○清野(きよの)/前橋市清野町 | |
▲街道から裏道に入りますと旧養蚕住宅など古民家群が見られます | |
●三国街道沿いに土蔵が並ぶ 交通量の多い三国街道沿いの集落ですが,土蔵が至るところに見られます。横丁に入ると古民家があり,かつて養蚕農家だった造りもあります。ところで地名の由来は清里村の「清」と野良犬村の「野」を合わせて命名されたとか。野良犬村とは珍名ですが、オオカミがたくさんいたため、「狼」の字を分けて野良犬村と称したといいます。 ●群馬県で唯一の高等小学校を設置 明治22年に組合立で池端天明寺に高等小学校が設置されました。これは群馬県唯一の高等小学校で、通学区域が広くあちこちから大勢の子どもたちが通学しました。しかしながら、各地に同じような高等小学校が設置されると、児童数は減少。明治36年にあっというまに廃校となり、清里尋常小学校に併設されました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはパチンコ・ダイアナに停めました |
○新町(しんまち)/高崎市新町 | |
▲群馬銀行新町支店 | ▲旧中山道沿いに連なる古民家群 |
●旧中山道沿いに連なる古民家群 新町は中山道の宿場町で,江戸から数えて11番目です。加賀前田藩が開発したと言われており,中山道のなかでも最も遅く開かれました。 明治天皇行在所がありますが,これは明治11年からの巡幸の際に宿泊されたところ。また「新町駅入口」近くには洋館の群馬銀行新町支店があります。 ●川端家は国の登録文化財 幾つかの旧中山道沿いの古民家を見ながら温井川を渡りますと,藤岡市に入ります。しばらく歩くと,右側に江戸時代からの建物が残る豪農・川端家が見えます。白壁や板張りの壁が美しく,登録文化財です。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR高崎線新町駅から徒歩15分 |
○倉賀野(くらがの)/高崎市倉賀野上町 |
●脇本陣が残っている 旧中山道沿いの宿場町です。また、日光例幣使街道の分岐点でもあります。それだけにかつてはたいへんなにぎわいだったことでしょう。いまは脇本陣(写真)や多少の蔵造りの商家がポツンと残っている程度です。 ●さまざまな物資や文化が通り過ぎる町 江戸時代の倉賀野は高崎藩領でした。また宿場町としてだけではなく、利根川の河川港として栄えた町でもあります。江戸と信州を水路、陸路で結び、さまざまな物資や文化などが倉賀野を通っていきました。最近では,高崎市近郊の住宅地として栄えているようです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR高崎線倉賀野下車徒歩8分 |
○田町(たまち)/高崎市田町 |
●繁栄した高崎宿の一つ 駅から歩いて10分のところにあるいわゆる倉庫街です。漆喰で固められた白壁が続きますが、なかは漬物屋の作業場になっています。中山道で最大の賑わいをみせた高崎宿ですが,かつて「お江戸見たけりゃ高崎田町,紺の暖簾がひらひらと」詠われたところで,かなり繁栄したと伝えられています。つまり商家が集まっていたところといえます。 ●全国各地から商人が集まりました 特に田町の繁栄は絹、綿市に起因すると言われています。高崎藩主は田町以外での絹・綿の売買を禁じたためで、5・10の日に開かれる六斎市は、西上州で最大の絹・太織(ふとおり/やや厚みのある平織りの絹織物で太絹ともいい、やや品質は劣ります)市場となりました。そのため諸国から商人が多数入り込み、店主の多くはいつのまにか他国の人になっていたといわれるほどです。 ●江戸、京、近江、越後、信州からも出店が相次ぐ 享保8年(1723)にオープンした京都高麗屋の島田善左衛門の支店・袋屋では、使用人は100人を越えるとか。そのほか近江商人や越後や信州の穀物問屋などの出店も相次ぎました。ところで実は中山道はココより東寄りの通町・椿町筋を通っていました。慶長7年(1602)に現在の所に改められました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR高崎線高崎駅から徒歩10分 |
○西明屋(にしあきや)/高崎市箕郷町西明屋 |
●かつて豪族・長野氏の居城・箕輪城がありました 戦国時代末期,武田信玄と戦って敗れた長野氏の居城・箕輪城跡があります。城は高崎に移され廃城となりましたが,このとき寺や人家,町名までも移したのです。高崎市の田町は元もと西明屋の字名でした。 ●商家を思わせる古民家 この地は政治・経済の中心で,旧伊香保街道は,温泉地に向かう人々でたいへん賑わったところでもあります。特に西明屋は商人など町民が多く住んでおり,商業の中心地でした。ちなみに東明屋は武士が多く住んでいました。いま歩いて見ますと、町は寂れ,造り酒屋の廃屋が寂しげでした。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはみさと町づくりセンターに停めました |
○上里見(かみさとみ)/高崎市上里見町 |
●江戸中期に上里見藩は廃藩 江戸時代,上里見藩は譜代の小藩でした。その後藩主の変遷により明和4年(1767)に上野国(こうずけのくに)の小幡2万石に移封,上里見藩は廃藩となりました。陣屋跡が残されています。しかし信濃道(草津街道)など交通の便は良く,宿場町(神山宿)として発展しました。また中山道板鼻宿への助郷を勤めていました。 ●北信3藩は参勤交代時に利用した街道 北信3藩の飯山,須坂,松代の各藩は,信濃道はの中山道よりも約10里も短いとあって,参勤交代時など重要街道でもありました。いまは街道沿いにわずかな古民家が残されています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは西山農園に停めました |
○原町(はらまち)/東吾妻町原町 |
