東大阪市(ひがしおおさかし)
○角田(すみだ)/東大阪市角田 | |
●一躍その名を広めた角田地車(すみだだんじり) 角田を有名にしたのは、角田神社祭礼に登場する江戸末期から伝わる角田地車(すみだだんじり)です。地車には構造と外観から“上地車(かみだんじり)”と“下地車(しもだんじり)”の2種に分けられます。上地車は住吉型をはじめ数種類の型があります。下地車は岸和田型1つのみを指します。角田地区は、そんな安政3年(1856)制作の岸和田型地車を大切の保存しています。そしていまでも現役で、祭礼時にはまちなかを走り抜けます。 ●奈良街道と河内街道の交差する集落 旧菱江村です。角田は平成5年に入って起立。旧陸軍測量部の古地図には、明治時代にすでに“字角田”の名が出てきます。江戸時代は幕府領。以後高槻藩領、京都所司代役知など領主が変わります。村の石高は1100石余とかなりの穫れ高を示しています。東西に暗峠越の奈良街道が走り、南北に河内街道が通ります。交差する要所だけに人馬、荷物の動きが多く、かなりの繁栄したものと思われます。街道沿いは商家が軒を並べますが、その光景は町場のようだといいます。 ●旧大庄屋、豪農らの古民家が点在 そんな旧道沿いと裏手にギッシリとかたまった古民家群が見られます。 長屋門のある旧大庄屋が散見。しかも豪農を含め周辺は古民家が見られます。軽自動車がやっと通れる路地の両側には、河内地方でおなじみの板張りの壁の町家、腰板張りに漆喰の蔵続きます。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 近鉄けいはんな線吉田駅から徒歩15分 |
○今米(いまごめ)/東大阪市今米 | |
▲今米特別緑地保全地区/江戸時代の屋敷林が市街地に残るのは珍しい | ▲川中家住宅/江戸中期の伝統的な農家建築。国の登録文化財 |
▲中甚兵衛翁碑/今米公園に立つ | ▲中甚兵衛/68歳で剃髪します |
●古くは今籠とも書きました 古くは今籠とも書きました。中世の文献には「今籠」の文字が明記されています。江戸時代ははじめは幕府領です。その後旗本知行、幕府領と変遷を重ねますがよくわかりません。慶応元年(1865)京都守護職役知となります。今米村の村高は280石余と少ない。 ●旧大和川の付け替え工事に力を発揮した中甚兵衛 今米村を語るのに欠かせないのが庄屋・中甚兵衛です。旧大和川の付け替え運動は万治2年(1659)ごろからはじまっていました。中甚兵衛は貞享年間(1684-88)から元禄年間(1688-1704)に旧大和川の治水対策を幕府に嘆願書を出し続けました。ところが反対派による嘆願書の偽造問題が発覚します。特に押印問題はいまだに謎が多く、よくわかっていません。運動も一時衰退します。孤立を深める中甚兵衛の苦悩も計り知れないでしょう。しかし強い信念のもとに訴え続け、宝永元年(1704)に完成します。やはり洪水が頻発したことが幕府の重い腰をあげさせたといえます。 ●大阪府で最初に指定された緑地地区 今米公園の北隣が屋敷林で特別緑地保存地区にあたります。川中家の屋敷林です。大阪府で最初に特別緑地保存地区に指定されました。川中家の近くに古民家も残ります。このあたりは別世界です。距離はわずかですが大事にしたい緑地です。 ●川中家と中家は別もの(?)という説 ところで、川中家は中甚兵衛の生家、また出身と明記されたパンフレットが多数ありますが、これは間違いという説もあります。川中家は中家とともに川中新田を開発した河内屋五郎平に始まる家。中家の屋敷は川中家から100mほど北へ行ったところに「中家屋敷跡」として残ります。なお中甚兵衛の銅像は柏原市の治水記念公園、墓は京都・浄土真宗本願寺派の大谷本廟西大谷墓地にあります。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 近鉄けいはんな線吉田駅から徒歩10分 |
○岩田(いわた)/東大阪市岩田 | |
▲板張の旧家も多く、見飽きることはありません | ▲河内街道沿いには古い寺院や土蔵なども見られる |
●街道沿いの交通の要衝 南北に河内街道,東西に奈良街道が通り,文字通りの交通の要衝でした。歩いていますとそこかしこに,古民家,特に庄屋,豪農,問屋など商家の面影が残っています。河内街道は枚方(ひらかた)の京街道から分かれ,八尾(やお)に至る道のことです。地名の由来は、石田神社の縁起によれば、水田に岩船があり、そこに三柱の神が出現されたことにちなむそうです。 ●石田家住宅の猿棟は「悪魔が去る」 江戸中期に建築された石田家住宅の猿棟(さるむね)は,享保13年(1728)、猿2匹を大屋根に据え付けて,現在に至ります。庄屋だった石田新兵衛は御厨村との水争い(井路川の排水のこと)に勝った記念に、紀州の瓦屋に注文して作らせました。高さ30cmで東側の猿は玉を持ち、西側の猿は右手に御幣、左手に扇を持っています。これは悪魔が去るという意味で置かれたものです。ちなみに猿は住吉大社の方向に向けられています。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 近鉄奈良線若江岩田駅から徒歩12分 |
