○本町(ほんちょう)/新潟市秋葉区新津本町 |
●歴史のある宿場町 江戸時代から続く宿場町。もともと本町と横町の二つに分かれていました。その後本町は上町、下町に分かれたそうです。昭和に入って幾つかの町が合併して、本町が復活しました。その意味から歴史のある町名というわけです。 ●あちこち点在する古民家 このあたりはまさに新津駅周辺での繁華街にあたります。飲食店が集中しており、今では夜の町といった感じがします。古民家は多く見られますが、点々と散らばっており、町並みとして連なってはいません。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線新津駅から徒歩5分 |
○新町(しんまち)/新潟市秋葉区新町 | |
▲「新津町遊郭」と呼ばれた地域も、いまは静かな古い町を形成 | |
●かつて石油開発で弦歌紅灯、酒池肉林の世界が誕生! 江戸時代は宿場町・新津の6町の一つでした。いわば宿場の発展拡大にともない新しく設けられた町場なのです。それが新町の由来です。北國街道の脇往還として発展したのですが、料亭、妓楼が軒の連なる一大花街でした。明治に入って宿場制度が廃止になり、花街も一時的に落ち込みました。しかしその後の石油開削にともなう莫大な利益を背負った豪商、開発業者、政治家などが入り乱れて豪遊を重ねて、新町はまさに百花繚乱、弦歌紅灯、酒池肉林の場となったのです。 ●3階建ての旧料亭も過日の面影はありません 新津川を渡り、左右の堤防沿いの狭い道を歩きました。3階建ての旧料亭、長屋風の貸し座敷などが点在。もう昔の面影は見られません。いまは鉄道の町として注目されています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR信越本線新津駅から徒歩で15分 |
○小須戸(こすど)/新潟市秋葉区小須戸 | |
▲格子のある大戸と雁木が特徴 | ▲明治時代の商家を残す |
▲下中野小路/中野家の敷地だった | ▲町家ギャラリー薩摩屋/公開中 |
●明治34年の大火以降の建築です 長岡藩領で,信濃川の河川港として発展しました。舟運組織が作られ,150俵積の大船が3艘あったとか。明治に入っても蒸気船が就航するなどの交通の要衝となりました。しかし明治に入って相次ぐ大火で焦土と化します。つまり現在の建築物は,明治34年大火以降の建物です。これだけの古民家群が残されているのも,幹線交通網から外れたことが幸いしました。 ●連続した町屋が見られるのは新潟市内でココだけ 連続した町屋の町並みが見られるのは,新潟市内ではココだけとなりました。2階のガラス雨戸と戸袋のデザインに注目。ガラスの雨戸っていいものです。この日は休館中の町家ギャラリーをわざわざ開けていただきました。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR信越本線矢代田駅からバスで小須戸1丁目下車すぐ |
○大鹿(おおじか)/新潟市秋葉区大鹿 | |
▲吉田家住宅/国の登録文化財 | ▲裏道や横丁にも古い町並み |
●国道460号線沿いと裏道 江戸時代は新発田藩領。元和年間(1615-1624)、下級武士10人が帰農して開墾。幕末には家数150軒、酒造、味噌造、大工、医師などいろいろな職業の村民が誕生したとか。国道460号線沿いと裏道に古民家が広がります。旧名主ら豪農の大屋敷が見られます。 ●『大日本地名辞書』吉田東伍の出身地 『大日本地名辞書』を編さんした吉田東伍の出身地。明治時代、日本の地名の変遷を記した研究がないことに気づき、13年かかって11冊を完成させました。原稿の厚さ5mに及ぶ質量とも古今未曾有の大地誌で、今でも刊行されています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線新津駅からバスで大鹿下車すぐ |
○古田(こだ)/新潟市秋葉区古田 |
●旧名主の大型農家が点在 古くは古田(こんだ)を再開発したことから古田(こだ)に転訛したという地名の由来があります。江戸時代、主に新発田藩領で、藩命で新田を開発したことから新田と名の付く地名が多いですが、この地も古田新田と呼びました。能代川沿いの平地ですので、水利がよく豊かな農村地帯へと発展。また幕末から明治初期にかけて、意外にも櫛(くし)の生産が行われ、近隣に出荷されていました。 ●旧名主と思われる大型の家屋が点在 町を歩いていますと、旧名主と思われる大型の農家が点在しており、国道460号線沿いに見られます。家紋の付いた土蔵が印象的です。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線新津駅から区バスで古田2丁目下車、徒歩10分 |
○朝日(あさひ)/新潟市秋葉区朝日 | |
▲農協石造倉庫(昭和17年築) | ▲朝日川沿いに立つ住宅 |