●和宮降嫁のときは人足300人を供出 嘉永元年(1848)から15年間,中山道軽井沢宿の助郷を請け負っていました。例えば和宮降嫁の時は,人足300人,馬24匹を拠出。原町には幾つかの街道が通っています。そのうちの一つは真田道で,原町の川平戸を経由した軍用道で,上田と沼田を結んでいます。 ●真壁造りの三角屋根 また三国脇往還は日影道-長須橋-原町-山田川橋から中之条へ通じていました。舟運では,鳥居越えの荷物を我妻川の河川港に集めたそうです。古民家は妻入りの真壁造りがポツンポツンと見える程度。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは東吾妻町役場に停めました |
○郷原(ごうばら)/東吾妻町郷原 |
●信濃道沿いの大型の養蚕農家 いまでも往時を偲ばせる建物が残っています。なかにはかなり大きな養蚕建築が残っています。ほとんどが明治時代初期までの近代養蚕の大型建築です。屋根には、さらに越屋根を造り,空気を抜くようします。 ●子どもの間引き防止や養老手当などを実施 江戸時代,郷原は中山道軽井沢宿の代助郷を請け負っていました。和宮降嫁では人馬を供出。また御三卿の清水家支配時には,子どもの間引き防止策や養老手当の実施など,まれにみる善政を行なったとか。さて旧信濃道は交通量も少なく,のんびりと古民家を見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○大戸(おおど)/東吾妻町大戸 |
●交通の要衝として発展 大戸城1万石の城下町であり,中山道の脇往還・信濃道の宿場町でもあります。しかも交通の要衝で,飯山,須坂,松代各藩の城米,信州,西吾妻の物資,さらに善光寺参りや草津温泉入湯客の往来で,一年中賑わっていました。また大戸関所は本宿から移され,中山道の裏固めとして重要視。 ●一部の歴史家は「大戸藩ってあったの?」 ところで,歴史家の一部は藩存立自体を疑問視しているとか。1万石の小藩ですが、 元和元年(1615)、藩主・岡成定は大坂夏の陣に城中と通牒したとして藩主を改易され、廃藩となりその後切腹したといいます。ところが、居所や藩の領域が不明のため、名前のみで「本当に藩が実在したのか」というのです。 ●古民家はバス停・大戸宿周辺に見られます いまバス停「大戸宿」近辺に古民家が少しばかり残されていますが,往時の宿場の面影はあまり感じることはありません。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○本宿(もとじゅく)/東吾妻町本宿 |
●将軍の日光社参では番小屋で村あげて警戒する 中山道の脇往還・信濃道(草津街道)沿いの集落です。中山道軽井沢宿の代助郷を勤めていました。将軍の上洛,日光社参では,裏を固めるということで,村人たちは番小屋を設けて警戒したそうです。普請の時は不役の負担があり,近隣の集落と同じく,中山道軽井沢宿の代助郷を勤めました。 ●街道沿いに旧養蚕住宅が点在 地元の人から薬師さんと親しまれている吉岡薬師(現吉岡神社)には町の文化財が多数あります。街道沿いには,旧養蚕住宅がいくつか見られます。いずれもセガイ造りです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○上野田(かみのだ)/吉岡町上野田 |
●伊香保街道の宿場として発展 もともと下野田と合わせて野田村でしたが,元和2年(1616)に分村しました。慶長年間(1596-1615)に伊香保街道の宿場として発展し,東西に延びた細長い宿場でした。いまもその名残で,やや高低差のある街並みを形成しています。 ●今も散見できる旧本陣・森田家の「森田家私有地」 街道の両側には,大屋根の上にさらに通気口を兼ねた小屋根があり,豪勢な農家を見ることができます。街並みのほぼ中央に本陣・問屋を兼ねた森田家がありました。いまもその面影が残り,周辺には「森田家私有地」の看板が至るところに見られます。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマはコンビに停めました |
○鬼石(おにし)/藤岡市鬼石 |
●蔵造りや旧養蚕住宅など 十国街道や三波川道が交差するところで,江戸時代から交通の要衝でした。寛文2年(1662)には,穀類,塩,小間物,綿,麻,薪炭,塩など特産物の市が立っていました。さらに江州商人(近江商人)の出店が多くなると,旅籠,居酒屋,茶漬け屋なども栄え,宿場町,市場町としても発展したのです。 ●仲町交差点を中心に広がる古民家群 いまは県道177号線,仲町交差点を中心に,裏道を含めて多くの古民家が見られます。蔵造りや出桁造りなどの商家,さらに裏道にはところどころに旧養蚕住宅も建ち並んでいます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
○富岡(とみおか)/富岡市富岡 | |
▲望楼の残る古民家は珍しい | ▲観光客が殺到する富岡製糸場 |
●製糸場以外の町並みにも注目 富岡は富岡製紙場で知られています。県や市をあげて「世界文化遺産」登録を目指し、実現しました。しかし製紙場以外にも古い町並みが若干残っています。 ●木造3階建てや望楼のある町家 面白いのは、2階建ての建物に展望塔がついた江原時計店です。千葉県成田市で見た旅館の望楼(展望塔)をちょっと小ぶりにした感じです。望楼のある町家は比較的珍しいといえます。 裏道に入ると、歴史的な建物が意外に多く,木造3階建ての建物があったりもします。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 上信電鉄上州富岡駅から徒歩10分 |
○七日市(なのかいち)/富岡市七日市 |
●小藩の城下町でした 江戸時代,前田利家5男利考が1万石を与えられて陣屋を構えました。これは大坂冬・夏の陣の功績によるものです。いま陣屋の一部は県立富岡高校の一部として保存されています。七日市藩は小藩ですが,加賀藩前田家の援助を受けながら藩政を行ない大きな波乱もなく明治維新を迎えています。 ●異例の助郷免除された村 ところで七日市村は七日市藩陣屋付き村ということで,中山道松井田宿の助郷も免除されています。やはり後ろの“加賀100万石”が見え隠れするからか。いまはわずかに蔵造りや木造2階建て板壁の古民家が残っている程度です。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○安中(あんなか)/安中市安中 | |
