檜原村(ひのはらむら)

 和田向(わだむかい)/檜原村下元郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村泉澤組和田向
 和田向の集落/そば屋,土産物店,パン屋,ダンス教室などがあります。 写真は手打ちそばの玄庵と土産物店・車茶屋。
 ●古民家風の商店がチラホラ
 檜原村に入って,最初のバス停がココです。文字通り,和田集落の秋川を隔てた向うがわにあるのが地名の由来。つまり和田よりも新しい集落ということです。都道沿いの幾つかの建物は現代住宅で商店が多いようです。でも日当たりがよくない。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで和田向下車すぐ
 和田(わだ)/檜原村下元郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村泉澤組和田
 和田
 ●板張りの民家がわずか
 『新編武藏風土記稿』の泉澤組に属する字名のある小さな集落です。和田向のバス停を降りて秋川に架かる和田橋を渡ると,和田集落になります。和田の語源は川の曲流部など,やや広い円みのある平地のことです。
 秋川左岸にあり,南側に面した日当たりの良いところで,当然最初に人家が建ったところです。歩いて見ますと,下見板張りの民家が見られます。しかしながら,右岸の街道(都道)が舗装され,バスも頻繁に通うようになると,たとえ日当たりが悪くても川の向こう(和田向)に移転しだしたのです。そのため住民の数が減りだしました。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで和田向下車徒歩3分
 泉沢(いずさわ)/檜原村下元郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村泉澤組泉澤本村
 
 ●急坂の先に古民家
 和田向かいのバス停で降りて和田橋を渡ります。長い歩きになるので、念のため熊よけの鈴を付けました。地元の小学生たちは、大きな熊よけの鈴をランドセルに付けています。たぶん、熊だけではなく猪も含まれているのでしょうか。
 急坂を上っていきます。法性寺を過ぎた辺りから民家が見えてきます。朽ちた家屋も見えますが、現代住宅も数多い。さらに上ると幾つかの脇道の先に土蔵や板壁の古民家が見えてきます。さすがに貴布禰伊龍神社まで来ると家屋は少なくなりました。かつては、下元郷という地名はなく、泉澤組でした。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで和田向下車徒歩20分
 鬼切(おにきり)/檜原村下元郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村泉澤組鬼切
 
 ●住民も少なく古民家も少々
 『新編武藏風土記稿』によれば,泉澤組の字名です。秋川沿いの北岸は“淵合”という屏風のような絶壁があると明記。地名の語源は諸説ありますが,切り立った所に鬼の形をした岩があることからと推測します。住民が少なく,古民家もわずかです。キャンプ地があるので、季節になると賑わいます。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで鬼切下車すぐ
 上元郷(かみもとごう)/檜原村上元郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村泉澤組宿
 上元郷/
   
▲街道沿いには多くの古民家が散見 ▲吉野家住宅/江戸時代の名門名主
   
▲旧名主と思われる旧家(H家住宅)  ▲口留番所/幕府直轄の番所です
 ●街道沿いに古民家が集中
 『新編武藏風土記稿』によれば“宿三村”は,本村上組,本村下組,泉沢組のことです。どちらにもダブっている集落が,宿(しゅく/現在の本宿)。そして現在の“宿三村”は,本宿と上元郷,下元郷の三つ。区分けは変わりましたが,風土記の字名は今でも使われています。つまり江戸時代の町名が今も使われている貴重な所といえます。
 檜原村で最も賑やかな所で,行政機関が集まり,人口も237人と最も多くなっています。街道を歩いていますと蔵造りや板壁の町家,入母屋造など多くの古民家が見られます。特に地元でも名門の吉野家住宅は必見。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで山王前下車すぐ 
 本宿(もとしゅく)/檜原村本宿
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村本村上組・下組宿
 
   
 ▲吉祥寺/鎌倉・建長寺の末寺  ▲春日神社/祭神は藤原氏の祖神
   
▲橘橋のたもとにある橋本旅館   ▲払沢の滝/「日本の滝百選」の一つ
 ●山深い村の宿場町
 バス停の本宿役場前で下車して,橘橋を渡ると,そこは本宿になります。『新編武藏風土記稿』では,「宿」と表記され,「宿」は上組と下組に別れます。上組は北谷といい,北秋川沿いに千足から藤倉方面に向かいます。下組は馬場から数馬方面に続くきます。つまり北と南への分岐点となるところです。
 橘橋から北へ払沢(ほっさわ)の滝へ歩くと,蔵造りや板壁の町家が見られます。江戸時代は甲州へ向かう基点でもあります。そして宿場町でもあります。橘橋のたもとにある橋本旅館は,いまは新しくなっていますが、歴史ある旅館です。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで本宿役場前下車徒歩3分
 時坂(ときさか)/檜原村本宿
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村本村上組時坂
 
