岐阜県(ぎふけん)

川原町(かわらまち)/岐阜市玉井町 
 
   
▲歩くと土蔵や商家が見られます  ▲地元のジョガーも見かけます 
3つの町の総称です
 川原町という地名があるわけではありません。湊町、玉井町、元浜町の3つの町の総称です。16世紀の中ごろの斎藤道三の時代に中川原と呼ばれていたそうです。
まるでタイムスリップした感じです
 バス停を降りてすぐのところにありますが、思わずタイムスリップした感じでした。格子戸のある瓦葺き平入り2階建ての商家が続きます。また伝統の岐阜うちわ専門店、和菓子屋、紙問屋など店がたくさんあります。そしてそのまま歩いていくと、ごく普通の民家があります。まさに生活に根付いた街並みです。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR東海道本線岐阜駅からバスで長良橋下車徒歩2分
 
笠松(かさまつ)/笠松町下本町 
 
交通、軍事の要衝
 関ヶ原の戦い後,美濃地方は,譜代大名,外様大名,旗本の所領,さらに幕府直轄領と,細かく分割されました。笠松は美濃と尾張の国境に位置することから,交通、軍事の要衝として,美濃郡代の陣屋が置かれました。同時に美濃の治水政策をも担当するのです。
●明治時代の重文が1軒
 木曽川の河川港で港町でもあります。当時の有力者のひとりが杉山市右衛門で,現在でも杉山邸(写真・左から2軒目・重文)として残されています。建物は明治時代のもので、蔵造りの独特のデザインの虫籠窓が美しい町家です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは十六銀行笠松支店に停めました
 
 多治見(たじみ)/多治見市本町
 
   
▲格子の美しい商家が多い  ▲生活に根付いた古民家 
   
▲蔵のある街並みも素敵です  ▲ラーメン(650円/来来亭) 
焼き物のふるさと
 多治見といえば焼き物、とくに織部焼で知られています。町には陶磁器を販売する店がいたるところにあります。とくにオリベストリートは、商家や土蔵などを残しながら、古い街並みを形成しています。しかも建物の重厚さに目を見張ります。
町ぢゅうに残る重厚な商家
 また新町銀座アーケード街にも蔵造りの商家が見られます。さらに小路町付近、御幸公園付近にも古い町家や蔵が残されています。御幸公園は西浦邸の本宅跡で,付近一帯は多治見陶磁器の発祥の地と言われているそうです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは多治見橋パーキングに停めました
 
白川(しらかわ)/白川村荻町 
 
影響力の強かった髙山の照蓮寺
 江戸時代、髙山の古刹照蓮寺領やその他の寺領をのぞた土地が幕府領でした。村高は200石前後ですが、そのうちの4分の1の40石余が照蓮寺領というから影響力が強かったのでしょう。地名・荻町(おぎまち)の由来は、オギの生えた地を開墾し、田としたことによるそうです。
世界遺産の合掌集落
 かつて、白川街道に沿った寂しい所でした。国道156号線が集落の中央を走り、観光地としてクローズアップされてからは、合掌造りとともに世界的な観光地となりました。さらに世界文化遺産にも登録されました。集落内の小路は,歩行者天国のように混んでいて,合掌造りが100棟以上あります。アジア系外国人観光客のマナーの悪さが取り上げられたりします。実際に人が住んでいるので中には入れませんが,和田家など体験できる住宅があります。 
  感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
飛騨古川(ひだふるかわ)/飛騨市古川殿町 
 
いまは多くの観光客でにぎわっています
 今から約30年前に古川に行きました。当時、隣の髙山は観光客でいつもいっぱいでした。しかし古川は同じ古い町並みでも、訪れる人も少なくガラガラ。こんなにすばらしい古民家や土蔵群があるのに惜しい、と思っていましたら、近年はたいへん賑わいぶりです。やはり駅から徒歩圏内なのが便利だからか。また東京からの直通バスも運行しているのも、観光客増加の一因かもししれません。
郷内7ヶ村の年貢米を収納した御蔵群
 姉小路家以来、古川は飛騨の中心地で、江戸時代からその役割は変わりません。古川には御蔵が並び、古川郷内7ヶ村の年貢米を納められました。これらの年貢米の一部は領民の食糧として還元。これを“市売米”といいます。古川では享保年間(1716-36)に700俵分を町方分に、100俵分を上町大野分として分け、その他は小前(こまえ)分としました。小前とは身分の低い百姓たちのことです。幕末期の百姓一揆などの主力勢力となりました。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 JR髙山本線飛騨古川駅から徒歩10分
  