▲旧安中藩郡奉行役宅 | ▲蔵造りの商家が残る |
●珍しい茅葺きの武家長屋 中山道の宿場町です。元和元年(1615)に井伊直勝が3万石を与えられて安中城を改築して入封,以来,譜代大名が入っています。市場町,宿場町としても栄えました。街道沿いには蔵造りの商家がところどころ残されており,改築,改装して使われています。一方養蚕の盛んな集落でもありました。 ●武家の茅葺き四軒長屋を復元 さて茅葺きの武家長屋は意外にも全国各地に残されています。ココは平成に入って4軒長屋として復元されましたが,もともと江戸時代末期の建築と推定されています。 |
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感動度★★ 感動度★★ 交通 クルマは安中藩郡奉行役宅駐車場に停めました |
○松井田(まついだ)/安中市松井田町松井田 |
●村は安中藩支配で宿場は幕府直轄 集落自体は安中藩の支配下にありますが,宿場自体は幕府の道中奉行の配下になります。問屋場2軒,本陣2軒とありますが,両家が問屋場と本陣,名主を兼務していました。また脇本陣2軒,旅籠は25軒あったとか。両家とは2軒とも中島姓なので「お東さん」、「お西さん」と呼ばれています。 ●中山道の宿場町で古民家はわずかです 松井田宿は,公家や諸大名の休息や宿泊は比較的少なかったようです。代わりに信州諸大名の米や各種の物資の中継地としての重要な役割を果たしていました。 街道沿いを歩きますと,セガイ造りなどの古民家が単発で散在しております。 |
動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは松井田商店街無料駐車場に停めました |
○坂本(さかもと)/安中市松井田町坂本 |
●40以上の大名が毎年通過する 東山道沿いの集落を移転させたり,他領の移住者も募って地割りを完成,寛永2年(1625)には,宿場の骨格ができあがりました。文政年間(1818~30)には31の大名が,臨時の通行を合わせると40以上になりました。このほか,公家や大名息女,例幣使なども通行,かなり賑わったとか。 ●碓氷関所と碓氷峠に挟まれています 本陣は佐藤家と金井家の二つ,脇本陣は4軒もありました。というのも,碓氷関所と碓氷峠に挟まれており,どうしても宿泊せざるを得なかったからです。 ●道路の拡幅で消える往時の面影 いま道路を拡幅したせいか,往時の面影は少しだけ見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは坂本公民館に停めました |
○白井(しろい)/渋川市白井 |
●お世継ぎが生まれず白井藩は廃城 はじめは白井藩領,後に幕府領。というのも、徳川家康が関東入府(にゅうふ)後、本多宏孝、康重父子が入封しました。しかし寛永元年(1624)、白井藩主・本多紀貞に世継ぎが産まれず廃城となり、幕府領となった次第です。 ●武者行列の真っ最中 着いた当日は白井宿祭りで,武者行列の真っ最中でした。どこを撮っても見物人ばかり。三国街道の脇往還で,中央に水路(白井堰)があり,その両側を長屋門や土蔵造りが並びます。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
○北牧(きたもく)/渋川市北牧 |
●ちょっと寂れていました 現在はほんのわずかな建物が残されているだけです。この北牧宿は,三国街道の一つの宿場町で,高崎宿から4つめです。越後の諸大名が参勤交代で利用したとあります。さらに,草津の湯,前橋の市場へ行くのにも通ったそうです。つまり真田道,草津道,三国街道が交差する要地でした。 ●大名のほか奉行、家中など要人の宿泊や通過が多い 『先触帖』(さきぶれちょう)には諸大名のほかに佐渡奉行,道中奉行,家中,寺院関係などが通ったと記録されています。それほど重要な宿場でした。先触れとは、大名や奉行など要人が通過する場合、あらかじめ沿道の宿駅や茶屋などに家臣を送り、人馬の継立て、休息、宿泊などの準備させること。または命令書。旅籠は10軒と,沿道の他の宿場町より多いようです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは裏の空き地に停めました |
○桐生(きりゅう)/桐生市本町 | |
▲豪華な蔵が多く残されています | ▲住宅を兼用した店蔵も多い |
▲ノコギリ型屋根の工場群 | ▲昼ランチ豆腐コース1750円・若宮 |
●豪華で堅牢な土蔵 本町1丁目から2丁目,横山町にかけて歴史的建造物がたくさん残っています。ひとつは蔵です。かつて絹織物で栄えた名残りです。「西の西陣,東の桐生」といわれるぐらいでした。蔵も,並の蔵ではなく,贅の限りを尽くした豪華な造りです。 ●重要伝統的建造物群保存地区です 本町を歩いていて感じるのは,通りに面した建物の地割りがノコギリの歯のようになっていることです。ここでは,建物が桐生天満宮に向かって斜めに建っています。また道幅は,約120年前と同じだとか。重要伝統的建造物群保存地区です。 ●ノコギリ型屋根工場も多い 現在は市内に約200棟ほど残っています。後藤織物工場(写真下左)は国の登録文化財で映画『SAYURI』(米・渡辺謙、役所広司ら)の主人公の帯を作りました。工場は稼働中です。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 東武桐生線新桐生駅から徒歩20分 |
○水沼(みずぬま)/桐生市黒保根町水沼 | |
▲改築された古民家も多い | ▲水沼駅温泉センター |
●銅山街道沿いに開けた宿場町 江戸時代は農耕が中心で養蚕製糸も盛んでした。また狩猟、紙漉き、漆取りなどの駄賃稼ぎも少々。近世初頭に整備された銅(あかがね)街道は村の東西を縦貫。そのため人馬の往来も多くなり,宿場として繁栄。また街道の沿道は幕府領が多かったことから、銅の運搬、日光御法会(ごほうえ)の助郷役が頻繁に課せられました。 ●農民一揆の鎮圧に力を発揮した名主・星川七郎右衛門 名主は年ごとの交代制ですが、なにより黒川山中18ヶ村の取締役でもあった、星川七郎右衛門が実権をにぎり、業績を高く評価されました。足尾銅山のの世話役、江戸城修復用木材の供出、何より天保・慶応年間の農民一揆の鎮圧は有名です。また文政4年(1821)の大火による被災者への支援にも力を発揮。 ●水沼製糸所跡で往時を見る 明治に入ると水沼製糸所が洋式機械製糸を導入し発展。古民家は国道から外れた所に見られます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 わたらせ渓谷鉄道水沼駅から徒歩8分 |