 ●手入れのいい入母屋造
 古老は「とっさか」と呼んでいます。バスを降りて、クネクネとした急坂を歩きます。途中に1軒、また1軒と入母屋造の古民家が見られます。修復中の民家もありました。4世帯9人の小さな集落ですが、標高差100m前後に散在しています。つまり遠くから見るとタテに連なっているのです。山を隔てて檜原城が近い。そこで地名の由来は城から聞こえる勝どきの「時の声」とか、坂の「とっつき」に当たるからとか、諸説あります。
 山間の里だけに畑は自家栽培のみ。歩いていて人と会うことはありませんが、入母屋造り健在でした。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで払沢の滝入口下車、徒歩30分
 馬場(ばんば)/檜原村本宿
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村本村下組馬場
 
 稲作は明治に入って,泉沢集落で試験的に行われ,その結果馬場集落で本格的に実施。ただ大金をかけた割りには成果は小さかったとか  
 ▲檜原村で稲作光景は珍しい  ▲林業も盛んな馬場集落
 ●旧養蚕住宅も改装,改築
 本宿を出て,南谷に向かうと最初に目に付く集落です。特大の入母屋造が目立ちます。旧名主の住まいで,近年茅葺きをトタンに張り替えました。地名の由来は檜原城下での馬の調馬場のあったことです。つまり比較的平らな土地が広がっていたのです。明治に入って村は稲作を試みるのですが,稲作の適地として平らな馬場が選ばれたのです。灌漑を含め大工事でしたが,いまでも水田が広がっています。檜原村での水田の光景は珍しいといえます。
 歩いていますと旧養蚕住宅が目に付きますが,大部分が改装,改築されています。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで馬場下車徒歩すぐ
 笹野(ささの)/檜原村本宿
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村本村下組笹野
 笹野集落
 ●急斜面に建ち並ぶ古民家
 語源は,笹の生い茂る傾斜の荒れ地ですが,実際に南秋川の両側は急峻な地形が続きます。そのため川沿いの急斜面に古民家が建ち並び,屋根はトタンなどの金属板の2階屋が主流。今でも道路下に一部の民家が連なります。『新編武藏風土記稿』では本村下組の字名です。今は立派な笹野大橋が架かっていますが,その横を旧道が通り,寂れた馬道橋が架かっています。しかし旧道自体は通行止めになっています。
 笹野には無形文化財に指定されている「式三番」という豊作祈願の舞があります。人口減で保存に苦労されているとか。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで笹野下車徒歩すぐ
 笹平(ささひら)/檜原村本宿
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村柏木野組笹平
 
 ●ひときわ目につく旧名主の邸宅
 『新編武藏風土記稿』によれば笹平は柏木野組の字名となっています。が,実際は笹平地区12軒のうち10軒が本宿,残り2軒が南郷に属しています。旧道に架かる笹平橋が境界線です。本村下組(現・本宿)の項目を見ますと,“笹平向”という字名が見られます。実際にバス停は本宿側に立っています。で,12軒のうち半分の6軒が野村姓だそうです。今は総戸数では激減しています。
 ところで旧道を歩きますと,ひときわ大きい野村邸が目に付きます。かつて大きな名主だったのでしょう。さらに歩くと旧養蚕住宅が続きます。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで笹平下車徒歩3分
 柏木野(かしわぎの)/檜原村南郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村柏木野組柏木野
 
