほどきれいに改装,整備されているとは思いませんでした。蔵造りやなまこ壁が目に付きます。実際にも江戸時代の町家も現存します。まるで映画のロケ地のようです。
 おもしろいのは,文化財クラスの建物をうまく活用していることです。県の文化財に指定されている旧財閥角倉家の土蔵がキリスト教会に使われています。旧警察署は岡田屋に,大正時代の芝居小屋が翁座に,旧岡田邸は歴史文化資料館などになっています。
石見銀山街道の宿場町
 世界遺産に登録されている石見銀山からの銀の集積中継基地として発展しました。代官所も置かれ,幕府直轄の地でもありました。そのせいか,この地方の政治経済の中心地でもあります。特に夢街道と名付けられた商店街は,当時さまざま店が軒を連ねていました。吉備高原に広がる町で、石見銀山街道の宿場町の一つでもあります。
 また山陰と山陽をつなぐ重要な要地で、江戸中期には天領となり、陣屋町として栄えました。
建造物の博物館
 建物は江戸,明治,大正,昭和と各時代のものが残っております。歴史的建造物の博物館のようです。
 ところで上下という奇妙な地名は、矢野荘の「城下」(じょうか)が転訛したといいますが定かではありません。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○東城(とうじょう)/庄原市東城町 
 
京風の町家が印象的
 関ヶ原の戦い以降に作られた城下町です。かつては政治、戦略上の要地。いまは城はありませんが,町並みが残りました。成羽川沿いに発展しました。平入りの町家で,京風の格子窓が印象的です。山奥の町並みが京の影響を受けていました。
大火で藁葺き屋根から瓦葺き屋根に転換
 天明年間(1781-89)の大火で市街の大半を焼きました。当時の家屋の大部分は藁葺きでしたが、以後瓦葺きに変わり、市街の景観がすっかり変わったそうです。なお天明ではなく寛延年間とする説もあります。
広島藩内一の鉄の集散地
 東城川源流域の道後山山麓一帯は、藩内屈指の鉄の山地です。東城は鉄の集散地として栄え、「東城・西城くがねどころ」といわれたそうです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○小奴可(おぬか)/庄原市東城町小奴可 
 
いまでも「鉄穴流し」(かんなながし)の跡地があるとか
 江戸時代は広島藩領で、砂鉄が採れました。そのため鉄穴流し(かんなながし)と呼ばれる、いわば砂鉄と流水の比重差で砂鉄を採るのです。ところが大量の土砂が下流域にながれ、田畑の壊滅につながる所も出たのです。しかし藩は財政をまかなうために続けました。小奴可は鉄穴流しの中心地で、土地が大きく変形し、数十カ所の跡地があるそうです。
白い壁と赤瓦が印象的
 それはともかく、成羽川沿いの旧東城街道を歩いていますと切妻型の妻入りで赤瓦に白漆喰の家並みが続きます。「要害桜」シーズン後のためか、町は静かでのんびりと歩けました。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは仮設駐車場に停めました
 
○三日市(みっかいち)/庄原市三日市町 
 
商家の家並みがギッシリ
 村の中央を備中新見路が通り、交通至便。そのため市が立ち、周辺の産物が売られていましたが、隣の庄原村は毎月九の日に市が立ち、三日市との商圏を争ったために紛争が絶えず、文政6年(1823)に代官・頼杏坪が和解させます。文久3年(1863)福引きなどで客寄せに努めました。歩いて見ますと家並みは長く、市場町として発展。いまも往時の面影が見られます。
農民蜂起で代官が追放されます
 幕末に赴任した代官・神川平助は上原村国兼池の改修に成果をあげました。ところが大事業の経費を農民に請求したために、農民が困窮し、とうとう蜂起しました。結果、代官はこの地を追放されました。 幕末になると何が起こるかわかりません。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
○森脇(もりわき)/庄原市比和町森脇 
 
   
▲荒木家住宅/国の重要文化財江戸時代中期の建築。荒木家は神官でした  
赤瓦の古民家が散在
 森脇村も砂鉄が採れ、鉄穴は43カ所もあったそうです。鉄山業は『芸藩通志』によれば農閑の稼ぎとしたとか。しかし鉱山業が盛んになるにつれ、富豪が誕生。いま赤瓦板張の古民家はあちこちに散在しています。
荒木家は神官の家でした
 荒木家住宅は江戸時代初期に建てられた民家です。森脇八幡宮の神官の家で、部屋は5つあり、神官の家の特徴でもある「たかま」や牛を飼育すための「だや」、農作業する「土間」などもあります。茅葺きの入母屋造(いりもやづくり)です。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○新市(しんいち)/庄原市高野町新市 
 
後鳥羽上皇が隠岐への途中に立ち寄った説
 新たに成立した市なので新市と呼ばれたなど、地名の由来は諸説あります。初見は戦国時代の書状とか。ところで山陰と山陽を結ぶ出雲路のなかでも、備後国最北端の宿場町です。また後鳥羽上皇が隠岐島への島流し途中、当地の功徳寺に滞在したという伝説もあります。いずれにせよ歴史のある集落といえます。
往時の面影が見られる町家
 他の集落同様、江戸時代は鉄鉱業が盛んで、人口の割に牛馬の普及が目立ちました。いま歩いて見ますと明治、大正、昭和期の町家が並びます。いずれも改築、改装されていますが、往時の面影が見て取れます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○中門田(なかもんでん)/庄原市高野町中門田 
 
   
 ▲堀江家住宅/国の重要文化財・江戸中期の建築でクギは使用していない
茅葺き屋根の重要文化財
 『芸藩通志』によれば江戸時代は人口218人で24戸。村高は200石余と小村でした。しかし牛馬の飼育数が多いのは、砂鉄を採取し運搬するためでしょう。特に馬の飼育数は農家の戸数を上回る数でした。
砂鉄の採取量は年間1000駄!
 砂鉄を採取する鉄穴流し(かんなながし)場が享保年間(1716-36)に2カ所、慶応元年(1865)に1カ所あって、年間約1000駄の砂鉄を近くの上野鈩場へ供給していました。ところで「駄」とは馬1頭背負わさせる荷物の重量からできた単位です。江戸時代の定めでは、36貫(135kg)だそうです。
江戸時代初期の大工の技術を知ることができます
 堀江家住宅は、中国地方の山間の民家や歴史や大工の技術を17世紀(江戸時代初期)にさかのぼって知ることのできる貴重な文化財です。居室部分は「かって」、「おもて」、「なんど」の三室からなり、「広間型三間取り」と呼ばれる古い形式を残しています。屋根を支える太い柱は栗材を使用、手斧の加工痕が残っています。いまは静かな農村で、茅葺きの古民家がまだまだ見られます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○比和(ひわ)/庄原市比和町比和 
 
