青森県

○浅虫温泉(あさむしおんせん)/青森市浅虫字山下 
 
江戸時代、弘前藩18湯の一つ
 古来、麻蒸と書いたこともあるとか。しかし火災の多かったことから村人たちから嫌われて、浅虫になったといういわれがあるとか、定かではありません。平安時代、円光大師が東国巡教の折、シカが温泉に入っているのを見て発見したと言われています。江戸時代は弘前藩領で、弘前藩18湯の一つ。藩主の御休所が設けられていました。
鉄道が開通してから一気に発展
 明治に入っても、ひなびた湯治場という感じで、宿は18軒ほどでしたが、明治24年(1891)に鉄道が開通してから、一気に発展しました。いまでは全国有数の温泉地となっています。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはコンビニに停めました 
○弘前(ひろさき)/弘前市馬喰町 
 
   
▲石場家住宅/国の重要文化財  ▲美しい植栽が特徴の武家屋敷群 
塀など簡素な造りが美しい
 2回目の訪問です。一度目は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されていることさえ知らずに、真冬に訪ねてきたものです。寒くて、写真すらまともに撮らずに帰りました。
 しかし、今日は夏の暑い日です。少し歩きました。手入れの行き届いた生け垣、黒の板塀が同じ高さ(上の写真)でそろえてあります。ここは弘前城の北側にある武家屋敷通りです。普通武家屋敷というと、土塀が思い出されるのですが、弘前では生け垣と板塀の組み合わせです。簡素な造りが北国の武士らしさを表しているように思いました。
美観を守っています
 ふと思い出したが毛利藩長府(山口県下関市)の町並みです。長府でも住民は、外側の土塀をきちんと維持して、美観を守っていることです。津軽藩だったこの町の美観も同じように見えました。
 公開屋敷があります。代々藩の医者であった旧伊東家や武士であった旧梅田家など、実に質素でいて簡素、茅葺き屋根が美しいのです。
石場家住宅も忘れずに
 重要伝統的建造物群保存地区の外側で、弘前城北側の堀の前に、石場家住宅(商家)があります。国の重要文化財に指定されています。雪国特有の「こみせ」というアーケード風の軒が造られています。これは同じ青森県黒石市の「こみせ通り」に行けば、規模がもっと大きくなっているのがわかります。
日本最北端の武家屋敷!?
 ところで弘前は、「日本最北端の武家屋敷」のあるところといわれていました。やはりその通りで北海道の松前町(松前藩)にも,増毛町(秋田藩)にも残っていませんでした。 
感動度★★★★
  もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは近くのねぷた村の駐車場に停めました
 
○上白銀町(かみしろがねちょう)/弘前市上白銀町 
 
   
▲旧藤田邸別邸・洋館/国の登録文化財  ▲旧第八師団長官舎/国の登録文化財 
前身は刀剣の鞘(さや)を作る鞘師町でした
 江戸時代はもちろん弘前藩領。正保3年(1646)の津軽弘前城之絵図では、町屋らしき建物が描かれています。さらに慶安2年(1649)の弘前古御絵図には「さやし町」と明記。鞘師(さやし)11軒、飾屋1軒、武家屋敷1軒が居住していました。鞘師とは刀剣を納める鞘(さや)を作る職人をさします。同じ年の大火で鞘師が、上鞘師町と下鞘師町へ移転しました。これにともない武家屋敷の町となり、以後町名も神白銀町となりました。
旧陸軍第八師団長官舎をスターバックスが利用
 弘前城のお堀沿いの追手門通りを歩いていますと、近代建築がちょこっと見えました。戦後、アメリカ進駐軍の軍政官官舎として使用された、モルタル塗りの外壁が美しい旧陸軍第八師団長官舎が建っています。瓦葺きで和洋折衷、大正6年築の国の登録文化財。よく見ますと、スターバックス(弘前公園前店)の店舗となっています。弘前市内の1号店でもあります。アメリカ進駐軍に続き、やはりアメリカのコーヒーショップチェーンが利用しています。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは弘前市役所の駐車場に停めました
 
○禅林街(ぜんりんがい)/弘前市西茂森 
 
   
▲宗徳寺・山門/石田三成・三男の墓  ▲通りをそれると庫裏も連なります 
禅林街33ヶ寺は江戸時代初期に形成
 慶長15年(1610)、弘前城および城下町の建設がはじまりました。そのとき城下の南西部に位置する洪積台地のはずれに、長勝寺など禅宗(曹洞宗)の寺院が集まられました。禅林街の名は禅宗からきています。一角には濠と土居が築かれ、これを長勝寺溝といいました。一帯は長勝寺を中心とする上寺(うわでら)、宗徳寺を中心とする下寺(したでら)に分けられています。上寺の入口には黒門があり、下寺の入口には赤門があります。
軍事と信仰の統一の意味合いがありました
 長勝寺溝は城の南西部を固める軍事的な意味があります。いざというときは寺院群を防波堤にしようというわけです。もう一つは、寺院を集中することで、信仰の面から領民の統一を図ろうという狙いもありました。いまは当時の形態がほぼ残されています。
宗徳寺は吉永小百合さんCM『大人の休日倶楽部』に登場
 今回は禅林寺街は大小2つの通りがあります。幅広い通りは寺町の風情が全く感じられないので、宗徳寺の赤門をくぐって狭い方の下寺通りへ入りました。写真のように小ぎれいな町並みです。突き当たりが宗徳寺の風格のある山門が見られます。クルマも人通りも少ないので、のんびりと歩けました。ちなみに宗徳寺は、女優・吉永小百合さん出演のCM・JR東日本『大人の休日倶楽部』にも登場しています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○新寺町(しんてらまち)/弘前市新寺町 
 
   
▲弘前藩三代藩主・津軽信義によって、大火後の移転計画をすすめました
大火で多くの寺院が移転してきました
 慶安2年(1649)の寺町(元寺町)の大火により、焼失した寺院が移転してきました。町名は元寺町に対して新寺町と命名。万治2年(1659)の『津軽弘前古絵図』には町名はないが、7ヶ寺の寺割りが明記されています。また貫文13年(1673)の『弘前中惣屋敷絵図』では、元寺町から移転してきた10ヶ寺が明記されています。ただ新寺町は寺院だけではなく、町屋46軒や武家屋敷1軒が移転。その後各地から寺院がポツポツとやって来ました。町屋も一時期100軒を超しました。
“加藤味噌”が趣のある建物として市が指定
 明治に入って町の分離独立があって、町域が狭くなり、明治初年の『国誌』によれば、寺院は14にまで激減。新寺町は多くの町屋と混在しており、特に加藤味噌醤油醸造元は明治4年に創業、地元では“加藤味噌”として知られています。昔ながらの建物で、ほとんど増改築はされていないとか。平成20年度の「趣のある建物」として弘前市から指定されています。そのせいか寺院街を歩いても、特に感動はしませんが、加藤味噌の古建築は、異彩を放っていました。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
交通 クルマは本行寺の駐車場に停めました
  
○黒石(くろいし)/黒石市中町 
 
見応えのあるこみせ
 青森県や秋田県では、家屋から歩道に突き出たひさしを「こみせ」といいます。雨でも雪でも傘をささずに歩けます。夏は日よけの役割も果たすのです。しかし道路拡張などで、どんどん消えて行きます。ここ中町こみせ通りは、珍しく連続して「こみせ」が残っています。
 重要文化財の高橋家などもあって、実に見応えのある建築物です。新潟県では雁木といい、上越市高田にかなり残っていました。
江戸時代、弘前藩から独立して黒石藩を成立
 江戸時代、弘前藩の分家で4000石を知行していた黒石津軽氏が、宗家から蔵米6000石を分知されて1万石の黒石藩を立ち上げました。そしてその城下町として正式に成立したのです。もっとも、その前の明暦2年(1656)の黒石分家成立当時から、陣屋を中心とする城下町として開けていました。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○浦町(うらまち)/黒石市浦町 
 
「こみせ通り」裏の旧遊郭通り
 江戸時代は弘前藩の分家・黒石藩でした。この地は商業の町で町人地でもありました。明治に入るまで、「裏町」とも書いたようです。重要伝統的建造物群保存地区のこみせ通りから一歩裏手に入ると、かつては「黒石町遊郭」でもありました。妓楼は数軒、娼妓は20人弱と地方都市にしては多いかと思います。娼妓の出身地は地元青森県と秋田県が多いとか。
中村屋旅館は健在です
 いま歩きますと当時の建物は中村屋旅館のみで、他の建物はかろうじて面影を見ることができる程度。中村屋旅館はいまも宿泊できます。
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは黒石市市役所の駐車場に停めました
○温湯温泉(ぬるゆおんせん)/黒石市温湯 
 
   
▲土岐温泉客舎/洋館風の湯治宿(廃業)  ▲後藤温泉客舎/湯治宿の雰囲気満載 
傷ついた鶴を癒やした温泉
 その昔、脚の折れた鶴が沢で動かずにいました。やがて鶴は傷が癒えて飛び去りました。村人たちはココに温泉があることに気がついたのです。そこで鶴の湯と呼ばれたそうです。いま共同浴場の名前が「鶴の名湯」と呼ばれているゆえんです。
弘前藩士もたびたび訪れています
 開湯は定かではありませんが、『津軽一統志』によれば戦国時代の天文年間(1532-55)に「熱後湯(ヌルユ)」と明記されているそうです。400年以上の歴史を誇ります。さて、江戸時代の初めは弘前藩領でしたが、後に分家の黒石藩領となります。歴代の弘前藩士もたびたび訪れていました。
当初は遊女宿は禁止でしたが……
 享保19年(1734)の藩から申渡しの覚書きに、数々の役目や上納金について書かれていますが、風紀上の問題から湯治客目当ての遊女宿が禁止されています。ところが約40年後の安永10年(1781)『手本山形道中記』には、揚屋(あげや)があり、春秋になると青森・鯵ヶ沢から遊女を集めたと記載。江戸時代の旅行家・菅江真澄も30軒ばかりの湯屋が軒を連ねると記していました。ところで揚屋とは、遊女を呼んで遊ぶことのできる店のことです。
夜は静かな温泉街です
 温泉地はそれほど広くはありません。共同浴場の「鶴の名湯」を中心に木造建築の湯治宿風の宿が連ねています。ブラブラと歩きながら端から端まで歩きました。飲食店はありますが、歓楽街というものが見当たりません。多分、夜はとても静かな温泉地なのでしょうか。そのぶん、宿で宴会用のコンパニオンを呼んでくれるとか。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは道端に停めました
 
○七戸(しちのへ)/七戸町七戸 
 
   
▲国の登録文化財の旧七戸郵便局  ▲創業250年余の(株)盛田庄兵衛
意外に多い古民家
 江戸時代は盛岡藩の代官所,宿駅なども置かれ,中期になると次第に商業が発展しました。もちろん当時の面影はありませんが,町を歩いていると,スレート葺きの大きな切り妻屋根の町家が目に付きます。
後白河法皇も誉めた七戸の馬
 『吾妻鏡』によれば、源頼朝が朝廷に馬20頭を献上したとあります。後に後白河法皇が良い馬である……といったとか。その馬は七戸周辺の馬を指すそうです。平安時代末期から、七戸とその周辺から馬が存在していたのは確実といわれ、生産も行っていたようです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは七戸町役場の駐車場に停めました
○二枚橋(にまいばし)/むつ市大畑町二枚橋
 
考古学ファンがアッと驚いた
 二枚橋の名を有名にしたのは,昭和41年,東北大学考古学研究室によって発掘された結果でした。弥生時代の遺跡から縄文晩期の遺物が多数出土しその後「二枚橋式」と言われ、全国の考古学ファンを喜ばせました。
素朴な板張りの民家
 さて,大畑道(国道279号)沿いに板張りの民家が数多く見られます。素朴な印象を受けます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○大湊(おおみなと)/むつ市大湊上町 
 
明治時代、村民は貧しく北海道へ出稼ぎで生計
 明治初年,下北半島に旧会津藩の斗南(となみ)藩が封ぜられたとき,奥羽の長崎として産業の発展をはかろうとして,大いなる根拠地として命名されたそうです。入封といっても実際は原野の開拓で,その後も村は貧しく,村民のほとんどは,北海道の漁場への出稼ぎで生計を立てていました。
海軍の町として発展
 明治35年,水雷団が設置され,その後海軍の町として発展していくのです。国道338号線を走っていますと,自衛隊の占める大きさを実感。
 古民家は国道沿いと,大湊港沿いの細い路に見られます。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはむつ市中央公民館駐車場に停めました
○川内(かわうち)/むつ市川内町 
 
海沿いの街道に古民家
 江戸時代末期は90%が山林で,川内川の河港からはヒバ材を中心とする木材の積み出し港として栄えました。そのため,越前・三国から移転してくる商人もいたそうです。また藩の湊役所も設置されました。
 同時に海産物として,サケやタラなどの豊漁が続くことが多いようでした。いまはホタテの養殖が盛んです。
 国道338号線沿いを歩きました。白壁に土蔵や平入りの出格子のある町家などが,そこかしこに見られます。また裏道にも古民家が残っています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはバスターミナル内の駐車場に停めました
 
○九艘泊(くそうどまり)/むつ市九艘泊 
 
諸国から廻船がやってきました
 下北半島の西南端にあり、陸奥湾入口に位置します。古くから港として利用されていました。正保4年(1647)の『南部領内総絵図』には「九艘泊湊」として描かれ、大畑、大間、奥戸、大平とともに諸国廻船の出入りが認められていました。また北海道の松前へも航路があったようです。
広い庇の上が魚の干し場
 県道の行き止まりの集落です。1階の広い庇の上が魚を干す場所になっています。港に面した道路沿いにあって,漁具などを入れる倉庫と作業場になっています。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは港の空き地に停めました
 
○福浦(ふくうら)/佐井村長後福浦 
 
小説、映画『飢餓海峡』の舞台 
 水上勉原作の推理小説『飢餓海峡』の舞台になったところです。昭和22年,函館で殺人事件を起こした犯人(映画では三國連太郎さんが演じています)は小舟を盗んで海峡を渡り、下北半島に上陸する所が仏ヶ浦なのです。ここで小舟を焼いたあと、森林鐵道とバスで大湊へ逃走します。後に刑事役で高倉健さんも出演されています。歌手・石川さゆりさんも『飢餓海峡』を歌っています。
舟小屋がズラリと並ぶ
 さて,江戸時代は福浦村といい南部盛岡藩の領地で田名部に代官所を置いて支配していました。また交通の不便な所で,零細な漁村でもありました。長後村と牛滝村とに挟まれて,繁栄から取り残されていきます。小さな港に沿って舟小屋が並んでいます。作業場と倉庫です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 

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○尾上(おのえ)/平川市猿賀遠林 
 
   
▲国の名勝である盛美園  ▲植栽越しに土蔵がのぞく 
「農村景観百選」
 江戸時代は弘前藩の所領で,村内を南北,東西の街道が交差する十字路となっていました。交差する街道は、秋田街道と碇ヶ関道のことです。藩政時代から植木,造園が盛んで,今に伝えられています。八幡崎地区は「農村景観百選」でもあります。農水省が選定したもので「美しい日本のむら景観百選」ともいい、庭(つぼ)と生け垣の美しい町並みということで選ばれました。
弘南鉄道の開通で一気に発展します
 町が発展した大きな要因の1つに昭和2年(1927)の弘南鉄道(弘前-尾上)が開通し、津軽尾上駅の開設があります。産業、宅地開発が進み、駅前には商店を中心に市街地が形成されました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは盛美園の駐車場に停めました
 
○金屋(かなや)/平川市金屋中松元 
 
   
▲小野智栄家住宅土蔵  ▲小野長道家住宅土蔵 
   
▲小野幸満家土蔵 ▲佐藤義秋家住宅土蔵 
   
▲駒井忠雄家住宅土蔵  ▲蔵以外にも古民家が多く残ります 
40棟もの国の登録文化財・農家蔵が集積!
 金屋地区には、国の文化財に登録されている農家蔵が40棟もあります。これは青森県内でも文化財の集積度としては、かなり密度の高い地区といえます。しかもいずれも漆喰をほどこした土蔵です。さらに各農家には“つぼ”と呼ばれる大小の庭園が存在しているのも特徴です。そのためか農村景観百選やかおり風景百選に選ばれています。そして冬になるとこれらの農家蔵を対象にライトアップが行われ、雪国の美しい農村風景が見られます。でも昼下がりの平日は、どこにでも見られる平凡でとても静かな農村でした。
地味は悪く、村の各付けは“下”でした
 地名は、周辺から出土した古代の製鉄遺物に由来するするそうです。江戸寺時代は弘前藩領です。土の質があまりよくないようで、稲作や畑作がイマイチでした。『国誌』には土は下の下とあり、胡麻の育成や茎で織ったとあります。元禄3年(1690)の『平山日記』では村の格付けは“下”。宝暦9年(1759)の『郷村位付帳』でも村の格付けは“下”です。村高は書物によってかなりの差があります。『正保高帳』では125石とわずかですが、だいたい500石弱とあり、新田開発や開墾地での作物の育成に力を入れたようです。
リンゴ栽培で村は一気に活気づきます
 明治に39年にリンゴの本格的な栽培がはじまります。これによって村は一気によみがえります。分割払い下げの共有山を開墾して園地を造成。金屋リンゴ出荷区組合の結成など、リンゴ栽培は農家を活気づかせます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは農家蔵の館の駐車場に停めました
 ○尾上栄松(おのえさかえまつ)/平川市尾上栄松
 
   
▲笠松の十字路を中心に大型の古民家が点在しています 
切妻型の大型木造住宅が連なります
 江戸時代は弘前藩領。栄松は旧尾上村の小字で中心地でした。集落は十字路(現・尾上郵便局付近)を中心に広がり、南方には猿賀代官所があります。いまは跡地に碑が立っています。いま歩いて見ますと、切妻型の大型木造住宅が点在しています。また近江商人と深い関係にあるといわれています。
江戸時代初期から近江商人が相次いで移住
 貞享年間(1684-88)に近江商人がやってきて、各種商店、質屋、貸金業、油絞り業、醸造業など商業、加工業などを営みます。そして享保年間(1716-36)以降は多くの分限者(ぶげんしゃ/金持ち・財産家)が存在しました。特に近江八幡を本拠にした西谷家はその代表的な近江商人。のちに西谷伊部衛は、宝暦の改革時、郷士として取り立てられています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは尾上郵便局の駐車場に停めました
○大鰐温泉(おおわにおんせん)/大鰐町大鰐 
 
   
▲木造モルタルの看板建築にレトロ感  ▲裏道にも小さな温泉宿がありました 
江戸時代、弘前藩藩主が通いました
 古くは大阿仐(おおわに)とも書きました。江戸時代は弘前藩領。村高は300石弱です。なによりも温泉があり、弘前藩とのつながりも深いようです。温泉の始まりは不明ですが、慶安元年(1648)の『平山日記』には大鰐に温泉がわき湯壺がある等の文が出てきます。翌慶安2年に三代藩主・津軽信義が湯治にきています。以後、湯守に工藤加賀助が任命され「湯ひじり」と呼ばれました。このとき、御仮屋が造営されました。場所は旧加賀助旅館付近といわれていますが定かではありません。また正月7日の七草には温泉熱を利用した野菜を藩に献上しています。
昭和の香りがする温泉町
 いま町を歩いていますと、“昭和感”満載の町並みに気がつきます。切妻型の大屋根のある古民家がポツポツと見られます。でもモルタルの看板建築が多く、なにやら懐かしい気がしました。特筆すべきは、平川に架かる7つの橋梁です。なかにはリベットでつないだクラシックな橋もあって、“川と橋の町”の異名にふさわしいといえます。
浜圭介杯争奪紅白歌合戦
 作曲家・浜圭介さんは数多くの昭和歌謡を発表したヒットメーカーでもあります。満州生まれですが、幼少期に大鰐町で過ごし、大鰐小学校の校歌を手がけたことで大鰐町とのつながりが生まれました。1918年に「大鰐温泉つつじまつり」との連携事業でカラオケ大会を開催。好評だったために、一般公募し新人発掘の場として「浜圭介杯争奪紅白歌合戦」(主催・大鰐町温泉観光協会)へと発展したそうです。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはJR奥羽本線大鰐温泉駅前の駐車場に停めました
 
 ○木造増田(きづくりますた)/つがる市木造増田
 
カラフルな看板建築群
 クルマを走らせているとこんな田舎町に(失礼),突然カラフルな町並が現れて驚きました。土蔵をリニューアルした商店や看板建築が並んでいるのです。木造駅前からの通りにも,看板建築群があります。昔はちょっとしたハイカラな町だったのでしょうか。
あか抜けした「こみせ」
 もともと江戸時代は開拓精神あふれた人たちが田畑の開墾に取り組んだ町だからです。日本一大きい「屏風山スイカ」を生んだのもこの町です。黒石市で見られる「こみせ」も雪国の風情が見られますが,木造はあかぬけしています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマはJR木造駅横の駐車場に停めました 
○木造蓮川(きづくりはすかわ)/つがる市木造蓮川 
 
冬は集落全体が板囲い
 やはり吹雪のころに来るべきだったと後悔しました。民家の周りにある木の柵は板囲いのためのものです。冬は猛烈な地吹雪を受けるため、1685年以来の伝統の囲いです。
 輪島市大沢地区の間垣とねらいはよく似ていますが、間垣は竹を寄せ集めていますが、ココ蓮川では、もっと堅固な板を使っています。地吹雪の強さがよくわかります。写真を撮るなら、真冬に限ります。
明治9年に蓮川小学校が開校
 江戸時代は弘前藩領。貞享2年(1685)天保13年(1842)、近くの蓮花田村に住む小山内家2代目作右衛門清光が開拓したと伝わります。当時の家数はすでに43軒というから、けっこう多かったといえるでしょうか。また曹洞宗瑞光山全竜寺は貞享3年に小山内作右衛門が開基したそうです。明治5年、学校教育制度の基礎が造られ、全国各地に小学校を設立。青森県には24校が設置されました。そのうちの1校が明治9年に民家を借用して開校したのが蓮川小学校です。生徒数は55人で男子のみだったそうです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました 
○旭町(あさひまち)/五所川原市旭町 
 