○大間々(おおまま)/みどり市大間々町大間々 | |
▲岡直三郎店(醤油製造200余年) | ▲旧大間々銀行(大正10年築) |
▲上神梅駅(国の登録文化財) | ▲大間々駅(国の登録文化財) |
●大間々村の絹市が大繁盛 万治元年(1658)、大間々村の名主・星野庄右衛門が個人で生糸・絹の市開催を勝手に企て、前橋、伊勢崎、桐生の商人55人に進物を贈り、協力するように依頼しました。その結果、伊勢崎、前橋、藤岡などから商人が集まり盛況のうちに開催。それを見た他の商人たちも出店が相次ぎ、肝心の六斎市が衰退しました。六斎市を担当していた村役人は代官に上訴。結局その後和解して、六斎市と絹市が合流して開催し繁盛したそうです。 ●桐生の絹市と対立し衰退していきます ところがどっこい、大間々村の絹市が繁栄するにつれ、桐生の絹市と利害が対立。桐生の市は、従来の5・9日の市日を、大間々村絹市の前日の3・7日に設定。そこで大間々村絹市は2・6日として、4・8日を合わせて十二齊市としました。さすがに周囲から強烈な反対で、元の六斎市に戻りました。しかし桐生・絹の強さは圧倒的で、大間々村絹市は一気に衰退していきます。 ●駅舎が国の登録文化財 江戸時代は足尾銅山からの利根川河川港に至る銅街道の中継地(宿場町)として賑わいました。いまは国道122号線沿いに,蔵造りの商家がそこかしこに残されています。醤油や酒造りも盛んでした。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 わたらせ渓谷鉄道大間々駅から徒歩5分 |
○花輪(はなわ)/みどり市東町花輪 | |
▲実業家・今泉喜一郎の生家 | ▲高草木家の御用銅問屋 |
▲国の登録文化財・旧花輪小学校/明治6年開校、童謡『兎と亀』の作詞家・石原和三郎、日本鋼管創立者・今泉嘉一郎も卒業生/平成13年閉校 | |
●銅(あかがね)街道の宿場町に文化財多数あり 慶長15年(1610)に足尾に銅の鉱脈が発見されると,幕府は直轄鉱山としました。足尾-沢入-花輪-大間々と街道を利用して銅を運搬。さらに舟で利根川を下って江戸に届けたのです。花輪宿にある高草木家の銅蔵は,一時銅を保管しておいた蔵です。 ●日光裏街道としての利用も多い 銅街道は日光裏街道ともいわれ,東照宮参拝や男体山登山にも利用されました。銅山で働く人なども含めて街道や宿場は大いに賑わいました。独特の養蚕農家や庇の突き出た町家などが見られます。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 わたらせ鉄道渓谷花輪駅から徒歩10分 |
○神戸(ごうど)/みどり市東町神戸 | |
▲神戸駅も国の登録文化財です | ▲ホームには列車レストランがある |
●神戸駅舎も国の登録文化財 地名の由来は諸説ありますが,古い神社に付属していた封戸(神戸かんど)が「こうべ」になり「ごうど」に変化したのが有力だとか。それはともかく神戸も銅(あかがね)街道沿いの集落で,沢入(そうり)村から花輪村までの3里余に助郷として出役。さらに将軍の日光参拝時には,日光街道のはるか遠く幸手宿まで助郷として出役したとか。 ●路上で鹿の解体が見られました 銅街道は,駅を出て丘陵を上ったところにあります。いま古民家が少し残る程度です。花々が咲き乱れたり,途中の肉屋さんが路上で鹿の解体しているところを見られるなど,変化にとんだ所でした。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 わたらせ渓谷神戸駅から徒歩15分鉄道 |
○沢入(そうり)/みどり市東町沢入 | |
▲国の登録文化財・沢入駅(待合室) | ▲陶器と良寛書の館 |
●銅街道(銅山街道)沿いの宿場町 銅街道(銅山街道)沿いの宿場町です。足尾から2里半の位置にあり,銅送りのための銅問屋が置かれ,御銅蔵も設置。それなりに賑わいをみせていたのですが,農閑期には,男たちは炭焼、他の駄賃稼ぎ,屋根板の生産,女たちは炭俵編み,薪取り,糸引きなどに従事するなどして稼がざるを得ないようでした。 ●沢入駅はNHK朝ドラ『半分、青い。』のロケ地 花崗岩が採れるためか,都電の敷石にも採用されていたとか。歩いていますと,石蔵や旧養蚕住宅がいくつか見られます。古民家のあるおかげで,宿場らしいと思えました。なおその後、沢入駅はNHK朝ドラ『半分、青い。』(主演・永野芽郁)のロケ地で、夏虫駅として登場。いま多くの人が訪れています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 わたらせ渓谷鉄道沢入駅から徒歩3分 |
○玉村(たまむら)/玉村町下新田 |
●例幣使街道の最初の宿場 朝廷は久しく中断していた伊勢神宮へ例幣使派遣を,同時に日光東照宮への派遣も決めました。そこで幕府は,例幣使専用の通行路として中山道倉賀野宿から分かれてからの街道を整備したのです。旅籠62軒(うち飯盛り女)とかなり大きく,茶屋9軒,小料理屋11軒もありました。しかし慶応4年の大火でほとんどの建物が焼けました。 ●明治に入ると遊里としての性格が強くなります 飯盛女を抱えた旅籠屋が増え、次第に遊女(娼妓)へと発展していきます。幕府は宿場が遊郭化するのを防ぐために旅籠屋1軒に付き、“飯盛女“2人と制限。しかしこれを守る旅籠屋はありません。明治に入ると歓楽街,特に遊里としての性格がますます強くなり,公娼廃止運動が芽生えたこともありました。しかしそれは昭和34年の売防法成立まで待たなくてはいけなかったのです。いま歩いて見ますと,所々に古民家が残されています。飯盛女とは、当初、宿の客引きから始まったようですが、すぐに私娼となり、以後、一気に増えていきます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR高崎線新町駅からバス20分玉村町役場から徒歩5分 |