出雲街道の宿場町
 比和川沿いを通る出雲街道の宿場町。砂鉄、木炭などの輸送のために牛馬の飼育が盛んでした。そのため江戸期から牛馬市が立ちました。街道沿いにアルミサッシなどに改築されていますが、長く古民家が続きます。また比和川沿いにも蔵造りが見られます。
地名は比婆山のヒバがヒワに転訛
 永禄年間(1558-70)ごろまで日和と表記し、後に日矢と改めたそうです。そして慶長年間(1596-1615)に比和と改めたと伝えられています。また地名の語源は、北方にそびえる比婆山のヒバがヒワに展示たのが地名の起こりとされています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは市営駐車場に停めました
 
○西城(さいじょう)/庄原市西城町西城 
 
平入り切妻型の町家
 古くは西条といいましたが、江戸時代から西城となりました。また鉄の産地であるところから「くろがねどころ西城」といわれました。西城川流域には砂鉄の採掘場・鉄穴流し(かんなながし)が30口もあったようです。そのため鉄産業に従事する人も多く、食料、雑貨等の搬入も盛んで、西城村は急速に発展。
西城が衰退しますが逆に古民家が残りました
 しかしながら鉄道が開通し備後西城駅が今の大佐(おおさ)にできると、役場も移転します。旧市街地となった西城は衰退していきます。逆に往時の建物が残ったのです。切妻型平入りの町家がギッシリと並びます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○上市(かみいち)/庄原市総領町稲草 
 
幕府はインフラに力を入れました…
 寛永10年(1633)、幕府が派遣した巡見使を迎えるために、藩は稲草村に茶屋を設け、さらにこれを契機に道路などのインフラ整備に力を入れたのです。結果、その後宿場町に発展しました。
●密集した古民家群
 歩いて見ますと、商家や土蔵、妓楼などの面影が見られます。とはいうものの、上市と比較するとやはり寂しさは感じます。 
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは総領郵便局の駐車場に停めました
 
○下市(しもいち)/庄原市総領町稲草 
 
年中行事の多い龍興寺が人集めの中心
 寛永年間(1624-44)の末に市が立ち、正徳年間(1711-16)には市の長さが3町50間と長く、その結果上市、下市の二つの小町に分かれたと推定。江戸末期の戸数は95軒と上市の29軒よりも圧倒的に多かったようです。『芸藩通志』では、農業が基本ですが、利益の多い煙草の生産に力を入れる者が多かったと明記。また年中行事の多い、龍興寺も下市にあり、多くの人が集まる要素もあったようです。
●出雲街道の両側に古民家
 いま街道沿いを歩いて見ますと、虫籠窓や土蔵など切妻型の古民家がギッシリと軒を並べています。また白壁が日に映えて静かなたたずまいが見られます。 
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 

                          ▲ページの先頭にもどる

○宇津戸(うづと)/世羅町宇津戸 
 
   
▲旧宇津戸郵便局/近代建築です   ▲町並みはほんとうに静かです 
浄土宗の梵鐘に対して「宇津戸大工」が抗議
 江戸時代、鉄器を生産しており、鍋、釜、鍬、すき先などを近隣へ販売していました。しかしメインは寺院の梵鐘で、今高野山の梵鐘は有名です。ところで、永禄(1558)のはじめごろだと思いますが、12月17日付けの小早川隆景氏の書状によると、浄土宗の梵鐘が安芸国廿日市で鋳造されたことに対して、「宇津戸大工」からの申し分があり、問題が紛糾していたことが知られています。何が原因かはわかっていません。
●石州街道沿いの集落
 いま町を歩きますと、ほんとうに静かです。観音寺から宇津戸川に架かる陰陽橋までに商家などの古民家が集中しています。 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは観音寺の駐車場に停めました
 
○甲山(こうざん)/世羅町甲山 
 
紀州・高野山の別格本山・今高野山の門前町です
 石見銀山(石州)街道沿いの宿場町で、今高野山(いまこうやさん)の門前町でもあります。今高野山は空海の開基と伝えられており、12の寺院がありました。しかも多数の文化財を抱えており、多くの信者・観光客で賑わいます。今高野山は鎌倉時代以来、紀州高野山領大田荘でした。そこで紀州・高野山の別格本山として建立された寺院です。
重厚な商家が多く、茶屋や旧妓楼も残ります
 古民家は街道沿いに集中しており、『芸藩通志』によれば生業の8割が商業、浮業を占め、残りが農業、湯葉の生産。浮業とは、遊興業とでもいいましょうか、一種の遊び場で“遊郭”や芝居小屋も含めます。歩いていますと、蔵造りの重厚な商家が多く、茶屋、旧妓楼も見かけます。虫籠窓や格子の美しい町並み
です。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは今高野山観光客専用駐車場に停めました
 
○三次(みよし)/三次市三次町 
 
   
 ▲蔵や木造3階建ても残ります ▲歴史民俗資料館/国登録文化財 
格子のある町家が連続
 早朝の6時半ごろです。人がいないと気持ちいいものです。旧街道には石畳が敷かれています。商家の境には、卯建(袖壁)が造られており、火災の延焼を防ぐためでした。また幾つもの小径が造られております。出格子や虫籠窓の似合う町並みです。
江戸時代は町奉行の代官支配となります
 古くは三好、三吉とも書きました。江戸時代のはじめは広島藩でしたが、後に支藩の三次藩領となります。しかし享保5年(1720)から再び広島藩領となり、三次藩は廃絶となり、広島藩・三次町奉行所支配となります。

広島県のトップをきって米騒動を起こす
 大正7年8月9日に三次町と隣接する十日市町で、広島県のトップを切って米騒動が発生します。両町民2000人が三次の照林坊に集まって米の値引きを求めて、米屋や三次駅に押しかけました。これは大正4年の芸備鉄道が十日市町まで開通し、県北の米を広島市へ輸送するための基地になったことで、米の値上がり幅が大きくなったとか。
運動は芸妓(娼妓)の廃業問題にまで発展
 ところが米騒動はこれで終わりませんでした。三次教会の牧師・赤岩長吉の教えもあって、教会の青年たちは社会問題に関心を深めたのです。昭和4年に、芸妓(娼妓)の自由廃業問題に取り組み、公判闘争を展開。講演会の開催、雑誌『暁』まで発行しました。  
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは三次市歴史民俗資料館の駐車場に停めました
 
