東大和市(ひがしやまとし)

○清水(しみず)/東大和市清水 
 
   
▲旧吉岡家住宅/日本画家・吉岡堅二が創作活動に勤しんだ場所です 
「切添え新田」のおかげで、南北に細長い村が誕生
 狭山丘陵南斜面に位置し、野火止用水や青梅街道も通ります。地名の由来は、清らかな水が湧き出でるところからといいます。近世初頭には東大和市には7つの村が成立していました。清水村はその1つです。幕府によって奨励された新田開発において、自分の耕作地に続く荒れ地を開墾する「切添え新田」を行い、その結果、清水村を含め南北に細長い村々が誕生しました。それは現代地図を見てもわかります。なお古民家は清水橋周辺にもわずかに見られます。
湖底から転居してきた人々は新青梅街道沿いに散在
 明治になると都心の人口が爆発的に増加、水不足に悩まされることが予想されました。そこで明治45年(1919)に狭山丘陵に貯水池の建設が決定。湖底に暮らしていた当時160戸余の住人が、極めて低い補償額で移転させられました。反対運動などで抵抗しましたが、それもむなしく、多くの人々が、現在の新青梅街道沿いに移転し家々が散在しています。清水神社も湖底から移転してきました。
旧吉岡家住宅は東大和郷土美術園として活用
 日本画家・吉岡堅二(1906-90)は、昭和19年8月にこの家屋敷を買い取って移り住みました。戦時中のことで、家財道具は牛車で運び、暑さのあまり牛が倒れたそうです。戦後は、法隆寺金堂壁画の修復作業という、伝統的日本画を必要とする国家事業にも参画。いま吉岡家住宅は東大和郷土美術園(仮称)として活用されています。なお平成29年に国の文化財として登録されました。 
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交通 西武多摩湖線武蔵大和駅から徒歩15分
 
○高木(たかぎ)/東大和市高木 
 
   
▲旧尾崎家住宅/高木橋近くに建っており、絹織物で一代を築く・非公開 
耕地+荒れ地の「切添え新田」を幕府が奨励
 近世初頭、7つの村が成立していました。高木村はその1つで、清水村と同じです。やはり自分の耕地に沿ってさらに荒れ地をプラスした「切添え新田」が幕府によって奨励。おかげで細長い宅地+耕地が誕生しました。すなわち村まで細長くなってしまったのです。
困窮した農民たちの打ち毀しが発生(天明の打ち毀し)
 『新編武蔵国風土記稿』には、女性は木綿縞を織り、カイコをなすことは、近辺の村々と同じと書かれています。天明4年(1784)、名主・宮崎家は、絞油業、肥料商を営んでいましたが、村民たちから反発をかい打ち毀しにあっています。かなりの被害を受けました。商人たちは金融業も営み、現金収入の低い農民たちは、家財道具などを質に入れていましたが、結局破産する農民が続出したのです。これが天明の打ち毀しで武州村山騒動と呼ばれていました。
わずかに残る土蔵などの古民家
 歩きましたがほとんど古民家は残されていません。ときおり土蔵を見かける程度。また高木橋を渡り、高木3丁目に入ると若干の古い建物が残されていますが、美しい植栽などで伺うことはできません。高木という地名は、神社にマツやスギの大木が茂り、遠方からも望遠できたので高木と称したとか、定かではありません。 
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交通 西武多摩湖線武蔵大和駅から「ちょこバス」で江戸街道下車、徒歩10分
 


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