○五料(ごりょう)/玉村町五料 |
●例幣使街道沿いの小さな宿場町 例幣使街道では玉村宿に次ぐ宿場町です。天保年間(1830-44)で,旅籠18軒と小規模でした。例幣使は玉村宿に1泊し,翌五料宿を通過するという行程でした。宿場は小さいですが,最も重要な役割は人改めでした。五料には例幣使街道唯一の関所があり,前橋藩が管理をしていました。五料関所の任務は二つ,一つは例幣使の通行,舟運の取り締まり。特に上り船(江戸方面)の調べは厳重でした。 ●天明3年の浅間山の噴火で五料関所が埋まる なお天明3年(1783)の浅間山噴火は大きな被害が出ました。とりわけ関所全部が噴火で埋まったとは驚きです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 玉村町役場からコミュニティバスで芝根郵便局前下車すぐ |
○三光(さんこう)/伊勢崎市三光町 |
●脇本陣が残っています 酒井氏2万石の城下町(陣屋)でもあり市場町でもあります。とくにクズ繭を使った普段着用の太織りが広く知られました。このあたりは柴宿と境宿の間にあり,脇本陣も設けられていました。脇本陣は相川考古館(写真)として開放されています。ここには国の重要文化財でもある埴輪4点が保存、県の重要文化財の茶室が保存されています。 ●3つの町が合併して三光町 地名の由来は単純です。伊勢崎市内の川岸町と西町、宮元町の3町が合併したことによります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR両毛線伊勢崎駅から徒歩15分 |
○柴(しば)/伊勢崎市柴町 |
●集落は洪水や浅間山噴火のため現在地に移転 例幣使街道は倉賀野宿から楡木宿までの13宿のうち三番目の宿場です。柴町を中心に、中町、堀口村を加えて柴宿を形成しました。本陣は集落の中ほどに置かれました。元々集落は南方の中町に沿って置かれていました。しかし洪水や浅間山噴火の被害により、享保年間(1716-36)から天明3年(1783)にかけて、集落を現在の位置に移転しました。 ●本陣は昭和46~47年に解体! いまの集落からは往年の面影は見られませんが,関根家が本陣経営にあたっていました。関根家には,当時の文書類,調度品など資料が残っています。 本陣は昭和46年(1971)に主屋が、翌昭和47年には長屋が見事に解体されました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 市民病院北からコミュニティバスで柴宿本陣前下車すぐ |
○境(さかい)/伊勢崎市境東 |
●江戸や京の文化の影響を受けます 江戸時代初期は仮宿,さらに元宿と呼ばれたそうです。その後境に変更。寛永20年(1643)に日光例幣使街道が通じてから一気に発展しました。そして六斎市場が創設されてからは商業都市として非常に繁盛しました。特に生糸,絹織物,絹太織物など繊維産業が町の経済を引っ張り,さらに例幣使街道と共に,江戸文化だけではなく京都の文化の影響を受け,学問文芸が盛んになったのです。 ●古民家が少々残る いまはところどころ街道筋に土蔵,町家などの古民家も残されていますが,ちょっと寂しい。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線堺町駅から徒歩10分 |
○境島村(さかいしまむら)/伊勢崎市境島村 |
●大きな屋敷林が目印 江戸時代から続く利根川の船渡しがあり,その近くに集落があります。ちょっと探すのに苦労しました。大きな屋敷林,背の高さぐらいの垣根,石積の上の養蚕住宅など周辺の町並みとは全く違う光景を見せています。その光景をみるだけでもいいものです。 ●9人乗りの渡し船は無料です もう一つの楽しみに,村が利根川で分断されており,渡船が市道の役割を果たしております。荒天時以外は毎日運行されており、無料で乗船(朝8時半~夕5時15分)できます。地元では“島村渡船”と呼んでいます。江戸時代中期から始まったとされています。昭和26年に県から市に移管されました。ただ、令和元年10月の台風19号による大雨の影響で、桟橋や航路に被害が出て、令和3年度は運休となっています。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 渡船場の無料駐車場に停めました |
○本町(ほんちょう)/太田市本町 | |
▲旧金山図書館(1922年築) | ▲大谷石を利用した石蔵 |
▲三角屋根の近代木造建築がいたるところで見ることができます | |
●裏道に近代建築が残る 街道沿いは宿場町としての面影はありませんが,一歩裏道に入ると近代建築や古民家が多く残っています。尖った三角屋根の民家,小学校の古い木造校舎,一般住宅の町家など寺社ともども飽きることはありません。 ●粗末な脇本陣、旅籠の建物 ところで明和元年(1764)の『家数書上帳』には、本陣1軒、脇本陣1軒、平旅籠(ひらはたご)14軒とあります。しかしながら脇本陣は座敷が不足しており、平旅籠のうち7軒は実に粗末な建物。平旅籠とは、飯盛女(遊女)を置かない旅籠のことで、あまり流行らなかったそうです。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 東武伊勢崎線太田駅から徒歩10分 |
○丸山(まるやま)/太田市丸山町 |
●宿場町ができて400年 初めての訪ねました。2006年は、開宿(慶長11年/1606年)400年にあたり、あちこちに「丸山400年」ののぼりがはためいていました。交通の便が悪いので訪れる人もいません。しかし、住民だけで、この歴史的建造物をしっかりと守り伝えています。 ●古民家がギッシリ詰まっていました 土蔵があったり、町家があったりと宿場町だったせいか、いろんな建物が混在しています。いちばん古い建物は、医院になっていいます。200mほどの距離に古民家がぎっしりと詰まっていました。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 東武伊勢崎線太田駅からバス丸山町下車、徒歩3分 |