○布野(ふの)/三次市布野町上布野 
 
   
▲歌人・中村憲吉の生家。中村家は酒造業を営む大地主でもありました  
運上銀の大輸送団が通過する宿場町
 江戸時代の布野宿は、尾道と山陰を結ぶ石見街道の広島藩最北端の宿駅。毎秋になると、大森銀山から尾道港へ運ばれる運上銀・銅を約400人、馬300匹の大輸送団が通過しました。いま街道沿いには、板壁や白漆喰の美しい古民家が軒を連ねています。
銀輸送団は銀山街道の最大の難所・赤名峠を越える
 早朝、大森(出雲国)を出た銀輸送の一行は、九日市(島根県邑智郡美郷町)で一泊し赤名宿で荷継ぎをしたあと、いよいよ赤名峠に向かいます。赤名峠は万葉の時代、歌人・柿本人麻呂も超えたと言われています。赤名峠一帯は、標高680m、冬期は雪深く銀山街道屈指の難所と言われました。文化8年(1811)には、負担軽減を求める訴状が大森代官所に出されています。一行は室宿に到着します。少し休憩してすぐに旅立ちます。
一行は室宿を出て夕方頃、布野宿を通過します
 銀輸送団の一行は、室宿かた山越えの道「仏ケ峠」を布野宿へとめざします。布野宿の銀山街道は山の中腹のなだらかな道で、美しい自然がいっぱいのところ。銀輸送団は布野宿でるころは夕闇迫るころ。このあと2泊目の三次宿へ向かいます。 
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは中村憲吉記念文学館の駐車場に停めました
 
○吉舎(きさ)/三次市吉舎町吉舎 
 
   
▲田中写真館/国の登録文化財   ▲街道沿いに古民家が集中します 
毛利氏の毒殺の疑いで、和智兄弟が殺されます
 天文22年(1553)、備後へ南下をはじめた尼子氏に対して、備後・旗返山(はたがえしやま・三次市三若町)城主・江田隆連が味方しました。そこで大内氏は毛利氏をして平賀氏ら芸備国衆を促して吉舎山中へ出陣させました。和智誠春・元家兄弟は、その後も毛利氏に従って転戦。しかし永禄6年(1563)、毛利隆元の頓死に際し毒殺の疑いをかけられます。その結果、永禄12年(1569)初頭、厳島で誅殺(ちゅうさつ)されました。
古民家は吉舎本通り沿いに集中
 石見銀山から産出した銀はココを通り尾道から上方へ移送。当初は三次宿と甲山宿の中間の休憩所でしたが、次第に宿駅へと発展。古民家は街道(吉舎本通り)沿いに集中。商家や旧旅籠などギッシリと詰まっており、往時の面影が残ります。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは吉舎七日町商店街駐車場に停めました
 
○敷地(しきじ)/三次市吉舎町敷地 
 
   
▲奥家住宅/国の重要文化財・江戸時代末期は庄屋を務めていました  
美しい真壁(しんかべ)
 江戸時代から農業一途の集落です。馬洗川から取水、村内55カ所の溜池を利用。それでも水不足時には、雨乞い祈祷が行われたとか。古民家は点在しており、奥家住宅の付近には切妻で幾何学的な美しい意匠の真壁型の農家が多く見られます。
奥家の土蔵が重要文化財に追加指定されました
 奥家は江戸時代末期には庄屋を務めていました。このあたりは広島県北東部の山あいにあたります。主屋は天明8年(1788)の建築で、江戸時代後期の当地を代表する民家といわれ、昭和53年に国の重要文化財に指定されました。また主屋の背面に建つ内蔵形式の土蔵は文化9年(1812)の建築で、平成28年に重要文化財として追加指定されました。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○三良坂(みらさか)/三次市三良坂町三良坂 
 
格子のある町家や土蔵
 石見路の交通の発達に伴い、中心地は馬洗川北岸の街道筋に移りました。文政3年(1806)には町家が147軒、醸造家4軒と発展。そのため三次宿と吉舎宿の間宿(あいのしゅく)として栄えました。静かな街道を歩きますと、蔵造りの商家や格子のある町家などが点在。
地名の由来に虎御前に従った道三郎の名が登場
 古くは三羅坂、三郎坂とも書きました。地名の由来に、曾我兄弟に仕え虎御前に従ってこの地に隠棲した道三郎(どうさぶろう)の名によるとの言い伝えがあります。
『曽我物語』では、鬼王・道三郎は幼少のころより片時も離れなかったと記載されていますが、実際に物語に登場するのは後半になってからです。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは柳町第一お買物駐車場に停めました
 
○本地(ほんじ)/北広島町本地 
 
   
▲武田家住宅/築100年以上とか  ▲格子状の意匠が美しい土壁 
医師がいたという重要な宿場町
 石見浜田路(石州街道)の宿場町です。『芸藩通志』によると広島藩領で戸数313、人口は1640で村高が1563石余というから、かなり大きい村。しかも医師もいたというから、藩にとっても重要性の高い集落といえます。別の書物には医師は3人いたと記載。
●赤瓦が美しい旧宿場町
 本陣や休憩所として利用された専教寺があり、駅伝馬は15匹。参勤交代などの忙しい時は、隣村からも馬や人夫を集めて勤めました。いまは赤瓦の屋根が美しく、2階家の古民家が続きます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○蔵迫(くらざこ)/北広島町蔵迫 
 
浜田藩主が必ず通る宿場町
 古くは倉坂、倉迫とも書きました。南北朝時代から見られる歴史のある集落です。関ヶ原の戦い後、福島正則が入部し、最初に行ったのが慶長検地。しかし蔵迫は、増減にほとんど変化はありませんでした。その後浅野氏が入部し、広島藩の支配下となります。また浜田藩(島根県)の参勤交代時に、必ず通るのが石州街道で、蔵迫は街道沿いの一集落です。隣接する本地宿の助郷の役割を担っていました。
美しい赤瓦の屋根が続きます
  いま歩いて見ますと、美しい赤瓦屋根が続きます。造り酒屋があるなど、幾つかの出し桁造りの商家が見られます。土蔵もあり、変化に富んだ家並みです。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○大朝(おおあさ)/北広島町大朝 
 
二つの街道が交差する
 古くは大麻と書かれたとあります。つまり麻の産地説も地名の由来の一つ。江戸時代は浅野氏が入部し、広島藩領となります。『芸藩通志』によれば、村高は4296石とかなり豊か。人口も5705人で戸数は1342とあり、かなり規模の大きい集落といえます。その原因の一つに、浜田と結び、さらに大森銀山とも結ぶ街道が通るため、人馬、すなわち物流の動きが激しいかったといえます。この二つの街道は、その後脇往還として整備されました。「鉄産業」、「農村市」なども発展の要因。
見ていて楽しい古民家
 庇の深い出し桁、千鳥破風の玄関など、見ていて楽しい古民家が軒を連ねています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマはJA大朝支店の駐車場に停めました
 
