秋田県

○花輪(はなわ)/鹿角市花輪上花輪 
 
   
▲小田島家住宅/鹿角地方独特商家建築  ▲旧関前酒店主屋(国登録文化財) 
南部藩時代から鹿角地方の中心地
 江戸時代は南部藩領。藩政時代から毛馬内(けまない)と並んで鹿角(かづの)の中心地でした。明暦3年(1657)に毛馬内九左衛門が古館に入り、延宝2年(1674)には中野吉兵衛(大光寺氏のあとを受けた花輪館主)が花輪代となり、樋口館(要害屋敷)に入りました。そして約100人の家臣団と同心組30人とともに秋田藩境への守備にあたりました。
国の登録文化財が1軒
 米代川に福士川が合流する米代川右岸に位置し、鹿角津軽街道に沿って市街地を形成します。鹿角街道沿いに「こみせ」と呼ばれる雪国特有の町並みが見られます。いずれも道路拡張のため、セットバックによる移転したことから、こぎれいな町並みとなりました。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはハッピードラッグの駐車場に停めました
 
 ○横町(よこまち)/鹿角市花輪中花輪
 
   
▲旧鹿角郡公会堂/大正5年に建てられた近代洋風建築・市の文化財
旧町名の武家地
 旧町名です。南北に細長い鹿角街道沿いの本町通りから、直角に東横に入ります。横に入るので横町と言われたようです。このあたりは、一般に内町(うちまち)といわれ、武家の居住地でもありました。今はわずかに古民家が残されています。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは鹿角市役所花輪支所の駐車場に停めました
 
○柏崎(かしわざき)/鹿角市十和田毛馬内柏崎
 
中世の城館跡に広がる
 毛馬内の中心街から東の急斜面を一気に駆け上ります。そこは南部藩重臣の桜庭氏の預かった柏崎館(かしわざきたて)跡が広がります。いわゆる城館です。現在、個人宅やトタン葺きの大きな家屋があったりもしています。二の丸跡には藩直轄の米蔵がありましたが、家中屋敷のあった所は、現代住宅が建ち並んでいます。
 一時期、柏崎館町と呼んだようですが、地元民は略して‘館’というようなりました。今でも「館町内会館」が健在です。高台から眺める風景は絶景。しかし藩主たちは、その絶景を楽しむ余裕すらなかったかも。
十和田湖岸まであと1kmなのに……
 住所を見ますと十和田という文字が入っています。これは毛馬内村、綿木村が合併、さらに昭和31年小坂町の一部を編入、さらに大湯町とも合併。9つの大字を編入するなどで編成。町名は十和田胡に由来します。ところがどっこい、小坂町の十和田湖沿岸の地域が合併に反対。そのため十和田湖に接しない十和田となりました。
湖岸まであと1kmほどなのに……。 
 感動度★
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 交通 クルマは道端に停めました
○毛馬内(けまない)/鹿角市十和田毛馬内毛馬内 
 
無形文化財の毛馬内盆踊り
 戦国時代は陸奥国鹿角郡に属し、江戸時代は南部藩の所領でした。いまでいえば岩手県です。毛馬内を一躍有名にしたのは、県内3大盆踊りの一つ「毛馬内盆踊り」です。毎年8月の一週間、夜更けまで踊り、秋田県の無形文化財に指定されています
雪国特有の古民家群
 約200mほどの中心街の本町通りの両側には、わずかですが庇の突き出た雪国特有のこみせ(雁木)が面影を残しています。2階の窓は二重窓にしたり、できるだけ開口部を狭くしたりと、極寒の地特有の造りを見ることができます。“建物散歩”にふさわしい所といえます。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは秋田銀行毛馬内支店に停めました
○石鳥谷(いしどりや)/鹿角市八幡平石鳥谷
 
   
▲渡部家住宅(国登録文化財)/主屋(明治25年築)と土蔵(明治35年築)
旧城館周辺に残る
 地元の人たちは「いしとや」と呼ぶとか。かつて“石鳥屋”と書いたことがあったからか。戦国時代の永禄9年(1566)に秋田安東氏が攻めてきたとき、在郷の武士たちは高台にあった石鳥谷館に籠城して奮戦。そのときの城館がいまの渡部家住宅のあったのです。屋敷林に囲まれており、周辺に古民家はわずかに残る。 
感動度★
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 交通 クルマは渡部家住宅駐車場に停めました
 
○花岡(はなおか)/大館市花岡町根井下
 
   
▲鳥潟会館(旧鳥潟家住宅)/約300年の歴史を持つ旧家。大館市が管理  
大型の切妻造が点在
 江戸時代、大館地方も例外なく貧しい。しかしながら花岡は41カ村のうち100軒を超える村が5か村も入っている大きな村。やはり戦国時代から続いている歴史あるせいか、枝郷も多い。歩いていますと意外に、旧名主宅の面影が見られます。
花岡鉱山で1万人以上が従事
 明治18年、村民4人が石仏、堤沢、観音堂などで鉱脈を発見。花岡鉱山として開発され、村政は一変します。人口も最盛期には1万人を優に超えました。金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱など鉱物のオンパレード。露天掘りと溶鉱精錬なども実施しましたが、煙害のために中止する事態もありました。第二次世界大戦時は1万2000人の労働者が働き、出鉱量は著しく増加しました。しかし昭和48年には掘り尽くされ命脈がつきました。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは鳥潟会館駐車場に停めました
 
○曲田(まがた)/大館市曲田字曲田 
 
   
▲北鹿ハリスト正教会聖堂/明治25年築・秋田県の指定文化財 
 ●古民家はわずか
 「マガ」は歪みや悪を意味します。つまり、耕地は狭く、不良湿地帯だったことが、地名の由来。しかし江戸時代は開削、改田に力を入れ、村高は100石近くまでになったとか。いまは大曲市の郊外住宅地として発展しており、ほとんどがクルマで通勤する人たちの現代住宅になっています。
先人たちの新田開発
 江戸時代は秋田藩領。当時の絵図には村高23石と紹介されています。かなり貧しい地域でした。しかしその後の開削で増産することになります。安政年間には豪農・畠山武左衛門は1里余りの曲田堰用水路を開削に成功。なんと20町歩の新田開発に成功しました。 
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 交通 クルマは教会前広場に停めました
 
○浜田(はまだ)/八峰町八森浜田 
 
北国のトタン葺きの町屋
 戦国時代から続く集落ですが、八森村の枝郷の一つ。また北隣の椿集落に初期の藩政時代から唐船番所が置かれた影響で、浜田も賑わったとか。
トタン屋根の家屋が目に付きます
 ところで秋田大学教育文化学部地理学研究班の調査によれば、秋田県には61臨海集落があるそうです。しかも男鹿市以北はトタン屋根が圧倒的に多い。なるほど、見渡せばトタン屋根ばかりです。海沿いに密集した路村(全体で49集落)で、海岸段丘の影響が大きく影響しています。わずかな土地に、田畑、宅地がひしめき合っているのです。 街道沿いを歩くと、ほとんどが現代住宅でした。
 
 感動度★
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 交通 クルマは空き地に停めました
○鵜川(うかわ)/三種町鵜川飯塚 
 
   
▲大山家住宅/国の重要文化財/江戸時代末期の中門造。農家には珍しい町家風出格子を設けています。内部は一切の装飾を排除し、簡素な美を感じます 
大きな古民家が点在
 古くは鵜河とも書きました。江戸時代は秋田藩で旧鵜川村。貞享元年(1684))の村の石高は1158石余とかなり多い。これは新田開発が盛んに行われている証拠。これらは江戸時代一貫して行われます。鵜川村の歴史をたどると新田開発と表裏一体となっています。特に用水路の開削は著しく、新田開発の原動力になっています。 ところで歩いていますと、農家の区画が大きいのが特徴。そのためか大型の古民家が点在しています。 
寺子屋、私塾が相次いで開設
 享和3年(1803)、郡方吟味役の不正を糾弾する農民たちの騒動が起こりました。また安政6年(1859)、年貢米の減免の大訴訟が行われるなど、幕末期は何かと騒動が起こります。また幕末には神官・成川氏が寺子屋を開設。世話役・児玉辰右衛門が私塾を開き、文武両道を説きました。このことが、多くの人材を輩出することになるのです。
感動度★
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 交通 大山家住宅駐車場に停めました
 
○外岡(そとおか)/三種町外岡羽立 
 
   
▲旧名主と思われる邸宅  ▲旧道沿いには白壁の蔵も散見 
白壁の蔵や茅葺きが点在
 「そでおか」ともいい「袖岡」とも書いたそうです。このあたり標高40m段丘地帯。中心部の台地を長峰台といいますが、その外側に集落が造られ外岡と呼んだそうです。JRの北金岡駅ができてから、駅周辺は能代市の郊外住宅に変貌しましたが、少し離れたこのあたりは農村風景が広がります。茅葺き屋根や白壁土蔵も点在。
猛烈な新田開発競争も弊害がでてきます
 江戸時代は秋田藩領。藩政時代は野代-大間越街道の整備、さらにそれ以前の中世末期の志戸橋村の一部を割譲してできた村と推定されます。『享保黒印高帳』によれば村高は400石弱と明記、同時に猛烈な新田開発の様子が描かれています。用水は小規模な堤を多数増築。そのおかげで4ヶ村が新田村として成立しました。ところが江戸中期には2ヶ村が廃村。やはり無理な新田開発がたたったのか。さらに肝煎の桜庭徳蔵は年貢の減免願いを出しています。 
感動度★
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 交通 クルマは道端に停めました
  
○北浦入道崎(きたうらにゅうどうざき)/男鹿市北浦入道崎嶋畑
 
大字北浦畠を北浦入道崎改名しました
 江戸時代は秋田藩領で北浦村。地名の由来は北岸の入江だったからとか。また北浦には10の集落があり、そのうちの一つが畠集落です。いま漁港「畠漁港」となって、当時の地名が残されています。そして昭和42年に「大字北浦畠」を、先端の岬の名を取り入れて北浦入道崎に改名したのです。嶋畑は小字にあります。
断崖の上に続く町並み
 町全体が河岸段丘から成り立っています。通りから漁港まで約30m近い急坂を下ります。逆にいえば町並みは断崖上にあるのです。古民家のほとんどが改装、改築されていますが、それでも幾つか見られます。
 
感動度★
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 交通 クルマは入道崎郵便局に停めました
 
○加茂青砂(かもあおさ)/男鹿市戸賀加茂青砂鴫 
 
トタン屋根と板張り
 人口140人弱の小さな集落です。地形は何段にも重なる河岸段丘で、集落へは県道から約50mほど下ります。集落の通りは幅4m程度、約800mの両側に町家が続きます。そしてもう一本、埋め立て地に加茂漁港と、海岸沿いに広い道が続くのです。
昭和に入っても船運が中心でした
 昭和に入っても、県道59号線ができるまでは陸の孤島と呼ばれ、船運が中心。かつては北前船が行き交う時代には、風待ち港として利用されていました。町並みは、町家のほとんどがトタン屋根で、壁は板張りが多い。これは男鹿半島全体にいえることです。 町名は加茂村と青砂村が合併してできたもの。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
○七日市(なぬかいち) /北秋田市七日市囲ノ内
 
   
▲長岐邸/市の有形文化財  ▲街道沿いに古民家が散見
阿仁街道沿いの集落
 交通量の多い阿仁街道沿いに広がる集落です。江戸時代初期は一揆が多発、洪水と相まって藩政は困難を極めたそうです。林業主体の地域で、経済の柱というべきでしょう。
秋田藩の想像を絶する過酷な取り立て
 寛延2年(1749)、村に強制的に割り付けられる過酷な杣出し(木材の切り出しなど)に対して、肝煎・平八郎は長百姓・林四郎らと共に、米代納との引き換えで、その廃止方(役人)を提訴しました。乱伐にかかわる小猿部川(おさるべがわ)の洪水など被害が甚大で、用水路普請の村負担軽減のため、御中橋梁材用に留山(とめやま/藩が管理する保護林)の一部を郷山(村民が管理する山)に切り換えもらったのですが、その代償としてスギ3万本の植林を命じられました。いずれにせよ村人の負担の過酷さは変わりませんでした。
飢饉で餓死者が多数出ても知らん顔
 結局、6年後の宝暦5年(1755)の大飢饉では餓死者が多数出て、七日市村の3分の一が壊滅。それでも藩主は、「七日市村の農民は、日頃から銅山の炭を焚き、日に幾ばくかの金銭を得ることに喜びを感じ、農業をおろそかにしたからである」と言い放ったのです。
長岐邸は藩政時代の貴重な建築物
 北秋田市の文化財に指定されています長岐家宅は藩政時代の肝煎(きもいり/世話役)で、豪農でもありました。藩主の佐竹公が領内巡見の際は、本陣にもなる貴重な建築物です。古民家は阿仁街道沿いや裏手にも何軒か見られます。
 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
○本城(ほんじょう)/北秋田市本城
 
   
 ▲金家住宅(国の重要文化財) ▲重厚な切妻型の農家 
切り妻造が散在します
 江戸時代は秋田藩領。「本庄村」の記述も見られます。阿仁川の氾濫は、しばしば村民を困窮に陥れ、枝郷・向本城(むかいほんじょう)村は一時期高台に移転したこともありました。切り妻造の古民家がそこかしこに見られます。金家は阿仁地方の゛三大旦那゛の一人だとか。往時の面影が見られます。
肝煎に南部藩の浪人・秋元氏が代々受け継ぐ
 おもしろいのが、藩政時代に村の肝煎(きもいり)に、南部藩の浪人でもある秋元氏が代々受け継いでいるのです。浪人の肝煎は珍しいですが、よほど村民から信頼を得ていたのでしょうか。
  
感動度★
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
○阿仁銀山(あにぎんざん)/北秋田市阿仁銀山新町
 
   
▲異人館(国の重要文化財)  ▲善導寺/町の文化財が多数ある 
秋田藩直営の鉱山
 江戸時代は秋田藩領。元和年間が金銀山の最盛期でした。慶長年間(1596-1615)に採鉱が本格化しましたが、当時水無村の土地を分割し、屋敷を建てて山師をこの地に移住させたのが町の始まりといわれています。慶長7年(1602)、佐竹氏の入部以来本格的に開発が進み、慶長15年(1610)には藩の直営となります。しかしながら江戸末期になりますと減産につぐ減産。寛政年間(1789-1800)の人口はそれでも400軒、2000人ともいわれています。大部分は運送業や鉱山労働者相手の諸商売とか。
いくつかの古民家が残り、往時を彷彿
 明治に入って政府は、ドイツ人技師を招き、採掘の近代化を図ります。その後、実業家・古河市兵衛に払い下げます。いま街道筋には多くの古民家が残されており、往時を彷彿させてくれます。異人館を見ていますと、外国人技師の活動ぶりを感じます。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは鉱山資料館の駐車場に停めました
○根子(ねっこ)/北秋田市阿仁根子 
 
   
▲旧渡部家(現・農家レストラン)   ▲いまは無人となっています
根っこトンネルの開通で環境が激変
 四方を山々に囲まれた辺境の地でしたが、根子トンネルの開通で環境は激変。冬期間でもクルマで通行ができるようになったのです。古民家も改築や改装で茅葺きはなくなり,トタン葺きになりました。トンネルを出たところの道路から村を一望できますが、なんとなくあか抜けした感じがします。
マタギ発祥の地は“にほんの里100選”
 マタギ発祥の地、国の重要無形文化財「根子番楽」の地で知られています。一度はぜひ訪ねたい集落です。
にほんの里100選(森林文化協会・朝日新聞社主催)の1つ。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○笑内(おかしない)/北秋田市阿仁笑内 
 
秋田県を代表する難読地名
 秋田県内難読地名の一つですが,地名の由来はアイヌ語説が有力だとか。解説しますと「川の近くの小屋のあるところ」という意味とか。阿仁地方の地名の語源はアイヌ語説が多いようです。
北国特有の玄関構え
 歩いていますと無人駅でもある笑内駅周辺の古民家は,北国特有の玄関構えが見られます。寒風を防ぐための2重トビラがソレ。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは秋田内陸線笑内駅前広場に停めました
 