○菱屋西(ひしやにし)/東大阪市菱屋西 | |
●長瀬駅から長瀬川沿いの遊歩道を行く 長瀬川(旧大和川)沿いに位置するこのあたりは,大和川の洪水を防ぐための宝永元年(1704)の大和川付け替え後、新田開発や幹線用水路の整備などにより河内木綿の一大産地として発展しました。戦後は住宅地として広がります。駅から長瀬川沿いを歩くと,遊歩道が整備され,ところどころベンチが置かれています。司馬遼太郎記念館(下小阪3-11-18)もあります。地名の由来は、新田開発者の菱屋岩之助の名前にちなむ。 ●中心にある樟徳館は国の登録文化財 ところで樟徳館(しょうとくかん)は昭和7年(1932/写真),帝国キネマ長瀬撮影所跡に建てられた木造住宅です。。樟徳館は建築のため、全国から銘木を集め、敷地の隣に専用に製材所建てて加工。内装も、当時の最高の材料と職人技が集められました。国の有形文化財に登録されており、学校法人・樟蔭学園が所有しています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 近鉄大阪線長瀬駅から徒歩10分 |
○石切(いしきり)/東大阪市東石切町 | |
▲石切参道を歩いていると、何となく奇妙な建物に出会います。おもしろい! | |
▲朝からお百度参りの信者が絶えません。2基の百度石を1周すると33mとか | ▲石切劔箭神社・絵馬殿/神門ともいい、屋根に剣と矢が天に向かう… |
●永安時代は石清水八幡宮の寺領 平安時代は大戸(おおえ)郷といい、大戸村とも書いたそうです。延久4年(1072)9月5日付けの『太政官牒』に石清水八幡の宮寺領である林燈油薗(はやしとうゆえん/河内国の荘園名)の散在地として「大江里」として登場しますが「大戸里」ではないかと推定されています。その後町名は離合集散を重ねて、昭和25年の町制施行で石切町になります。 ●デンボの神さまとして幕末以降、人気がでます 石切を有名にしたのはなんと言って石切劔箭(いしきりつるぎや)神社 の存在です。通称石切神社、「石切さん」と呼ばれており「デンボの神さま」として知られています。とはいっても江戸時代は、一地方の小さな守り神でもありました。急激に信仰を集めたのが幕末以降です。「石を切るほどの霊力を持つ剣と箭(や)という意味」をもつ神社名で腫れ物を治す神をとして信仰が高まりました。特に早朝からの2基の百度石を何度も往復する「お百度参り」は人気が絶えません。 ●参道を歩きながら見つける奇妙な建物 近鉄石切駅をでて石切神社まで歩きますが、下り坂なので意外と楽です。途中の石切大仏や千手寺などを横目に見ながら進むと商店の連なる参道に入ります。早朝だったせいかほとんどの店は閉まっていました。建物の大部分は、戦後のもので2階建て木造モルタルです。ただところどころ、おかしな建物が見られるのが楽しいです。帰りは近鉄けいはんな線新石切駅が便利。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 近鉄奈良線石切駅から徒歩10分 |
○暗峠(くらがりとうげ)/東大阪市東豊浦町 | |
●俳人・松尾芭蕉の最後の旅路 生駒山地を越えて大阪と奈良を結ぶ街道はいくつもありますが,この暗超え(標高452m)の奈良街道は,最短距離(約34km)でつなぎます。江戸時代に入って脇往還として盛んに利用され,物資,人の重要な通路となり,お伊勢参りの人びとでにぎわったそうです。「河内屋」,「油屋」など20軒近い茶屋,旅籠がありました。また松尾芭蕉の最後の旅路となったところで、句が残されています。 「菊の香に、くらがり登る、節句かな」 芭蕉はこの約1ヶ月後の元禄7年(1694)10月12日に大阪で死去しています。 ●「日本の道100選」は酷道の異名を持つ 国道308号線ですが,車1台がやっと通れる幅には驚きました。今回は奈良県側から入り,大阪に抜けました。「日本の道100選」の一つです。しかし「酷道」の異名を持っており、最大傾斜勾配が約30度という険しい坂道。対向車が来ると、お手上げの坂道に何度もぶつかります。坂道でバックするのは大変です。週末になるとこんな酷道に挑戦するライダーが後を絶たないそうです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |