昭島市(あきしまし)

 拝島(はいじま)/昭島市拝島町
 
   
▲拝島大師/八角円堂・弁財天堂 ▲古民家はあちこちに点在しています 
   
▲大日堂/数多くの文化財を所蔵 ▲日吉神社/祭礼囃子は民俗文化財 
   
▲普明寺/寺域は東京都史跡です  ▲龍津寺/湧き水は東京都の名水  
   
▲啓明学園・北泉寮/三井家の別荘として永田町から移築。鍋島藩の邸宅でした。国の登録文化財。卒業生にオノ・ヨーコ(ジョンレノン夫人)がいる 
八王子・日光往還の宿場町として発展
 この往還は八王子千人同心が日光東照宮の警護のために通った道でもあります。宿場は街道に沿って細長く民家が続き、西から東へ上宿、中宿、下宿と称しました。毎月3,9のつく日に織物市が立ち、たいへんな賑わいを見せていました。また養蚕、漁業(河川)が盛んで、特にアユ漁は名産になりました。将軍家に対して“鮎運上”を務め、幕末には御用鮎組合48ケ村を結成し、その中心的役割を果たしています。そのせいか、商業や漁業が盛んで、近郊の農村とは性格を異にしているといえます。
平安、鎌倉、室町、江戸の各時代を垣間見られます
 また湧き水や川などの水に恵まれた土地のせいか、早くから人が住み、縄文遺跡も発見されています。また平安、鎌倉、室町、江戸時代と、幅広い歴史を垣間見ることのできる古社寺も点在。さらに街道の裏手に入っても、古民家がいたるところに見ることができます。もちろん都心に通勤する人たちの現代住宅が多いですが、それでも歴史の厚みを感じさせます。
“島”に流れ着いた観音像を“拝”んだのが由来
 ところで、町名の由来は『新編武蔵国風土記稿』によれば、多摩川の花井の島に大日如来観音像が流れ着き、これを辻堂に安置して拝むようになったことからだそうです。
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交通 JR青梅線昭島駅から徒歩20分
 
上川原(じょうかわら)/昭島市上川原町 
 
   
 ▲龍田寺/鐘楼は天保10年(1839)の造立ですが梵鐘は昭和の再建 ▲日枝神社/旧上川原村の鎮守。1968年に米軍戦闘機の風防が境内に落下 
江戸時代は未開の地が多かったとか
 江戸時代は幕府領で、初期はまだ未開の地が多く、村高もわずかに9石余。その後畑地の開発が進みましたが、それでも100石余りで依然貧しい農家が多かったようです。農閑期には男は薪取りなど、女は木綿、紬織りなどで駄賃を稼ぎました。江戸中期から八王子・日光往還の宿場町・拝島宿に出役します。また尾張藩の御鷹場の支配地でもあります。
●石積みや植栽の塀が続きます
 いま町内を歩きますと、石積みの上に植栽の続く塀が見られますが、大部分は都心へのベットタウンと化し、現代住宅に改築、改装されています。
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交通 JR青梅線昭島駅から徒歩10分
田中(たなか)/昭島市田中町 
 
   
▲あまり手入れの行き届かない植栽が、路地や裏手の通りに見られます 
●尾張藩の御鷹場の支配を受ける
 江戸時代は幕府領と旗本知行地。寛文年間(1661~73)に開発が進み、村高も117石余。さらに享保年間(1716~36)も開発が進み130石余と穫れ高も増えていきました。なお近辺の村々と同様に、尾張藩の御鷹場の支配を受けていました。
●田中(でんちゅう)寺の周辺に植栽で見え隠れする古民家
 いま歩いていますと、田中(でんちゅう)寺周辺に、古民家が多く、生い茂った植栽が家屋を隠すように続いています。ちなみに旧田中村の約1割が田中寺の檀家だったそうです。 
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交通 JR青梅線昭島駅から徒歩20分
 
 大神(おおがみ)/昭島市大神町
 
   
▲美しい植栽に囲まれた民家  ▲旧五日市鉄道大神駅跡(モニュメント) 
江戸時代の名主は世襲でつなぐ
 古くは大上、大神宮とも書きました。江戸時代は幕府領で、元禄10年から旗本・土岐氏が村高のうち152石余を知行。全体として300石弱でした。名主は幕府領の石川家、旗本知行地の中村家が世襲でつないでいます。
古民家は観音寺周辺の路地など裏手に見られます
 旧大神村が一躍発展していくのは、明治に入ってからです。養蚕が盛んになりますが、特に製糸業が興隆。明治28年には、博信社製糸工場、明治末期には成進社石川養業講習所が設立され、大いに賑わいました。いまは工場も無く、大部分が住宅地として開発されています。旧家や植栽のある民家は、駒形神社や観音寺周辺に集まっており、裏手の路地などに見られます。  
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交通 JR青梅線中神駅から徒歩25分
玉川(たまがわ)/昭島市玉川町 
 