鉄道の開通で大地主たちは歓声をあげました
 大正7年(1918)の陸奥鉄道(現JR五能線)が完成すると、町は活気づきました。旭町ができたのはこのころです。新たな通りが幾つもできて、大地主たちは歓声をあげ、自力で所有地を市街化に力を発揮。もっとも花柳界は、明治後期から柏原から始まり、鉄道の開通とともに駅前通や大町1丁目付近に料理屋、妓楼、貸し座敷などが進出。通称「常磐町(ときわちょう)」と呼ぶ新しい花街を形成します。
ややこしい俗称地名で、旭町は広大でした
 さて本題はこれからです。五所川原には通称名(俗名)というのが広く使われており、今の大町1丁目を「停車場通り」、2丁目を「旭町停車場通り」とよび、大正9年に開館した旭座や旭湯も大町にあったことかわかります。昭和のはじめまで、大町1丁目、2丁目を旭町として認識されていました。人口の少ないときは問題は起こりませんが、人口が増えるにつれ、日常生活に不便を感じるのは当然です。昭和11年に「大町」と「旭町」は厳格に区分けされました。
駅前なのに“寂れ感”が出ています
 いま旭町を歩きますと、寂れた地方都市の光景を目の当たりにします。駅前にあるにも関わらず、繁華街から遠く離れたせいか、一抹の寂しさを感じます。ところで町名の由来は「東方にあって朝日(旭)が出ずる方向」だそうですが、定かではありません。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは五所川原市役所のコインパーキングに停めました
 
○脇元(わきもと)/五所川原市脇元 
 
海岸沿いに防風雪柵
 江戸時代は弘前藩領。そして日本海に面した小さな集落です。防風雪柵が海岸沿いに,かなり頑丈に造られています。かつて交通の不便なところで,バスの開通が昭和12年ごろで,人口は約1100人だそうです。
弘前藩藩主を襲ったくせ者を追い詰める
 寛永元年(1624)、弘前藩藩主が御巡見として十三湊(現・十三湖)へ監視と情勢調査のため出かけました。ところが途中で、くせ者の襲撃にあい、同行していた奉行が十三湊付近で手勢を集めて逆にくせ者を追いました。そして追い詰めたところがココ「脇元」でした。
江戸末期から明治初年までで5倍以上増える
 脇元は海岸線に沿って南北に広がる集落です。伊能忠敬の『測量日記』は家数が享和2年(1802)で35軒、松浦武四郎の『東奥沿海日記』では嘉永3年(1850)で100軒余、吉田松陰の『東北遊日記』では嘉永5年(1852)130~140軒とあります。明治10年(1877)に脇元小学校が開校した翌々年の明治12年(1879)の『共武政表』では家数は181とあります。80年近くで5倍以上も増えていることになります。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました 
○金木(かなぎ)/五所川原市金木町朝日山 
 
太宰治の斜陽館は重要文化財
 太宰治の生家である斜陽館に宿泊したうえに,館内でモデル撮影会をしました。いまは記念館で,国の重要文化財となり、もちろん宿泊もできません。明治40年(1907年)に父・津島源右衛門によって建てられた豪邸です。隅々までヒバ材をふんだんに使っており、明治期を代表する木造建築といえます。ちなみに太宰治は、源右衛門の六男にあたります。
歌手・吉幾三さんは地元のスーパースター
 金木町は歌手の吉幾三さんの出身地で,とても大きな土産物店を経営されています。母親のために建てた豪邸は真っ白で“ホワイトハウス”と呼ばれており、観光バスも通過するそうです。また津軽三味線発祥の地でもあります。
 金木は津軽地方のなかで,比較的新しい建物が多いですが,雪国特有の家並みが続きます。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 津軽鉄道金木駅から徒歩10分
 