●通勤圏で古民家の減少が著しい 江戸時代、はじめは新発田藩領、慶長15年に沢海藩領、その後幕府領、宝永4年から旗本・小浜氏の知行地となりました。ところで古くは旭村といいました。地名の由来は集落内に旦飯野(あさひの)神社があり、その名が転訛したとか。ココは農村集落ですが、普談寺は越後三十三番観音霊場の三十番札所として知られ、遠くからも参拝者が絶えませんでした。天正18年(1590)に奉納された絵馬は市の文化財指定です。いまは新潟市内への通勤圏でもあり、古民家の減少は著しい。 ●医学教育に尽力した本多父子の出身地 幕末から明治にかけて、医業のかたわら私塾を開いて師弟に教え、越後府に医学館の設立に尽力するなど、医学教育に尽くした本多文明・敬斎父子の出身地でもあります。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩7分 |
○西島(にしじま)/新潟市秋葉区西島 | |
▲いったん村内に足を踏み入れますと、迷路状態を目の当たりにします | |
蓮徳寺/ 収蔵庫に黄檗版一切経3563巻(1669冊)が保存。大変貴重です | ▲お井戸/池の底に龍のしるしのある“雨降り地蔵さま”が居るそうです |
●村落の原型・塊村が見られます 拡大した地図を見て、ひと目で典型的な塊村(かいそん)とわかりました。ひとかたまりになっていて、集落の外側は田畑になっています。塊村内には社寺、井戸などの水源もあります。名主は田中家で世襲だったとか。 ●一歩踏み入れると異界(?)で迷路状態 塊村は自然発生的に形作られたので、ほとんどが迷路状態です。実際に村内に一歩踏み入れると何やら異界の地に迷い込んだ感じ。土蔵や板壁の民家、真壁の美しい意匠、植栽にも目が届いています。塊村の状態がほとんど崩れずに残されているのは珍しい。なお真宗大谷派の蓮徳寺には、黄檗版一切経(おうばくばんいっさいきょう)3563巻が保存されており市の文化財に指定されています。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩10分 |
○東島(ひがしじま)/新潟市秋葉区東島 | |
▲妙蓮寺山門/新潟市の指定文化財 | ▲妙蓮寺周辺に古民家が点在 |
●古刹・妙蓮寺周辺に散見 隣の西島から江戸初期に分離独立。新発田藩領でしたが、後期から幕府領。村高は100石前後で、農閑期は炭や柴を町場で販売。古刹・妙蓮寺の参道は、途中信越本線が横切るが、踏切には警報装置がないので注意してください。古民家は妙蓮寺周辺に散見。 ●京都・本圀寺に敗れて一気に衰退 ところで妙蓮寺は当初、法久山寿量院と称し正応元年(1288)、日蓮の法孫日印によって開基されました。そのため日蓮宗の北陸総本寺として格式を誇りました。ところが享保年間(1716-36)、京都の本圀寺との“本末訴訟”に敗れてから一気に衰退しました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩15分 |
○古津(ふるつ)/新潟市秋葉区古津 |
●金津川に沿って古民家 信濃川の右岸の丘陵地にあります。歩いていますと坂道が続きました。その後下ったあと金津川に沿って歩きますと、古民家が見られます。一部は廃屋になっていましたが、全体として現代住宅が多く、新潟市の郊外住宅の役割を果たしているようです。 ●「新津」に対しての「古津」 かつて内湾に臨む船着き場で、古い湊(津)でした。地名は新しい湊「新津」に対しての意味を持っています。江戸時代の初期は新発田藩領でしたが、その後は幕府領となります。村高は300余石、金津川からの取水で、比較的恵まれた地勢だったといえます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩10分 |
○割町(わりまち)/新潟市秋葉区割町 |
●旧家の面影が感じられる 金津川に沿って歩いていますと、典型的な農村風景が広がっています。田畑が広く、戸建ての面積も広く、旧家の趣が感じられます。江戸時代初期は新発田藩領、中期から幕府領となります。石油は江戸時代初期から採掘されていましたが、そのことで幕府領となったのでしょうか。村高は80石弱と小さく、わずかな田畑で生活。石油の恩恵は少なかったとか。 ●土地を平等に割り当てたからとか…… 地名の由来は、鎌倉期金津氏のころ商人町の形態をなしたからという説。また村人たちの共同開墾で、土地を平等に割り当てたことから、という説が有力。新潟県は“割”の付く地名が多いとか。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩20分 |
○金津(かなづ)/新潟市秋葉区金津 | |
▲土壁の古民家も点在します | ▲中野邸記念館/建築や美術品が多数 |
●旧道沿いに古民家が点在 日本の石油王といわれた中野貫一・忠太郎親子の旧宅のあるところです。石油は江戸初期から採掘が行われていました。採掘量は微々たるものですが、明治期に本格的に始まりました。明治末期、石油の採掘量は頂点に達します。しかし昭和初期から次第に衰退していきます。そして平成8年(1996)に石油採掘を終えます。 ●石油開発に踊った人たちの“栄華の果て”を見る いまは石油採掘に関連した施設や石油王と呼ばれた中野貫一の邸宅などが残り、往時の面影を偲ぶことができます。まさに石油開発に踊った人々の“栄華の果て”を見られるわけです。 いまは旧道に沿って、土蔵や真壁造りなどが見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR信越本線古津駅から区バスで金津・石油の里前下車すぐ |