○打当(うっとう)/北秋田市阿仁打当 
 
   
▲古民家の大部分は改築改装  ▲マタギ資料館/マタギの湯に併設 
豪雪地帯で阿仁の最奥地
 かつては日本の秘境ともいわれ,豪雪地帯でもありました。阿仁川の上流、打当川の源流部に沿って集落が点在します。阿仁の最奥の地。4月下旬でも積雪が見られ所です。いまは「マタギの里」と,そして温泉,熊牧場の3点セットで売り出し中。
わずかな古民家が点在
 古民家を探しましたが,ほとんど見ることができません。というのも多くの宿泊施設や民家などは廃屋となって痛々しい。道路も積雪のため、奥地に入り込めませんでした。
 
感動度★
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 交通 クルマはマタギ資料館駐車場に停めました
 
○角館(かくのだて)/仙北市角館町東勝楽丁
 
   
▲石黒家/武家の格式を示しながら簡素なたたずまい  ▲岩橋家/角館の中級武士の典型的な家屋です 
四季折々の美しさを見せてくれます
 何度も訪ねた町です。いつもは2,3時間で帰るのですが、今回は初めて泊まりました。そして早朝、歩きました。いろんな季節に撮った写真もありますが、いちばん新しい、雪の風景ということでUPしました。カラーで撮ってもモノクロ風です。
侍町の内町と町人町の外町
 重要伝統的建造物群保存地区に選定。茅葺き屋根の屋敷もありました。新緑の時期は、木々で通りが覆われていました。武家町が形成されたの元和6年(1620),秋田潘の支藩で,地割りは往時のまま。幾つもの薬医門と黒塀が、多くの観光客を引きつけ「みちのくの小京都」と呼ばれています。
城下町は侍町の内町と町人町の外町に分かれています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR秋田新幹線角館駅から徒歩15分
 
○外町(とまち)/仙北市角館町下新町 
 
   
▲伊保(いお)商店/大正13年築  ▲旧坂本薬局/明治43年築の店蔵 
   
▲西宮家/明治43年築の米蔵  ▲かつお醤油ラーメン(750円・風雅) 
最大の町人町で土蔵や煉瓦貼り,石造…
 武家屋敷街の内町に対して商人町を外町(とまち)といいます。火災を恐れて造られた土蔵や煉瓦貼りの古民家が多く見られます。江戸初期には350軒もの商家があったとか。ただし下新町だけだと、享保期は(1716-36)約50軒。平均間口4間(約7.2m)だったそうで、秋田潘支藩では最大の城下町を形成。明治、大正、昭和の近代木造建築の宝庫といえます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはハローワーク角館の駐車場に停めました
 
○大神成(おおかんなり)/大仙市大神成フカウジ
 
   
▲屋根を切落とし開口部の広い曲屋  ▲水板倉/明治42年築(個人所有) 
水板倉のある茅葺きの里
 大神成の最奥地に位置する水板倉は,人工池の中に造った高床式倉庫のこと。内部は2階になっており,食糧や家財道具などを保管。泥棒やネズミ,火災から守ることができる先人の知恵です。もうココ1棟だけ。
平将門一族が大きな雷に遭遇したそうです
 古くは「おがなり」ともいい、「大金成」とも書きました。江戸時代は秋田藩。地名の由来は落雷説があります。天慶(てんぎょう)の乱(天慶2年/939)後、当地に落ちのびた平将門一族が安和元年(968)、内沢山で大きな雷雨に遭遇した事に由来するとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○増田(ますだ)/横手市増田町増田
 
切り妻屋根の飾り
 田舎町を走っていると、突然古い家並みが現れることがあります。もちろん前もって調べていましたが、それにしても突然でした。突然、というのはうれしいものです。町のいたるところに切り妻屋根のある商家が建ち並んでいます。もちろん現役です。切り妻屋根から突き出た飾りが特長です。
 一歩通りの裏道へ入りますと、路地の奥に板塀で囲まれた蔵がそこかしこに見られるのです。また登録文化財の酒蔵もあります。今度は雪の日に訪ねたいです。
一時期、山形藩の最上義光が支配
 戦国時代、天正18年(1590)の太閤検地後、増田は太閤蔵入り地に設定。蔵入り地とは豊臣氏直轄地のことです。そのときの検地奉行は上杉景勝の家臣で大森城に入城中の色部長真で、その管轄下でした。ところが山形藩の初代藩主・最上義光が、大坂で政治的な工作を行い、結果、増田は最上氏の委託地になりました。実は、このころ太閤検地に対して反対する一揆が多発していたことも関係があるのではないかといわれています。
戦後のヒット曲第一号『りんごの歌』の発祥の地碑
 ちなみに桜の名所の「真人(まと)公園」は『リンゴの唄』の発祥の地といわれ、碑が残されています。戦後第一作目の映画が『そよかぜ』ですが、そのロケ地となったのが増田で、主題曲が『りんごの歌』でした。戦後のヒット曲第一号といわれるゆえんです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○横手(よこて)/横手市羽黒町 
 
みごとな武家屋敷群
 どんよりした日でした。路線バスで隣の六郷町(現・美郷町)からやってきました。豪雪地帯ですが、今日はそれほど雪が深いというわけではありませんが、雪の武家屋敷は見応えがあります。黒板塀、生け垣などがきれいに整えられています。
城下町ですが羽州街道の宿場町としても発展
 横手市は「山と川のある景観の町づくり条例」を定めて、街並みを保存しょうという活発な動き。もともと横手城跡は,別名を朝倉城といい,稲庭城主の小野寺氏の領土でした。広大な横手盆地の地の利を得て勢力を伸ばし,各所に枝城を設けました。なお羽州街道の宿場町としても発展しました。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 羽後交通バス南町小学校下車徒歩5分
 
○鍛冶町(かじまち)横手市鍛冶町 
 
   
▲こうじ庵/商家を代表する建築  ▲切妻型の古民家はわずかです 
屋根から突き出た棟端
 江戸時代は秋田藩領。羽州街道に沿った町人町で,横手城や武家屋敷のあるところから見ると,川向こうで外町(とまち)と呼ばれていました。切妻の商家の屋根から突き出た棟端の飾りが,簡素で美しい。でも数は激減しており,ポツンポツンと散見される程度です。
鍛冶町と五日町は別々の町でした!
 寛文9年(1669)の『横手絵図』のは街路幅4間(約11m)で、阿弥陀堂(現・金比羅神社)に一里塚がありました。ただ、この絵図では鍛冶町通りをさして、五日町と称しています。でも後の『享保郡邑記』には、別個に長さを記載しており、鍛冶町と五日町は別個の街路であることがわかりました。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはこうじ庵駐車場に停めました
 
○浅舞(あさまい)/横手市平鹿町浅舞 
 
   
 ▲横手にはまだまだ残る切妻型 ▲浅舞酒造/国の登録文化財 
美しい意匠の切妻造
 江戸時代は秋田潘領。元和元年(1615)の一国一城令により浅舞城を廃城にしましたが,後に交通の重要性の高まりに,陣屋を設け、藩主の御鷹養屋を設置。歴代藩主の鷹狩りの休息所となりました。さらに宿駅や六歳市が設けられ,町割りが再編されたり、河川の掘り換え工事などが進みますと、ますます全国から物資が集まり,大いに発展しました。
戦国時代、すでに浅舞の名が登場
 近世に入って、藩主・佐竹義隆が当地で鷹狩りを行い、そのとき鶴の舞い飛ぶ姿を見て浅舞と名付けたそうです。しかし浅舞という地名は戦国時代の古文書にすでに登場しています。
 いま通りを歩きますと,切妻造で伝統的で美しい真壁の古民家が幾つも見られます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは平鹿防災センターの駐車場に停めました
 
○西馬音内(にしもない)/羽後町西馬音内 
 
   
▲黒澤家住宅/県の文化財指定  ▲大黑屋商店/一般の商店も趣 
美しい切り妻造り
 やはり西馬音内盆踊りが有名。黒覆面をした「ひさこ頭巾」は亡者を連想させます。一方京風の優雅な踊りは編み笠をかぶり素朴なエロティシズムを表現。国の民俗無形文化財に指定されています。本町通りは商家が多く建ち,切り妻が美しい。地名はアイヌ語説もあります。
太閤検地後、またもや山形藩・尾上氏がしゃしゃり出る
 太閤検地の直後、西馬音内領は蔵入地に設定されました。城主の示した禄高は3万5000刈は280貫文と査定。その三分の二を豊臣方に納入を義務づけられました。かなり厳しい取り立てです。ところが、ここでも山形藩の最上氏が出てきて、西馬音内領の主権を主張する小野寺氏と抗争。その渦中で城は廃絶となりました。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光客用無料駐車場に停めました
 
○田代(たしろ)/羽後町田代 
 
   
▲旧長谷山邸/主屋は明治15年築  ▲歩けば茅葺き屋根が見られます 
茅葺き屋根の民家が残る
 かつて87件の茅葺き屋根の民家が残っていたようですが,この20年で激減。もう十数軒になったとか。いま町は保存運動に力を入れているせいか,歩いているだけで,目撃率は高い。このままぜひ残してほしいものです。江戸時代は旧田代村で秋田藩領。江戸初期に猛烈な新田開発が行われ,村の石高が驚異の1000石近くまでになりました。また江戸時代から良質の秋田杉が獲れます。
ここでも山形の最上義光が登場
 どうも出羽国では山形の最上義光勢力が、太閤蔵入地を狙って領土を拡張しようという画策が目立ちます。とくに秋田の辺境の地が狙われています。田代村でも最上氏と小野寺勢力が衝突。小野寺氏は田代氏とつながりがあり、周辺諸勢力との接点のある重要拠点。それだけに小野寺氏を応援しましたが、最上氏が強かったようです。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは旧長谷山邸駐車場に停めました
 
○石脇(いしわき)/由利本荘市石脇 
 
酒屋が登録文化財
 江戸時代の石脇村は,もともと亀田藩の外港として栄えました。子吉川の河口の町で,良質の水と米で,多くの造り酒屋が生まれ,秋田の銘酒の一翼を担ったのです。写真の建物は齋彌(さいや)酒造で,文化庁から有形文化財として登録されています。いずれも明治時代の建物です。さらに歩きますと,醤油屋も目に付きます。ところで対岸の本庄潘と川境論争がしばしば起こったとか。
不毛の地・子吉川河口一帯を石川父子が植林・開発
 石脇村の子吉川の河口北岸一帯は、不毛の砂地で飛砂が多く、人々の生活は難儀を極めていました。天明8年(1788)から文政4年(1821)、文政5年(1822)から弘化3年(1846)の長きにわたって、石川善兵衛・直吉父子がクロマツを植林・開発に努めました。
交通量の多さに見学注意
 新山の麓に広がる石脇は,比較的古い建物が建ち並んでいますが,交通量が多すぎて、のんびりと見学もできません。クルマには十分に気をつけてください。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは齋彌酒造の駐車場に停めました
 
