あきる野市

 ○二宮(にのみや)/あきる野市二宮
 北宿通り
 北宿通り  北宿通り
 ▲北宿通り沿いは旧農家が多い  ▲植栽が美しいのも北宿通り
 二宮神社  本堂,鐘楼も江戸時代の建立とか
 ▲門前町は二宮神社から始まる  ▲玉泉寺の山門は江戸時代の建立
五日市街道の宿場町へと発展
 江戸時代初期,二宮神社の門前にはわずかに町並みが形成されていました。その後発展する五日市と江戸とを結ぶ,街道ができると,酒店や油絞り店などが街道沿いにできます。それが五日市街道の宿場町へと発展しますが,二宮宿の成立過程や、さらに本宿と北宿に分かれ,どのような役割分担だったのかは,わかってはいません。
北宿通りに往時の面影を見ます
 いま歩いていますと,本宿通りの交通量の多さと比較して,その北側に位置する北宿通りのほうが,街道としての面影が残っています。地名は集落内に鎮座する二宮神社に由来すると言われています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR五日市線東秋留駅から徒歩15分
○瀬戸岡(せどおか)/あきる野市瀬戸岡 
 
   
▲瀬戸岡歴史環境保全地区/ ▲瀬戸岡古墳群/ 
地名の由来は「背戸の岡」!?
 歴史のある集落です。地名の由来は“背戸の岡”から来ていると推定されています。背戸とは「家の裏手」をさし、小高くなったところと言う意味。では誰の家の裏手なのか? 菅生に住む小倉太郎有季という人物で、菅生太郎という異名があります。その菅生太郎の館から見ると「背戸の岡」をさし、後に瀬戸岡と書かれるようになったとか。ほかにアイヌ語伝説もあります。
古墳から焼骨器が発見され学会が大さわぎ
 奈良時代にはすでに人が住んでいました。大正15年に発掘された瀬戸岡古墳群は、翌年に東京府の旧跡に指定されました。平井川を見下ろす台地上に50基の古墳がまとまって分布しています。焼骨が入った蔵骨器が発見され、すでに火葬が始まった奈良時代以降の古墳として報告され、学会に大きな波紋を呼びました。
古代から多くの人々が住んでいました
 昭和63年に古墳分布域が瀬戸岡歴史環境保全地域に指定。古代から人が住むにはやはり川のそばであったことと、意外に交通の便が良かったことがあげられます。古地図を眺めていますと平井街道、山王街道、もみそぎ街道、本宿街道……など名が見られます。
歴史散策コースに最適です
 いま瀬戸岡古墳群の周辺は住宅が建ち並んでおり、古民家と呼ばれる家屋は見当たりません。おそらく築30年前後の住宅団地だと思われるます。のんびり歩く歴史散策コースとしても最適です。ただ商店やトイレがないので注意をしてください。なおJR秋川駅からだと30分近くは歩くでしょう。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR五日市線秋川駅からバスで瀬戸岡上賀多下車徒歩10分
 
○菅生(すがお)/あきる野市菅生 
 
   
▲菅生には古道がいくつか巡っており、古い住宅が残ります ▲童謡『赤とんぼ』(山田耕筰)の歌碑が西多摩霊園内に立つ
戦国時代から明治時代まで一村で存続
 広徳寺に存在する古文書によれば、須賀尾として登場します。滝山城主であった大石定久(道俊)が、広徳寺の寺領として寄進しました。その後鎌倉時代末期に菅生と書かれるようになりました。菅(すげ)が多く自生していたから、ということで次第に変化していったとか。またこの地にあった蔵守院(天正6年創建)の山号が“菅尾山”であったことも影響しているようです。江戸時代は幕府領、明治以降も菅生は一村で存続。歴史のある地名です。
5ヶ村の連合村役場が置かれました
 宝蔵寺には、明治22年草花、菅生、瀬戸岡、原小宮、平井の5ヶ村による“連合村”の村役場が置かれました。しかし多西村の誕生により大正10年、村役場は草花にある陽向寺に移転しました。
幾つかの古道沿いに古い住宅が残ります
 村内には鎌倉道の一里塚があったとされる御判塚が残されています。高札場となっていました。菅生には古民家らしきものは見当たりませんが、戦後まもなく立てられた住宅が見られます。また源頼朝関連の宝蔵寺付近の古道沿いにも古い建物が残ります。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR五日市線秋川駅からバスで菅瀬橋下車徒歩10分
  