上三之町(かみさんのまち)高山市上三之町 
 
第一級の観光地です
 雨上がりの早朝に出かけました。しっとりとして,風情があります。何度も訪れているせいか,感動も薄くなっているのも事実です。でも第一級の観光地であることには変わりません。
雨と格子の似合う町
 戦国時代の末期,金森長近氏によって築かれた城下町です。町屋の多くは,木造の2階建ての平入で,道路側が上品な格子となっています。雨と格子の似合う町です。もともと、三町(さんまち)のうち三之町の一部で、安川通を境にした南半分をさします。

 ところで高山のもう一つの楽しみは朝市の散策です。新鮮な野菜や手造りの漬け物がおいしいです。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 駐車場 クルマは有料駐車場に停めました
 
 大新町(おおしんまち)/高山市大新町
 
2004年に重要伝統的建造物群保存地区に選定
 高山といえば、上三之町などの三町(さんまち)が観光の中心地でした。ところがここの下二之町と大新町は2004年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されてから、一気に観光客が増えました。三町を抜けて、朝市を見たら、そのままもどるのが普通だったのですが、戻らずにそのまま北側の大新町へ行くことになるのです。
大新町の方が明るい
 この地区にも日下部民芸館や吉島家住宅など、歴史的建物があります。いずれも国の重要文化財で、内部が公開されています。気のせいかも知れませんが、どうもこちらのほうが、三町よりも明るい感じがします。若干人が少ないせいかも知れません。
市内は大渋滞!
 クルマで行かれる人が多いでしょう。第一級の観光地だけに渋滞、渋滞で狭い道路は交通規制もあいまって,たいへんなことになっています。駐車場はありますが、すぐに満車になります。ホント大変でした。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは有料駐車場に停めました
 
 郡上八幡(ぐじょうはちまん)/郡上市八幡町
 
   
▲やなか水のこみち/美しい清流  ▲宗祇水/日本の名水百選第1号 
3代目藩主・遠藤常友が本格的な城下町に整備
 戦国時代の永禄2年(1559)、遠藤盛数が、南麓の吉田川、西麓の小駄良(こだら)川に挟まれた自然の濠を城に最適として築城。八幡山の名をとり八幡城と名付け、以後5家16代300余年間、この地を支配しました。以後、城下町として郡内の行政、経済の中心地として発展しました。特に、承応元年(1652)の大火で町の大半が焼失後、3代目藩主・遠藤常友が本格的に城下町の整備を開始。寺院を移転するなど徹底していました。いまの町の原型を造ったといえましょう。
 ●水の町で感動的な古民家群
 町なかを歩いていて「水の多い町だなあ」と感じました。吉田川を中心に乙姫川、小駄良川、さらに小さな水路があり、実に水の豊富なところです。また木造2階建ての町家は、防火目的の2階から突き出た三角形の防火壁が印象的です。しかも特定の通りだけではなく、いたるところに古い町並みが見られます。いま江戸時代から続く郡上踊りが全国的に知られるようになりました。1ヶ月間踊り続け、最後の4日間は徹夜で踊り明かします。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
 
 美濃(みの)/美濃市泉町
 
   
▲うだつのある商家が続きます  ▲重要伝統的建造物群保存地区 
   
▲市指定文化財の旧今井家住宅  ▲明治時代初期築の古川家住宅 
城下町として発展しました
 美濃は金森長近氏が小倉山に城を築いたことから,城下町として発展しました。町も碁盤の目状態でわかりやすく形成されています。長近没後は,城主長光が幼くして死亡したあと尾張藩となりました。
壮観なうだつのある建築群
 それにしてもこれほど立派なうだつのある町並みは珍しいです。数は徳島県の脇町を上回るのではないかと思います。ギャラリーやあかりアート館なども見どころです。また旧小坂家住宅(写真上)は国の重要文化財に指定されています。小坂家は江戸時代から続く造り酒屋。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 駐車場 クルマは観光用駐車場に停めました
馬籠(まごめ)/中津川市山口 
 