 ●街道下に古民家がギッシリ
 南谷10組のひとつ旧柏木野組。この柏木野と,出畑,下川乗,上川乗の4集落が集まって南郷地区が形成されています。最も戸数の多いのが柏木野で,今は59軒139人。ちなみに江戸時代末期は19軒だったそうです。
 檜原街道沿いには旧養蚕住宅が見られますが,急峻な地形だけに道路下を通る南秋川との間にも古民家がぎっしり詰まっています。つまり頭上の騒音に心休まることはなかったのではないでしょうか。いま歩きますと板壁の住宅が見られますが,現代住宅の方がかなり多いようです。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで柏木野下車徒歩すぐ
 出畑(いずばた)/檜原村南郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村出野組出畑
 出畑集落/檜原街道
 ●切妻型側の空気孔を板で塞ぐ
 『新編武藏風土記稿』によれば,旧出野組の字名となります。檜原街道を歩いていますと,意外に大きな古民家が見られます。切り妻タイプですが,いずれも旧養蚕住宅が多いようです。しかも切妻型側の空気孔は,もう必要ないことから、すべて板で塞いでいるのが特徴。
 この出畑集落は,南秋川沿いに長く続きます。1970年代は人家は50軒弱もあったとか。ちなみに下川乗は40軒弱,上川乗は24軒という。“過疎”が始まるころでしょうか。裏道や急坂を上ると,廃屋や空き家が目に付くのは,どこの集落も共通事項のようです。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで出畑下車徒歩すぐ
 京岳(きょうだけ)/檜原村南郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村下川乗組京岳
 
 ●わずかな旧養蚕住宅
 旧下川乗組の字名です。岳は断崖という意味を持っています。確かに急峻な土地ですが,『新編武藏風土記稿』では京竹と明記されています。そこで地名の由来は、裏山にある清滝の転訛説が有力になっていますが……。ところで京岳は清水姓が多いとか。清滝と清水が語源でつながる?
 京岳集落も旧養蚕農家の家屋が目に付きます。過酷な炭焼から転業した住民が多かったようです。また昭和の初め,南郷地区全体で130軒あり,そのうち85軒が炭焼でした。いまは静かな山村風景を見せてくれています。
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 交通
 JR五日市線武藏五日市駅からバスで京岳下車徒歩すぐ
 下川乗(しもかわのり)/檜原村南郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村下川乗組下川乗
 下川乗集落
 ●旧養蚕農家がチラホラ残る
 下川乗組は南谷10組の一つです。このあたりは秋川の両側が切り立っており,昔からは交通の便は最悪でした。早い話が五日市に出るより,いったん隣の上川乗に出て甲州に出る方法を選んだそうです。江戸末期は民家は18軒,人々は谷間(南秋川)の水をくみ上げて生活を営んでいました。川のそばに住んでいながら水の苦労したとか。いま歩いていますと,古民家も少なく空き家が多くなっています。かつての養蚕農家らしき家屋が幾つか残されています。さらに檜原街道から細い脇道や石段を上って行きますと,さらに廃屋が目に付きます。
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 交通
 JR五日市線武藏五日市駅からバスで下川乗下車徒歩すぐ
 上川乗(かみかわのり)/檜原村南郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村上川乗組
 
 ●南谷地域の交通の要衝
 上川苔ともいいました。川海苔の産地で,最近まで獲れたとか。川苔自治会館が現存しています。ただ“苔”一字でのりと読ませた真偽はよくわかりません。
 歩いていて大型の家屋が目に付きます。かつて,東は本宿,西は数馬へ。さらに北へは小岩浅間から北谷へ,南は川乗浅間峠を越えて甲州へとつながる十字路でした。そのため人とともに物資が集まり,自然と商人もやってきたと思われます。裏道に入っても兜造りなどの古民家も多く,見ごたえのある町並みです。江戸時代中期に大火に見舞われた、という記録があります。
 感動度★
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 交通
 JR五日市線武藏五日市駅からバスで上川乗下車徒歩すぐ
 和田(わだ)/檜原村人里(へんぼり)
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村和田組
 