 ○雨間(あめま)/あきる野市雨間
 雨間集落
 地蔵院の天井画/格式の高い折り上げ格天井に日本画家・杉本洋氏が1994年に描いた  
 ▲地蔵院天井画/日本画家杉本洋作  ▲丸山家/武田氏滅亡後徳川氏へ
雨乞いの意味を込めた地名
 縄文時代から人が住んでいましたが,耕作が進むにつれ水不足に悩まされており,雨乞いや灌漑の必要性を含む意味を込めた地名の由来とか。近くに雨武主(あめむしゅ)神社遙拝所があります。
●あちこちに土蔵が散見
 いまは都心への通勤するための住宅地としてどんどん広がっていますが,それでも農村風景が守られています。歩いていますと,石積のある細道の奥に土蔵が散見できます。一区画の広い農家が多く,旧名主を思わせます。また『新編武藏風土記稿』に登場する“雨間の大塚”なる大塚古墳もココにあります。旧家・丸山家は甲斐・武田氏の遺臣で、のち徳川氏に仕え雨間村に土着します。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線秋川駅から徒歩20分
 ○野辺(のべ)/あきる野市野辺
 
古刹・普門寺とともに発展した集落
 古刹・普門寺と共に発展してきた町です。『新編武藏風土記稿』によれば,水源も普門寺境内にあり,村内の畑を潤していたとか。古民家は少し散見できる程度。江戸時代初は幕府領、化政期(1804-30)は旗本・大久保、戸田両氏の知行地で、幕末は内藤、戸田氏の知行地でした。それでも村高は200石前後。しかも普門寺だけで10石の寺領を持っていました。
江戸時代の農道をそのまま道路にしました
 江戸末期の安政年間(1854-60)の人口は225人で、そこそこの農村を形成していました。いまその農道をそのまま道路にしたせいか、細道は迷路状態で歩いていてとても楽しいです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線東秋留駅から徒歩15分
 ○小川(おがわ)/あきる野市小川
 
   
 ▲森田家住宅/国の登録文化財・主屋の式台玄関は唐破風の本格的造り
江戸時代は比較的水の豊かな水郷地帯 
 「小河」ともいい、室町時代は小河郷と書いたようです。江戸時代から比較的、水が豊富で水郷地帯とされており、他の地区とは様相が違います。人口も当時は約500人と多く、村高500石前後と比較的豊かでした。
睦橋通り沿いに旧名主
 そのため豪農や名主と思われる屋敷が現存しています。とくに森田家は地域を代表する名主。いま歩きますと、睦橋通り沿いに古民家が散見できます。
  感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線東秋留駅から徒歩15分
 ○引田(ひきだ)/あきる野市引田
 
   
 ▲近藤醸造/醤油の香りがします  ▲真照寺山門/都の有形文化財
滑走路のような広い現・五日市街道
 江戸時代は幕府領から旗本の知行地へと変遷。引田は五日市街道沿いの集落でした。小さな寒村で,引田の意味は灌漑水田からきており,雨乞いなどの意味があったという説もあります。このあたりの現・五日市街道は滑走路のような広さで,旧道と交錯しており,さらに消えた旧道もあります。
真照寺や大宮神社付近に古民家が残ります
 そんな広い街道沿いに木造板張りの古民家が見えます。明治41年創業の近藤醸造。「キッコーゴ」醤油の香りがする町ですが,周辺はすっかり住宅地に変わっています。しかし真照寺や大宮神社付近には、古民家が見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵引田駅から徒歩25分
 ○淵上(ふちがみ)/あきる野市淵上
 
昔の「淵」がそのまま陸になったのです
 古くは「淵の上」と書いて「ふちのうえ」と読んでいました。『新編武蔵国風土記稿』によれば、秋川が村内の下を流れ、地蔵淵という淵を造っていましたが、いまは流れが変わり、淵がそのまま陸地になり水田になったといいいます。
養蚕農家の面影が残る
 町内をブラブラ歩いていますと、意外に土蔵などの古民家があちこちに見られます。特に出雲神社付近には、旧養蚕農家の面影が残ります。そのうちの鈴木家は、養蚕で日本一の売り上げを誇ったという記録があるとか。なお中世の井戸の原型が、すり鉢状のまま、史跡として残されています。
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR五日市線武蔵引田駅から徒歩20分
 ○伊奈(いな)/あきる野市伊奈
 旧五日市街道を横に入る
   この旧街道を行くと,増戸小中学校横に着きます
▲この細道を行と現在の五日市街道 ▲旧伊奈みち(旧五日市街道)
伊奈石の運搬するための伊奈みち
 江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると,伊奈で産出される伊奈石を運搬するための伊奈みちを開削されました。江戸とを結ぶ街道は,工人たちや商人,武家などであふれたたと言われています。やがて江戸の町が整備されつつあると,石の生産が衰退し,しだいに木炭の生産地である隣の五日市や戸倉が発展。伊奈の経済は打撃を受け,さらに五日市の定期市に押されました。
信州・伊奈の出身者がそのまま土着
 地名は『新編武蔵国風土記稿』によれば信濃国伊那郡から多くの工人たちが移住してきたからと明記。いま旧五日市街道沿いには,わずかの蔵などの古民家が往時を偲ばせます。
 感動度★
もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵増戸駅から徒歩20分
 ○油平(あぶらだい)/あきる野市油平
 
   
 ▲福徳寺山門(市の文化財指定)/他にも地蔵群が知られています
燈火用の油を生産していました
 平井川と秋川にはさまれた秋留(あきる)台地の南端に位置します。もともと燈火(油)の原料でもある荏胡麻(えごま)、胡麻などを栽培していたことが地名の由来だとか。
小田原北条氏の家臣が切り開きました
 小田原北条氏の家臣・中村但馬守が天正18年(1590)に土着して開村。江戸時代は田はなく、畑地のみ。江戸時代初期は旗本・中島、油川、内藤の3氏による相給でした。その後幕府領となります。明治に入ると養蚕が盛んになりましたが、今は面影はありません。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR五日市線秋川駅から徒歩15分
 ○牛沼(うしぬま)/あきる野市牛沼
 野崎酒造
「ウシウマ」が「ウシヌマ」に転訛(?)
 八王子と青梅を結ぶ滝山街道沿いにある集落です。古代は小川牧といわれ、牧場のようなものでした。ウシ、ウマが合体したウシウマがウシヌマに転訛したという説もあります。
大部分は畑地でした
 江戸時代の村高は150石程度ですが、米はほとんど獲れず畑地が130石余と大部分でした。秋川ではアユ漁が盛んで、幕府の行事のあるときなどは1尾40銭の値を付けられたそうです。
●造り酒屋の裏手周辺に残る
 秋川駅付近は都心に通勤する人たちの住宅街ですが,400年の歴史を誇る中村酒造あたりまで歩くと,特に裏手は土蔵や黒塀,古民家がなどが点在しています。また国史跡で石器時代の住居跡も近くにあります。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線秋川駅から徒歩20分
 ○代継(よつぎ)/あきる野市上代継
 
地名の語源は四つ木!?
 奇妙な地名ですが、本来は四つ木。昔は火をおこす時、火持ちのいい木が重要でした。そのため堅い木、すなわち堅木が火種となり、その火種を代々絶やさぬことが大事ということから代継に転訛した説。奥が深いですね。古民家は少なくなりましたが、それでもあちこちに見られます。
小田原北条氏と深い関係
 戦国時代は小田原北条氏との深い関係にありました。臨済宗興国山・真城寺は延文年間(1356-61)以前の創建ですが、中興の開基は北条氏照という。同じく、玉龍山・金松院は永享年間(1429-41)以前の創建ですが、中興の開基は小田原北条氏三代・氏政といわれています。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR五日市線秋川駅から徒歩20分
 ○五日市(いつかいち)/あきる野市五日市
 ギャラリー山の音
   