   
▲美しい植栽と手入れの行き届いた通り ▲戦前の軍国遺産とも言えるロータリー 
 ●3丁目に放射線状に伸びた住宅街が誕生
 いまは市内でも有数の人口密集地でもあります。東中神駅を降りて10分ほど歩きますと玉川3丁目の特定郵便局付近に着きます。そしてそのまわりの交差点を見ますと、ちょっと違和感を覚えます。失礼ながらこんな町に、一見都市計画に基づいたようなロータリーを中心にした放射線状に道路が伸びているのです。いわゆる八清(はっせい)住宅地です。歴史は戦前にさかのぼります。
「八清住宅」誕生は戦前の軍需産業から派生
 日本が太平洋戦争へと軍国主義の道を歩むころ、昭和13年に設立された名古屋造兵廠立川製作所(後の陸軍航空工廠)も拡張につぐ拡張で、従業員2万人を越える大軍需工場へと急成長。そこで当時一面桑畑であった福島827番地付近の約3万坪を買収し従業員用の住宅建設に着手しました。
 軍の協力のもと八日市屋清太郎(ようかいちや せいたろう)氏によって工事は進められ、昭和16年(1941)10月に完成。約500戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、保育園、神社、公園などが、このロータリーを中心に大規模な住宅街が誕生したのです。名称は工事を担当した八日市屋清太郎氏の名前に由来します。いまでは八清公園、八清通りなどにその名が残されています。ちなみに本社が名古屋のせいか、愛知県出身の住民が多いそうです。また八日市屋清太郎は2代目で当時は弱冠23歳、初代は金沢出身で博覧会建設専門業者。
奥多摩道路沿いと裏手に古民家が点在
 八清住宅はすでに現代住宅に変わっており、戦争のにおいは全く感じられません。古民家は、そこからさらに南下し、奥多摩街道まで出ます。その街道沿いや横道に入ると美しい植栽と石積みの塀に囲まれた木造住宅が見られます。手入れの行き届いた町並みに住民の神経の細やかさが感じられます。
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交通 JR青梅線東中神駅から徒歩15分
 
福島(ふくじま)/昭島市福島町 
 
   
 ▲町内は石積みが目につきます ▲廣福寺/室町時代初頭の創建と推定 
独特の積み方をした石塀が目につきます
 福島を歩いていますと、石塀が目につきます。それぞれに独特の積み方です。地名の由来ともいわれる、多摩川の中洲に誕生した村なので“島”がついたとか。で、このあたりは一般に“多摩川石”と呼ばれ、玉石を採取しそのまま積み上げたそうです。多いのは谷積みといわれる方法で、常に谷ができるように石を斜めに積むと、石がお互いに押し合うような力が働くそうです。 もちろん今は河川からの採取は禁止されています。
武田信玄の「人は石垣、人は城……」を実践!?
 さて江戸時代、このあたりは甲斐国の武田氏の遺臣が早くから開拓した歴史を持ちます。そのせいか甲斐国出身者と思われる岩崎、薬袋、新藤、柳川などの姓が多いとか。かつて「人は石垣、人は城、人は堀……」の名言を吐いたのは甲斐の武将・武田信玄。いま目にする石積みは、武田信玄の遺言か……。
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交通 JR青梅線東中神駅から徒歩15分
 
郷地(ごうじ)/昭島市郷地町 
 
   
▲宝積寺/江戸初期に開基されたと推定。不老軒宇多々の墓があります  ▲紅林家文書/戦国時代の文書4通が発見され、鑑定後、市の文化財指定に 
とりわけ養種業が発展しました
 古くは江地、高地とも書きました。多摩川の中流の河岸段丘の一部に独立したような丘があり、それを高地と呼んでいました。それがいつしか郷地に転訛したという説があります。江戸時代、10ヶ村あったうちの一つの村です。村高は300石弱で他村を含めてすべて幕府領です。明治に入ると養蚕業、とりわけ蚕種業が発展しました。蚕の品種改良した蚕を育てて販売するというものです。
稲荷神社や寺院周辺に古民家が点在
 古民家は大六天社や宝積寺付近に点在しています。ブロック塀で囲まれている場合が多いですが、それでも歴史を感じさせます。 
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交通 JR青梅線西立川駅から徒歩15分

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