 ●板張り2階家が目につく
 檜原村南谷十組の一つ旧和田組です。後に続く事貫,上平の各集落を合わせて「人里(へんぼり)三組」と呼ばれていました。江戸時代末期は家数は19軒とか。南秋川に沿った集落ですが,比較的平坦なせいか,早くから開発された集落です。ところで和田のいわれが,「川の湾曲するところが,やや円みのある平地」です。
 檜原街道より一段下がった所の南秋川沿いこの和田集落があります。板張りの2階家が意外に多く,妻入り,平入りといろいろあります。産業も江戸時代から炭焼き,養蚕と変遷を重ねてきました。ところで和田と事貫の境界がわからず、地元民に尋ねまわったのが印象的。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで下和田下車徒歩3分
 事貫(ことづら)/檜原村人里(へんぼり)
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村事貫組
 事貫集落
 ●板張りの家屋が点在
 旧事貫組です。公共施設や商店などがあって,人里地区での中心地。天保11年(1840)では,家数16軒とか。ところで,この奇妙な地名の由来は,植物からきているらしい。『新編武藏風土記稿』では「コトヌキ」とふりがなが付いています。コトはナラガシワ(ブナ科)のことで,貫(ヌキ)は「の木」のこと。すなわちこのあたりに,ブナの木がたくさん植わっていたのではないか(?)。一方、籐ヅルの転訛説もあります。籐ヅルは縄の代用品になる貴重な植物。意外にも的中しているかもしれません。
 旧街道の両側に板張りの古民家が点在。新道沿いには大型の兜造りが見られます。
 感動度★
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで人里下車徒歩5分
 上平(かみだいら)/檜原村人里(へんぼり)
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村上平組
 上平集落
 ●養蚕農家の面影が多数
 南谷10組の一つ旧上平組です。地元の人は「かみでぇろ」といいます。上平川(大沢と呼ぶ人も)を上流に沿って民家が点在しますが,檜原街道からの入口付近に古民家が集中しています。この辺りがバス停もあり、交通の便の良いところ。
 大型の入母屋造りの破風が見事です。また養蚕農家だったと思われる古民家も多数残っています。人里(へんぼり)地方のほとんどの集落は石垣を巡らしており,斜面に立つ集落といえます。ちなみに『新編武藏風土記稿』では,「和田,事貫,上平の三組を合わせてへんぼり」と明記されています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで西川橋下車徒歩5分
 笛吹(うずしき)/檜原村人里
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村笛吹組
 笛吹集落/斜面に建っています
 ●斜面に建つ石垣の里
 『新編武藏風土記稿』は,檜原村南谷十組の一つの笛吹組とあります。地名のいわれは「辺境の開墾地」説,「神事芸能」説、さらに「再誤記説」など諸説あります。難読地名の一つです。
 バスを降りて急坂を上ること15分,急に視界が広がります。沢の両側の斜面に建つ集落です。石垣を張り巡らしていますが,古民家には兜造りの影響が出ています。また1戸あたりの敷地面積が広く,大型家屋も目に付きます。たぶん養蚕農家だったのでしょう。
 さらに曲がりくねった舗装道路を歩いていますと,空き家の多さに,ちょっとばかり寂しくなります。
 感動度★
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで笛吹入口下車徒歩15分
 数馬(かずま)/檜原村数馬
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村数馬組数馬
 
 みとうさんそう/本館は四層の兜造り  
 ▲三頭山荘/本館は築400年の歴史  ▲中村家住宅/国登録文化財・民宿
   
 ▲兜家旅館/兜造りは築200年 ▲数馬バス停/西東京バス 
 ●豪壮な兜造りが点在
 檜原村の南谷地区(檜原街道沿い)の最奥の集落です。美しい兜造りの民家が点在し,東京でこんな山村風景が見られるのはココだけといえます。『新編武藏風土記稿』によれば,その昔(延元の頃)中村数馬,小野氏経がやってきて開墾したことから,数馬と名付けられたとか。兜造りとは,寄せ棟造りの“妻”の部分を垂直に切り落として,2階以上の開口部から採光。元もと養蚕を行うための住宅で,山梨県一帯に広がる建築です。つまり甲州とのつながりが強かった証でしょうか。
 いまは旅館や民宿,レストランとして利用されています。
 感動度★★
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで数馬下車徒歩10分
 茅倉(かやぐら)/檜原村三都郷(みつごう)
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村中里組茅倉
 
 ●古民家が見え隠れ
 本宿から上組のほう、いわば藤倉方面へ向かって行く最初の集落。古老は三都郷を「みつご」と言います。北秋川に茅倉沢が注ぎ込みますが,その沢に沿って歩くこと約10分,左手(右岸)に民家が,急斜面に張り付くように建ち並んでいます。現代住宅の間に,板張りの住宅が点在。9軒,24人が住んでいますが,空き家があるため,住宅自体はもう少し多いとか。
 かつて屋根材として使える茅を藩主に供出したそうで,地名の由来となっています。また茅倉沢沿いは葦(よし)の産地で,すだれの材料として珍重されました。吉(葦)沢姓が多い理由かもしれません。
 感動度★
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスでとうげん橋下車徒歩15分
 千足(せんぞく)/檜原村三都郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村中里組千足
 千足集落
 ●わずかな古民家
 旧中里組のひとつの字名です。しかし三都郷地区では,最大の人口96人,44軒を擁しています。街道沿いには,それほど古民家は見あたりません。街道沿いに2本の石柱が立ち,そこからかなり奥にある檜原神社付近で見られます。ところで,檜原城主・平山氏が在住し,そして落城悲話がいくつもあります。
 また千足の地名の由来も幾つもあります。檜原城攻防戦で,「わらじ千足がほしい」と祈ったところ,天からわらじが降ってきて履いたら滑って転んだとか。雨乞い説は“千束柴”を焚いて雨乞いをしたそうです。また広い畑説などもあります。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで千足下車すぐ
 中里(なかさと)/檜原村三都郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村中里組中里
 