○木崎(きざき)/太田市新田木崎町 |
●わずかに残る町家 江戸時代,明和元年(1764)に幕府から宿駅として公認されました。しかし,実際は以前から例幣使の下向の際,木崎を通過しており休憩場所でもありました。そのため本陣は1軒で,脇本陣はその都度決めていたようです。最も栄えたのは文化~嘉永(1804~1854)年間で,旅籠はだいたい30軒前後で,飯盛り女も1軒につき2人と決められていましたが,実際は倍の130人近くはいたようです。飯盛り女といっても実際は娼妓といえます。 ●ポツンと「木崎宿」の木柱が立つ いまは道路の拡幅で,往時の面影はなく,わずかに「木崎宿」の木柱がポツンと立っているのみ。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線木崎駅から徒歩15分 |
○館林(たてばやし)/館林市大手町 |
●往時の雰囲気・武家屋敷 江戸時代,城の周囲に「侍町」があり,その西に職人,商人の町が広がっています。そして侍町の一角に鷹匠町があり,中級,下級武士が住んでいました。今も屋敷割りや屋敷構,土塀や門などが当時の雰囲気を伝えています。 ●城下町造りに力を発揮した徳川四天王・榊原康政 これらの町づくりは、天正18年(1590)に館林の入部した徳川四天王の一人・榊原康政が積極的に城下町建設を推し進めました。城下中央に南北の大通を貫通させ、東西は中世・長尾顕長がやり残した道路と中央部で交差させ、これを基軸に碁盤の目ように道路を張り巡らします。ところが二つの大きな湿地帯がこれを阻みますが、利根川・渡良瀬川の堤防工事に着手し完成させます。これにより湿地帯も底を見せて、多くの村民たちを移住させました。まさしく土木・建築の学問を生かした名君でもありました。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線館林駅から徒歩10分 |
○永井(ながい)/みなかみ町新治永井 |
●上杉謙信が三国峠を越えてやってきました 三国街道の宿場町です。戦国時代,越後国の上杉謙信が兵を率いて三国峠を越えて関東にやってきました。現在の三国峠は慶長年間(1596-1615)に整備されたと言われています。特に越後米の関東への流出口として栄えました。本陣はすでにありませんが,今でも往時の面影を見ることができます。町家や旧養蚕農家など見るべきものは多いようです。 ●県の景観保存地区に指定 急峻な山の中腹に切り開かれた宿場町だけに,歩いているとちょっと疲れます。永井宿は群馬県の景観条例で景観形保存区に指定されています。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは永井宿郷土館の無料駐車場に停めました |
○須川(すかわ)/みなかみ町新治須川 |
●大勢の観光客が訪れる「たくみの里」 それにしても観光客の多いことに驚きました。「たくみの里」として村おこしで,地域の活性化に取り組んだ結果です。 ●大型の養蚕住宅が軒を並べます 三国街道の宿場町で,永井宿より4つ目に位置します。建物は群馬県の各地で見られる2階建ての養蚕住宅で,ここの建物は規模が大きく,短冊形に並んでおり,道路も広くとってあり,かなり整備が行き届いています。観光客の多さから,村おこしに成功した例といえるでしょう。 須川も県の景観条例で景観保存地区に指定されています。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは大きな無料駐車場に停めました |
○箕輪(みのわ)/みなかみ町布施箕輪 | |
▲美しい養蚕住宅が見られます | ▲土壁の養蚕住宅が残っています |
●美しい旧養蚕住宅 この集落へ向かう道を探すのにたいへん苦労しました。なかなかわかりずらい道でした。そしてクルマを箕輪橋のたもとで止めて歩きました。木造3階建ての建物が続きます。いずれも養蚕住宅で、明治時代に建てられました。いまは、子ども部屋など、個室に改造されているそうです。 ●美しい農村景観賞を受賞 なお1999年に創設された「美しい新治村(旧)の農村景観賞」において、建築・まちなみ部門を受賞しています。青い空と白壁,土塀,黒瓦屋根の組み合わせが実に美しいです。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○下仁田(しもにた)/下仁田町下仁田 | |
▲大正時代に創業した丸平 | ▲雪国独特の庇の深い町家 |
●蔵造りの商家が残る 中山道脇往還の下仁田街道沿いの宿場町です。信州との境の内山峠手前には西牧関所が置かれていました。ところで養蚕業も盛んでしたが,コンニャクやネギも名産。老舗も多く,蔵造りの商家が目に付きます。特に下仁田ネギは徳川将軍家にも献上されていました。 ●幕末に起こった3つの大きな騒動 さて幕末に下仁田で3つの大騒動が起こっています。【騒動1】元治元年(1864)、水戸藩尊皇攘夷派天狗党と高崎藩士が交戦した、いわゆる下仁田戦争。【騒動2】慶応4年(1868)、天災にともなう物価高で貧困に苦しむ者たちが、大富豪の近江屋家、有賀家、桜井家の3軒を打ち毀し事件。【騒動3】慶応4年(1868)、近隣の村の百姓と字上町の問屋との衝突です。字上町全体が炎に包まれたという事件。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは下仁田公民館に停めました |
○中小坂(なかおさか)/下仁田町中小坂 |
●裏街道沿いの集落 江戸時代は七日市藩,小幡藩等と変遷。天保2年(1831)に隣の上小坂から砥山(とやま/砥石の原料となる石、砥山石など)が発見され,両村で一括請け負うことになりました。しかし採掘の中止,再開を繰り返しながら明治維新を迎えます。その砥石や米の搬送に中山道脇往還を利用しました。中山道裏街道といわれ,険しい碓氷峠,厳重な碓氷関所を避けるためです。 ●幕末の下仁田戦争の主戦場 また水戸天狗党と高崎藩との主戦場がココ。いわゆる下仁田戦争と呼ばれています。いまは往時の面影はなく,所どころに古民家が見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは第4公会堂の駐車場に停めました |