▲市内のいたるところで土蔵を見ることができます 
   
▲旧市倉家住宅(市の有形文化財) ▲蔵の町と呼ばれています 
炭や黒八丈織りの取引でにぎわう
 毎月5,10の日6回の市を開く六斎市場でした。中世の時代から五日市の名は見られますが,やはり近世に入って,炭の取引,黒八丈織りの取引で市が賑わい出したのが大きくなった要因です。
悪代官と結託した五日市の豪商たち
 すでにあった周辺の市も囲い込むような形で,発展。豪商も現れ,さらに山間部の村々を金融面で支配しました。その強引さに対して、周辺の村人から強訴されますが、豪商たちは代官と結託して弾圧。特に檜原村の炭焼き人たちは極貧にあえいでいたそうです。
各所で蔵が見られます
 市場が活発になると,物資を保管する倉庫が必要で,市内各所に土蔵ができました。いま飲食店や住居に改造したりする土蔵も多いようです。蔵を含めた古民家もいたるとこで見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅から徒歩20分
 ○横沢(よこさわ)/あきる野市横沢
 旧五日市街道
大悲願寺と共に発展
 江戸時代は旧横沢村。戦国時代は北条氏の所領。京都醍醐寺三宝院の末寺で真言宗・大悲願寺と共に発展した横沢村は,裏山には伊奈石の原石の産地でした。そのため北条氏も,攻める上杉氏も重要地でもあったのです。
中世の板碑の生産地
 特に伊奈石は板碑(いたび)の原材料となり、秋川谷一帯に広がっています。鎌倉から室町にかけての板碑が多いのも特徴。大悲願寺にも南北朝・室町時代の板碑が残されています。板碑は、主に供養塔として使われる石碑の一種です。板石卒塔婆、板石塔場とも呼ばれます。
江戸時代は石臼が生産されます
 江戸時代に入ると、石臼(いしうす)が生産されるようになりました。「臼のまわるように仕事も回れば、蔵も立ちます七日前」などと歌われましたが、寛政年間(1789-1801)以降、急速に衰退しました。それにしても静かな町並みです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅から徒歩12分
 ○三内(さんない)/あきる野市三内
 江戸時代は旧三内村
旧五日市街道沿いの集落
 戦国時代,この地の開拓者・三宮四郎綱遠の子孫が地名を自分の名前から引用して三宮村と命名。ところがその孫が名前を三内に改名しました。それに従って今度は地名を三内村と改めたとか。やりたい放題です。また山の向こうにあるので三内(山内)にしたという説もあります。しかし三宮中務は天正18年(1590)、八王子城で討ち死にしたそうです。集落内を旧五日市街道が貫き,かなり賑わったようです。
町内に八王子千人同心が住んでいました
 天保年間(1830-44)の家数は58軒、黒八丈織りが生産されていました。集落内に五日市街道が通り、交通の便は良かったそうです。町内には、八王子千人同心・原島三右衛門、荒井平次郎が住んでいました。名主は開発者・綱遠の系譜を引く三内家。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅から徒歩10分
 ○小机(こづくえ)/あきる野市三内
 
   東京都の文化財指定です。山林業を営んでいた小机家の住宅。列柱廊を持つバルコニーが付いています。洋館ですが土蔵造りです。
 ▲石積みの上に住宅を建てる ▲小机家住宅(明治8年築・都文化財)
石垣をめぐらした住宅
 五日市駅から来ると、急な小机坂を上ると左側に小机家住宅が見えます。小机家は山林業で財を成しました。で、このあたりが小机集落の入口。石垣をめぐらした瀟洒な住宅が広がります。
明治8年築の小机家住宅には喫茶室があります
 小机とは小高い台地や平地の意味があるとか。小机家は公開されています。同時に喫茶室を決まった日にオープンしています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅から徒歩10分
 ○舘谷(たてや)/あきる野市舘谷
 舘谷の集落/深沢家住宅
本来は“縦谷”だ!?
 かつて立谷、館屋とも書きました。「本来は縦谷だ」と主張する郷土史研究者もいます。河岸段丘上に位置し五日市街道が通ります。
●深沢家の『五日市憲法草案』
 ところで深沢家は古道・深沢道沿いにある旧家で,『五日市憲法草案』を所蔵していました。今は舘谷に移転され,周囲にも古民家もわずかに残っています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅から徒歩15分
 ○高尾(たかお)/あきる野市高尾
 
年貢の半分近くが“漆”でした
 江戸時代は幕府領。村高は90石余とわずかでしたが、そのうち幕府領は81石余。一方、明王院大光寺が9石余とかなり力を持っていました。元々土が悪いことから作物はあまり育ちませんでした。年貢の総額の48.9%が漆による年貢。
日当たりの悪い「日陰三ヶ村」の異名を持つ
 というのも、『新編武蔵国風土記稿』によれば、このあたりは留原、小和田を合わせて「日陰三か村」と呼ばれており、日当たりが悪く作物が育ちにくい土地柄。そのかわり猪、鹿が出没したそうな。いま集落を歩いて見ますと、山あいの旧道沿いに広がる住宅は現代住宅で、古民家はほとんど見られません。
 感動度★
もう一度行きたい度★