 ●寄せ棟や切り妻屋根
 北谷10組のうちの旧中里組です。街道から脇に急な石段を上っていくと,斜面に張り付くように集落が広がります。その大部分が石積みの上に建てられた建物で,大部分が現代住宅です。北谷の特長の一つに,平地が極端に少ないのですが,中里はその代表例。また『新編武藏風土記稿』によれば,幾つかの寺院が明記されていますが,実際は見あたらず廃寺となっています。あまりの不便さに檀家も離れたか。
 歩いていますと板張りの古民家は,街道(都道)沿いのバス停付近に並んでいます。寄せ棟や切り妻屋根などの変化がありました。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで中里下車すぐ
 白倉(しらくら)/檜原村三都郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村白倉組白倉
 白倉集落
 ●街道沿いに古民家が集中
 旧白倉組。山岳信仰の地でもある大嶽山への入口の一つです。大岳神社へは最短距離で,徒歩2時間のハイキングコースとなっていますが,けっこう険しいそうです。集落は,幹線道路から一歩入った急斜面に広がります。今は完全舗装され,クルマも通れますが,戦前はかなり難儀したようです。白倉の倉は断崖や岩、谷を意味しますので、当然の地名でしょうか。
 三都郷地区を構成する5つの集落のなかで,2番目に人口が多く80人です。街道沿いに板張りの町家が多く見られますが,斜面上の石積みのある家屋は,大部分が現代住宅です。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで白倉下車すぐ
 大澤(おおさわ)/桧原村三都郷
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村大澤組
 大澤集落
 ●狭い地域に古民家が密集
 北谷10組のうちの一つ旧大澤組。江戸末期には17軒ですが、1970年代は22軒,2013年は14軒と微減。今は北秋川沿いの堤防も今は高いですが、戦前から神戸川からの鉄砲水で水害にあうことが多い地域でした。いま歩いて見ますと、狭い地域に入母屋、板壁の二階屋などが密集しています。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで郷土資料館下車徒歩3分
 前坂(まえさか)/檜原村神戸(かのと)
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村神戸組前坂
 前坂集落
   やまびこ/いくちかの路線がありますが,便数は少ない
 ▲春日神社/神戸地区の守り神  ▲町営バスやまびこ/1人100円
 ●土蔵や板張りの古民家
 神戸(かのと)には南端の街道口から下神戸,前坂,清水,大屋敷,栃平の5つの集落がありますが,歩きながら確認できたのが3つ。その最初の集落にあたります。『新編武藏風土記稿』によれば春日大社は大岳神社の末社。多くの祭事で人が集まります。近くの神戸国際マス釣場も,村外から観光客がやってきます。つまり住人は少ないが,いつも賑わっているところといえます。
 神戸地区へ向ういちばん手前(最初)の坂道がある事が地名の由来か。土蔵や板張り,石積みのある古民家も散見。なお大澤の郷土資料館からコミュニティバス(やまびこバス)があります。
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 交通 郷土資料館からやまびこバス神戸線で春日神社下車すぐ
 清水(しみず)/檜原村神戸
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村神戸組清水
 大橋の横に,新大橋が建設中。
   