○小沢(おざわ)/南牧村小沢 |
●下仁田・農民一揆の首謀者が小沢の百姓?? 南牧川流域の約100世帯程度の集落です。江戸時代は,畑作が中心で,麦,粟,稗,ダイコン,麻などが中心。さらに養蚕,絹織り,紙すきなども手がけ、下仁田の市場で売買されていました。和紙も下仁田で売り出されましたが,御用紙として直接江戸まで馬で運んだそうです。文政8年(1825)に下仁田で大規模な農民一揆がありましたが,その首謀者が小沢の百姓だったとか。 ●旧養蚕農家らしい風情 国道から南牧川を渡ると旧街道沿いに,旧養蚕農家らしい風情が見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○羽沢(はざわ)/南牧村羽沢 |
●出桁造りの旧養蚕住宅 バス停は「羽根沢」となっていました。かつて「はねざわ」ともいったそうです。空き屋の目立つ過疎地です。旧街道沿いを歩いていますと,旧養蚕農家が目に付きます。この建物は,出桁造りといい1階部分よりも2階部分が張り出した造りで,蚕室の作業所を拡大したものです。瓦葺き切り妻屋根で,空気抜きとなる越屋根が付いています。 ●松井田宿の助郷で困窮を極める 江戸時代は中山道松井田宿の助郷でありました。また各種,普請や輸送のための人足供出も課せられ困窮したことも多かったようです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○勧能(かんのう)/南牧村羽沢勧能 |
●旧養蚕住宅が残る 熊倉へ向かう途中で,ひとかたまりの集落を見つけたので下車。南牧川に架かる津島橋を渡り,民家の間を歩くと,やはり空き家が多いように思えました。出桁造りの養蚕住宅で,もちろんいまは生産していません。このあたりは畑作が中心で,急斜面にわずかな畑が見られます。 ●警戒の厳しい中山道を避けて、裏街道を通る女たち 江戸時代は幕府領で羽沢村の枝村でした。その後の離合集散で村は消え,今はバス停にその名を残しています。また姫街道沿いの集落で,警戒の厳しい中山道を避けて,女性たちはこの裏道を通りました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○熊倉(くまくら)/南牧村熊倉 |
●最果ての集落です まさに最果ての集落です。県道108号線沿い最後の集落で,ここからクルマで約30分で,落差30mの像ケ滝に着きますが,そこから先は徒歩で県境越えとなります。かつて武田信玄が1万騎を率いたとか,さらに4万6000人の兵を率いて上野(群馬県)へ攻め込んだとか,信玄にとって重要路でありました。 ●旧養蚕住宅がたくさん残ります 江戸時代,耕地面積が全体の11.3%と極めて悪条件でした。いま歩いて見ますと,耕地がどこにあるのかと目を疑います。そしてかつての出桁造りの養蚕住宅がたくさん残っています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○砥沢(とざわ)/南牧村砥沢 |
●まるで映画のロケ地 ほこりにまみれたロケ地という感じでした。黒沢明監督の映画に出てきそう。訪れる人もなく,超過疎の集落。中山道の脇往還で,南牧川沿いにあり,両側は急峻な山々という環境です。かつては砥石の生産でにぎわったとか。お店は1軒もありませんでした。 ●良質の砥石が採掘されていました 徳川氏の関東入封以来、幕府の御用砥(ごようと)として重要視され、江戸幕府への献上品となりました。建久年間(1190-99)に西行法師が来遊し、砥山を吟じたそうです。砥石の採掘は、砥株の所有者のみが許され、121軒もあったそうです。そのうち71軒は砥切り専業でした。50軒は半農半鉱。いずれにせよ極めて良質の砥石(といし)でありました。 |
感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○星尾(ほしお)/南牧村星尾 |
●急斜面に立つ旧養蚕住宅 この星尾集落も,この先の星尾峠へはクルマでは行けず,徒歩で県境を越えることになります。まさに最果ての集落といえば言い過ぎか。超過疎地でもあります。また高齢化率が日本一だそうです。 江戸時代は幕府,旗本領。また畑作で,大豆,小麦,粟,稗,芋などあらゆる作物を栽培しています。ほかに現金収入として,薪,砥山普請,絹織物,紙すきなどがありました。 ●近年、温泉が復活し一筋の光がさす 街道を行くと急斜面にへばりつくように,古民家が建っています。ほとんどが旧養蚕住宅で,ひっそりとしています。 近年、68年ぶりにかつてあった共同浴場を温泉(星尾温泉・木の葉石の湯)として2018年に復活。いまは源泉かけ流し日帰り温泉で営業。少しずつ観光客もやってきるそうです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○楢原(ならはら)/上野村楢原 | |
▲重要文化財の旧黒澤家住宅/18世紀中頃の建築・付近一帯を管理 | |
●旧黒澤家住宅を中心に 江戸時代は幕府領で,黒澤家が名主でした。鷹の保護地区が27カ所あり鷹狩り用の「巣鷹」を将軍家に献上し,同時に御巣鷹山の管理にあたりました。「巣鷹」とは巣に居る鷹のヒナを捕らえて、鷹狩り用に飼育した鷹。御用林内には幕府が狩猟用の巣鷹を捕らえるために特別に指定した区域の森林がありました。これが御巣鷹山(おすたかやま)。いまは旧黒澤家の周囲は,旧養蚕住宅が残されています。 ●日航ジャンボ機が墜落、520人もが死亡 ちなみに御巣鷹山に昭和60年(1985)8月12日午後6時56分30秒に日航ジャンボ機123便が墜落し、520人死亡(生存者4人)しました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは旧黒澤家住宅専用駐車場に停めました |
○乙父(おっち)/上野村乙父 |