○亀田(かめだ)/由利本荘市亀田 
 
   
▲手入れの行き届いた茅葺き屋根の民家  ▲近代木造建築(看板建築)も見つけました 
松本清張の『砂の器』の舞台
 JRの駅名が羽後亀田といい,松本清張の『砂の器』の舞台の一つになっています。「カメダ」という言葉から,2人の刑事が羽後亀田駅に早朝降り立つのです。清張ファンにとっては欠かせない町でもあります。
手入れの行き届いた町並み
 亀田のほとんどの古民家は天鷺郷というテーマパークに移築されています。それでも,町家筋にはいくつか残されていました。また1本裏手に入ったところに茅葺きの民家がありました。実際に人が住み,しかも手入れが行き届いています。意外に観光客の多い町でした。

 江戸時代は岩城氏の城下町で、亀田地織りで知られています。天鷺郷とは亀田藩2万石の歴史と文化を集積した観光スポットです。 
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 交通 クルマは亀田郵便局に停めました
 
○松ヶ崎(まつがさき)/由利本荘市松ヶ崎
 
   
▲海岸に出る道沿い砂や風を防ぐ   ▲防風柵/板や竹などで風を防ぐ
風除け,砂除けの柵が続く
 江戸時代は亀田藩の重要な港で,羽前街道と仙北往還の分岐点で賑わっていました。いまは静かな海辺の集落ですが,日本海岸沿いの民家や畑は防風柵が巡らされ,砂も防いでいます。それにしても波の音の大きさに驚きます。
江戸の元禄地震に対して御用金を供出
 旧暦の元禄16年(1703)11月23日、江戸で元禄地震(震源地・相模湾/マグニチュード推定8.2)が発生しました。当時の亀田藩は各村に対して御用金を課しています。松ケ崎村では、与惣右衛門(金3両/約36万円?)、五兵衛(金1両1歩/約15万円?)、曽右衛門(金3両3歩/約45万円?)の名前が見えます。
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 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○芦川(あしかわ)/由利本荘市芦川 
 
   
▲板や竹で家屋を囲います ▲日本海側に防風柵が続きます  
竹を使った防風対策
 江戸時代は亀田藩の領地で,芦川村と称する。藩政時代から由利・本荘から庄内を結ぶ酒田街道が海沿いを通ります。特に冬場は明治時期に入るまで最難所でした。このあたりの防風柵に,竹が多く使用されています。江戸の元禄地震に御用金を課し、芦川村では清右衛門の1両1歩(約15万円?)名が見られます。
良質の干し鰯を上方に移出
 江戸時代の村高は80石前後とわずかです。漁民は3分の1ですが、産物として干し鰯(いわし)があります。かなり良質で石脇村に販売し、そこから北前船で上方に移出しています。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
○中高屋(なかたかや)/由利本荘市西目町出戸中高屋
 
瓦葺き・防風林・暴風柵の3点セット
 塊村(かいそん)とは,民家が不規則に集まり,ひとかたまりに形成された集落のことです。この地を地図で見て,ひと目で塊村とわかりました。秋田大学教育文化学部研究班の調査によれば,秋田県の臨海地区には61集落があり,そのうち塊村は6集落。なかでも瓦葺き,防風林,防風柵の3点セットの塊村は中高屋のみだそうです。
砂丘の頂上に行くほど防風柵が密
 町内を海岸に向かって歩くと,ゆるやかなカーブと坂になっており,砂丘の頂上に至ります。迷路のような道の両側に町家が続きます。頂上に行くほど防風柵が密になってきます。
 
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 交通 クルマはマックスバリュ新西目店に停めました
 
○上高屋(かみたかや)/由利本荘市西目町出戸土花 
 
   
▲上高屋公民館/集落の中心地  ▲集落内は蔵や切妻型が少し 
“塊村”の形が崩れた集落
 上高屋は縄文時代の土花貝塚が発見されて知られるようになりました。また中高屋と同じく集落の形は塊村(かいそん)ですが,かなり崩れています。その分、現代住宅が多くなっています。
 周囲はクロマツの防風林,防風柵が目に付きます。大部分は切り妻で,千鳥破風の玄関を構えています。 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
○前郷(まえごう)/由利本荘市前郷字前郷 
 
   
▲古民家が散見されます  ▲佐々木家住宅/国の登録文化財 
旧役場周辺に古民家
 旧由利町の中心地で政治,経済,文化に関する建物が集中。また戦国時代,領主滝沢氏の居館があったところで,前郷駅近くの由利小学校にありました。歴史のあるところだけに,古民家もそこそ残されており,市役所由利総合支所周辺に散在しています。 
将軍を怒らせてやって来た坂上田村麻呂の家臣
 地名は鳥海山の前にある郷に由来するとか。またこの地の開発に当たった摂津国の人・勇源の死に際し、小泉式部照宣(てるのぶ)なる者が、勇源の所持品を整理していました。すると笈(おい/行者などが身の回りの物を入れて背負う箱)のなかから青銅製の大日如来像が出てきて祀ったのが始まりといいます。この小泉というのが、蝦夷地征定の坂上田村麻呂の家臣。小泉は将軍を怒らせたことでこの地にやってきたそうです。
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 交通 クルマは市役所由利総合支所駐車場に停めました
 