○加計(かけ)/安芸太田町加計 
 
   
▲日新林業/国の登録文化財   ▲蔵造りの町家が多く見られます 
「町をまるごと博物館」に
 土蔵もあり、商家の家並みもあります。古寺や庭園の吉水園には茅葺きの東屋もあります。町には街道の要所として古くから栄えており、古民家も多く残されています。そこで「町をまるごと博物館」にしたのです。基本コンセプトは、「古くなったものをしまい込むのではなく、飾ってその価値を見いだそう」というもです。
鎌倉時代、栗栖氏一族の支配下にありました
 鎌倉時代末期、この地方に入部した栗栖氏は石見国・福屋氏のために滅ぼされたといいます。栗栖氏一族の守ったと伝えられる城跡が桜尾山・茶臼山にあります。栗栖氏が滅びた加計地方は毛利の重臣・宍戸隆家の支配下にありました。
「舟をつなぐ」が「かける」に転訛
 地名の由来は、川船交通の要衝であったことから「舟をつなぐ」ことを言う「かける」にちなむものと推定されます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○中筒賀(なかつつが)/安芸太田町中筒賀 
 
   
▲旧筒賀村役場/国の登録文化財  ▲旧道沿いにも古民家が点在します 
街道裏に古民家
 寛永15年(1638)に旧筒賀村が3村に分割したうちの1村。田畑の石高はわずかだが、収入のほとんどは山林からでした。炭や御用木材、板などを広島城下へ積み出しました。いま、街道裏に古民家が見られます。特に旧筒賀村役場庁舎は必見です。
山間集落にポツンと建った近代建築
 この旧筒賀村役場庁舎は、県西部の超田舎に立地しているのですが、あまりのオシャレな建物に目をむいたと言われます。正面玄関に半円アーチ状の開口部を持つ玄関ポーチを付けています。山間集落の近代化を象徴する建物といえます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは町役場支所の駐車場に停めました
 
○戸河内(とごうち)/安芸太田町戸河内 
 
鉱(鉄)山業は他村の経営者が中心
 村の主な産業には林業や農業がありますが、たたら製鉄による鉄産業もありました。砂鉄購入先の石見国が近いこと、また炭が大量に産出でき、太田川の水運が近いことが上げられます。鉱山業の経営者は加計村の八右衛門、都志見村の七郎右衛門・長兵衛ら他村の者が中心でした。炉が2カ所、鍛冶屋7軒が平均10年ごとに設置場所を移転しながら経営されていました。
商品作物は諸口紙などで大坂などへ移出
 戸河内は農村市場としての機能も持っていました。特に他の地域へ移出できる商品作物は煙草、楮などで、紙漉き従事者が148人もいて、主に諸口紙(もろくちがみ)を生産・移出していました。
●旧街道沿いに古民家群
 ゆるやかな坂のある街道の両側に古民家が充実しています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは安芸太田町役場の駐車場に停めました
 
○尾道(おのみち)/尾道市東土堂町 
 
   
▲山側は坂や階段のある町です。暮らすとなると大変な労力が必要です 
急坂のある町です
 尾道は仕事を含めて何度もきています。坂の町というイメージが強いのですが、やはり今回も同じです。昔は坂の途中の廃屋もあったりして、廃れているという感じでした。考えてみれば、坂道のある家で暮らすとというのはたいへんな苦労を伴うものです。駐車場も確保できないし、日常の買い物などの不便さは一級でしょう。当時、こんな所に住みたくないなあ、と思いましたがそれは今回も変わりませんでした。
脱映画&文学!?
 最近の尾道は、戦艦大和の大型模型とかで何かと話題になっています。映画や文学だけでは、いつまでも人は呼べないのでしょうか。
手入れがいい
 さて、古い建物ですが、歩いていてもあまり見かけません。戦前の建物ですが、木造2階建ての町家で、板塀が特長です。あとは旧旅館が見かけました。狭い散策路を歩いていると、手入れの行き届いた民家がたくさんあります。年寄りには、この道はこたえるなあ、と思いながら歩きました。
軽自動車や車いすが…
 全行程を歩くと、ほんとうに疲れます。充実感がないので、よけい疲れました。帰りはバスにしました。昔はなかった尾道ラーメンを食べようと思いましたが、混んでいたのであきらめました。
 瀬戸内海の離島にも足を運びましたが,急坂にへばりつくような集落は,いずれも過疎になっています。離島と同じように、軽自動車や車いすが玄関までこれないようでは,衰退の一途をたどるのでしょう。もちろん地元のNPO法人が熱心に空き家対策を行っています。それに期待するしかありません。
瀬戸内海の物資集散地
 平安時代(1163年)、備後国大田荘の船津倉屋敷が置かれており、瀬戸内海の物資の集散地でもありました。そのためたいへんな発展をとげたのです。さらに高野山の支配下に入り、浄土寺が建立されました。
「山の尾の道」
 地名の由来は、裾をはう道という意味から、「山の尾の道」とよんだことで、名付けられそうですが、諸説あります。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR尾道駅から徒歩15分~30分
○向島(むかいしま)/尾道市向島町 
 
    
▲吉原家住宅/国の重要文化財因島では大富豪でした   
尾道の向かいにあるので「向島」
 古代は歌島と称したようですが、戦国時代に、尾道の向かいにあるので向島と呼ぶようになりました。柑橘系の畑の合間を歩くと入母屋造の農家が散見できます。
●民家としては日本一古い吉原家住宅
 吉原家(1635年築)は向島の村々を束ねる旧大庄屋ですが、現存する農家で日本一古いそうです。立地しているところは周辺村落を見渡せる小高い丘の上にあります。主屋は寛永12年(1635)の建築というから、徳川幕府の参勤交代制が確立した頃にあたります。すごい古いです。実際、大半の古建築は明治以降で、わずかに江戸後期の建築が残るのみです。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは吉原家住宅の駐車場に停めました
 