 
交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで五日市高尾下車、徒歩10分
 ○留原(ととはら)/あきる野市留原
 
   
▲迷路のような小道をたどると、旧家がいくつも残っています 
早くから絹織物・黒八丈織りの生産をはじめていました
 江戸時代は幕府領。村高は180石弱ですが、大半は畑作でした。しかし周辺の村々(高尾村、小和田村)と比較して、平坦地が多く最大の村でもありました。絹織物の一種の黒八丈の生産を早くからはじめていたことから、幕府にとっても重要地だったのでしょうか。八王子千人同心のうち12人が在住していました。黒八丈は八王子の豪商たちを通して江戸へと販路を広げたのです。
●点在する古民家、黒板塀、黒壁の映える町並み
 さて古民家は秋川街道の両側に散在していますが、特に光明第六保育園付近に黒壁、黒塀の家屋が連なっています。また広範囲に旧農家が点在していますが、大部分は戸建ての分譲住宅群になります。ところで奇妙な地名は元は戸津原、渡津原と書いたというから、「とつ」が「とと」と転訛したものと考えられます。また「トド」と濁って発音すれば、トドは植物の「イタドリ」のことなので、イタドリの多く生えていた原っぱということになります。とにかく諸説あります。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで留原下車、徒歩10分
 ○入野(いりの)/あきる野市入野
 
江戸時代の農閑期は養蚕、秣刈り、筏川下……
 江戸時代のはじめは幕府領。後に田安家領、幕末は三河の西端藩本多家領と変遷。村高は100石余とわずか。しかし耕地面積に対する水田比率は13%と高い。というのも周辺の村々の水田比率は5%と低いからです。それでも農閑期は、男は秣(まぐさ)刈りや筏川下(いかだかわさげ)など。女は養蚕、黒八丈織などで稼ぎました。
分譲住宅群のなかに古民家がポツン!
 現在、入野には二つの“小名”があります。小倉と山下ですが、いずれも自治会名として生きています。入野は湧き水や沢水が秋川に注ぎながら形成した三角形の土地で、地形がそのまま地名になったと推定されます。駅を出て急坂を上ると入野地区になります。起伏の多い土地で、斜面にへばりつくように迷路が走りますが、両側には戸建ての現代住宅群が見られます。駅から近いためか都心への通勤者が多いようです。そのため古民家はほとんどなく、旧農家の土地もアパートが建てられています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR五日市線武蔵五日市駅から徒歩10分
 ○小和田(こわだ)/あきる野市小和田
 
   
▲茅葺きの本堂と山門/山門は江戸中期の建築と推定。市内最古の建築です 
古民家は広い集落に点在
 バスを降りて歩きますと段丘の底に秋川が流れているのに気づきます。そして小和田橋を渡ると小和田集落になります。ほとんどのハイカーは、古刹・広徳寺を目指します。総門、山門、本堂が茅葺き屋根です。荘厳な雰囲気の中に立っています。
土蔵や出桁造りの古民家が見られます
 江戸時代は幕府領で旧小和田村。広徳寺門前に市が立ち、そこそこ賑わったようです。耕作地は少なく、男は筏乗り、女は黒八丈織りで日銭を稼ぐことでやや余裕ある暮らしが維持されたようです。
 いま集落を歩くと、古民家は土蔵や出桁造りの民家などが、広範囲に点在しており、その間をハイカーが行きます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで五日市高校下車、徒歩15分
 ○小中野(こなかの)/あきる野市小中野
 
裏手に古民家が点在
 バスの通る檜原街道から見ると気がつきませんが、一歩裏道に入ると、古民家が点在しています。各家庭の庭先には手入れの行き届いた花々が咲き乱れ、気持ちのいいところです。
檜原街道沿いの集落
 江戸時代は旧小中野村で、『新編武蔵国風土記稿』によれば、民家は48軒で、水田はきわめて少なく、往還(街道)の両側に立ち並んでいたそうです。つまり五日市宿から隣の戸倉村までをつなぐ街村でした。この頃、男は筏川下げ、女は黒八丈織りに従事することが多かったとか。なお幕末には八王子千人同心の一人、森田勘蔵が在住していたそうです。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR五日市線五日市駅からバスで小中野下車、徒歩5分
 ○戸倉(とくら)/あきる野市戸倉
 