○前森(まえもり)/湯沢市前森
 
   
▲切妻型が北国らしい町家  ▲両関酒造/国の登録文化財 
銘酒『両関』の製造販売が町の飛躍に一助
 江戸時代は秋田藩領。町人町ですが農民も混在していました。明治に入って伊藤仁右衛門商店が銘酒「両関」の製造をはじめ,全国にその名が知れ渡り、町は一気に発展しました。また昭和に入っての昭和11年に農村医療運動のために、雄勝中央病院が建設されました。病院のおかげで、商店や住宅が増えます。さらに国道13号線開通で宅地化が一気に進みました。現在は中核病院として発展しています。
伝統美・真壁が連なる
 羽州街道沿いに日本古来の伝統美を持った切妻型で真壁造りが並びます。
 
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 交通 クルマは両関酒造駐車場に停めました
 
○大町(おおまち)/湯沢市大町 
 
旧羽州街道に看板建築群
 「江戸時代から続く町名で歴史を感じさせます」といいたいのですが,なんと旧羽州街道沿いに看板建築がズラリと並んでいます。“見事な美しさ”です。
 今まで湯沢市の中心市街地でしたが,経済的に地盤沈下が顕著となり,平成7年に近代化を図るために大改造を開始。ネオロマネスクというテーマで木造2階建ての“疑似洋風建築”となったのです。訪れたのは早朝の8時半ごろのせいかちょっと静かな町並みでした。古民家ではありませんが,日本独特の看板建築が美しいのです。ちなみに看板建築は建築用語で藤森照信氏(前・江戸東京博物館長)の命名。 
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 交通 クルマは北都銀行湯沢支店に停めました
 
○吹張(ふっぱり)/湯沢市吹張 
 
造り酒屋の登場で町が発展
 享保期には羽州街道の両側に90軒弱の町家が並び,町人町を形成していました。町の北端に湯沢大堰,南端に一里塚が目印。そして,明治,大正と酒造業を営む商人たちが現れて,町自体が活発化します。
●湯沢大堰沿いの湯歩道に古民家群
 旧街道沿いには切り妻造の古民家が点在していますが,実際は湯沢大堰(ゆざわおおぜき)沿いのほうが歩いていて楽しいです。約400年前に雄物川からの分水路として開削。新田の開拓や物資の運搬にも役だったのです。いま水路沿いには,蔵造りや板塀が続く静かな遊歩道になっています。歩いていて飽きることはありません。
 
 感動度★
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 交通 クルマはコンビニ・ローソンに停めました
○院内(いんない)/湯沢市下院内 
 
   
街道沿いには真壁の古民家  ▲旧院内町役場倉庫/大正12年築 
銀山とともに発展します
 秋田藩は慶長13年(1608)に銀山経営に乗り出し,銀山町,上院内村,下院内村の3集落全体で戸数4000、人口は15000人にまでふくれあがりました。山小屋は1000軒、下町1000軒の町場が形成さたというからスゴイ。そのため消費する食料や日用雑貨等の供給でさらに発展。もちろん藩は運上銀として幕府に献上しています。とはいうものの江戸末期には大きく減産。明治17年に古河市兵衛に払い下げられます。このころから銀の市況が好転し、日本を代表する銀山に発展していきます。
旧羽州街道沿いに切妻造
 現在は旧羽州街道沿いに古民家が見られ,切り妻造で往時の面影が見られます。
 
感動度★
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 交通 クルマは日帰り温泉ほっと館駐車場に停めました
 
○大竹(おおたけ)/にかほ市大竹前谷地 
 
   
 ▲細い小道の両側に町家が建つ ▲ガーデンカフェ・タイム/情報発信 
「千年の村」の異名を持つ
 細い小道を挟んで、両側に寄り添うように古民家が立つ集落です。歴史は古く、平安時代に加賀国から三兄弟がやってきて,竹を伐採して家を建てたので大竹の名が付いたとか。それが千年前。集落全体に四季の花が咲く花の里でもあります。
隣村・生駒領畑村との大騒動
 江戸時代はほぼ本庄藩領。弘化3年(1846)、隣接する生駒領畑村と白雪川に架かる橋の往来の件で大騒動が起こります。話し合いが何度も決裂し、とうとう莫大な経費をかけて江戸裁定まで持ち込みました。これにあきれ果てた両村民たちは「勝っても負けても一文にもならぬ江戸裁定、両村の往来ごときに千両とは…」とあきれ果てます。 
感動度★
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 交通 クルマは大竹会館広場に停めました
 
○象潟(きさかた)/にかほ市象潟町三丁目塩越 
 
   
▲街道沿いにポツンと古民家  ▲象潟公会堂/昭和9年築 
芭蕉の『奥の細道』最北の地
 鳥海山の西北に位置し、標高50m以下の面積は、全体の2割程度。山林荒野の多い土地ですが海岸風景は抜群でした。そんな所ですが象潟は俳人・松尾芭蕉が奥の細道で訪れた最北の地として知られています。句碑や記念碑が見られます。芭蕉がすばらしい海岸風景を“松島”と賞賛します。本庄藩も海岸の開墾を禁止しました。
旧羽州街道沿いに古民家
 しかし文化元年(1804)の象潟大地震で海岸が隆起し、単なる陸地に変貌します。それからは観光客が激減しました。いまは旧羽州街道沿いに古民家が少し見られます。
 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
○荒川(あらかわ)/大仙市協和荒川上荒川 
 