○重井西(しげいにし)/尾道市因島重井町 
 
東港と西港があり西港のほうが古い
 重井には、東港と西港があり、どちらかといえば東港のほうが発展しています。というのも東港付近には工業団地があるからです。そのことで古い家並みは西に片寄っています。歴史は西港が完成したのは、いずれも幕末期で天保9年(1838)、東港は安政4年(1857)に完成。西港のほうが少し古い。
●切妻型の家屋が多い
 室町時代後期、村上氏の勢力が拡大し、重井荘中央部に青木城を築城。江戸時代は広島藩領で、『芸藩通志』によれば旧重井村は、人口2100余人。西港を中心に町が形成されています。多くが切妻型2階家で、窓は小さく板壁が多いのが特徴。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは西港市営駐車場に停めました
  
○田熊(たくま)/尾道市因島田熊町 
 
江戸時代から人口が密集していました
 因島の南西部にある小さな集落。江戸時代は広島藩領で、旧田熊村の人口は『芸藩通志』によれば約1800人とかなり多い。狭い土地に密集している感じです。小さな港の周囲に町家が集まり、集落を形成。物産の集散地で移出港でもありました。そのため商家も多く、かなり栄えた時期もあったようです。地名の由来は、土地(田)が湾曲(隈)していることによるそうです。
明治橋付近に古民家がかたまっています
 明治橋付近から町中を歩きますと、港町らしい板壁や格子のある町家が、かたまっています。多少の改造はあるものの往時の面影を感じます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○土生(はぶ)/尾道市因島土生町 
 
村民は自力埋め立てて新田開発
 歴史は古く、室町時代後期には、因島村上氏は海岸に突出した丘の上に長崎城を築造、その前面や側面に船継ぎ場を設けた水軍城としました。江戸時代は広島藩領で、農業に従事しますが、土地は狭い。そこで農民たち自力で小規模ながら埋め立てによる新田開発を行います。農間に漁業、塩田を行うとか。
明治末期から造船業で発展します
 しかし土生が最も発展したのは明治末期からです。造船からその関連する産業の発達で、人口が急増。大正時代に日立造船が誕生。そして島内最大の市街地が形成。

 いま歩きますと、密集地帯に最盛期の面影が見られます。  
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは市営長崎駐車場に停めました
 
○椋浦(むくのうら)/尾道市因島椋浦町 
 
天然の良港を生かした廻船業が盛んでした
 古代から天然の良港として利用され、回船業が盛んでした。江戸時代は広島藩領で、その石高はわずかに58石。『芸藩通志』によれば、大部分は海運業に従事し、農業は婦女子が担当したそうです。
 さらに造船業も興り、回船方頭取・石井家によって統括されました。また広島藩との関わりが深く、御城米の輸送に当っていました。また藩関係の物資の輸送は、瀬戸内海から日本海一円に及んでいます。
●土壁やナメコ壁の蔵が点在
 いまは小さな集落ですが、曲がりくねった道沿いに、トタン葺きやナメコ壁のある土蔵など農村風景が広がります。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはいきいきサロン椋浦の駐車場に停めました
 
○大浜(おおはま)/尾道市因島大浜町 
 
幕末期に10~50歳の男子全員で農兵隊を組織
 地名の由来は浜の規模が大きいから。『芸藩通志』によれば江戸時代は戸数158、人数795人で島の一集落としては大きい。幕末期は外国船に対する農兵隊が組織され、砲台も設置されました。農兵隊は10~50歳までの男子全員による訓練は、中庄八幡神社で行われました。これに対して農民が訓練に反対する動きもありました。長州戦争の際は浦加子の4人が出動しました。
斜面に沿って古民がギッシリ張り付いてます
 歩いて見ます斜面に沿って古民家がギッシリ詰まっています。 意外に空き家が多いように見受けました。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○瀬戸田(せとだ)/尾道市瀬戸田町中野 
 
瀬戸内しまなみ海道で直結
 瀬戸内海に浮かぶ生口島の中野集落にある町並みです。いまは橋(瀬戸内しまなみ海道)でつながっており,尾道からも気軽に行けます。特に耕三寺参りで多くの参拝客で賑わう島でもあります。
武家屋敷のような堂々たる町家が目に付きます
 江戸時代末期から,製塩業,海運業などで栄え,民家も長屋門,土蔵,白壁など武家屋敷にみたいに堂々たる建物が多いです。朽ちた白壁もなかなか趣があります。

 ところで地名は、『芸藩通志』によれば、迫門(瀬戸)を埋め立てて田を造ったことに由来するというそうです。なお、鎌倉時代は生口水軍の本拠地。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 

                           ▲ページの先頭にもどる

○三津(みつ)/東広島市安芸津町三津 
 
上方との交易船の寄港地でした
 神功皇后の朝鮮出兵説のなかで軍船が寄った津(港)であるところから、御津(みつ)と称した説もあります。さらに安芸の国に御津をプラスして安芸津と命名したとか。江戸時代は広島藩領で、村高は963石と明記。しかし、地勢的に重要なのは内陸部の出入り口の役割を持っていたことです。米の集散地で、特産の白魚も移出していました。また瀬戸内沿岸の村である三津は、上方との交易船の寄港地(安芸津港)でもありました。
京の影響も受けた町家
 いま歩いていますと、酒造会社を中心に古い町並みが形成されています。商家も多く、京風の町家み見られます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはもみじ銀行駐車場に停めました
 
○西条(さいじょう)/東広島市西条本町 
 
『加茂鶴』、『福美人』、『加茂泉』などの銘酒が並ぶ
 2度目の訪問です。再開発の波で残ったのが、駅近くの醸造メーカーだけになったそうです。「加茂鶴」「福美人」「加茂泉」など8銘柄が西国街道沿いに集中しています。良質の米と水、優秀な杜氏に恵まれており、灘、伏見と並ぶ「日本三大酒造地」として知られていました。
赤瓦の酒蔵が見事です
 ところで裏道を歩くと、白壁の建物が続きます。酒蔵はかなり大きく、特長のある赤瓦が目に付きます。また蔵の水切りも赤瓦で葺いています。でも、それだけで、赤瓦の蔵をのぞくと、それほど特長のある町とはいえません。古代には、安芸国の国分寺が置かれていました。近世は西国街道の宿場町でもあります。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR西条駅から徒歩5分~10分
 
○白市(しらいち)/東広島市高屋町白市 
 
   
▲重要文化財の旧木原家住宅  ▲伊原惣十郎家/出雲出・身鋳物師の頭 
重厚な町屋が並ぶ
 JR白市駅から行きはタクシー(720円)で,帰りを歩きました。白市は古刹・養国寺の門前町として開かれました。町屋は赤瓦葺きで緩やかな坂道の両側に続いています。戦国時代,平賀氏の城下町でもありました。のんびり歩きたい町並みです。
藩が歌舞伎を許可すると、職人が集まります
 江戸時代、広島藩は歌舞伎の興行を宮島、三次と当地・白市の3カ所のみに許可しました。劇場は「長栄座」があります。木原家は醸造、両替などを営みました。歌舞伎が許可されますと、その周辺に多くの職人が集まります。鍛冶、鋳物、傘、漆塗り、提灯、鋳掛細工、紙漉きなどが全盛を極めました。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR白市駅から徒歩25分
 