○大性(だいしょう)/鶴田町大性 
 
豊かな土壌ですが、いったん災害が起こると被害が大きい
 江戸時代は弘前藩領。「大姓」とも書いたようです。気候の厳しいところでも、村高は1000石弱というから、土地は肥えていたのでしょうか。それでも『平山日記』によれば、“村位”(藩が定めた格付けのようなもの)は中。貞享4年(1687)の検地では稲作は47町、畑作は38町余り。ただいったん災害が起こると被害は大きかった。天明3年(1783)の凶作以降は、573石が荒れ地になりました。また天保5年(1834)には岩木川が決壊し、591石分の耕作地に砂が入ってしまったそうです。
明治時代からのリンゴ栽培が村民たちの生活を一変
 明治に入ってリンゴ栽培を始めますと、村の様相が変わってきます。土地利用は60%が稲作とリンゴ栽培となり、村民たちは少しずつ豊かになっていきます。また昭和11年、国鉄五能線の全線開通で、東京方面へのリンゴ輸送が飛躍的に増えます。
大型の茅葺き屋根も残ります
 国道339号線をクルマを走らせていますと、大型の家屋が連なるのが見えます。なかには茅葺き屋根も残っており、農村地帯であることがわかります。棟押さえの中央部の煙出しの飾は、特徴的で往時としてはダイナミックな造りでしょうか。しかし茅葺きは少なく、大部分はトタン葺きなどに改築、改装されています。
地名の由来は落ち武者の大刀、小刀から……(?)
  ところで、大性という地名の由来ですが、落ち武者が持っていた大刀、小刀から命名されたという説もあります。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○今別(いまべつ)/今別町今別 
 
陸運,水運の要地でした
 江戸時代は弘前藩領で,町奉行が置かれていました。というのは良質の木材が産出し,積み出し港として早くから藩の管理下にあったからです。また今別昆布も重要な産物でした。その後,木材奉行が置かれるなど,藩の財政を支える重要な所でした。さらに松前街道(蝦夷)の宿駅として発展しました。つまり海路と陸路の要地でもあります。
 国道280号線は松前街道と重なり,ところどころ大店らきしき商家が見られます。また浄土宗本覚寺の宿坊のような古民家も見ものです。
「義経伝説」もある地名の由来
 ところで地名の由来に義経伝説があります。義経が北上する途中、当地付近の川に着き、大雨の後この川を見に行きました。ところが大幅に水量が増加しており、これをみた義経は「昨日の浅瀬は今日の淵になった」と驚きました。そこでこの地を「今淵」と命名したそうです。これが後に訛って「今別」になったとか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました 
○龍飛(たっぴ)/外ヶ浜町三厩龍浜 
 
 ●路地のような国道沿いに建つ集落
 三厩龍浜は「みんまやたつはま」と読みます。いままで4~5回訪問しました。極寒の日は,雪交じりの強風で灯台に近づくこともできません。
 ここ数年,龍飛の集落も小ぎれいになりました。えっ,これが漁師町? というくらい驚きます。しかし,一歩,裏手に回ると路地の両側には,板張りの漁師町特有の家屋も見られます。とくに国道339号の階段国道はあまりにも有名です。階段手前の国道沿い(写真)の両側に民家が密集しています。
昭和歌謡の大ヒット曲『津軽海峡冬景色』
 なお龍飛には,昭和7年に建設された竜飛崎灯台や歌手・石川さゆりさんの『津軽海峡冬景色』歌碑もあります。歌碑は見上げるくらいの超大型です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○深浦(ふかうら)/深浦町岡町 
 
北前船のなど全国各地から廻船がやってききました
 元々深浦港は古くから天然の良港で知られ、江戸時代は日本海沿岸の松前航路と下北航路の分岐点でもありました。そのため風待ち港として、また白神山地の木材を上方へ積み出し港として明治末期まで繁栄しました。そして大坂を基点とする西回り海運の寄港地として発達。さらに太平洋側を通る東回り海運が開設されてから、全国各地からの船が入港していたことがわかります。これらの船は北前船、北国船と呼ばれ、津軽ではベンザイ船とも言いました。ベンザイは弁財と書き、大型の木造帆船のことです。
高台に古民家群が見られます
 このような辺境の地に経済や文化の発展が見られるのは,やはり北前船の寄港地だったからです。一段高くなった高台に古民家が並んでいます。円覚寺は明らかに上方風です。

農民の窮状を救った荘厳寺住職・聞岌の波乱の生涯
 円覚寺は津軽藩の祈祷所でもあり、津軽三十三観音第10番札所となっています。また国の薬師堂など文化財が多数あることでも知られています。また宝泉寺には芭蕉塚があり、その近くに荘厳寺があります。荘厳寺の23代住職・聞岌は、天明3年(1783)の飢饉のとき、農民の窮状を救うため江戸藩邸の弘前藩藩主・津軽信寧に直訴。救援米を下賜されましたが、のちに直訴するのは僧侶にあるまじき行為として処罰され入獄。そして荘厳寺から追放され出羽国能代の五智如来堂に身を隠し、その生涯を終えました。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは深浦町役場に停めました
 