長野県から岐阜県に移りました
 馬籠が平成の大合併で長野県から岐阜県に移りました。旧道を歩いていて、どうもしっくりいかないのも事実です。というのも全体的に「つくりもの」の印象が強いのです。
急斜面の石垣に建つ
 中山道のひとつの宿場町です。街道が尾根の急斜面に沿って通っているいるためか,商家,農家などは斜面の石垣を築き,そのうえに家屋を建てたのです。だからいたるところで石垣を見ることができます。

 中山道のなかでも,馬籠宿はかなり急坂なので,ゆっくり歩きました。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
 
岩村(いわむら)/恵那市岩村町 
 
   
▲横道に入っても古民家がギッシリ  ▲古民家の充実ぶり目を見張ります
平入の町家が中心の古民家群に感動!
 関ヶ原の戦い以後にできた町です。城下町ですが,町家が中心になっています。約120の歴史的建造物が残されていて,かなり充実しています。ほとんどが平入で瓦葺きの2階建てです。
古民家がギッシリの重要伝統的建造物群保存地区
 ひと言でいうと「よくもまあ,これだけの建物が残っているものだ」と感心しました。岩村本通りの約1.3㎞が重要伝統的建造物群保存地区に選定されましたが,裏通りにも,古い建物が多く、見所の多い町でもありました。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 明智(あけち)/恵那市明智町
 
   
▲2階建ての商家が続きます   ▲旧明智町役場/国登録文化財  
「大正村」と呼ばれる
 2度目の訪問です。一度は仕事で来ました。そのとき元祖ソースカツ丼を食べたのを思い出し、2度目はクルマで寄りました。何も変わっていませんでした。どちらかと言えば「大正村」という名前の方が知られているかも知れません。
 大正から昭和の初めの建物が残されています。洋館や瓦葺きの商家、土蔵などさまざまです。駐車場も広く、結構混んでいました。意外にも路地の散策がおもしろいです。
江戸時代は旗本の知行地
 江戸時代は旗本・明知遠山氏の知行地で陣屋がありました。慶長8年(1603)、遠山利景は徳川家康から6700石余を給されました。その後、領主は江戸屋敷に永住。代わりに大手門近くに置かれた陣屋で、代官が知行所を支配しました。
中馬街道沿いの中継地として繁栄
 信州の飯田と名古屋を結ぶ中馬街道沿いの町で、商い荷物の中継地として栄えました。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 明智鉄道明智駅から徒歩10分
大湫(おおくて)/瑞浪市大湫町 
 
   
▲虫籠窓のデザインが印象的です  ▲旧森川善章家住宅・国登録文化財 
江戸時代は尾張藩
 江戸時代は尾張藩に属する木曽衆の山村家,千村家の折半地でしたが,後に尾張藩直属の役所を設置しました。
数多くの宮姫が宿泊したことで有名に!
 大湫宿を一躍有名にしたのは,皇女・和宮をはじめ公家や大名の娘で,幕府に嫁ぐ宮姫などの宿泊地であったことです。8代将軍吉宗に嫁ぐ真宮,9代家重に嫁ぐ比宮,10代家治の五十宮,13代家定への有姫などが,本陣に宿泊しました。美濃16宿のなかで最も高い海抜510mにあるため、旅人も人馬役からも難所とされたからでしょう。
 街道沿いを歩くと土蔵やセガイ造りの町家が並んでいます。なお本陣跡は大湫小学校の校庭にあたります。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大湫公民館に停めました