戸倉城のある町
 戦国時代は地元の豪族・小宮氏が治め,戸倉城を築城したと言われています。また江戸時代は幕府領となりました。その後徳川御三卿の一つ田安家の所領となります。ところで戸倉城は標高434mの山城ですが,いまはその山からの伏流水がわき出て,酒造り(明治創業の野崎酒造)に適しているそうです。
土蔵や板壁の続く古民家
 道幅は意外にも広く,茅葺き屋根のある民家が何棟か残されていたり,板塀の続く古民家や白壁の土蔵が見られ、趣のある町並みを形成しています。戸倉の語源は、戸は左右から物の挟まったところ、倉は岩のこと。つまり岩山に挟まれた所だそうです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR五日市線武蔵五日駅からバスで戸倉下車すぐ
 ○西戸倉(にしとくら)/あきる野市戸倉
 
   
 ▲歩いて回ると、板張りの民家が多く、落ち着いた町並みを形成しています 
中世には小田原北条方に属していました
 旧戸倉村の字名です。また戸倉郷五ヶ村の一つでもあります。秋川沿いの河岸段丘の台地にある集落。中世の末、在郷武士は16世紀に小田原北条氏に属しました。天正16年(1588)、北条氏照の印判状が西戸倉宛に発せられており、そこには西戸倉の武士たちは、甲武国境の備えにあたれと書かれていました。
旧道の両側に板張の古民家が続く
 旧道の両側に下見板張りや普通の板張りの家屋や破風の見事な入母屋造りなどの古民家が点在しています。黒板塀の民家もすてきです。つい通り過ぎてしまいがちな集落ですが、じっくりと歩きたい古い町並みです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで西戸倉下車徒歩3分
 ○星竹(ほしだけ)/あきる野市戸倉
 星竹集落/かつて名主のT邸住宅です。
 星竹  
▲石積と板塀の家並みが多い ▲迷路を歩くと土蔵にぶつかります
秋川沿いの急峻な地形に古い町並み
 旧戸倉村の字名です。かつては星嶽と書いたとか。嶽は「ガケ」の意味があり,今の地勢を反映しています。星はフシで、節を付けるなどの意味があり、一段高いところを指すそうです。
●星竹橋を渡ると目前に古民家群
 秋川に架かる星竹橋を渡ると,目前に古民家群が広がります。「東京にこんな所が残っていたのか…」と感動。区割りなどは江戸時代のままです。土蔵や板塀,板張りのある民家で,林業,養蚕などで生計をたてていたようです。『新編武藏風土記稿』によれば旧戸倉村の中で水稲は星竹のみで,他は陸稲だったと明記。ちなみに旧養沢村は,星竹集落から分離独立した村です。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通
 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで西戸倉下車徒歩15分
 ○十里木(じゅうりぎ)/あきる野市戸倉
 十里木の町並み/甲州古道
地名の由来がよくわかっていません 
 どこからが10里なのか,あるいはこの10里目にめぼしい木でも植えたのか,さらに5里木や3里木といった地名も見あたらない,しかも甲州古道や御岳道沿いであるが,要地でもない。そこで「十十(とと)里木」,「十里城」などが転訛したのかと,諸説ありますがよくわかっていません。ただ目印にしたのは間違いない、というのが研究者や郷土史家の一致した見方です。
こぢんまりした集落です
 街道沿いに残る数軒の集落。民家はまだほかにあるのかも知れません。裏手が秋川渓谷で,釣りやキャンプ利用者のための駐車場があります。土蔵や出桁造りの町家などが続きます。静かな町並みでした。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで十里木下車徒歩3分
 ○盆堀(ぼんぼり)/あきる野市戸倉
 