 ○幸崎能地(さいざきのうじ)/三原市幸崎能地
 
   
▲美しい商家が旧道沿いに連なります ▲南山資料館/国の登録文化財 
「洋館のある港町」
 『日本書紀』にも見られ、瀬戸内海漁業発祥の地とも言われています。家船(えぶね)といわれ家財道具一式、家族を乗せて漂白漁民として、漁をしました。国道185号線の旧道沿いにギッシリと古民家が詰まっています。
家族と家財道具を詰んだ「家船」
 家船とは家族と家財道具、犬猫などと一緒に漁をしながら生活する人たちで、一時期、水上生活者と呼ばれました。その歴史は古く
、ポルトガル人の宣教師・クリヨネが豊臣秀吉に謁見するために船で長崎を発ち、東上する途中で(福岡県沖)見たそうです。駒澤大学教育学研究論集(32号・山本敏子氏『家船の研究史』) では、瀬戸内海の家船について詳細な発表を行っています。また地元の三原市歴史民俗資料館でも『家船』に関する資料展を定期的に行っているようです。
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○糸崎(いとさき)/三原市糸崎 
 
   
▲港に面した長屋風の糸崎遊郭  
妓楼群が見られます
 松浜港があり松浜地区にあったことから松浜遊郭と呼ぶ人もいます。唐破風のある棟割長屋風の妓楼が有名ですが、一歩路地を入りますと、妓楼らしき建物群が見られます。妓楼は「渡邊楼」、「上杉楼」、「小川楼」など20数軒。
広島藩歴代藩主が厚遇した糸崎神社
 近くのは糸崎神社があります。広島藩の歴代藩主が大切にしており、米をそのつど寄進しています。また三原城の普請中は、神社周辺の石や竹、木を取ることを禁じていました。地名の由来は、神功皇后の西行のおり、当地で水を献上したことから井戸崎が転訛したとか。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
  
○和草(わそう)/三原市久井町和草 
 
   
▲幾野家住宅主屋/国登録文化財  ▲静かな農村風景です 
旧茅葺き農家が散見
 古くは、和佐宇(わそう)とも書いたようです。旧和草村は広島藩領で石高は555石と中規模。水田のほかに茶、柿、梨、縄などを生産。幾野家は地域の戸長を勤めていました。「和草」バス停付近を歩きました。静かな農村です。茅葺きをトタンに改装した農家が幾つか見られます。
「戸長役場」としての幾野家
 幾野家はもともと和草村の戸長を勤めていました。その関係か、玄関に式台を設けるなど格式高い玄関となっています。さらに玄関左手に半間幅の濡れ縁を設けていました。つまり「戸長役場」としての性格を併せ持っていたと推定されます。明治期における地方行政機構の様子をを知る上で貴重な遺構です。
戸長役場とは、明治前期に区、町、村に設置された行政事務の責任者のことです。
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○東野(ひがしの)/竹原市東野町 
 
旧商家が旧道沿いに続く
 江戸時代は広島藩領。『芸藩通志』によれば、高屋、志和、二庄にも東村があるため、区別する意味から竹原を付け竹原東野村といったそうです。賀茂川沿いの集落ですが、下流で埋め立て地による竹原塩田が発達し、広島藩に膨大な収益をもたらしました。
 すると人口が急増すると、周辺の村々から食料や薪などの燃料、縄、塩袋などの需要を呼び、大きく発展したのです。東野も商家や宿も増えました。
商家風の町家に往時の繁栄が偲ばれます
 いま、人気のない通りを歩いて見ますと、商家風の町屋がずらりと続き、かつての繁栄ぶりがうかがえます。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○竹原(たけはら)/竹原市竹原町 
 
   
▲水路もそのまま残されています  ▲石畳がゆるやかにカーブしています 
   
▲本町通りの先を右に曲がると本川  竹鶴酒造(資料館もあり) 
いつ行っても静かな佇まい
 竹原を訪れたのはこれで4回目です。いつもながら石畳があって,変わらない光景を見せてくれます。古い町並みというのは,いついかなることがあっても変わらないということでしょうか。ただ、近年古民家を生かしたカフェが新登場しています。
 瀬戸内海に臨む町は,平安時代、京都の下鴨神社の荘園でありました。また北前船の影響で,ますます繁栄していきます。
NHK朝ドラ『マッサン』で人気が出ました
 ゆるやかななカーブを描くのが本町通りで,平入りや妻入りの町家などバラバラな造りで並んでいます。なお、NHK朝ドラ『マッサン』(主演・玉山鉄二/シャーロット・ケイト・フォックス)の舞台になったことで一躍有名になりました。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 
○忠海(ただのうみ)/竹原市忠海中町 
 
切妻型の町家群が残る
 中世の時代から港町として栄えましたが、それは江戸時代も同じです。三次藩領時代に、御屋敷・御船蔵を建て、奉行、町役人を定め、船入り堀を築造。三次藩廃絶後、広島藩領となりました。酒造屋、各種問屋、さらに遊女のいる茶屋など、たいへんな賑わいとなったのです。交易先は上方、九州一帯、尾張、越後、出羽まで広がりました。
●旧妓楼を思わせる建物も見られます
 歩いていますとあちこちに古民家群が見られます。ひとつひとつはそれほど大きくはありません。切妻型平入りの商家が多いですが、妓楼を思わせる建物も見られます。昭和初期の貸し座敷は4軒、娼妓は20人前後とか。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは呉信用金庫の駐車場に停めました
 
○鰯浜(いわしはま)/呉市音戸町鰯浜 
 
   
▲旧呉銀行音戸支店/銀行も進出  ▲いまも旧妓楼が見られます 
イワシが大量に採れた時代がありました
  文字通りイワシが大量に採れ、余ったイワシは干して瀬戸町に搬出。その量は数万袋というからスゴイ。副業として袋の生産も盛んでした。さて、なにより有名にしたのは、遊郭の存在です。今では往時の建物が残されています。
旧遊郭の面影を見ました
 「音戸町遊郭」と呼ばれ、明治38年に“遊郭制”になったとか。もっとも遊女ははるか昔から存在していました。妓楼は『高瀬楼』、『清月楼』など多数あって、娼妓は85人だそうです。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは音戸大橋有料駐車場に停めました
 