                   ▲ページの先頭にもどる
赤坂(あかさか)/大垣市赤坂町 
 
   
 ▲いまも色濃く残る赤坂宿の面影  ▲かなり立派な長屋門の残る旧家
   
▲今でも残るお嫁入り普請の館  ▲四つ辻/谷汲街道がココから延びる 
中山道沿いの宿場町
 中山道の宿駅として指定された赤坂宿は江戸から数えて57番目の宿場町です。金生山(きんしょうざん)を背にして,東西に一筋にのびています。寛政12年(1800)には,人口969人,246軒と記録にあります。
和宮降嫁のお嫁入り普請
 ところで文久元年(1861)の和宮降嫁のとき,その一行が宿泊。そのため事前に54軒もの家が建て直したそうで,それを「お嫁入り普請」といいます。短期間での工事であったため,街道沿いの表側だけが2階建てという建物もあり,数は少ないが,現在でも残っているそうです。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
船町(ふなまち)/大垣市船町 
 
   
▲古民家は少なくなりました  ▲河川港として発展した水門川 
江戸時代は河川港として発展
 江戸時代は大垣城下のひとつ。城下町南部の町屋地域でもありました。俗に瓶屋(かめや)町とも呼ばれたとか。瓶がたくさんあったそうですが、定かではありません。町内を美濃路が通り、人や物の移動が盛んなところでもありました。またソバを流れる水門川は大垣城の外堀でしたが,流れが穏やかで水量が安定していることから,舟運が栄え河川港として発展しました。その影響で,各種問屋街を形成しました。
芭蕉『奥の細道』最後の地
 俳人・松尾芭蕉は約5ヶ月かけて東北・北陸地方を旅し、その距離は約2400kmにもおよびました。その旅を終えたのがココ大垣です。つまり『奥の細道』の旅を終えた地です。約2週間ほど大垣で滞在して地元の人々と交流したあと、水門川を舟でくだり桑名へ向かったといわれています。
 「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」
 と詠みました。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは総合福祉会館の駐車場に停めました
 
 藤江(ふじえ)/大垣市藤江町
 
   
▲藤江町5丁目あたりを歩いていますと、旧妓楼と思われる建物が見られます
江戸時代から壊滅、再建を繰り返した遊郭
 江戸時代は大垣藩。村高は400石前後で、美濃路沿いの集落でした。隣の大垣宿に助郷として出役。他に岐阜街道も通り、かなりの人出があったようです。そんな人出もあって、幕末から数軒の妓楼が許可されたのが、遊郭のはじまりです。いったんは県令ですべての遊郭は廃止になりましたが、明治22年に一部業者によって再建され、その後濃尾大地震で壊滅。しかし大正時代にまたまた再建。昭和初期になると貸し座敷18軒、200人前後の娼妓がいたと推定され、この頃が最も華やかな花街でもありました。しかし第二次世界大戦で再び壊滅しましたが、戦後になってすぐに営業開始。それも昭和34年の売春防止法施行で終焉を迎えました。
かろうじて残る「旭遊郭」の面影
 いま歩いて見ますと、あちこちの妓楼、お茶屋とおもわしき建物が残っています。いずれも唐破風や2階の窓の手すり、凝ったデザインの窓など、往時の面影を見ることができます。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東海道本線大垣駅からバスで藤江町三丁目下車、徒歩15分
 墨俣(すのまた)/大垣市墨俣町墨俣
 
   
▲脇本陣跡/明治に入って再建される  ▲墨俣一夜城/現代は歴史資料館  
   
▲岐島屋百貨店/市の歴史文化遺産  ▲殿町通り/料亭、妓楼など旧花街 
木下藤吉郎が「豊臣秀吉」になる出発点
 墨俣といえば、木下藤吉郎が一夜にして築いたと言われる墨俣城があまりにも有名です。藤吉郎が「天下人・豊臣秀吉」となる出発点でもあったからです。ただ築城年月については諸説あります。江戸時代は美濃路の陸上交通と長良川の河川交通が交わる交通の要衝でした。元禄年間の人口が1200人を越えたというから大変な賑わいぶりでした。
旧遊里、脇本陣、商家など往時の面影が残る
 六斎市も開催され、造り酒屋3軒、茶屋7軒、旅篭屋12軒、各種問屋も建ち並んでいたそうです。いま、あちこちに古民家が残り、往時の面影が見られます。殿町通り辺りの旧遊里、格子、虫籠窓などのある商家、本陣跡、脇本陣跡などひとかたまりになっています。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東海道本線大垣駅からバスで墨俣下車、徒歩10分
 