   
▲蔵もあちこちに見られます  ▲茅葺き屋根の民家は健在でした 
山深く谷あいの集落でした
 バスを降りてから、坂道を上ったり下ったりと歩きます。江戸時代は幕府領、すなわち代官支配地でもありました。『新編武蔵国風土記稿』によれば、戸倉村の小名は盆堀谷とあります。山深く谷あいの集落で、盆堀川(江戸時代は盆堀谷川と呼ぶ)が流れています。江戸時代は畑作のほかに炭焼きも多かったとか。
●白壁の蔵や茅葺き屋根が点在しています
 歩いて気がついたのは、意外にも茅葺き屋根のある古民家が、いまだに健在であることです。旧道沿いに2軒を見つけましたが、しかも住まいとして現役ですが、探せばまだまだ見つかるでしょう。今はバス路線もなく、観光コースから外れていますが、こんなところにこそ注目すべきであると感じ入りました。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで沢戸橋下車徒歩25分 
 ○落合(おちあい)/あきる野市乙津
 落合の蔵
秋川と養沢川の合流点(落ち合う)にある集落
 旧乙津村の字名です。文字通り秋川と養沢川の落ち合うところ,すなわち合流点に位置する集落です。洪水を避けるためやや高台にあって,養蚕,炭などが主な産業。
土蔵が結構多く見られる
 ただ養沢道と甲州古道の追分も近く,中世の時代から交通の要衝でもありました。いま歩いて見ますと蔵が多いのに気づきます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで落合橋下車すぐ
 ○軍道(ぐんどう)/あきる野市乙津
 軍道の集落/北条氏から軍勢督促の古文書が,その後農民となった市之丞から発見されたとか。(『新編武藏風土記稿』より)
   
 ▲明光院/天正15年(1587)創建  ▲高明神社/軍道集落の守り神
中世の軍用道路と勘違いする人が多いそうです
 旧乙津村の字名です。養沢道から急勾配の小道をあがると,段丘上に集落が広がっています。地名から何やら中世の北条氏だの武田氏らの戦いに関係する土地であると信じている人が多いですが,事実は違うようです。
土蔵や黒板塀の旧農家
 昔から地盤が悪く地滑りなどが多く,崩れた所を「クエド」と発音。さらに「クエドウ」,「グンドウ」と転訛したそうです。上軍道集落の神官・鈴木家に残る江戸時代の神官免許状には「群堂」と書かれています。このように当て字が使われていました。黒板塀や土蔵,黒瓦葺きの入母屋造などが見られます。山腹の坂のある集落です。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで秋川国際釣り場下車徒歩10分
 ○本須(もとす)/あきる野市養沢
 養沢新道沿いの土蔵
 屋根や破風が独特  
▲旧道沿いの古民家。屋根や破風に注目 ▲旧家もまだまだ残ります 
旧道沿いに特徴ある古民家
 旧養沢村の字名。『新編武藏風土記稿』では本巣となっています。江戸時代は養沢村全体が幕府直轄領でした。古民家はバスの通る新道沿いと旧道沿いに分かれていますが,旧道沿い兜造りなど特徴のある古民家が点在します。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで本須下車徒歩5分
 
 ○怒田畑(ぬたばた)/あきる野市養沢
 怒田畑の集落/アイヌ語の転訛説に対して民俗学者柳田国男は著書『地名研究』のなかで猛反対しています。
   
 ▲茅葺き屋根の古民家がある ▲こぢんまりとした養澤寺 
 ●旧道沿いに古民家
 旧養沢村の字名です。この難解な地名は,アイヌ語のニタッから荷田→怒田への転訛説が有力で低湿地の意味です。つまり年中,日差しの少ない土地とか。古民家は養沢道の旧道沿いと裏手の斜面に多く見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武藏五日市駅からバスで怒田畑下車徒歩5分
 ○木和田平(きわだだいら)/あきる野市養沢
 養沢川に沿って立つ古民家/バスの車内放送は「キワンダイラ」です
   
 ▲川沿いに立つ茅葺きの農家 ▲映画『五日市物語』のロケ地 
養沢川沿いに並ぶ家々
 和田の語源は川のカーブしたところの意味。また古老はこの地を「キワンデエロ」と言っています。映画『五日市物語』の舞台になったところで,古民家は主に養沢川に沿って残っています。川沿いの旧道や細い道を歩きますと、廃屋も幾つか見られますが、「ここが東京」か思うほどローカル色豊かです。屋根はトタン葺きが多いですが、茅葺きも残されています。
映画『五日市物語』は市制15周年記念の作品
 『五日市物語』はあきる野市の市制15周年を記念して、2011年10月に公開された人間ドラマで、あきる野市の魅力を伝えるドラマとなっています。出演は遠藤久美子、山崎佳之、田中健、尾美としのりなどで、監督・脚本が市役所職員の小林仁。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通
 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで木和田平下車徒歩10分
 ○神谷(かみや)/あきる野市養沢
 