○大向(おおむかい)/南部町大向 
 
   
▲村井家住宅/国の登録文化財  ▲清水屋旅館/明治年間の創業で改築 
明治になって、転々と変わる藩主
 江戸時代は盛岡藩領で、三戸通に属します。地名の由来は、“向”はアイヌ語のムクアップを意味し、あそぶ草の意で食用草からきたといいますが、定かではありません。また縄文時代の遺跡も多数発掘されています。中世の時代から南部氏の所領であったようです。ところで、明治になって、なぜか元年に弘前藩、続いて黒羽藩、九戸藩、八戸藩……、斗南藩、斗南県、弘前県と領主が転々変わり、そして明治4年にやっと青森県に所属しました。
大正モダニズムの近代建築
 いま歩いて見ますと、三戸駅からの通りに両側にわずかに古民家が残されています。特に村井家住宅は大正モダニズム時代の和洋折衷の優れた住宅。内部見学はできませんが、正面の妻側の壁は、3連アーチ窓で、ちょっぴり目立つ近代建築です。
 
感動度★
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交通 クルマは青い森鉄道三戸駅前駐車場に停めました 
○福田(ふくだ)/南部町福田 
 
   
▲田中家住宅・豪農(国の登録文化財)/望楼を持つ主屋は明治23年築 
近年、八戸市のベッドタウンとして発展
 八戸市に隣接する町で、近年は八戸市のベッドタウンとして発展しています。そのため古民家も徐々に消失しつつあるのが現状です。中世は福田氏の本拠地で居館がありました。江戸時代ははじめ盛岡藩領で、寛文5年(1665)に八戸藩領になり名久井通に属しました。古民家が消えつつあるとはいうものの、ところどころ点在しており、蔵や漆喰の古民家が見られます。
田中家屋敷内で「お座敷えんぶり」が行われます
 田中家は古くからの豪農で、戦前には軍用馬を100頭以上所有していたそうです。また国の重要民俗文化財に指定されています「南部えんぶり」では、特別に田中家屋敷内でも行われ「お座敷えんぶり」とよばれています。 
感動度★
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 交通 クルマは田中家住宅駐車場に停めました 
○三戸(さんのへ)/三戸町八日町 
 
   
▲佐滝本店/青森県下で最古の鉄筋造・国の登録文化財、大正14年築 ▲佐滝別邸/八角形のドーム屋根の洋館と平屋の和館が隣接・大正14年築 
 ●盛岡道沿いの集落でした
 江戸時代、八日町は三戸城下八町の一町で東西に貫く盛岡道の両側沿った集落でした。居酒屋、旅篭屋、雑貨屋など商工業の店舗が軒を連ね、八の付く日に市が立ち、とても賑やかな町でもありました。しかしながら明治になって三戸城が廃城となり、城下全体が三戸村と総称するようにもなりました。
予想外の近代建築にうれしくなりました
 整備された役場の駐車場にクルマを停めて歩きますと、意外に近代建築が目に付きます。特にオレンジ色のタイル壁、ドーム型の玄関を有する旧富田修歯科医院(旧第九十銀行三戸支店・大正13年築・
写真)がひときわ目立ちます。予想しなかっただけにワクワクしてきました。また棟割り長屋や商家が目に付きましたが、ほとんどが改築、改装されていました。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは三戸町役場の駐車場に停めました
 
○西越(さいごし)/新郷村西越 
 
かやぶきサミット開催
 青森市のボランティア団体が立ち上がり、茅葺き屋根を保存する運動を積極的行っています。葺き替え費用の一部を負担したり、葺き替え作業も手伝ったりと、積極的です。また2006年2月に西越公民館で「東北三県かやぶきサミット」が開催され、各地の保存団体約50人が参加して意見交換会が開催されました。とはいえ、西越地区も急速に減りつつあります。実際に住んでいる人の意見も聞きながら、保存する方法を探りつつあるようです。
明治8年、西越小学校が民家を借用して開校
 文政年間(1818-30)、寺子屋を開校しました。男子28人が通ったそうです。明治初年には斗南藩士が開業。明治8年に個人宅を借用して西越小学校が開校しました。このころ青森県下24校の小学校が開校しましたが、大部分が寺院や個人宅を借用してのスタートでした。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました

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