 寺町(てらまち)/大垣市墨俣町墨俣
 
江戸時代に他所から寺院が移転してきました
 江戸初期、元和5年(1619)に尾張藩領となりました。寺院は江戸時代になって他所から移転してきたのですが、理由はさまざま言われております。
6寺院が集まった“ミニ寺町”
 例えば藩の防衛政策上とか、当時、六斎市などで繁栄していた宿場に近いところに集まってきたとか、豊臣秀吉の恩顧のある寺院は天正年間にこの地に移転してきたとか……。等覚寺が唯一創建当時からこの地にありました。 いま6寺院で構成されており、“ミニ寺町”といったところでしょうか。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR東海道本線大垣駅からバスで墨俣下車、徒歩5分
萩原(はぎわら)/大垣市上石津町牧田 
 
   
▲棟割り長屋風の古民家  ▲ほとんどリニューアルされています 
古くは七草の一つ萩の群生地
 江戸時代は旧和田村の小字でした。養老盆地の出口にあたる牧田川と藤古川の合流地点にある集落です。扇状地でもあり、古くは七草の一つ、萩の群生地でもあったと推定され、地名の語源ともいわれているとか。
「萩原」バス停の両側の奥に古民家
 国道365号線(牧田川やまざくら街道)の萩原バス停を挟んだ両側に古民家が広がります。八幡神社のある西側にはこぢんまりした家屋が建ち、国道の東側は旧家などやや敷地の広い古民家が並びます。ただリニューアルした家屋も目立ちます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道美濃高田駅から名阪近鉄バスで萩原下車すぐ
 
和田(わだ)/大垣市上石津町牧田 
 
   
▲旧道沿いには蔵や石積みのある古民家など連なります  
“和田川やまざくら街道”の観光コース
 牧田川沿いを走る国道365号線を歩きながら和田橋を渡ると和田地区に入ります。旧牧田村の小字にあたります。365号線は「牧田川やまざくら街道」と呼ばれ、観光コースにもなっています。そのコースから一歩裏手に入ると旧道が通り、古民家の連なる和田集落となります。古くから牧田川は氾濫の多い川でした。地名“和田”の語源をたどると川の曲面にある小さな平たい部分を指します。
旧道沿いに広がる古民家
 舟運は牧田川から揖斐川に出て、伊勢湾へとつながります。農産物は牧田宿を中継地点として、陸も河川も交通の要衝となったのです。旧道の両側には、改装されていますが、虫籠窓や格子のある蔵造りの古民家が見られます。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道美濃高田駅から名阪近鉄バスで和田下車徒歩5分
  一之瀬(いちのせ)/大垣市上石津町一之瀬
 
   
▲桑原家住宅/国の重要文化財   ▲本善寺/市の天然記念物カゴノキ
江戸時代、他村との境界争いは深刻でした
 古くは市ノ瀬とも書きました。牧田川上流に位置する盆地にあって、その牧田川にそそぐ支流沿いにある古民家群です。江戸時代は尾張藩領で、村高は300石前後。川沿いに田が広がりますが、農閑期は山仕事が多いかったようです。それだけに下多良村や鍛治村との山境争いは深刻でした。元禄7年(1694)から中山道今須宿の助郷を務めていますが、かなりの負担になったようです。米の他にナス、里芋などの畑作、炭、藁などが主な産業でした。
沢沿いに古民家が点在しています
 バス停一之瀬で降りて重文の桑原家住宅を目指します。小さな沢沿いを上流に向かって歩きますと、古民家が続きます。もちろん現代住宅も見られます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道美濃高田駅から名阪近鉄バスで一之瀬下車徒歩10分
 