○隠渡(おんど)/呉市音戸町北隠渡 
 
「平家が隠れて海を渡ったところ」説
 隠渡については音戸の古語という説もあります。一般的には、平家落人が海賊たちに見つからないように隠れて海を渡ったからが、地名の由来というが定かではありません。音戸に関しては、追門に立つ平清盛の石塔を御塔(おんどう)と称したことにちなむとか。
●迷路に板壁の町家が続く
 中世の時代から交通の要衝で、瀬戸内の有数の商業港でもありました。戦前、軍港呉湾が航行中止なり、この地が航路の中心となり、大いに栄えました。町を歩きますと、漁師町の様相を示しています。板壁の町家が続き、しかも迷路。楽しい家並みです。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは音戸大橋有料駐車場に停めました
○室尾(むろお)/呉市倉橋町室尾 
 
漁業や造船で発展
 「室」の語源は、山で囲まれた小さな入江を河谷の小盆地をさします。室尾は東地区と西地区に分かれています。江戸時代から室尾漁港のある小さな漁師町です。また造船業や商業も発展していました。やはり「浮過」(無地浮世過)と称する定職を持たない人でも生きていけたのでしょう。
「浮過」は定職を持たない江戸版「フリーター」(?)
 浮過は定職を持たない人たちのことです。さらに土地を所有せず、部屋を借りて生活。そのため年貢の義務を負わない人たちです。藩からは一段低く扱われていました。では何をして食べていたかというと、その都度、人手不足の仕事を見つけては従事。現代でいえば「フリーター」に近いかもしれません。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
  
○尾立(おたち)/呉市倉橋町尾立 
 
漁港を囲む古民家群
  江戸時代からある、いまでは小さな漁港の周囲に古民家が軒を並べています。特に簡易郵便局周囲に集中しています。出桁造りのごく普通の町家ですが、ほとんど漆喰塗りと板壁、板塀など板張が中心です。やはり海風に強い素材を使っているのでしょうか。
尾立も呉の通勤圏内に
 尾立は倉橋では比較的大きな町で、人口も1000人を超えていました。ただ橋の完成で、呉市の通勤圏内に入り、マイカーによる通勤が当たり前になると同時に、道路の拡幅が行われるようになりました。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○下島(しもじま)/呉市下蒲刈町下島 
 
下島はかつて水軍の里
 旧下蒲刈町の中心地は三之瀬ですが、面積的には下島が圧倒的に占めています。海岸は埋め立て地がほとんどですが、近くに天神鼻という半島がありその付け根に多賀谷水軍の城がありました。いわゆる海賊城です。戦国時代、芸予の島々で“活動”しましたが、その後小早川氏に敗れてから、その支配下になりました。下島は水軍の里ともいうべきでしょう。もちろん今は往時の面影はありません。
●下島川の両岸沿いに残る
 古民家は町の中央を流れている下島川の両岸に沿って、わずかに残っています。板壁もありますが、大部分は出桁造りでの漆喰壁です。
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 ○三之瀬(さんのせ)/呉市下蒲苅町三之瀬
 
   
▲観瀾閣(かんらんかく)/国の登録文化財・外壁はタイル貼りです   
歴史的町並みを再現
 幕府の命を受けた福島正則の海駅の設置が発展に寄与しました。本陣や番所が置かれるなど、海上警護の拠点にりました。また朝鮮通信使宿泊の影響も大きく、莫大な投資をしたのです。引願寺は通訳僧の宿泊所になりました。いま、移築、復元などで歴史的町並みを再現しようとしています。
観瀾閣は中国風の特異な外観が特徴
 観瀾閣(かんらんかく)は、榊谷仙次郎(満州土木建築業協会理事長)が昭和10年に建てた木造2階建ての建物です。下蒲刈の海岸に沿って建っています。特に中国の磚造(せんぞう)建築の意匠を取り入れています。外観は重厚で、何やらお城のようです。  
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは下蒲刈支所の駐車場に停めました
 
○大地蔵(おおじぞう)/呉市下蒲刈町大地蔵 
 
   
▲大地蔵松風園/海辺の和風庭園・松風園からの瀬戸内海の風景は雄大です  
古くからの漁師町です
 江戸時代から沿岸漁業が盛んで、周囲は良好な漁場に囲まれていました。特にイワシ、タイはもとより、回遊してくるボラ漁が盛ん。大地蔵の東端の岬に「山見」小屋が立ち、ボラの群れを見つけていたほどです。しかしそれも昔の話です。ただ伝統的なイカ漁(イカ壷)は細々と続いているようです。
古民家は海岸通りから中に入ります
 古民家は海岸道路の内側に集中しています。また道路沿いにはクロマツの並木が約400mも続いています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 
○豊島(とよしま)/呉市豊浜町豊島 
 
路地に古民家が点在
 漁師町特有の板張の家屋、路地が縦横に通る集落です。大部分は現代住宅に改築されていますが、古民家も健在です。小規模な沿岸漁業が行われていますが、幾つものの橋の開通で本土と直結。観光客が増えつつあります。
小早川隆景らが会談した場所
 歴史的には、永禄11年(1568)伊予国の河野氏を助けるために、毛利氏の軍勢が瀬戸内海を渡ろうとしていました。その出陣に先立って小早川隆景が豊島で、吉川元晴・福原貞後・児玉就方らと会談したところです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 
○大長(おおちょう)/呉市豊町大長 
 
   
▲飛弾家住宅/国の登録文化財・大正時代末期の長屋門風蔵門。ミカン保存用の倉庫建築といえます。門と蔵を兼ねるという珍しい建築です。飛弾家はミカン栽培農家  
迷宮に迷う楽しさ
 飛弾家住宅を探すために一歩集落に踏み入れると、そこは迷路でした。路地が縦横に走り、所々やや広い場所に出ます。板壁2階家が多く、江戸時代から何度も火災にもあっています。ミカンやモモなどの果物の生産も昔のこと。小規模な漁業と畑作が中心です。
大雨が降るとあっというまに洪水
 江戸時代は広島藩領。大長村の村高は333石ほどで、農閑の余業は薬草掘り、ヤマイモ掘り、モズク採りなどがありました。全体として山が急峻なため田地は少なめです。そのため大雨が降れば、小さな川はあふれ、普段は枯れるという状態。どうしても漁業が中心になります。
愛媛県の漁民150人に襲撃を受ける
 明治9年、沖友海面で愛媛県越智郡の漁民150人に襲撃を受け、漁網・船具などが奪い取られる事件が起こりました。
漁場争いが原因か思われてます。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○御手洗(みたらい)/呉市豊町御手洗 
 