   
▲切妻型の屋根に棟端飾り  ▲茅葺き屋根のある農家 
かつて鉱山の開発でにぎわう“鉱山町”でした
 羽州街道から分岐した繋(つなぎ)街道(角館街道)は荒川村を貫いていました。江戸時代は秋田潘で旧荒川村。鉱山の開発などで,賑わいました。荒川鉱山と呼ばれ、藩政期に入ると元禄8年(1695)に発見された尾改沢(うかいざわ)・初石沢(はつしざわ)鉱山で知られました。いずれも秋田藩の直営となり、寛保3年(1743)まで続きました。明治時代は三菱の所有となります。
白壁と鴨居,柱の組合せ
 いま街道沿いに切り妻の美しい壁を見せている古民家が連なっています。また茅葺きの屋根も残されているのも珍しい。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
○二日町(ふつかまち)/大仙市長野字二日町 
 
河川港の発展でにぎわう
 二日町は玉川沿いの荷揚げ港(河川港)でもあります。玉川から雄物川を経て日本海へ出られるのです。米や大豆,小豆,酒などの大きな市が立ち,内陸でありながらかなり繁栄しました。
いまは2軒の造り酒屋が健在です
 特に良質の米と水を利用した酒造りは,明治36年には9戸に達し,その頃の石高は2,055石,税額は31,000円と,郡内でも群を抜いていました。しかし,現在では2戸にまで減り,昔ながらの方法で操業しているそうです。
町名は定期市の開催日から
 歩いていると,2軒の酒屋さんを見かけます。立派な建物です。江戸時代は秋田藩領。町名は定期市の開催日に由来し、軒数は78とか。それでもかなり多い方です。
 
感動度★★★
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 交通 クルマは中仙郵便局に停めました
 
○角間川(かくまがわ)/大仙市角間川町 
 
舟運の盛んな時代を彷彿
 江戸時代は秋田藩領で、旧角間川村。古くは河隈川、河熊川とも書いたようです。戦国時代から雄物川を利用した舟運が盛んな土地柄でもあります。角間川は秋田藩の時代から,米を中心にした一大物量の拠点でもありました。また舟運は明治期に入って、大地主形成の地盤になったのも事実です。
ちょっと寂しげな町並み
 現在,中心と思われる町を歩いて見ました。一部,写真のような武家屋敷風(?)の建物が約100mほど続いているだけです。塀は漆喰の壁に下半分が板張りです。なにやらちょっと寂しい感じがしました。

 舟運の盛んな土地柄だけに,蔵などもたくさんあったでしょうが,全部取り壊されたとか。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは角間川郵便局に停めました
 
○六郷(ろくごう)/三郷町六郷 
 
名水地だけに酒造業発展の理由がわかります
 角館から早朝の路線バスでやってきました。豪雪地帯ですが、町内は雪が少なく除雪も行き届いていました。羽州街道の宿場町です。小さな町ですが、酒造業や呉服業が活動しており、明治、大正時代の建物がたくさん残っています 六郷は東北地方でも有数の名水の土地で、町内に60カ所以上も遊水池があります。酒造業が発展したのもおいしい水があったからでしょう。
佐竹義重氏入部反対の一揆が多発
 江戸時代は秋田藩領。慶長7年に藩士の2人が六郷城を受領。まもなく佐竹義重氏が入部。ところが慶長8年(1603)、佐竹氏入部反対一揆が多発しました。一部では六郷城を攻撃するなど,領民との争いが先鋭化。しかし一揆を鎮圧後、城下の守備体制を強化します。
 
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 交通 羽後交通バス六郷米町下車すぐ
 
○六郷寺町(ろくごうてらまち)/美郷町六郷
 
   
▲照楽寺/県指定の重要文化財  ▲本覚寺/県指定の重要文化財 
   
▲眞乗寺/町指定の史跡  ▲本善寺/日蓮宗の寺院 
農民一揆の鎮圧拠点となった寺院群
 元もと県下でも有数の穀倉地帯でした。秀吉の時代,太閤検地が行われましたが,農民たちの反対による一揆が発生しました。江戸時代に入って,佐竹氏が入城。その佐竹氏に反対した一揆がまたもや発生しましたが,まもなく鎮圧。そこで一揆に懲りた佐竹氏は,郡内各地の寺と中世の時代からあった寺を併せて21ヵ寺を集め,農民一揆の鎮圧の拠点造りにしました。しかし異説として、街造りのために寺院を集めたという説もあります。
 現在は26ヵ寺に増えていますが,寺町通りには歴史ある10ヵ寺前後が連なっています。 
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 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは観光客用駐車場に停めました
 
○小坂(こさか)/小坂町小坂鉱山
 
   
▲国有文化財に登録された天使館  ▲重要文化財の小坂鉱山事務所 
   
▲重要文化財の康楽館/芝居小屋で出店もある。館内見学コースもある 
『日本のかおり風景100選』、『手づくり郷土賞』
 見た目の風景がとてもきれいです。道幅も広く,どこか外国にでもいるような感じがします。『日本のかおり風景100選』に選定されています。また『手づくり郷土賞』も受賞されています。また国土交通省『美しい町並み賞』も受賞。
異国のような明治百年通り
 アカシアの並木と明治時代の雰囲気が醸し出すのが明治百年通りなのです。3つの大きな建物のなかで康楽館では,常にいろいろな催し物を行なっているので,観光バスでの団体客が絶えません。こんな小さな町に,全国からたくさんの観光客が訪れるのもわかるような気がします。明治時代、小坂銅山自体にドイツ人技師などが住み、比較的外国慣れしていたのでしょう。
ちなみに小坂まちづくり(株)が運営を行なっています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 

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