江戸川区

 平井(ひらい)/江戸川区平井3丁目
 遊里であったころの遺構。
   
 ▲料亭まじま/老舗の料亭です  ▲いまは飲食店になっています
   
 ▲旧富塚医院/近代木造住宅です ▲時折、古民家が点在します 
入江のような地形でした
 はるか昔,ヒラエ(平江)と呼ばれ,江戸川デルタ地帯一画で入江のような地形だったのです。そのため区内には島,崎,江,井,河,堀など川と水にまつわる地名が多いのはそのためです。また「井」は井戸や水路の意味を持ちます。そして江戸時代は下平井村の一集落でした。中川(現・旧中川)に渡船場があり,立花(旧葛西川村)と往来できました。
破風に遊里の面影を探す
 もう一つの顔が,戦前,戦後の一時期、遊里であったことです。料亭,旅館,妓楼,飲食店などが集中。いまは残された建物の破風や庇などに往時の面影が見られます。 
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 交通 JR総武線平井駅から徒歩10分
 東小岩(ひがしこいわ)/江戸川区東小岩
 
●農作物を江戸に出荷し、帰りは下肥を持ち帰る 
 江戸時代から水運が発達し、江戸へ農作物を運んだ帰りに、下肥(しもごえ/人の糞尿)を持って帰えられるという利便性の高いところでした。千葉街道が横断し、和傘の製造が盛んだったころもあります。その和傘も洋傘に押されて衰退しました。
演劇舞踊傘に特化して伝統を守っています
 しかし日本でただ一軒、歌舞伎専門の和傘屋・藪田棟四郎(やぶたとうしろう)さんが、演劇舞踊傘に専念されています。その後、子息の武(たけし/区指定無形文化財工芸技術保持者)さんが伝統を引き継いでいます。
善養寺周辺や旧道沿い
 多くの文化財を有する善養寺周辺や千葉街道の旧道沿いにも古民家が多く見られます。同じ小岩でも歴史の蓄積度が高いように思われます。 
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 交通 JR総武線小岩駅から徒歩15分
 上篠崎(かみしのざき)/江戸川区上篠崎
 
竹や笹の群落が見られた?
 地名の篠崎は砂州の上の土地で、しかも篠竹(しのだけ)の茂っていた土地、と言われています。篠は細く小さくて、群がって生える竹や笹の総称で、篠竹という名の植物はないそうです。江戸時代、すでに上篠崎、下篠崎と分かれていました。低湿地の続く小高い場所があって、そこに集落が生まれ、竹や笹の群落があったのかもしれません。
“篠崎ざる”の技術が守られています
 江戸末期から明治、大正になってからざるが盛ん作られていました。昭和に入っても農家の駄賃稼ぎに作られていましたが、大部分の竹は房総産を用いていました。当時は“篠崎ざる”と呼ばれていましたが、需要は激減。わずかに草薙秋男、草薙重一の両氏によって技術が守られています。いずれも無形文化財工芸技術保持者です。
篠崎浅間神社あたりに古民家が点在
 いま町を歩いてみますと、大部分が現代住宅で古民家らしき建物は見当たりません。しかし篠崎浅間神社あたりにくると、古民家を見ることができます。 
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交通 都営地下鉄新宿線篠崎駅から徒歩15分
 鹿骨(ししぼね)/江戸川区鹿骨
 このあたりは美しい植栽が続きます
 「鹿見塚」の小さな石碑があります  『新編武藏風土記稿』では五社神明社とあります
 ▲地名由来の鹿見塚神社  ▲草分け五家の氏神・鹿島神社
   
 ▲本城寺/下總国本土寺の末寺 ▲板張りの古民家も健在です 
神鹿がこの地で急に亡くなりました
 鹿島大神(常陸)が奈良の春日社に向かう途中,大神の杖となっていた神鹿(しんろく)がこの地で急逝。里人たちが手厚く葬るとともに築いた塚が鹿見塚。鹿骨の地名はこれに由来するとか。
室町時代からの農村集落
 室町時代,上州から,石井(二家),牧野,田島,中代の五家がこの地に移り開拓しました。いまも草分け五家の子孫が住んでいます。つまり室町時代から農村集落でした。鹿島神社は、五家の氏神を合祀したものです。
古民家は温室の合間に見られます
 いまはほとんどが温室栽培による花卉生産が行われています。その間に建つ古民家が歴史を感じさせます。
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 交通 JR総武線小岩駅からバスで鹿骨区民館下車徒歩5分
 一之江(いちのえ)/江戸川区一之江
 
   
 ▲城東電車/昭和27年に廃止  ▲感応寺/梵鐘は元禄11年の鋳造
●開発者の堀田図書は豊臣方? 小田原北条の家臣?
  江戸時代初頭,豊臣方の武士・堀田図書(ほったずしょ)は,関東に逃れ,西一之江村の田島方に名を田島図書に変えて寄寓。そこで,家康の命により東一之江村の北部を開墾,一之江新田として明治維新まで土着、名主を世襲。しかし、小田原北条氏の旧臣で、もともと当地の開発領主であった、という説もあります。田島家の墓は春江の城立寺にありますが、田島図書が開基したとか。
まだまだ残る古民家
 現在、歩きますとほとんどがマンションや現代住宅ですが、一之江6、7丁目の辺りに古民家が残っており、寺院や、屋敷林も多く見られます。
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 交通 都営地下鉄船堀駅から徒歩15分
 春江(はるえ)/江戸川区春江町2丁目
 
 明治維新まで世襲されていました  豊臣方のころの甲冑や刀はこの寺に埋め込んだと言われています。そして寺を建立したそうです。
 ▲一之江名主屋敷(安永年間築)  ▲田島図書が開基した城立寺
往時の区割りが残ります
 かつて椿と呼ばれた土地が一之江新田にありました。またこのあたりは入江であったこともわかっています。
 城立寺(椿寺)付近に椿が群生しており、椿という地名の由来もそこからきたと推定。さらに浄興寺(江戸川2丁目)にある順定和尚の墓石には「椿村」とあるところから、ある程度まとまった集落だったようです。
わずかに残る椿の名前
 それはともかく、「椿」と「入江」を合体して春江と昭和初期に命名されました。今は新田らしく土地は比較的格子状に区割りされ,一部には豪農や名主らしく、屋敷林と同時に、かなり大きな区割りも残されています。椿という名は橋や通りに残されています。
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 交通 JR総武線小岩駅からバスで名主屋敷前下車徒歩5分
 東葛西(ひがしかさい)/江戸川区東葛西
 
   
 ▲自性院/文亀2年(1501)の開山  ▲清光寺/長島高城の跡地と推定 
   
 ▲桑川神社/旧桑川村の鎮守、富士塚も  ▲香取神社/長島の富士塚(文化財) 
   
 ▲称専寺/芝増上寺の末寺   ▲きのこの卵とじそば(390円東西そば)
長島高城(城館)築城の記録があります
 東葛西には約10ヶ寺の寺院が点在します。中世は、河川交通の要衝で、湊(長島津)もありかなり賑わいました。南北朝時代は、香取神宮が長島関を設けて税を徴収。さらに湊を守るために小田原北条氏が、「長島高城」(城館)を造った記録があります。現在の清光寺にあたります。城館にちなむ地名も伝わり、いまは発掘調査を待つだけ。
信仰厚い武家が創建しました
 1500年代に開山した寺が多いのは、信仰厚い武家たちが、創建したと推定。また集落の鎮守として神社も数多く見られます。いま歩いていますと、住宅と寺院が混在。葛西で最も歴史が古い。
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 交通 地下鉄東西線葛西駅から徒歩15分

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