阿賀町(あがまち)

 ○新谷(あらや)/阿賀町新谷
 
   
▲過疎の村とはいえ、畑はきちんと手が入っています。自家用野菜でしょうか
新発田街道沿いの集落
 『新編会津風土記』によればその昔、ここより6町(約650m)ほど東にあって、島村と称したようです。その頃の新発田街道(越後街道)も島村から鹿瀬(かのせ)の諸村へ出ていましたが、いつの頃からか今の街道となり、集落も移転し新谷村と名付けたとか。
トタンで覆った農家が点在
 集落内に街道が通り小さな宿場町を形成。村高も200石前後とわずかで貧しい。農閑には炭焼きや物資の運搬などで稼いでいました。しかし明治になって鉱山開発が昭和30年代まで続きましたが、昭和37年に閉山し衰退。いま、茅葺きにトタンを覆った三角屋根の農家が残されています 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○津川(つがわ)/阿賀町津川 
 
   
  ▲狐の嫁入り屋敷は川沿いに立つ ▲津川は“雁木発祥の地”だとか 
宿場町,河川港として発展
 江戸時代,会津藩の枝城・津川城が置かれ,城下町として発展。しかし寛永4年(1627)に廃城となりました。ところが新潟から阿賀野川を利用して津川までの舟運が開け,さらに津川から会津若松までの会津街道を利用するルートが開拓されました。津川は交通の要衝となり,宿場町,河川港としてさらに発展していくのです。
雁木発祥の地
 通りを歩いていますとL字型の道路は、かつての城下町を彷彿させます。庇の深い出桁造りが軒を並べます。また慶長年間(1596-1615)に家々の軒先に屋根を造ること城主が命令,これが雁木の誕生です。地名は「船着き場のある川」の意味を表しています。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは狐の嫁入り屋敷の駐車場に停めました
○花立(はなだて)/阿賀町花立 
 
会津街道沿いの宿場町でも大名は通過
 江戸時代は幕末まで会津藩でした。会津街道(又は越後街道)沿いの宿場町です。しかし新発田潘や村上潘の参勤交代で利用していましたが,隣の津川宿を発つとそのまま素通りすることが多かったとか。ただ津川港で陸揚げされた荷物の多くが通ることで,賑わいました。
ゆるやかな坂道沿いに古民家
 地名の由来は,お彼岸以外にも外で花を立てたという説,当時信仰の厚かった津川宿の玉泉寺にある即身仏に対して花を立てたという説などいろいろいわれています。

 ゆるやかな坂道の両側に,幾つかの古民家が軒を並べます。静かな町並みです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
○鹿瀬(かのせ)/阿賀町鹿瀬 
 
   
▲旧道沿いに立つ古民家 ▲近代木造住宅の旧松仙閣 
茅葺きもトタンで覆う
 「大鹿瀬」とも呼ばれました。江戸時代初期は街道から離れ,わずかな畑作,炭,林業などで貧農でした。しかし銅が採掘されるようになってから一気に賑わいました。特に草倉銅山は、会津藩随一といわれ、最大の産出量を誇りました。明治8年、古河鉱業があとを引き継ぎます。
草倉銅山の最盛期の賑わい
 学校、郵便局、医院などの建設が行われ、まさに最盛期を迎えました。その後、採掘量も減り衰退していきます。今は典型的な過疎の村となっています。茅葺きもトタンで覆われています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは鹿瀬区民センターに停めました
 
○行地(ゆくじ)/阿賀町行地 
 
   
▲優しそうな煙が印象的です  ▲農家はまだまだ健在です 
茅葺き屋根を葺き替え
 集落に一歩足を踏み入れたとたん「三角屋根がいっぱい!」が第一声でした。かつての茅葺き屋根をトタンなどに葺き替えたので、きれいな三角形になっているのです。歩いていますと、無人の家屋も見られますが、人が住み集落はまだまだ健在です。
新発田街道が西に移動したために村は衰退
 江戸時代は会津藩領。村高は50石弱と小村。田畑が少ない分、村人たちは林業、炭焼き、物資の運送などで稼ぎました。それは新発田街道沿いの集落で、宿場町でもあったため交通の便がよかったからです。しかし、明治期になると新発田街道が西に移ったために、村は寂れていきました。地名の由来は、行者からきているとか。 
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
○綱木(つなぎ)/阿賀町綱木 
 
   
▲玄関周りは雪対策仕様です  ▲豪華な古建築は何造りというのか 
新発田街道(会津街道)沿いの宿場町
 このあたりは綱木川に沿って旧街道が通っています。新発田街道(会津街道・県道14号線)の宿場町で、当時商家だった跡に小さいながらも石碑が立っています。
会津戦争後に建てた築100年以上の古民家
 写真を撮っていますと、古老がやってきて「明治4年の会津戦争で、この辺りは全部焼けた。今残っている建物は、その時に建てたものですよ」という。それでも築100年は経っているのです。いまは茅葺き屋根にトタンをかぶせています。また木造2階建ても健在です。外壁には薪を積み上げて、冬に備えているのも雪国ならではの光景。
地名の由来は、駅馬をつないだ所にちなむとか。 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○小荒(こあら)/阿賀町豊実 
 
   
▲五十嵐家住宅(実川集落)/山村農家の好例と言われている・重要文化財   
重要文化財の五十嵐家住宅
 実川渓谷森林公園内にある旧実川(さねかわ)集落に向かってクルマを進めていました。ここには重要文化財の五十嵐家住宅があるからですが、村道途中の小荒集落を過ぎた辺りで、通行止めになっていました。しかし地元の観光協会に電話で確認したら、五十嵐住宅のみが撮影可能ということで、そのまま走り続けました。クルマで5分くらいです。
●旧茅葺き屋根のある村
 さて小荒集落は豊実(とよみ)地区の小名にあたります。人口はおそらく数人の限界集落。土蔵やトタンで葺き直した旧茅葺き屋根などが点在しています。かつて陸の孤島といわれた地域で、昭和63年に船渡大橋が完成し、渡し船による不便が解消されました。とはいうものの、その後の過疎化は避けられませんでした。地名は小さな荒れ地にちなむとか。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○船渡(ふなと)/阿賀町豊実 
 
   
▲横道にも古民家が見られます  ▲こぢんまりしたJR豊実駅です 
真壁造りの古民家
 古くは「舟渡」とも書きました。江戸時代は会津藩領で、ここまでくると確かに福島県に近いなあと感じます。陸の孤島と言われた時代、新発田藩や長岡藩よりも会津との結びつきが強くならざるを得ないのも当然か。それはともかく、田畑が少ないのに村高が200石前後もあるのは、林業が栄えたからでしょう。ほかに筏乗りで稼いでいました。筏乗りとは、材木を筏状に組んで川を一人で操りならが運搬する職人のことで、とても危険な職業といわれていました。
豊実駅周辺に古民家集中!
 JR豊実駅前の街道沿いに、三角屋根の真壁造りの古民家が点在します。梁や柱の間隔が狭く、雪の重さに絶えられるような工夫か。
地名の由来は、阿賀野川を舟で渡るところにちなむ。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはJR磐越西線豊実駅前の広場に停めました

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