江戸末期の蔵造り
 2度目の訪問です。前回はフェリーできましたが、今回は橋が開通したしたためクルマで一気にやってきました。
 駐車場を出て一歩裏道に入ると,そこは別世界。江戸末期の蔵造りや昭和初期の芝居小屋,木造3階建ての遊郭などが残っています。御手洗は北前船の風待ち港でもありました。遊女を乗せた「おちょろ舟」が風待ちの船に向かいました。小舟に揺れる提灯の灯りが波間から見えたとか。
素朴な町のたたずまいが見られます
 離島のため交通の便の悪さが,観光化されずに素朴な町のたたずまいが残されました。同時に,住民の保存意識が高かったのでしょう。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○海田(かいた)/海田町上町 
 
   
▲千葉家住宅/国の重要文化財・江戸時代中期の安永3年(1774)の建築です   
西国街道の宿場町
 実に交通量の多い道路です。海田市駅から歩くと,ぽつんぽつんと古い建物が見えてきます。かつて広島藩の本陣、脇本陣が置かれていたところから発展しました。宿場には穀物、茶、味噌、酒、醤油、小間物などを販売する商店が並び、かなりの繁栄を見せました。
千葉家は広島藩と幕府との書状や荷物の扱う業務
 旧千葉家は西国街道の宿場の要職を務めました。屋号を「神保屋」といい、家業として酒造業を営んでいました。もともと房総で勢力を誇った千葉氏一族を先祖とする武士で、永正年間(1504-21)に安芸国に移りました。その後毛利氏の移封にともない武士を廃業。江戸時代は代々、広島藩や幕府の書状や荷物を扱う宿駅業務を務めました。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは明賢寺の駐車場に停めました
 
○宮島(みやじま)/廿日市市宮島町 
 
船は気分転換
 旅の途中で船に乗るのはいいもです。周りの景色が変わることから気分転換になります。だからフェリーにはよく乗ります。この宮島へも船で渡ります。広島電鉄,JRの2社が別々に運行しています。どちらも運賃も所要時間も同じです。今回は2度目の訪問です。
一本裏の町屋通り
 昔から「神の島」とあがめられてきた宮島は世界文化遺産に登録されています。それだけに常に観光客でいっぱいです。
 宮島桟橋を出ると表参道ではなく,もう一本裏の町屋通り(写真上)を歩きます。こちらの方が人通りが少なく,古い建物をゆっくりと見ることができます。白壁やべんがら格子の商家が続きます。遠くに五重塔が見えます。なにやら京都という感じです。居酒屋,スナック,土産物店などが並んでいます。
趣のある滝小路
 町屋通りから歩くこと約5分,御手洗川を渡ると,そこは景色も一変します。滝小路です。かつて内侍や神官が住んでいたところで,とても静かな住宅地です。武家屋敷のような建物もあります。とても落ち着いた風情です。ところで戦前は厳島町という町名でしたが、宮島の名前があまりにも有名なので、昭和25年(1950)改称しました。日本三景の一つです。なお2021年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 宮島桟橋から徒歩15分
 
○地御前(じごぜん)/廿日市市地御前 
 
踏切を挟んだ両側に古民家
 古民家はJR山陽本線の踏切を挟んで両側に広がっています。厳島神社とは海を挟んで相対し、陸地側にあるために地御前神社と呼ばれ、かつての門前町でした。
厳島神社の外宮として発展しました
 地御前神社は、対岸の厳島が神を祀る島として崇拝されていたころの遥拝所であったと考えられています。平安末期、厳島神社が平清盛の崇拝を受けて発展するにともない、地御前神社も外宮として発展したのです。そのため独特の風習があり、年中行事も多いとか。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは地御前神社の境内に停めました
○玖波(くば)/大竹市玖波 
 
西国街道の宿場町で文人墨客も集う
 古くは薪、木材の積出港であったことから木場(こば)と称したとか、万葉集の「高庭駅」(こば)の転訛説など、地名の由来はさまざまです。
 新田開発に伴い農業や漁業が発展しました。しかし、紙商人、板材木商人、薪炭商人たちが活躍したのが玖波。すなわち商業の町でもありました。西国街道の宿駅で、本陣は眺望のいいところに設置。ここに文人墨客が集いだしました。
出格子や虫籠窓の町家が残ります
 しかし玖波の栄華はいつまでも続かず、周防新港(現・岩国港)ができると一気に衰退。いまJR玖波駅付近から順広寺付近まで、街道沿いの長い距離に出格子や虫籠窓などの町家が随所に見られます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは順広寺第3駐車場に停めました
  
○小方(おがた)/大竹市小方 
 
   
 ▲和田家長屋門/文書が有名 ▲街道沿いに古民家が見られます 
ごっそり残る古民家群
 広島藩・家臣団を中心にした家中町。しかし慶長18年(1613)に幕命により亀井城は破却されました。百姓は卸場と呼ぶ地に住んでいました。しかしその後は次第に町人町となり、山陽道の間宿として発展しました。旧街道沿いには、多くの土蔵や町家が残されています。
和田家は江戸時代に一貫して庄屋を守り通す
 江戸時代の地方組織の一端を担う庄屋は、大部分が代々世襲制でした。しかし世継の問題、能力、悪政などで職を追われることが多いの実情でした。しかし和田家は江戸時代に一貫して守り通したのが和田家でした。凶作や災害にあえぐ村民の声を、藩に訴えました。明治に入り廃藩置県後、和田吉左衛門は60歳ですべての役職を辞し、明治17年、60歳でなくなりました。
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマはゆめタウンの大駐車場に停めました
 
 ○木野(この)/大竹市木野
 
   
▲和紙を扱う家が圧倒的に多かった  ▲土蔵や出格子のある町家が連なる 
驚きの古民家群
 これだけの古民家がいまだに残されているとは、驚きの連続でした。古い町並みは山陽道沿いだけではなく、路地から路地へと縦横に広がっています。住民の方によれば、バス停も遠くなり本当に不便になったとか。ただ、クルマ1台が通れる道幅が残っているので助かっているそうです。で、昔から住んでいる方ばかりだそうです。
明治2年の長州戦争で激戦地となります
 『芸藩通志』によれば広島藩領で、家老の上田氏が治めていました。古くから和紙の生産が盛んで「木野川紙」の名で知られていたそうです。 やはり田畑が狭く、洪水も多かったようです。明治2年の長州戦争で“苦の坂”が激戦地となり、村民716人が罹災しました。明治に入るとハワイを中心に海外移民が多かったのもうなづけます。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 

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