下多良(しもたら)/大垣市上石津町下多良 
 
   
 ▲手入れの行き届いた土壁の蔵 ▲改築、改装された古民家 
八幡神社付近に古民家
 多羅とも書いたようです。古文書には本当か嘘か、山賊の巣窟となったこともあったとか。中世では多羅村の南に隣接する時(とき)村とともに、「土岐多良庄」や「時多良郷」と称されました。牧田川の上流にあって、養老山脈と鈴鹿山脈に囲まれた盆地。そのせいか地味は肥えていました。そのため多良村は村高は3000石を越えていました。しかし江戸中期になると、24か村に分村。江戸末期になると幾つかの村を含めて多良村になり村高900石余。その後明治中期に、上多良、下多良に分村しました。まさしく離合集散を繰り返しました。米のほかに甘藷、ダイコンなど作物も豊富で、伊勢街道も近く物流には事欠かなかったようです。
山奥にバスが入ってきました
 昭和に入って多良自動車(株)が設立され、交通の便がいちだんと良くなりました。古民家は、かつて村が建立した八幡神社付近にわずかに見られます。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道美濃高田駅から名阪近鉄バスで下多良下車すぐ
 
祢冝上(ねぎかみ)/大垣市上石津町祢宜上 
 
神職を兼ねた豪族がいたのか…
 まず珍しい地名です。祢宜は神職こ呼称で、神に仕える人を指します。昔から神職を兼ねた有力な豪族が住んでいて、それがそのまま地名になったのではないかと言われています。祢宜氏が住んだのでそのまま祢宜村となったのでしょう。 ちなみに近江国に居た中臣氏は大垣市が出自で、祢宜職を務めていたとか。江戸時代は高木家の所領で村高は100石余と小村です。祢宜村と上村が合併して祢宜上村。
旧道沿いに旧家の残る小さな集落
 明治13年の人口は251人、54軒です。旧道沿いに頑丈な石積みの上に長い板塀の続く旧家が見られます。かつては神職だったのでしょうか。また、このあたりには、ところどころに古民家も見られます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道美濃高田駅から名阪近鉄バスで祢宜上下車すぐ
 
宮(みや)/大垣市上石津町宮 
 
   
▲旗本西高木家陣屋/県史跡  ▲旗本東高木家土蔵/市文化財  
大規模な農民一揆が勃発
 江戸時代は旗本の多良高木三家の知行地でした。村は当所多良村でしたが、江戸中期に分離独立し宮村となりました。高木家は代々当地に居住しており、村高は170石前後と小村。天保3年(1832)の江戸末期、高木家が焼失し以後財政が破局に陥り、農民の税負担が増大。結果、大規模な農民一揆が勃発しました。首謀者が処罰されましたが、そのまま幕末を迎えます。
長屋門や土蔵などの文化財
 いまこの辺りは「美の衆陣屋跡」として史跡に指定されています。歩いていますと、白壁が続き、うろこ壁の土蔵や板張りの蔵など、道路沿いに古民家が見られます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 養老鉄道美濃高田駅から名阪近鉄バスで宮下車すぐ
 
養老(ようろう)/養老町高田 
 
   
 ▲かつては遊郭でもありましたが、いまは一般住宅に変わりつつあります
美津濃の養老工場がやってきた!
 古来、高田某が居住していたことが地名の由来とか。中世からの歴史ある所です。明治の濃尾地震で壊滅的な打撃をうけましたが、その都度立ち直りました。大正2年に養老線が開通すると、町は一気に発展します。保健所や税務署なども設置され、まさに高田は政治経済など養老町の中心地となりました。スポーツ用品メーカー・美津濃の近代的な養老工場ができたときは、町中が大騒ぎなったとか。実は私も見学に行ったことがあります。
旧花街を彷彿させる住宅群
 県道沿いに幾つかの町家が見られますが,一歩裏道に入ると,旧花街であった建物が,多く残されており一般住宅とて使われているのです。昭和40年代までは芸者さんがいたそうです。置屋も6軒もあったというから、立派なものです。
 ベンガラの壁が往時の面影を残しています。いまは取り壊されつつあり、空き地が目に付くようになりました。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは養老郵便局に停めました
押越(おしこし)/養老町押越 
 