▲徳泉寺/臨済宗・本村・吉祥寺の末寺   ▲清水集落/神戸で最大の集落
 ●神戸で最も多い古民家
 神戸(かのと)で最も人口の多い集落です。街道(北檜原林道・町道と併用)を歩いていますと,土蔵や石倉,切り妻造の古民家を見ることができます。また江戸時代から赤井沢の氾濫で多くの被害が出ています。
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 交通 郷土資料館からやまびこバス神戸線で大橋下車すぐ
 大屋敷(おおやしき)/檜原村神戸
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村神戸組大屋舗
 大屋敷集落/取り付け道から入って,左奥に見えるのが吉野家住宅(非公開)です
   神戸岩/延長線上に大嶽神社があるため,ここを神域への出入口と見立てて,神域の戸岩=神戸戸岩=神戸岩となったのが有力説。そこから地名の由来となったようです
▲1軒1軒の屋敷規模が大きい   ▲神戸岩/東京都の天然記念物
 ●名主を思わせる吉野家
 神戸組の5つある字名のうちの一つ。ここには檜原村でも名門の吉野家住宅があります。切妻造の大屋根があり,養蚕農家で名主を思わせます。また多くの屋敷は,街道から一歩奥に入り込んでいるので、はっきりと伺うことはできませんが、かなり大きな建物と広い敷地を構えています。。
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 交通 郷土資料館からやまびこバス神戸線で大屋敷下車すぐ
 宮ヶ谷戸(みやがやと)/檜原村小沢
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村小澤宮ヶ谷戸組
 宮ヶ谷戸集落
 ●豪華な入母屋の古民家
 小沢は宮ヶ谷戸,夏地,湯久保の3集落の総称です。宮ヶ谷戸の“谷戸”は丘陵地の間に流れる川の流域で,武藏國,相模國に集中しています。また,民間の老人ホームや自然の家などもあり,小沢では最も開けた所といえます。
 入母屋造の妻入り型で,真家(まや)建てと呼ぶ人もいます。千鳥破風が立派で屋号が刻まれています。名主といえども養蚕業も兼業していたのでしょうか。もう茅葺き屋根は見られませんが,亜鉛引鉄板葺きやトタン葺きなどに改築されていますが、規模が大きいので遠目でも確認できます。 
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで宮ヶ谷戸下車すぐ
 夏地(なっち)/檜原村小沢
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村小澤宮ヶ谷戸組
 夏地集落
   
▲坂の両側にも民家が密集  ▲宝蔵寺/檜原村では最古の寺院
 ●宝蔵寺の周囲に古民家
 南斜面で日当たりのいい土地だから夏地というそうだ。また夏に焼き畑を行っても一級の土地なので間に合うとか。つまり夏焼地の略だともいいます。宝蔵寺を下ると,古民家が続きます。切り妻の屋根が深く,下見板張のあるの家並みです。宝蔵寺と住民とのつながりはかなり深いようです。
 感動度★
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで宝蔵寺下車徒歩5分
 小岩(こいわ)/檜原村樋里
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村小岩組小岩
 小岩集落
 東光寺/本宿の吉祥寺の末寺。ふだんは集会所として活用。  野口家住宅(非公開)。地元の横川交通の経営されているとか。
 ▲東光寺/本宿の吉祥寺の末寺  ▲山口家住宅/江戸後期築・非公開
   東京獅子博物館/館長自ら全国の獅子舞や獅子頭700余点を収集展示。小岩集落へ向かう入口付近に立ちます
▲風情のある民家が続きます  ▲東京獅子博物館/700以上の獅子頭
 ●段丘上に広がる古民家群
 北谷10組のひとつ旧小岩組。山中の段丘に早くから開けた集落です。江戸末期には家数36軒あったという。かつて,この小岩がバスの終点で,折り返し地点でした。そのため食料品店など2,3軒が集まっていました。バスを降りた中学生は,いったん息を整えて、ココから藤原方面へ歩いて帰ったとそうです。
 いま街道からはずれて段丘上への急坂を上がります。10分ほどで急に開けたところに多くの古民家群が見られます。まだまだ残っていたのです。ホントうれしくなります。土蔵や旧養蚕住宅,茅葺き屋根など,幾つかの古民家が目に付きます。
 感動度★★
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで小岩下車徒歩10分
 竹窪(たけくぼ)/檜原村樋里
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村笹久保組竹久保
 竹窪の集落
 ●わずかな数の古民家
 竹は岳,崖の意味を持ちます。すなわち崖のある窪地。急峻で深く削られた底を北秋川が流れるそばの集落です。笹久保集落の枝村,小字に相当するところです。『新編武藏風土記稿』では,竹久保と明記されています。この地は窪地であったと思われますが、久保と表記する所からの移住者がやってきて、竹久保といったのではないかと推測します。
 いま片側に北秋川が湾曲して迫ってきます。街道の枝道をやや上った所に数軒,切り妻の2階家や旧養蚕住宅が目に付きます。このあたりも過酷な炭焼を生活の糧としていました。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで竹窪下車すぐ
 笹久保(ささくぼ)/檜原村樋里
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村笹久保組笹久保
 