●出桁造りの養蚕住宅 江戸時代は幕府領です。領内には9カ所の御巣鷹と御用林の管理する看守が住んでいました。御用林の檜は川運を利用し江戸に運送。また養蚕業も発達,出桁造りの養蚕住宅も多い。 ●乙父神社の余興で「かんかん踊り」 乙父神社の余興で行われる「かんかん踊り・平成24年」(かんかんのう)をYouTubedeで見ました。かんかんのう保存会の皆さん(化粧をした男たち5人)が舞台で単調なメロディで踊っています。江戸時代、長崎で踊り、大坂で狂乱、江戸では卑猥な踊りとなって、乙父へと流れてきました。文政5年(1822)に幕府はとうとう禁止令を出します。踊り方が実に卑猥だという。落語の名作『らくだ』に登場する死体が「かんかんのう」を踊るのは、まさにこの曲です。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○小幡(おばた)/甘楽町小幡 | |
▲城下町の面影が見られます | ▲用水路沿いに古民家が続きます |
●用水路と街路樹 織田家七代、松平氏四代続いた城下町として発展した町です。武家屋敷群には、石垣や庭園などが残されています。 また町家群は、小さな用水路の両側に商家、町家が続きます。街路樹が生い茂り、とても静かで往時を彷彿させるようです。 ●織田氏の先見の明 雄川堰は、小幡村の南西部・轟村との境、翁橋下で雄川から取水、村の中央を北へ貫流。しかし小堰と称する3本の分流が陣屋地内全域に用水を供給しています。この雄川堰の開発年代はよくわかっていませんが、織田氏が寛永6年(1629)、小幡村に陣屋を構築しようとした際、場所、地割り、用水割り、水道筋の“見立て”をしたとされています。 ●江戸、明治と用水路が活躍 江戸時代では陣屋地内、城下新町ほか、流域住民の生活用、非常用、水車の動力用として活躍。また明治時代初期には製糸業の工業用水として役割を果たしてきました。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは大駐車場に停めました |
○鎌原(かんばら)/妻恋村鎌原 |
●ときおり浅間山が噴火 北国街道脇往還の宿場町です。江戸時代,沼田藩領から幕府領に移行。浅間山の麓に位置し,ときおり浅間山噴火で被害が大きくなり,人命や農作物が失われたりします。 ●旧養蚕住宅が残る さて宿場町らしい場所を探すのに苦労しました。行ったりきたりでと探し,鎌原観音堂の近くで見つけることができました。ただ連続して建ち並んでいるわけではありません。かつて茅葺き屋根だっただろうという民家,また養蚕農家などが建物として残っています。もちろんいまはカイコは育てていません。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは郷土資料館の無料駐車場に停めました |
○大笹(おおざさ)/嬬恋村大笹 |
●真田氏が城下と沼田を結ぶ軍事道路として開削 国道144号線の両側に広がる宿場町です。かつて北国街道の脇往還であったところで,鎌原宿からすぐのところにあります。元来,信州上田の真田氏が、城下と沼田を結ぶ軍事道路として開削。幕府からも公認されました。また大戸通りと大笹通りの分岐点でもあります。そのため追分宿として,とても賑わったそうです。 ●吾妻川渓谷沿いの宿場町 大笹宿は吾妻川渓谷沿いに形成され,いまでは街道の両側に民家が並んでいます。養蚕農家や養蚕の問屋など,ところどころに見ることができます。ただ交通量が多いので注意。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは大笹郵便局に停めました |
○赤岩(あかいわ)/中之条町赤岩 | |
▲湯本住宅/「長英の間」があります | ▲山菜そば(400円・赤岩っ家) |
●養蚕住宅と石垣と蔵 重要伝統的建造物群保存地区です。約60世帯,170人が居住する小さな集落です。傾斜地に古い石垣や敷地内には主屋や蔵,農機具を保管する小屋などが建っています。日本の典型的な農山村風景をとどめているのです。 一本道を歩いていると、ところどころに木造2階建ての旧養蚕住宅が見られます。ゆるやかな坂道を上り、下りながら歩くと、養蚕に関する資料館がありますが、そのまま入館できます。さらに歩くと、土蔵がいたるところにあることと石垣が多いことが目に付きます。 ●木造3階建て湯本住宅 蘭学者高野長英をかくまったと言われる湯本家住宅の「長英の間」があります。この湯本住宅は3階建てで置屋根形式の切妻屋根を持ち,妻入り土蔵造りという実に珍しい建物。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR吾妻線長野原草津口駅からバス南大橋下車、徒歩7分 |
○羽根尾(はねお)/長野原町羽根尾 |
●支配した羽根尾氏の名を地名に 鎌倉時代は羽尾でしたが,当地を支配した羽根尾氏の名をそのまま地名にしたとか。江戸時代は沼田藩領でしたが,天和元年(1681)から幕府領となります。 ●草津,善光寺へ向かう途中の宿場町 草津温泉,川原湯温泉への湯治客や善光寺(長野市)への参拝客が増えるにつれ,沼田藩真田氏は上田宿(長野県)-沼田宿の道路整備に力を入れ,宿駅,関所を設けるなどをしました。 草津へ向かう草津街道,善光寺へ向かう信州街道が通り,多くの人で賑わいました。出げた造りが往時の面影を見せます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはJR吾妻線羽根尾駅前広場に停めました |
○草津(くさつ)/草津町草津 | |
▲裏手にまわると昔ながらの情緒のある温泉街が続きます | |
●徳川家康も江戸まで湯を運ばせる 日本を代表する屈指の温泉です。町内の源泉数は大小100カ所に及び,温泉の湧出量は毎分3万2千㍑にも達するとか。 江戸時代から多くの文人が訪れており,草津に関する作品を多く残しています。家康も草津から湯を江戸まで運ばせたとか。 ●木造3階建てが数軒残る 中心地でもある湯畑の周囲は高層のホテル街ですが,裏手には昔ながらの木造3階建ての旅館が数軒残っています。独特の唐破風の玄関が客を迎えてくれます。さらに裏手には土産物店や飲食店街には格子のある建物が続きます。 |
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嘉感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは観光客用有料駐車場に停めました |