迷路とともに古民家がギッシリ
 江戸時代は高須藩、幕府が交互に支配。最終的には幕府領大垣藩の預かり地となっています。村高は750石弱で、そこそこの収穫があったようです。米のほかに菜種、大麦、小麦などの栽培が盛ん。ただ地勢的にも水害が多く、水で苦しんだ村民たちの労苦が古文書に見られます。明治に入って大垣と養老の滝を結ぶ古街道として発展しました。押越はその一部分ですが、寺院や小さな社が見られます。街道からそれると迷路となり、古民家がギッシリ詰まっています。しかしよく見ると壁などはほとんどがリニューアルされており、往時の面影も薄れています。
養老焼肉街道!?
 少し離れた県道56号線は通称“養老焼肉街道”と呼ばれており、焼肉店が集中しています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道美濃高田駅から徒歩20分
烏江(からすえ)/養老町烏江
 
江戸時代は河川港として発展
 船附湊、栗笠湊と共に濃州三湊といわれ、江戸時代に繁栄した港町でした。いわば河川港であります。この三湊と琵琶湖の朝妻湊を結ぶ道を九里半街道と呼ばれていたのです。つまり近江や美濃、尾張を結ぶ物流の拠点として機能していたのです。しかしその後の鉄道、道路の整備などで次第に衰退していきました。
「烏江湊跡」碑から古民家が見られます
 いま烏江駅から歩いて数分の牧田川堤防脇に「烏江湊跡」碑がポツンと立っています。集落は碑の辺りから始まります。わずか100mほどと短いですが、往時を彷彿させます。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道烏江駅から徒歩5分
 栗笠(くりがさ)/養老町栗笠
 
   
▲旧妓楼のある旧道から急階段を降りると古民家が連なっていました 
江戸時代は河川港として発展しました
 濃州三湊の一つといわれたこの地は、関東と北陸、京都を結ぶ交通、経済、さらに軍事でも重要地であると考えた江戸幕府は、直轄地として支配しました。元和5年(1619)からは、尾張藩の支配下となりました。酒屋、味噌屋、菓子屋、茶屋、料亭、各種問屋など繁栄。さらに六斎市もできるなど河川港を中心にたいへんにぎわいました。しかし明治維新を迎えると、尾張藩の保護もなくなり、地勢的にも扇状地川である牧田川の底が土砂で堆積し、舟の接岸が困難になったということもあり、明治末期から衰退しだします。
●旧茶屋、妓楼などが残されていました
 いま歩いて見ますと、堤防上の旧道沿いに、妓楼や茶屋らしき建物が残されています。改装はされていても、ひと目でこのあたりは、かつて遊里であったことがわかります。堤防上の道から急階段を降りると、古民家の連なる集落へと出ます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 養老鉄道烏江駅から徒歩20分
 
垂井(たるい)/垂井町 
 
   
▲旧旅籠・丸亀屋/安永6年(1777)築・現在も旅館として営業   ▲土蔵造りの商家で文化年間(1817年ごろ)に建てられた
中山道の宿場町
 旧中山道の宿場町です。寛政年間(1789-1801)には45軒の旅籠があったといわれています。総件数315軒で,ほとんどが商売人が軒を並べていたそうです。現在では長浜屋が残っており、再生、保存しお休み処として公開されています。
街道から裏に回ると土蔵も残ります
 垂井宿を紹介した写真のほとんどは格子戸のある商家ばかりです。でも街道から横に入ると黒壁の土蔵が見られます。落ち着いた街並みはいいものです。

 このあたりは赤坂宿、関ヶ原宿、醒ヶ井宿へと続きます。一度は連続して歩いてみたいものです。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR東海道本線垂井駅から徒歩5分
 
関ヶ原(せきがはら)/関ヶ原町関ヶ原 
 
その後、交通の要衝として発展しました
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは,あまりにも有名です。その後徳川家康の天下となり,中山道が急速に整備され,さらにここに宿駅が置かれたのです。同時に北國脇往還,伊勢街道の分岐点にもあたり,交通の要衝として大変な賑わいとなりました。天保14年(1843)には,旅籠が33軒もあったそうで,美濃16宿中,最も賑わったとか。
黒板塀の醸造蔵が並ぶ
 いまは往時の面影はほとんど見られません。かろうじて国道21号線から横に入った「関ヶ原たまり」の関ヶ原醸造の蔵群が並ぶ程度です。
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは関ヶ原郵便局に停めました
 

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