 ●変形入母屋が見られました
 北秋川沿いの北谷10組の一つ。『新編武藏風土記稿』によれば,江戸時代後期には家数は13軒で,点在していたそうです。1970年代には26軒,118人が居住,2013年は20軒,39人に激減しています。江戸時代の天保年間の石高は、わずかに18石余りと少ない。土地柄が物語っています。
 バスの通る檜原街道から北秋川への急坂を降りていくと数軒の集落が見られます。片側入母屋で板張りの古民家が数軒。茅葺きは消えていました。また小さな材木小屋も並んでいます。ところで笹久保の久保は“窪”の意味。尾根から見ると窪地に見えたのでしょうか。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで笹久保下車すぐ
 日向平(ひなたびら)/檜原村藤原
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村澤叉組日向平
 
 ●小規模な旧養蚕住宅
 藤原は日向平、中組、倉掛の3集落で形成。『新編武蔵国風土記稿』によれば、日向平は澤又組の一集落でした。しかし近年、地形の複雑なところに、大小の沢が入り組んでおり、「澤又」と混同しがちということで、澤又組という地名を廃止したという説。いま11世帯20人が下除毛(しもよけ)橋から除毛橋の都道沿いに点々と住んでいます。
 歩いてみますと、所々に小規模な旧養蚕住宅が残されています。日陰の多い北谷で、ココは日当たりのいいところだったのでしょうか。地名からそんなことを考えました。 
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで藤倉下車、徒歩5分
 中組(なかぐみ)/檜原村藤原
 『新編武蔵国風土記稿』では記載なし
 
   
 ▲小林家住宅(国の重要文化財)バス停から徒歩45分/標高約750mの位置にある
 ●林道沿いに古民家が散在
 除毛(よけ)橋を渡ると中組地区です。山深いところで、人口は29人(18世帯)で、谷間の沢沿いや山奥の林道沿いに少しずつ集落を形成。複雑な地形ゆえに、クルマも入れないので、住民専用の簡易モノレールが、各集落まで敷かれています。小林家住宅見学者のモノレール利用は、予約が必要のこと。重要文化財の小林家住宅は最近修復されので、奥深い狭い山道を歩いて訪ねました。藤倉集落からかなり離れており、片道約40分もかかりました。クルマ利用の場合は、途中の駐車場から簡易モノレールの利用となります。
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 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで藤倉下車、徒歩20分
 倉掛(くらかけ)/檜原村倉掛 
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村倉掛組倉掛
 
 ●旧養蚕住宅が点在
 南谷の最奥は数馬ですが、北谷の最奥の地が倉掛です。観光客も皆無で、ときおりハイカーが通る程度の典型的な過疎集落です。地形が複雑で沢が入り組みしかも深い。わずかな平らなところに、2世帯、3世帯と集落を形成。そんな小さな集落が広範囲に広がっています。平成25年調査で20世帯33人です。やはり養蚕業に続いて林業の衰退がとどめを刺したようです。
 さて「落合橋」付近から倉掛です。ゆったりとした登り坂を歩きます。板壁の住居、トタンに改造した屋根の家、旧養蚕住宅、現代住宅…、無人家屋も含めた古民家も続きます。
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 交通
 JR五日市線武藏五日市駅からバスで藤倉下車、徒歩25分
 白岩(しらいわ)/檜原村倉掛
 『新編武蔵国風土記稿』では多磨郡小宮領檜原村倉掛組白岩
 
 ●北谷の最奥の集落です
 倉掛にも幾つかの集落があります。その最奥地が白岩です。いまでは5、6軒しか残っていないとか。古老は「しらや」と言うようです。かつての「白家」が転訛したのではないかといいますが、いまは「しらいわ」で統一。『新編武蔵国風土記稿』では数行しか書かれていません。この白岩には緊急用のヘリーポートが造られています。
 藤倉からコミュニティバス「やまびこ」で急坂を上ってきました。運転手さんは「冬、新宿やスカイツリーが見えますよ」と教えてくれました。終点(上白岩)で下車しましたが予想より家屋の数が多いのに驚きました。でもほとんどが留守状態とのこと。帰りは下り坂なので藤倉まで、のんびりと歩きました。
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 交通
 JR武藏五日市駅からバスで藤倉下車、さらに白岩行きバスで終点下車

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