中世のころから紙の原料となるコウゾウを栽培
 旧養沢村の字名です。中世のころ大幡(畑)紙の傘下で,原料のコウゾウを栽培しており,乙津や戸倉を含む一大生産地でした。ところが北条氏の滅亡と共に紙の重要が減退。さらに流通ルートの混乱からこの地からコウゾウの生産が少なくなり,養蚕へと徐々に転換。しかし他の乙津村では軍道紙(ぐんどうがみ)として残りましたが,それも明治になると洋紙の影響で滅亡します。近年、軍道紙を復元させようと、多くの人たちが努力されています。
神谷の語源は紙屋か紙漉き屋!?
 ということで神谷の語源は「紙屋」または「紙すき屋」で,その後「神谷」に転訛したと推察できます。いま街道沿いに幾つかの古民家が見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通
 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで神谷下車すぐ
 ○養沢(ようざわ)/あきる野市養沢
 養沢集落
地名は「巖沢」や「陽沢」が転訛したというが……
 江戸時代は養沢村で,幕府領。戸倉村から分村しましたが,民家は48軒とか。養沢の語源は諸説ありますが,地元の郷土史家も「巖沢」(いはほざわ)の転訛,いや「陽沢」(ようざわ)からの転訛であると二分。また語源は植物名(ヨーノキ→キブシ)だったという人もいるようです。
●みごとな破風の入母屋造り
 ただいえることは,村全体が日当たりが悪く,焼き畑農業中心で,貧農でした。しかし遠く離れた江戸が繁栄するにつれ,炭の出荷が多くなったのも事実。
 いま残る古民家は,かつての名主で豪農。入母屋造りや土蔵など,養沢川沿いの街道を歩いていますと幾つか散見できます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通
 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで上養沢終点下車徒歩5分
 ○追分(おいわけ)/あきる野市乙津
 
甲州古道と養沢道の分岐のある集落
 小仏峠越への甲州街道は江戸期に入って開発されたルートで,近世以前は五日市を通るルートだったのです。一方養沢道は,別名,御岳道ともいい,山岳信仰の山でもある御岳山へ通じる道でもあります。山伏たちは険しい御岳道をひたすら歩きました。修験行者に高く評価された道筋だったので「追分」という地名が残ったと思われます。
バスの車窓に突然現れる古民家
 いまは現・檜原街道沿いに数軒の古民家が並んでいます。バスに乗っていますと突然、車窓に現れますので、驚きます。土蔵や庇の深い出桁造りの町家,薬医門など,明治末期から昭和初期の建物です。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで追分下車徒歩すぐ
 ○荷田子(にたご)/あきる野市乙津
 荷田子
甲州古道沿いの一寒村
 地名の「ニタ」はアイヌ語で湿地帯を意味し,猪がどろ遊びをしたところと言われていますが定かではありません。このあたりは甲州古道が通っていて,戦国時代は甲州との国境にあたり重要な地点でした。江戸時代は幕府領からは武藏・久喜潘領となり寒村。
資料館『ふるさと工房・軍道紙』
 いま街道から地回り道(裏道)に入ると,いくつかの古民家を利用した飲食店が散見でき,楽しい散歩道となっています。なお地元の和紙・軍道紙の保存、伝承などの資料館『ふるさと工房・軍道紙』があります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで荷田子下車徒歩5分
 ○青木平(あおきだいら)/あきる野市乙津
 
古老は「オキデエラ」と呼ぶようです
 『新編武藏風土記稿』によれば乙津村の字名。その名のとおり,やや平らな所で畑作が行われています。古老は「オキデエラ」と呼んでいます。と言うのも沖(奥)の平地を表す「沖平」(オキダイラ)が地名の由来だとか。
現代住宅のあいだに古民家が見え隠れ
 バスに乗り,あきる野市内最後のバス停「畔荷田」(くろにた)で降ります。そして青木平橋を渡って左折すると小さな集落にぶつかります。秋川の左岸になり,日当たりもいいようです。畑や民家は石積の上にあり,土砂の流出を防いでいます。現代住宅の間に,板壁の古民家が見え隠れします。住民によれば、最近はイノシシが出没するようです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通
 JR五日市線武蔵五日市駅からバスで畔荷田(くろにた)下車徒歩10分

                      ▲ページの先頭にもどる